ゴールデンウイーク明けの木曜日、昼休み。俺と有里はいつも通り、昼食を持って史学準備室に向かっていた。
三年生になっても、二人で昼休みを史学準備室で過ごす習慣は変わっていなかった。
他の友人達とはクラスが分かれたし、教室で食べても多分有里と二人で机を合わせるだけなのだけど。クラスメイトの視線の無い二人だけの時間が心地良くて、俺はこの昼休みが結構気に入っている。
しかし今日は少し特別な日だ。俺と有里が史学準備室に着いた時、準備室前の廊下には既に四つの人影が俺達を待っていた。
「あ、饗庭君! 有里君!」
「おー、来た来た」
「久々ー!」
「なぁ鍵閉まってんだけど」
御門に、近江に、洲鎌に、城井。
新学期が始まって一ヶ月以上が経っているが、四人とも何も変わらず二年の頃のままである。
「あ、ちょっと待って」
有里はポケットから鍵を取り出しながら入口に駆け寄る。俺はそのままゆっくりと、彼らの方へ歩いて行った。
俺達六人は進級してから今日まで一度も集まる機会が無かった。俺と有里は同じクラスで、御門と洲鎌も同じクラス。でも近江と城井はそれぞれ別々で、俺達は廊下ですれ違ったときに声を掛けたりちょっとふざけ合ったりするくらいしか、普段の交流が無くなっていた。
勿論声さえ掛ければいつでも集まれるんだろうけど。いつでも集まれると思うとなかなか「今日集まろう!」とならなくて、気が付いたら四月が終わっていた。
五月に入って初めて、近江がグループメッセージで「旧友を暖めよう」と提案してきた。そこで俺達はゴールデンウイーク明けの今日、昼休みに史学準備室で一緒に昼食を摂ることにしたのだ。
以前ファミレスで四人を史学準備室での昼休みに誘ったことがあったけれど、言った切りで今日まで実現してはいなかった。その時からずっと「いつかその内」と思うとは無しに思ってはいたのが、この機会になったというわけだ。
「有里鍵持ってんだ、いいなー」
鍵を開ける有里を見ながらこだわりなさそうに近江が言った。有里がドアを開けると、友人たちはゾロゾロと史学準備室に入っていく。
「へー、こんな感じなんだ」
「あ、ソファあるじゃん!」
遠慮の無い三人組――近江・城井・洲鎌のことである――が、我先にと三人掛けのソファに座って、俺と有里と御門は彼らに向かい合って床に座った。
ソファの前のテーブルは、ソファに座ると膝と天板の高さが同じくらいになるロータイプだったから、実は床に座った方が物を食べるにはちょうど良い高さだったりする。
「お前らいつもソファでメシ食ってんの? いいじゃん」
近江は羨ましそうに言いながら、俺の目の前、ソファの中央でふんぞり返った。
「エアコンもあるし、静かだし、ビップ待遇だな」
有里の正面に座った城井は、肘掛けに肘を突いて物珍しげに準備室を見回す。
「いやー、しかしなんだかんだ久々だな。ほぼ二ヶ月ぶり!」
「なーんも変わんねぇな」
「うん、普通に昨日まで毎日会ってた感じする」
「御門もここ、よく来るんだっけ?」
洲鎌が目の前の御門を見下ろしながら言って、御門は頷いた。
「うん、結構来るよ。巴先生に史料見せてもらうのは大抵ここ」
そういえば、歴史オタクの御門もこの史学準備室のヘビーユーザーなんだっけ。
「でもここで会ったことないよな」
有里が何気無い調子で言うと、御門は飲み掛けていたお茶をゴフリと吐きそうになって盛大に噎せた。
「だ、大丈夫?」
「だいじょうぶ……うん、そうだね、会ったこと無い。僕が来るのは放課後ばっかりだから……」
御門はそう言いながら、顔を赤くして咳き込む。
――なんだろう。何かタイミングが悪かったかな。
俺は不思議に思いつつ弁当箱を開いて、いつも通り卵焼きを箸で掴んで有里に差し出した。
「有里」
「ん」
有里もいつも通り、当たり前にそれを食べる。そして、俺達は顔を見合わせて目を見開いた。
――やってしまった。
そーっとソファの上の友人たちの方を見ると、三人がジトッとこちらを、主に俺の方を見ていた。
「ええっと……?」
俺は三人を見て、言葉が出てこずそのまま固まる。有里は急いで卵焼きをもぐもぐと食べて飲み込んだ。
「……」
「……」
誰も何も言わなくて、部屋に沈黙が降りた。
俺は内心焦りながらなんと言おうか考える。
ついいつもの癖で――なんて言うのは、真実だけど絶対に駄目だ。「お前いつもあーんしてやってるの⁉」と、友人たちの声がもう聞こえてくる。
どう言ったものか考え倦ねていると、御門が言った。
「あ、有里君いいなー! 饗庭君の卵焼き、おいしそう!」
「……ええと、御門も食う?」
俺が言うと、御門は目を輝かせた。
「え、いいの? 食べる食べる!」
一瞬躊躇って、有里にしたのと同じように箸で差し出す。御門は迷いなく、そのまま卵焼きを食べた。
「うわ、おいしい」
御門が言うと
「だろ!?」
と、有里が何故か自慢げに言った。
「甘くないタイプのやつだ」
「そうなんだよ。饗庭は甘くないのが好きなんだって」
「へー、僕も好きだよ」
「俺も。饗庭に貰って甘くない派になった」
二人は俺を挟んで盛り上がる。
「何、そんなにうまいの? 食いたい」
「俺も」
「じゃあ俺も」
三人がふざけてか本気でか、身を乗り出して俺の弁当を見た。
「もう一個しかねーよ」
卵焼きは元々三切れしか入れていない。
「じゃあその魚のやつ寄越せ」
「俺、その煮物? のこんにゃく」
「よっしゃ! じゃあ俺は卵焼き」
「お前ら人の弁当食い尽くす気か?」
俺は言って、卵焼きの最後の一切れを弁当箱の蓋に乗せる。箸で三つに割って三人の方に突き出した。
「ほら食え」
「なによ、随分扱いが違うじゃないの」
近江がそう言いながら卵焼きにコンビニのフォークを突き刺し、洲鎌は弁当の箸で、城井はパンを食べていた手でそのまま卵焼きを掴んだ。
「おー、うまい」
「うまいうまい」
近江と城井が口々に言う。
「かーちゃん料理上手いんだな」
本当に何気無い、悪気の無い洲鎌の言葉に、俺は一瞬ぐっと詰まった。
「あ――」
何か言わなくてはと声を出そうとしたその瞬間、有里がまた自慢げな声を上げた。
「洲鎌、知らないの? これ饗庭の手作り」
「えー、そうなんだ」
友人達は目を丸くする。
「自分で作ってるの? 弁当全部? えらっ!」
「えらい!」
「これは饗庭君いいお婿さんになるわ」
「いやー、別に……こんくらい……」
友人達に口々に褒められて、俺は少し狼狽えた。俺は本当に、褒められることが苦手だ。
照れてしどろもどろになりつつ、「あーん」の件から話がそれて俺は内心ホッとしていた。が、
「で?」
城井が俺をジロリと見た。
「お前、普段から有里に卵焼き箸で食わせてやってるわけ?」
残念ながら見逃してもらえなかったようだ。
「介護だよ、介護。こいつ細いんだもん」
俺はしたり顔で言う。時間が稼げたおかげで大分冷静な対応ができた。
「あー、なるほどね。太らせてから食べようって魂胆だ」
近江が顎を撫でると、城井も半分納得したような、していないような顔で頷いた。
「まあ確かに細いよな、有里は」
「有里、昼飯それだけなの?」
洲鎌は有里が机の上に出したサンドイッチと野菜ジュースに目を向ける。
「うん、まあ」
「有里君は夕ご飯をたくさん食べるタイプ?」
「ううん、そうでもないよ」
有里は苦笑いした。
「朝もあんま食わないし、夜もそこそこ」
「わー、俺無理。サンドイッチだったら三袋はほしい」
「俺も。こんだけだったらプラス購買行くわ」
「それだからそんな細いんだよ」
「よし、俺達も協力して有里太らせるか」
「いいね」
「どうする?」
「肉食うべきだよ、肉。ほら、有里これ食え」
「こら、人の唐揚げ勝手にやんな!」
俺は弁当を食べながら黙って彼らの会話を聞いていた。
俺は元々あまり自分から話題に入っていく方では無くて、以前友人たちと昼食を食べていた頃も黙って聞いていることが多かった。
当初、有里がこのメンバーと絡むときは「俺が仲介してやらなきゃ」なんて多少気を張っていたのだけど。
修学旅行から半年が経ち、有里は友人達にすっかり馴染んでいる。俺が間に入ったり助け舟を出したりしなくても、自然に。
それを嬉しく思って、俺はなんだか満足した気持ちになった。
翌日の昼休み。史学準備室。俺達は二人でソファに座った。
まだ昨日の余韻があって、いつも通りの史学準備室がなんだか静かに感じた。
有里も昨日のことを思い出しているようで、
「昨日楽しかったなー」
とニコニコしている。しかし、
「また呼ぶ? 来いって言えば毎日来ると思うけど」
俺がそうと言うと、有里は一転してムッとした顔をした。
「なんだよ」
良かれと思って言ったのに、全くこいつの機嫌は読めない。
しかし次の瞬間有里の不機嫌の理由に思い当たって、俺は「あ」と声を上げた。
「お前、俺が御門に卵焼き食わせたの根に持ってるんだろ」
俺は窘めるモードに入って、ソファの上に座り直した。
「あのな、有里に食べさせてやっておいて御門に食べさせなかったら変だろ?」
それになんとなくだけど、御門は空気を読んでくれたような、助け舟を出してくれたような、そんな感じがしたんだよな。
「別に普段から他の奴とも回し飲みとかもするし、別に特別気にすることじゃ――」
「誰もそんなこと言ってないでしょ」
有里は呆れ顔で俺を見た。
「饗庭って俺のこととんでもないヤキモチ焼きだと思ってない?」
めちゃめちゃ思ってるけど――と言うと益々機嫌が悪くなりそうなので、わざわざ言うのは止めておいた。
「じゃあなんでムッとしたんだよ」
「昨日楽しかったって言っただけで、これから毎日六人でご飯食べようとは言ってないでしょ!」
有里はふくれっ面でそう言って、
「饗庭君は僕と二人の時間が無くなってもいいの?」
久々に作り物のウルウルした目を向けてきた。
「そんなこと言ってないだろ」
「だって、四人呼ぼうとするし」
「それはお前が喜ぶならと思ってじゃん」
「俺が喜ぶなら、饗庭は二人じゃなくてもいいんだ」
有里は拗ねた顔をする。
――め、面倒くさい。
思わず顔に出てしまったのを有里に気付かれて、彼はフンッとそっぽを向いた。
「はー、お前ってホント淡白だよな。俺がそこら辺の普通の女の子だったら『饗庭君ってアタシのこと全然好きじゃないよね』とかなんとか言って、とっくにフッてるところだぞ」
「なんの話だよ」
「有里君が聞き分けのいい男の子で良かったね!」
有里が聞き分け良かったことは記憶に無いけれど、今は多分そこにツッコむタイミングではない。
「分かった、分かった。俺も昼休みは二人がいいよ。もしまた呼ぶとしても、たまにな。四半期に一回くらいなら、皆で集まるのも楽しくない? それかもうここに呼ぶのは止めといて、放課後ファミレスで集まったりしようよ、次は」
俺が言うと、有里はみるみる内に笑顔になった。
俺は段々有里の扱い方が分かって来ていた。俺だって成長するのだ。――勿論、昼休みを二人で過ごしたいっていうのは俺の本心でもあるし。
「俺、ファミレスって行ったこと無い。前は五人で行ってたんでしょ? いいのかな、俺、行っていい?」
有里はワクワクを一生懸命抑えるように言って、俺はこいつのそういうところを健気に思ったりする。
「いいだろ、勿論。昨日の昼だってさ、別に普通に喋れてたじゃん」
「ホント?」
「うん、なんの違和感も無いっていうか。俺いなくても大丈夫そうだった」
「それはまだやだけど」
有里は急いで否定して、それでも少し、頬を赤くした。
「そっか、でも、そうだな。もし饗庭がいなくても、普通に友達扱いしてもらえるくらい仲良くなれてたらいいな」
「なれてるよ」
俺が言うと、有里は嬉しそうに「へへっ」と笑った。
それからしばらく、俺達は食事に集中した。いつ通りサンドイッチをさっさと食べ終わった有里は、まだ弁当を食べている俺に話し掛けてきた。
「……饗庭は、高校卒業したら漁港で働くんだよね?」
「うん、そのつもり。――いや、別に正式に採用試験受けたわけじゃないし、ちゃんと約束してるわけじゃないから、もしかして『やっぱ無理』って言われるかもだけど」
「そんなこと無いでしょ。饗庭、今だってめちゃめちゃ戦力になってるし」
「別にそんなこと無いよ。学校休みの日しか行かないし……」
「でも休みの日は全部行ってるじゃん」
「全部ってことないよ。二十四の日曜だって、休むし」
「えっ!? ホント!?」
有里が急に目を輝かせて勢いよくこちらを向いて、俺は何事かと目を瞬かせた。
「え? うん、まあ」
「じゃあデートしよ」
俺はぽかんと有里を見た。
「は? 何言ってんだよ、体育祭じゃん」
五月の第四日曜日。毎年この日はうちの高校の体育祭。俺がバイトを休みにしたのは、勿論体育祭があるからだ。
「あ、そうなんだ」
有里がさも今知ったかのように言って、俺は思わず呆れ顔になった。
彼は相変わらず、自分に関係の無い行事のことを何も気にしていない。
「お前そんぐらい把握しとけよ。次の日振替休日なのに、一人で登校しちまうぞ」
「あー、確かにそれはめんどいな」
「有里って、体育祭見学にも来たことないの?」
「ないよ。来てもしゃーないじゃん。体育祭の日って俺からしたら普通の日曜日だよ」
有里は少し自嘲気味に笑った。
「俺にとって体育祭っていうのは、ドラマとか漫画の中で同年代の子達がキラキラしてるフィクションで、現実じゃないの」
「……」
なんと言っていいか分からなくなって、言葉が出なかった。有里がパッとこちらを見た。
「ね、饗庭は体育祭、何に出るの?」
「え? ええと、借り物競争と、後はリレーの予定だけど」
有里が目を丸くする。
「リレー? リレーって足が速い奴が出るんじゃないの?」
「まあね」
俺は思わずちょっと得意げな顔をしてしまって、苦笑いした。
「陸上部は出られない決まりだから。残りの奴から選んだらまあ、ギリギリ入ることになった感じ」
「十分すごいじゃん。足速いんだ」
「うーん、まあ、そうなのかな」
俺は曖昧に濁す。
「というわけで、バイトは無いけどデート? は無しな。――有里その日、何すんの?」
何の気無しに聞いてみると、
「俺、見に来るよ」
有里が言って、今度は俺が目を丸くした。
「え?」
有里はワクワクした様子で楽しそうに笑う。
「体育祭なんて正直どうでもいいけどさ。でも俺、饗庭が出てるとこは見たい。神川先生に言って、教室から見ててあげる」
俺達の教室は運動場に面した三階にあって、窓からグラウンドが見渡せた。
「父さんが双眼鏡持ってたと思うから借りてきてさ、見守っててあげるよ。いいとこ見せてね」
そう言って有里はニッと笑う。
「うん……まあ、頑張る」
俺は思わず頭を掻いた。
「なんか、変な感じだな」
「え?」
「俺を見に来る人がいるなんて初めてだから」
母さんは学校行事に来たことが無い。小学生の頃から一度も。
艮野の両親は来れば俺にも声を掛けてくれたけど、それはどうしたって自分の子ども達を見に来たついでで、俺を見に来たわけではないと分かっている。
「体育祭で自分が見られてて、応援されてるって、なんか変な感じ」
「……」
そう言って有里を見ると、彼はなんだか切なそうな顔をしていた。俺は執り成すつもりで急いで話を変えた。
「でもさ、せっかく来るなら有里もなんか出たら? そんなハードじゃないやつならいけるだろ。俺もちゃんと見てるよ、応援する」
高校三年生、人生最後の体育祭なのだ。有里にだって、せっかくなら何か思い出ができたらいい。
良かれと思ってそう言ったのに、有里はあからさまに面倒臭そうな顔をした。
「えぇー、いいよ。もうどの競技も出る奴決まってんだろ?」
「そうだけど……。でも、なんか今からでも出られるやつあるんじゃ――」
少し考えて、俺は「あ」と声を上げる。
「フォークダンスは? あれなら大丈夫じゃない?」
体育祭のシメであるフォークダンスは、三年生の全員参加。人数が決まっているわけでは無いので、飛び入り参加しようが当日いきなりサボろうが大丈夫なプログラムだ。その上汗をかくようなハードな動きも無い。有里にぴったりではないか。
「ええー」
そう思ったのに、有里は更に渋い顔をした。
「なんだよ」
「俺、これまで一回も体育の授業出てないし、体育祭も参加したこと無いんだぜ? なのに最後の最後にフォークダンスだけ出るって、やらしくない?」
「やらしい?」
俺はぽかんとする。
「女の子と手ぇ繋ぎたいだけみたいじゃん」
有里が言って、その発想が無かった俺はドギマギした。
「そ、そう……?」
「そうだよ。だからいいわ、俺」
「……」
そう言われると、なんか。フォークダンスを無理に勧めるのも変な気がして、俺には言えることが無くなってしまう。
有里は何も気にしていない様子で膝を叩いた。
「ま、とにかく当日頑張れよ。チームの勝ち負けとかなんでもいいけど、饗庭君のことは応援してるからね」
有里はそう言って、俺に向かってにっこり笑った。
「うん……」
そういえばどうして有里は急に就職の話をしたんだろう。ふと思ったけれど、体育祭のことに意識がいって、俺はそれをすぐに忘れてしまった。
五月の第四日曜日。俺達は体育祭の日を迎えた。
グラウンドでは開会式が行われていて、俺は教室の窓から父さんから借りた双眼鏡でそれを見下ろしている。
――なんか、ストーカーみたいだな。
まあでも、本人どころか担任も学校も公認ですから。
俺は堂々と双眼鏡を構えて、ラジオ体操をしている饗庭を窓から眺めた。
だらだらやっている奴も多い中、饗庭は生真面目にやっている。性格だな、あれは。
この後饗庭が出るのは、借り物競争・リレー・フォークダンスの三つだけ。饗庭が出ないやつは見ても別に仕方ないので、その時間はスマートフォンをいじったり、史学準備室のソファでゴロゴロしたりして過ごすつもりだ。
ちなみに教室での俺の席は、窓際の前から二番目。
新学期が始まって一ヶ月の今、席は出席番号順で、「ありさと」である俺は毎年大抵その辺の席になる。
前の席勿論は「あいば」だ。二年生のときも多分最初の席はこうだったんだけど、あの時はなんとも思ってなかった。――今にして思えば勿体無いことをしたものだ。
参加するわけでは無いけれど、俺にとっては初めての体育祭。そして、否応なく最後の体育祭だ。今日一日、家でゴロゴロして過ごすことにならなくて良かった。これも饗庭のおかげだ――と、俺は真面目な顔で選手宣誓を聞いている饗庭を見ながら嬉しく思った。
プログラムの六番目。借り物競争の番が来た。俺は決まり通りに並んで、トラックの中に待機して教室を見上げた。
三階の俺達の教室に、窓に肘を突いて双眼鏡を構える有里が見えた。俺の走順は一番後の組で、偶然にも城井と同じだった。
「あれ有里?」
隣に並んだ城井が、校舎を上げて言った。
「うん、そう」
「来てんだ」
城井が大きく手を振ると、気が付いた有里も手を振り返した。
ずいぶんと社交的になったものだと、俺は父親気分でホッとする。
城井は振っていた手を下ろして俺を見た。
「有里は参加しないんだな、やっぱり」
「うん」
「せっかく来てるんなら、なんか出れるもんあったらいいのにな」
城井は言ったが、なんとなく言ってみたという感じで、真剣にそう考えているわけでもなさそうだった。
「そうだな」
俺も彼の温度に合わせて適当に相槌を打つ。城井が「あ」と何か思いついたように声を上げた。
「フォークダンスは? あれなら別に出れんじゃね? 制服のままでも良さそうだし」
「俺もそれ言ったんだけどさ」
「やっぱ出ないかー」
「最後の最後にフォークダンスだけ出るの、女の子と手ぇ繋ぎたいだけみたいでやらしいから嫌なんだって」
城井は一瞬きょとんとして、それから吹き出した。
「なにそれ、おもろ。有里ってたまに面白いな」
俺はもう一度校舎を見る。窓辺に肘を突いてこちらを見ている有里は、まさか自分の話をされてるなんて思っていないだろう。
借り物競争の流れはこうだ。
一組から六組まで、一クラスから一人ずつが同じグループでスタートし、地面に置かれた紙を引く。
一度引いたお題は引き直してはいけないルールで、どうしても持ってこられない場合は最下位となる。
全員がゴールすると進行役の生徒がマイクで紙に書かれた物を読み上げ、生徒は持ってきた物を上に掲げて見せる。
会場で見ている人たちは、お題をクリアしていると判断した場合に拍手をして、それなりの拍手があれば合格。
『教頭先生』『吹奏楽部の人』『赤い物』『三十センチの靴』『ペンギン柄の物』『赤いハンカチ』
多様なお題があって、一組ずつ競技が終わる度にグラウンド中から拍手が起こった。
最後の組、俺達がスタートする頃には、会場はかなり盛り上がっていた。俺達も六人でスタートし、ほぼ団子になって到着した先で目の前の紙を引く。
俺が取った紙に書かれていたのは『丸い物』。とても簡単なお題でホッとした。
俺は基本的に目立つことを得意としていない。ぶっちぎりの最下位で注目されるのはできれば避けたいところだ。
ボールでもなんでも、運動場には丸いものがたくさんある。とりあえず体育倉庫方面に走って、途中で借りられる物があればそれで――
「饗庭!」
走り出そうとした瞬間、後ろから城井に腕を掴まれた。
「え、何」
驚いて振り返り、俺と同じように紙を持っている城井を見る。
――まさか俺を連れて行くつもりか?
と一瞬思った。競技に参加してる人をお題として連れて行くってありなのだろうか。
そう思ったが、
「これやるよ」
と、城井は持っていた紙を見せてきた。俺は城井のお題を見て瞬いた。
――確かにこれなら……でも。
「いやでも、引き直しちゃ駄目なんだろ?」
「真面目かよ。引き直してねーだろ、交換するだけ」
城井は俺の持っている紙を引ったくって、自分の紙を俺に押しつけた。
「丸いもんね、おっけー。いただいたわ」
城井はそう言って、俺を置いて走り出す。
「……」
ぽかんとしてもいられない。俺は校舎を見上げ、ベランダで肘を付いてこちらを見ている小さな人影を目指して走り出した。
俺はトラックの中に並んだ借り物競争の出場者たちを見下ろす。並んでいる生徒たちの一番最後の組に饗庭が見えた。
――一番最後の組って、やっぱり饗庭って足早いんだ。
――あ、隣にいるの城井だ。同じグループなんだな。
二人は何か話しをしている。じーっと眺めていると、二人がこちらを見た。
城井が大きく手を振ってきたので、俺も双眼鏡を下ろして手を振り返した。
――なんか楽しいな、こういうの。
手を振り終わって、俺はもう一度双眼鏡を覗く。しばらく見ていると、双眼鏡の向こうで城井が吹き出した。
――なんだ? 饗庭ってそんな、人笑わせるようなこと言える奴だっけ。
俺はちょっと不思議に思って首を傾げた。
大盛り上がりの中、最終組、饗庭のグループがスタートした。
是非カッコいい活躍をしてほしいところだけど、お題の紙を取るところまでは全員ほぼ団子状態で、饗庭にいいところは特に無かった。
――借り物競争って運ゲーで、足の速さはあんまり関係無いんだよな。
しかしせっかくこうして有里君が応援してあげているのだ。是非簡単なお題を引いて、ぶっちぎりの一番でカッコよくゴールしてほしいところ。
俺は双眼鏡を覗いたまま、心の中で神に祈るように手を組んだ。
――饗庭、頑張れ! 一位になって!
紙を取った生徒達は散り散りにその場を離れていく。
饗庭も紙を見て、すぐ走り出すと思ったのに……
――なんか、城井といちゃついてないか? 何やってるんだ、あいつら……
呆れて見ていると、先に城井が走り出した。数秒遅れて、饗庭がこちらを見た気がした。そして、彼はこちらにまっすぐ走ってくる。
――え、まさか、いや、違うよな?
俺の心臓がドキドキと鳴って、瞳がソワソワと揺れた。
饗庭は校舎の近くまで来ると、俺を見上げて両手を口元に添え大きな声を出した。
「有里来て! 早く!」
俺は頷いて、急いで廊下に飛び出した。
俺は階段を駆け下りる。心臓がドキドキしているのは、走っているからというだけでは無い。
このタイミングで呼ばれたということはつまり、借り物競争のお題として俺を連れて行こうってことだ。
じゃあお題はなんだろう。
――まさか、『学校一の美人』とか?
まあ、それは無いな。反ルッキズムが叫ばれる現代、そういうお題は多分無いはず。
あと、饗庭という男は大変に素直では無いため、そのお題では俺を呼んでくれないに決まっていた。
――じゃあなんだ?
――もしかして、『好きな人』とか。
ドキリと胸が高鳴った。
いやぁ、困るなぁ、こんなところで。
全校生徒と学校関係者、地域の皆様に、饗庭君が俺を大好きなことがバレてしまう。
まあでも、饗庭がいいなら別に、俺は構わないけど……
階段脇の出入り口へ走っていくと、そこまで饗庭が迎えに来ていた。
「有里! ――走れる?」
「うん!」
饗庭がこちらに手を差し出す。俺も饗庭に手を伸ばし、パシリと手を握られて引かれるように走った。
どんなお題か気になって、でも、喋って確認する余裕は無い。
運動場の真ん中に、こんな風に走り出ることは初めてだ。フィールドに出たとき他の人達はもうゴールし始めていて、俺達はぶっちぎりの最下位だった。
でも多分、体操着の生徒が制服姿の友達の手を引いて走ってくるのが目を引いて、場内からワッと歓声が沸いた。
日本人ってこういうの好きだよな。判官贔屓というかなんというか。
きっと明るいクラスの人気者が、陰気で病弱なクラスメイトを陽の下に連れ出したように見えているのだろう。――まあ、あんまり間違ってない。
ゴールにはご丁寧に最下位のためのゴールテープが張り直されていて、俺達は二人でゴールテープを切った。
俺は饗庭の手を離し、膝に手を付いてハアハアと息をした。
「大丈夫か?」
饗庭も大きく息をしながら、俺の顔を覗き込んでくる。
「うん……」
「ごめん、走らせて」
「これくらい大丈夫……ただの運動不足……」
お題は何、と聞きたくて、まだその余裕が無かった。
『では、お題を確認していきます』
マイクを持った体育委員が宣言し、一位から順番にお題の確認が始まった。
『ええー、一位! 丸い物!』
城井が野球のボールを頭上に大きく掲げ、会場全体が拍手をした。
二位は「眼鏡」で、三位は「帽子」。四位は「紫の物」で、五位は「理科の先生」。
そして、俺達は――
「そして六位は――『親友』です」
俺は目を丸くして饗庭を見る。
饗庭がこちらを見て照れ笑いした。そして、俺の手を取って大きく上げた。
場内からまたワッと歓声が上がって、胸がカァッと熱くなりドキドキと心臓が鳴った。
二人で顔を見合わせて笑った。
「――ていうかさぁ、手ぇ繋がなくてもよかったんじゃない?」
昼休憩の時間。俺達はいつも通り史学準備室にいた。てっきり誰も来ないかと思って教室で食べる気だったのだけど、高校生ともなれば親が来ていない生徒が殆どで、結構な生徒が教室に戻ってきたために俺達は避難して来たのだ。
今日のお昼ご飯は、俺が体育祭に(饗庭を見学に)行くことを大喜びした母の手作り弁当。饗庭の分と二人分作ってくれて、俺達は一緒にそれを食べていた。
「確かに」
饗庭はぽかんとする。
「なんか、借り物だから俺が持っていかなきゃと思って」
「なんだよそれ」
俺は面白くなってクスクス笑う。まあ俺も、反射的に手を伸ばしたけどさ。
俺がふざけて
「じゃあお姫様抱っこで持っていってもらえば良かった」
と言うと、饗庭はげんなりした顔をした。
「勘弁してよ」
「しかし『親友』かぁ。そっかぁ」
「なんだよ」
「『学校一の美人』とかかと思ったのに」
「今どき無いでしょ、そういうの」
「分かってるけど」
「城井がさ、始まる前『有里もなんか出れたらいいのに』って言ってくれてて。お題が『親友』だったから交換してくれたんだよ。礼言っとけよ、あとで」
「うん」
俺は大人しく頷く。
――あと、『好きな人』の可能性もあるかなと思ったんだけど。
そう言ってやろうかと思ったけど、なんか、言えなかった。『好きな人』でも、饗庭はちゃんと皆の前で俺を呼んでくれたのかなって、ちらりと思った。
午後のプログラム、ラストから二つ目は『クラス対抗リレー』だ。
一年生から三年生まで、同じ数字のクラスが同じチームで、各学年男女三人ずつ六人が出る。十八人で繋ぐリレーは、この体育祭の目玉競技だ。
同じクラスから男は三人しか出られない中、その一人に饗庭が選ばれているというのは俺としても鼻が高い。
チームの勝利とか他人の活躍に興味が無い俺も、この競技ばかりは饗庭のいる六組チーム全体を応援せざるを得ないだろう。
饗庭の走順はアンカーの二人前のようだ。同じクラスの女子が三人走った、その次。
抜いたり、抜かれたり、リレーはかなり白熱して、三年生の番になる後半ともなるとかなり差も出ていた。六組チームはその中でも上位三位争いの中にいて、まだまだ巻き返しができそうだ。
饗庭の順番はこの後。俺は緊張して手に汗を握った。
――どうか、饗庭がいい活躍できますように!
饗庭の前の走者の女子が、バトンを饗庭に渡す二、三メートル前で足を縺れさせた。俺は双眼鏡を覗いたまま「あっ」と息を呑んだ。
饗庭が急いで彼女の方に駆け寄る。
リレーのセオリーとしては、饗庭はバトンをさっと取って走り出すべきだろう。でも彼は彼女に何か声を掛けて、彼女が頷いてから走り始めた。ロスタイムは三秒といったところか。
――あーあ、こりゃまたモテるな。
俺は心の中でやれやれと首を振る。本当にもう、こんなときにまで優しくて呆れてしまう。
――まあ俺は奴のそういうところに惚れてしまっているのだ、仕方ない。
結局その後ドラマのようなどんでん返しなんかは起きなくて、六組チームは三位だった。
――面白かった。
俺は力が抜けて、窓から離れ椅子に座った。
はあ……と息を吐いて、頭の中で今の興奮を振り返る。
普段サッカーとか野球とか、テレビで放送されているスポーツにもなんの興味も無い俺が、こんな風にどこかのチームを応援して熱い気持ちになるのは初めてだった。
「なるほど世間の人たちはこういう風に応援を楽しんでいるんだな」って、その気持ちが初めて分かった気がした。
リレーの後は、体育祭の締め、フォークダンスの時間だ。入場口付近には三年生全員が集まってガヤガヤしている。その中から饗庭を探し出すのはなかなか難しかった。
――あ、近江だ。浮かれてやがるなあいつ、分かりやすい。
俺は自分のクラスの集団を見つけて、その辺りを入念に見る。饗庭の姿はなかなか見つからなかった。リレーに出てたから遅れてるのかな? こういうのって大体、出席番号順か背の順なんじゃないかと思うんだけど……
熱心に饗庭の姿を探して、俺はふと我に返った。
何が悲しくて、女の子と楽しく踊る饗庭を見守ってやらないといけないのだろう。
――止めだ、止め。
馬鹿らしくなって、俺は窓から離れて教室の中を振り返った。
すると、ちょうど教室の入り口から饗庭が入って来るところだった。
俺は饗庭を見つめてぽかんとする。
「え、何してんの」
「いや、俺もやっぱフォークダンス止めとこうかなと思って」
俺は瞬く。饗庭は俺の方に近付いてきて、自分の席に横向きに座った。
「……お母さんに遠慮してるの?」
少し考えて俺が言うと、饗庭は瞳を揺らして
「まあ、それもあるかも」
と言った。
俺は不機嫌に饗庭の後ろ、自分の席に座る。別に饗庭に怒ってるわけじゃないけど。
「饗庭が踊りたいなら、そういう理由で止めるの、なんか、やだな」
「いや別に、踊りたいってことも無いし」
「女の子と手を繋ぐチャンスなのに?」
俺が言うと饗庭は苦笑した。
「別にいいから俺、そういうの」
「……」
俺は勿論、饗庭が女の子と楽しそうに踊っているところなんて見たくない。見たくは無いが、母親に妙な遠慮をして、饗庭の最後の体育祭の思い出が切ないものになってしまうのはもっと嫌だった。
俺は大袈裟に溜め息を吐き、膝をパンと叩いて立ち上がる。
「しょうがないなぁ」
「え?」
「ほら、踊ってあげる」
俺は饗庭の前に立って、彼に手を差し出した。
「はぁ?」
「フォークダンスってさ、自分の好きな人まで順番が回って来るかどうかが結構ポイントなんじゃない? 回って来ない人もいるでしょ、多分。大好きな有里君とフォークダンスが踊れるなんて、饗庭君良かったね」
「……お前、踊り分かるの?」
「分かんない」
一回も授業に出ていないのだ。分かるわけが無い。
「ね、俺踊りたい。教えて?」
俺が小首を傾げて饗庭を見ると、饗庭はハァと溜め息を吐いて、俺の手を取り立ち上がった。
俺達は机と椅子を前に押しやって、教室の後方に場所を作った。そうしている内にフォークダンスの音楽が響き始めた。何年も前からずっと人気の、爽やかな恋愛ソング。そういうのに興味が無い俺でも、メロディーを聴いたことくらいはあるやつだ。
「手を取って、お辞儀する」
俺は饗庭の言う通りに彼の真似をする。
「はい、前に出て……。後ろに下がって……そうそう」
フォークダンスは初め、男女共に同じ振り付けが続く。そんなに難しくなくて、半分は感覚で、なんとなく付いていくことができた。この調子なら、同じフリの三回目くらいからは上手く踊れそうだ。
「そんで、くるりとまわる――」
せっかく順調だったのに、男子が手を上げて女子をくるりと回す振りのところになって、俺達はお互いにきょとんとして相手の目を見た。
俺達は手を高く上げて、ふたりとも固まっていた。当然、相手が回るのだと思って。
俺達は基本、どちらも自分が男役と信じて疑っていないところがある。いや別に、相手のことを女役と思っているわけじゃないんだけど。
「ええっ、回るの俺なの? 饗庭君回ってよ」
俺が抗議すると、
「えー、なんかやなんだけど」
饗庭も渋い顔をする。
「そう言わずに! ほーら」
俺は半ば強制的に、手を回して饗庭をくるりと回らせた。
渋々回転した饗庭は、
「じゃあ次はお前な」
と言いながら踊りを再開する。
「ええー」
「はい! 手を取って、お辞儀して、右足、左足、くるりと回る!」
俺も渋々回されて、おかしくなって二人で笑った。
次第に振りにも慣れてくる。ポップな音楽に自然と体がノッて来て、俺達は立場を入れ替えながら踊った。
なんだかすごく楽しくて、ずっとずっと、曲が終わらなければいいのにと思った。
高校三年生。最後の体育祭は、初めての体育祭でもあった。
すごく楽しくて、幸せな思い出になった。
相手にとってもそうだったらいいなって、君の手を取りそう思った。
三年生になっても、二人で昼休みを史学準備室で過ごす習慣は変わっていなかった。
他の友人達とはクラスが分かれたし、教室で食べても多分有里と二人で机を合わせるだけなのだけど。クラスメイトの視線の無い二人だけの時間が心地良くて、俺はこの昼休みが結構気に入っている。
しかし今日は少し特別な日だ。俺と有里が史学準備室に着いた時、準備室前の廊下には既に四つの人影が俺達を待っていた。
「あ、饗庭君! 有里君!」
「おー、来た来た」
「久々ー!」
「なぁ鍵閉まってんだけど」
御門に、近江に、洲鎌に、城井。
新学期が始まって一ヶ月以上が経っているが、四人とも何も変わらず二年の頃のままである。
「あ、ちょっと待って」
有里はポケットから鍵を取り出しながら入口に駆け寄る。俺はそのままゆっくりと、彼らの方へ歩いて行った。
俺達六人は進級してから今日まで一度も集まる機会が無かった。俺と有里は同じクラスで、御門と洲鎌も同じクラス。でも近江と城井はそれぞれ別々で、俺達は廊下ですれ違ったときに声を掛けたりちょっとふざけ合ったりするくらいしか、普段の交流が無くなっていた。
勿論声さえ掛ければいつでも集まれるんだろうけど。いつでも集まれると思うとなかなか「今日集まろう!」とならなくて、気が付いたら四月が終わっていた。
五月に入って初めて、近江がグループメッセージで「旧友を暖めよう」と提案してきた。そこで俺達はゴールデンウイーク明けの今日、昼休みに史学準備室で一緒に昼食を摂ることにしたのだ。
以前ファミレスで四人を史学準備室での昼休みに誘ったことがあったけれど、言った切りで今日まで実現してはいなかった。その時からずっと「いつかその内」と思うとは無しに思ってはいたのが、この機会になったというわけだ。
「有里鍵持ってんだ、いいなー」
鍵を開ける有里を見ながらこだわりなさそうに近江が言った。有里がドアを開けると、友人たちはゾロゾロと史学準備室に入っていく。
「へー、こんな感じなんだ」
「あ、ソファあるじゃん!」
遠慮の無い三人組――近江・城井・洲鎌のことである――が、我先にと三人掛けのソファに座って、俺と有里と御門は彼らに向かい合って床に座った。
ソファの前のテーブルは、ソファに座ると膝と天板の高さが同じくらいになるロータイプだったから、実は床に座った方が物を食べるにはちょうど良い高さだったりする。
「お前らいつもソファでメシ食ってんの? いいじゃん」
近江は羨ましそうに言いながら、俺の目の前、ソファの中央でふんぞり返った。
「エアコンもあるし、静かだし、ビップ待遇だな」
有里の正面に座った城井は、肘掛けに肘を突いて物珍しげに準備室を見回す。
「いやー、しかしなんだかんだ久々だな。ほぼ二ヶ月ぶり!」
「なーんも変わんねぇな」
「うん、普通に昨日まで毎日会ってた感じする」
「御門もここ、よく来るんだっけ?」
洲鎌が目の前の御門を見下ろしながら言って、御門は頷いた。
「うん、結構来るよ。巴先生に史料見せてもらうのは大抵ここ」
そういえば、歴史オタクの御門もこの史学準備室のヘビーユーザーなんだっけ。
「でもここで会ったことないよな」
有里が何気無い調子で言うと、御門は飲み掛けていたお茶をゴフリと吐きそうになって盛大に噎せた。
「だ、大丈夫?」
「だいじょうぶ……うん、そうだね、会ったこと無い。僕が来るのは放課後ばっかりだから……」
御門はそう言いながら、顔を赤くして咳き込む。
――なんだろう。何かタイミングが悪かったかな。
俺は不思議に思いつつ弁当箱を開いて、いつも通り卵焼きを箸で掴んで有里に差し出した。
「有里」
「ん」
有里もいつも通り、当たり前にそれを食べる。そして、俺達は顔を見合わせて目を見開いた。
――やってしまった。
そーっとソファの上の友人たちの方を見ると、三人がジトッとこちらを、主に俺の方を見ていた。
「ええっと……?」
俺は三人を見て、言葉が出てこずそのまま固まる。有里は急いで卵焼きをもぐもぐと食べて飲み込んだ。
「……」
「……」
誰も何も言わなくて、部屋に沈黙が降りた。
俺は内心焦りながらなんと言おうか考える。
ついいつもの癖で――なんて言うのは、真実だけど絶対に駄目だ。「お前いつもあーんしてやってるの⁉」と、友人たちの声がもう聞こえてくる。
どう言ったものか考え倦ねていると、御門が言った。
「あ、有里君いいなー! 饗庭君の卵焼き、おいしそう!」
「……ええと、御門も食う?」
俺が言うと、御門は目を輝かせた。
「え、いいの? 食べる食べる!」
一瞬躊躇って、有里にしたのと同じように箸で差し出す。御門は迷いなく、そのまま卵焼きを食べた。
「うわ、おいしい」
御門が言うと
「だろ!?」
と、有里が何故か自慢げに言った。
「甘くないタイプのやつだ」
「そうなんだよ。饗庭は甘くないのが好きなんだって」
「へー、僕も好きだよ」
「俺も。饗庭に貰って甘くない派になった」
二人は俺を挟んで盛り上がる。
「何、そんなにうまいの? 食いたい」
「俺も」
「じゃあ俺も」
三人がふざけてか本気でか、身を乗り出して俺の弁当を見た。
「もう一個しかねーよ」
卵焼きは元々三切れしか入れていない。
「じゃあその魚のやつ寄越せ」
「俺、その煮物? のこんにゃく」
「よっしゃ! じゃあ俺は卵焼き」
「お前ら人の弁当食い尽くす気か?」
俺は言って、卵焼きの最後の一切れを弁当箱の蓋に乗せる。箸で三つに割って三人の方に突き出した。
「ほら食え」
「なによ、随分扱いが違うじゃないの」
近江がそう言いながら卵焼きにコンビニのフォークを突き刺し、洲鎌は弁当の箸で、城井はパンを食べていた手でそのまま卵焼きを掴んだ。
「おー、うまい」
「うまいうまい」
近江と城井が口々に言う。
「かーちゃん料理上手いんだな」
本当に何気無い、悪気の無い洲鎌の言葉に、俺は一瞬ぐっと詰まった。
「あ――」
何か言わなくてはと声を出そうとしたその瞬間、有里がまた自慢げな声を上げた。
「洲鎌、知らないの? これ饗庭の手作り」
「えー、そうなんだ」
友人達は目を丸くする。
「自分で作ってるの? 弁当全部? えらっ!」
「えらい!」
「これは饗庭君いいお婿さんになるわ」
「いやー、別に……こんくらい……」
友人達に口々に褒められて、俺は少し狼狽えた。俺は本当に、褒められることが苦手だ。
照れてしどろもどろになりつつ、「あーん」の件から話がそれて俺は内心ホッとしていた。が、
「で?」
城井が俺をジロリと見た。
「お前、普段から有里に卵焼き箸で食わせてやってるわけ?」
残念ながら見逃してもらえなかったようだ。
「介護だよ、介護。こいつ細いんだもん」
俺はしたり顔で言う。時間が稼げたおかげで大分冷静な対応ができた。
「あー、なるほどね。太らせてから食べようって魂胆だ」
近江が顎を撫でると、城井も半分納得したような、していないような顔で頷いた。
「まあ確かに細いよな、有里は」
「有里、昼飯それだけなの?」
洲鎌は有里が机の上に出したサンドイッチと野菜ジュースに目を向ける。
「うん、まあ」
「有里君は夕ご飯をたくさん食べるタイプ?」
「ううん、そうでもないよ」
有里は苦笑いした。
「朝もあんま食わないし、夜もそこそこ」
「わー、俺無理。サンドイッチだったら三袋はほしい」
「俺も。こんだけだったらプラス購買行くわ」
「それだからそんな細いんだよ」
「よし、俺達も協力して有里太らせるか」
「いいね」
「どうする?」
「肉食うべきだよ、肉。ほら、有里これ食え」
「こら、人の唐揚げ勝手にやんな!」
俺は弁当を食べながら黙って彼らの会話を聞いていた。
俺は元々あまり自分から話題に入っていく方では無くて、以前友人たちと昼食を食べていた頃も黙って聞いていることが多かった。
当初、有里がこのメンバーと絡むときは「俺が仲介してやらなきゃ」なんて多少気を張っていたのだけど。
修学旅行から半年が経ち、有里は友人達にすっかり馴染んでいる。俺が間に入ったり助け舟を出したりしなくても、自然に。
それを嬉しく思って、俺はなんだか満足した気持ちになった。
翌日の昼休み。史学準備室。俺達は二人でソファに座った。
まだ昨日の余韻があって、いつも通りの史学準備室がなんだか静かに感じた。
有里も昨日のことを思い出しているようで、
「昨日楽しかったなー」
とニコニコしている。しかし、
「また呼ぶ? 来いって言えば毎日来ると思うけど」
俺がそうと言うと、有里は一転してムッとした顔をした。
「なんだよ」
良かれと思って言ったのに、全くこいつの機嫌は読めない。
しかし次の瞬間有里の不機嫌の理由に思い当たって、俺は「あ」と声を上げた。
「お前、俺が御門に卵焼き食わせたの根に持ってるんだろ」
俺は窘めるモードに入って、ソファの上に座り直した。
「あのな、有里に食べさせてやっておいて御門に食べさせなかったら変だろ?」
それになんとなくだけど、御門は空気を読んでくれたような、助け舟を出してくれたような、そんな感じがしたんだよな。
「別に普段から他の奴とも回し飲みとかもするし、別に特別気にすることじゃ――」
「誰もそんなこと言ってないでしょ」
有里は呆れ顔で俺を見た。
「饗庭って俺のこととんでもないヤキモチ焼きだと思ってない?」
めちゃめちゃ思ってるけど――と言うと益々機嫌が悪くなりそうなので、わざわざ言うのは止めておいた。
「じゃあなんでムッとしたんだよ」
「昨日楽しかったって言っただけで、これから毎日六人でご飯食べようとは言ってないでしょ!」
有里はふくれっ面でそう言って、
「饗庭君は僕と二人の時間が無くなってもいいの?」
久々に作り物のウルウルした目を向けてきた。
「そんなこと言ってないだろ」
「だって、四人呼ぼうとするし」
「それはお前が喜ぶならと思ってじゃん」
「俺が喜ぶなら、饗庭は二人じゃなくてもいいんだ」
有里は拗ねた顔をする。
――め、面倒くさい。
思わず顔に出てしまったのを有里に気付かれて、彼はフンッとそっぽを向いた。
「はー、お前ってホント淡白だよな。俺がそこら辺の普通の女の子だったら『饗庭君ってアタシのこと全然好きじゃないよね』とかなんとか言って、とっくにフッてるところだぞ」
「なんの話だよ」
「有里君が聞き分けのいい男の子で良かったね!」
有里が聞き分け良かったことは記憶に無いけれど、今は多分そこにツッコむタイミングではない。
「分かった、分かった。俺も昼休みは二人がいいよ。もしまた呼ぶとしても、たまにな。四半期に一回くらいなら、皆で集まるのも楽しくない? それかもうここに呼ぶのは止めといて、放課後ファミレスで集まったりしようよ、次は」
俺が言うと、有里はみるみる内に笑顔になった。
俺は段々有里の扱い方が分かって来ていた。俺だって成長するのだ。――勿論、昼休みを二人で過ごしたいっていうのは俺の本心でもあるし。
「俺、ファミレスって行ったこと無い。前は五人で行ってたんでしょ? いいのかな、俺、行っていい?」
有里はワクワクを一生懸命抑えるように言って、俺はこいつのそういうところを健気に思ったりする。
「いいだろ、勿論。昨日の昼だってさ、別に普通に喋れてたじゃん」
「ホント?」
「うん、なんの違和感も無いっていうか。俺いなくても大丈夫そうだった」
「それはまだやだけど」
有里は急いで否定して、それでも少し、頬を赤くした。
「そっか、でも、そうだな。もし饗庭がいなくても、普通に友達扱いしてもらえるくらい仲良くなれてたらいいな」
「なれてるよ」
俺が言うと、有里は嬉しそうに「へへっ」と笑った。
それからしばらく、俺達は食事に集中した。いつ通りサンドイッチをさっさと食べ終わった有里は、まだ弁当を食べている俺に話し掛けてきた。
「……饗庭は、高校卒業したら漁港で働くんだよね?」
「うん、そのつもり。――いや、別に正式に採用試験受けたわけじゃないし、ちゃんと約束してるわけじゃないから、もしかして『やっぱ無理』って言われるかもだけど」
「そんなこと無いでしょ。饗庭、今だってめちゃめちゃ戦力になってるし」
「別にそんなこと無いよ。学校休みの日しか行かないし……」
「でも休みの日は全部行ってるじゃん」
「全部ってことないよ。二十四の日曜だって、休むし」
「えっ!? ホント!?」
有里が急に目を輝かせて勢いよくこちらを向いて、俺は何事かと目を瞬かせた。
「え? うん、まあ」
「じゃあデートしよ」
俺はぽかんと有里を見た。
「は? 何言ってんだよ、体育祭じゃん」
五月の第四日曜日。毎年この日はうちの高校の体育祭。俺がバイトを休みにしたのは、勿論体育祭があるからだ。
「あ、そうなんだ」
有里がさも今知ったかのように言って、俺は思わず呆れ顔になった。
彼は相変わらず、自分に関係の無い行事のことを何も気にしていない。
「お前そんぐらい把握しとけよ。次の日振替休日なのに、一人で登校しちまうぞ」
「あー、確かにそれはめんどいな」
「有里って、体育祭見学にも来たことないの?」
「ないよ。来てもしゃーないじゃん。体育祭の日って俺からしたら普通の日曜日だよ」
有里は少し自嘲気味に笑った。
「俺にとって体育祭っていうのは、ドラマとか漫画の中で同年代の子達がキラキラしてるフィクションで、現実じゃないの」
「……」
なんと言っていいか分からなくなって、言葉が出なかった。有里がパッとこちらを見た。
「ね、饗庭は体育祭、何に出るの?」
「え? ええと、借り物競争と、後はリレーの予定だけど」
有里が目を丸くする。
「リレー? リレーって足が速い奴が出るんじゃないの?」
「まあね」
俺は思わずちょっと得意げな顔をしてしまって、苦笑いした。
「陸上部は出られない決まりだから。残りの奴から選んだらまあ、ギリギリ入ることになった感じ」
「十分すごいじゃん。足速いんだ」
「うーん、まあ、そうなのかな」
俺は曖昧に濁す。
「というわけで、バイトは無いけどデート? は無しな。――有里その日、何すんの?」
何の気無しに聞いてみると、
「俺、見に来るよ」
有里が言って、今度は俺が目を丸くした。
「え?」
有里はワクワクした様子で楽しそうに笑う。
「体育祭なんて正直どうでもいいけどさ。でも俺、饗庭が出てるとこは見たい。神川先生に言って、教室から見ててあげる」
俺達の教室は運動場に面した三階にあって、窓からグラウンドが見渡せた。
「父さんが双眼鏡持ってたと思うから借りてきてさ、見守っててあげるよ。いいとこ見せてね」
そう言って有里はニッと笑う。
「うん……まあ、頑張る」
俺は思わず頭を掻いた。
「なんか、変な感じだな」
「え?」
「俺を見に来る人がいるなんて初めてだから」
母さんは学校行事に来たことが無い。小学生の頃から一度も。
艮野の両親は来れば俺にも声を掛けてくれたけど、それはどうしたって自分の子ども達を見に来たついでで、俺を見に来たわけではないと分かっている。
「体育祭で自分が見られてて、応援されてるって、なんか変な感じ」
「……」
そう言って有里を見ると、彼はなんだか切なそうな顔をしていた。俺は執り成すつもりで急いで話を変えた。
「でもさ、せっかく来るなら有里もなんか出たら? そんなハードじゃないやつならいけるだろ。俺もちゃんと見てるよ、応援する」
高校三年生、人生最後の体育祭なのだ。有里にだって、せっかくなら何か思い出ができたらいい。
良かれと思ってそう言ったのに、有里はあからさまに面倒臭そうな顔をした。
「えぇー、いいよ。もうどの競技も出る奴決まってんだろ?」
「そうだけど……。でも、なんか今からでも出られるやつあるんじゃ――」
少し考えて、俺は「あ」と声を上げる。
「フォークダンスは? あれなら大丈夫じゃない?」
体育祭のシメであるフォークダンスは、三年生の全員参加。人数が決まっているわけでは無いので、飛び入り参加しようが当日いきなりサボろうが大丈夫なプログラムだ。その上汗をかくようなハードな動きも無い。有里にぴったりではないか。
「ええー」
そう思ったのに、有里は更に渋い顔をした。
「なんだよ」
「俺、これまで一回も体育の授業出てないし、体育祭も参加したこと無いんだぜ? なのに最後の最後にフォークダンスだけ出るって、やらしくない?」
「やらしい?」
俺はぽかんとする。
「女の子と手ぇ繋ぎたいだけみたいじゃん」
有里が言って、その発想が無かった俺はドギマギした。
「そ、そう……?」
「そうだよ。だからいいわ、俺」
「……」
そう言われると、なんか。フォークダンスを無理に勧めるのも変な気がして、俺には言えることが無くなってしまう。
有里は何も気にしていない様子で膝を叩いた。
「ま、とにかく当日頑張れよ。チームの勝ち負けとかなんでもいいけど、饗庭君のことは応援してるからね」
有里はそう言って、俺に向かってにっこり笑った。
「うん……」
そういえばどうして有里は急に就職の話をしたんだろう。ふと思ったけれど、体育祭のことに意識がいって、俺はそれをすぐに忘れてしまった。
五月の第四日曜日。俺達は体育祭の日を迎えた。
グラウンドでは開会式が行われていて、俺は教室の窓から父さんから借りた双眼鏡でそれを見下ろしている。
――なんか、ストーカーみたいだな。
まあでも、本人どころか担任も学校も公認ですから。
俺は堂々と双眼鏡を構えて、ラジオ体操をしている饗庭を窓から眺めた。
だらだらやっている奴も多い中、饗庭は生真面目にやっている。性格だな、あれは。
この後饗庭が出るのは、借り物競争・リレー・フォークダンスの三つだけ。饗庭が出ないやつは見ても別に仕方ないので、その時間はスマートフォンをいじったり、史学準備室のソファでゴロゴロしたりして過ごすつもりだ。
ちなみに教室での俺の席は、窓際の前から二番目。
新学期が始まって一ヶ月の今、席は出席番号順で、「ありさと」である俺は毎年大抵その辺の席になる。
前の席勿論は「あいば」だ。二年生のときも多分最初の席はこうだったんだけど、あの時はなんとも思ってなかった。――今にして思えば勿体無いことをしたものだ。
参加するわけでは無いけれど、俺にとっては初めての体育祭。そして、否応なく最後の体育祭だ。今日一日、家でゴロゴロして過ごすことにならなくて良かった。これも饗庭のおかげだ――と、俺は真面目な顔で選手宣誓を聞いている饗庭を見ながら嬉しく思った。
プログラムの六番目。借り物競争の番が来た。俺は決まり通りに並んで、トラックの中に待機して教室を見上げた。
三階の俺達の教室に、窓に肘を突いて双眼鏡を構える有里が見えた。俺の走順は一番後の組で、偶然にも城井と同じだった。
「あれ有里?」
隣に並んだ城井が、校舎を上げて言った。
「うん、そう」
「来てんだ」
城井が大きく手を振ると、気が付いた有里も手を振り返した。
ずいぶんと社交的になったものだと、俺は父親気分でホッとする。
城井は振っていた手を下ろして俺を見た。
「有里は参加しないんだな、やっぱり」
「うん」
「せっかく来てるんなら、なんか出れるもんあったらいいのにな」
城井は言ったが、なんとなく言ってみたという感じで、真剣にそう考えているわけでもなさそうだった。
「そうだな」
俺も彼の温度に合わせて適当に相槌を打つ。城井が「あ」と何か思いついたように声を上げた。
「フォークダンスは? あれなら別に出れんじゃね? 制服のままでも良さそうだし」
「俺もそれ言ったんだけどさ」
「やっぱ出ないかー」
「最後の最後にフォークダンスだけ出るの、女の子と手ぇ繋ぎたいだけみたいでやらしいから嫌なんだって」
城井は一瞬きょとんとして、それから吹き出した。
「なにそれ、おもろ。有里ってたまに面白いな」
俺はもう一度校舎を見る。窓辺に肘を突いてこちらを見ている有里は、まさか自分の話をされてるなんて思っていないだろう。
借り物競争の流れはこうだ。
一組から六組まで、一クラスから一人ずつが同じグループでスタートし、地面に置かれた紙を引く。
一度引いたお題は引き直してはいけないルールで、どうしても持ってこられない場合は最下位となる。
全員がゴールすると進行役の生徒がマイクで紙に書かれた物を読み上げ、生徒は持ってきた物を上に掲げて見せる。
会場で見ている人たちは、お題をクリアしていると判断した場合に拍手をして、それなりの拍手があれば合格。
『教頭先生』『吹奏楽部の人』『赤い物』『三十センチの靴』『ペンギン柄の物』『赤いハンカチ』
多様なお題があって、一組ずつ競技が終わる度にグラウンド中から拍手が起こった。
最後の組、俺達がスタートする頃には、会場はかなり盛り上がっていた。俺達も六人でスタートし、ほぼ団子になって到着した先で目の前の紙を引く。
俺が取った紙に書かれていたのは『丸い物』。とても簡単なお題でホッとした。
俺は基本的に目立つことを得意としていない。ぶっちぎりの最下位で注目されるのはできれば避けたいところだ。
ボールでもなんでも、運動場には丸いものがたくさんある。とりあえず体育倉庫方面に走って、途中で借りられる物があればそれで――
「饗庭!」
走り出そうとした瞬間、後ろから城井に腕を掴まれた。
「え、何」
驚いて振り返り、俺と同じように紙を持っている城井を見る。
――まさか俺を連れて行くつもりか?
と一瞬思った。競技に参加してる人をお題として連れて行くってありなのだろうか。
そう思ったが、
「これやるよ」
と、城井は持っていた紙を見せてきた。俺は城井のお題を見て瞬いた。
――確かにこれなら……でも。
「いやでも、引き直しちゃ駄目なんだろ?」
「真面目かよ。引き直してねーだろ、交換するだけ」
城井は俺の持っている紙を引ったくって、自分の紙を俺に押しつけた。
「丸いもんね、おっけー。いただいたわ」
城井はそう言って、俺を置いて走り出す。
「……」
ぽかんとしてもいられない。俺は校舎を見上げ、ベランダで肘を付いてこちらを見ている小さな人影を目指して走り出した。
俺はトラックの中に並んだ借り物競争の出場者たちを見下ろす。並んでいる生徒たちの一番最後の組に饗庭が見えた。
――一番最後の組って、やっぱり饗庭って足早いんだ。
――あ、隣にいるの城井だ。同じグループなんだな。
二人は何か話しをしている。じーっと眺めていると、二人がこちらを見た。
城井が大きく手を振ってきたので、俺も双眼鏡を下ろして手を振り返した。
――なんか楽しいな、こういうの。
手を振り終わって、俺はもう一度双眼鏡を覗く。しばらく見ていると、双眼鏡の向こうで城井が吹き出した。
――なんだ? 饗庭ってそんな、人笑わせるようなこと言える奴だっけ。
俺はちょっと不思議に思って首を傾げた。
大盛り上がりの中、最終組、饗庭のグループがスタートした。
是非カッコいい活躍をしてほしいところだけど、お題の紙を取るところまでは全員ほぼ団子状態で、饗庭にいいところは特に無かった。
――借り物競争って運ゲーで、足の速さはあんまり関係無いんだよな。
しかしせっかくこうして有里君が応援してあげているのだ。是非簡単なお題を引いて、ぶっちぎりの一番でカッコよくゴールしてほしいところ。
俺は双眼鏡を覗いたまま、心の中で神に祈るように手を組んだ。
――饗庭、頑張れ! 一位になって!
紙を取った生徒達は散り散りにその場を離れていく。
饗庭も紙を見て、すぐ走り出すと思ったのに……
――なんか、城井といちゃついてないか? 何やってるんだ、あいつら……
呆れて見ていると、先に城井が走り出した。数秒遅れて、饗庭がこちらを見た気がした。そして、彼はこちらにまっすぐ走ってくる。
――え、まさか、いや、違うよな?
俺の心臓がドキドキと鳴って、瞳がソワソワと揺れた。
饗庭は校舎の近くまで来ると、俺を見上げて両手を口元に添え大きな声を出した。
「有里来て! 早く!」
俺は頷いて、急いで廊下に飛び出した。
俺は階段を駆け下りる。心臓がドキドキしているのは、走っているからというだけでは無い。
このタイミングで呼ばれたということはつまり、借り物競争のお題として俺を連れて行こうってことだ。
じゃあお題はなんだろう。
――まさか、『学校一の美人』とか?
まあ、それは無いな。反ルッキズムが叫ばれる現代、そういうお題は多分無いはず。
あと、饗庭という男は大変に素直では無いため、そのお題では俺を呼んでくれないに決まっていた。
――じゃあなんだ?
――もしかして、『好きな人』とか。
ドキリと胸が高鳴った。
いやぁ、困るなぁ、こんなところで。
全校生徒と学校関係者、地域の皆様に、饗庭君が俺を大好きなことがバレてしまう。
まあでも、饗庭がいいなら別に、俺は構わないけど……
階段脇の出入り口へ走っていくと、そこまで饗庭が迎えに来ていた。
「有里! ――走れる?」
「うん!」
饗庭がこちらに手を差し出す。俺も饗庭に手を伸ばし、パシリと手を握られて引かれるように走った。
どんなお題か気になって、でも、喋って確認する余裕は無い。
運動場の真ん中に、こんな風に走り出ることは初めてだ。フィールドに出たとき他の人達はもうゴールし始めていて、俺達はぶっちぎりの最下位だった。
でも多分、体操着の生徒が制服姿の友達の手を引いて走ってくるのが目を引いて、場内からワッと歓声が沸いた。
日本人ってこういうの好きだよな。判官贔屓というかなんというか。
きっと明るいクラスの人気者が、陰気で病弱なクラスメイトを陽の下に連れ出したように見えているのだろう。――まあ、あんまり間違ってない。
ゴールにはご丁寧に最下位のためのゴールテープが張り直されていて、俺達は二人でゴールテープを切った。
俺は饗庭の手を離し、膝に手を付いてハアハアと息をした。
「大丈夫か?」
饗庭も大きく息をしながら、俺の顔を覗き込んでくる。
「うん……」
「ごめん、走らせて」
「これくらい大丈夫……ただの運動不足……」
お題は何、と聞きたくて、まだその余裕が無かった。
『では、お題を確認していきます』
マイクを持った体育委員が宣言し、一位から順番にお題の確認が始まった。
『ええー、一位! 丸い物!』
城井が野球のボールを頭上に大きく掲げ、会場全体が拍手をした。
二位は「眼鏡」で、三位は「帽子」。四位は「紫の物」で、五位は「理科の先生」。
そして、俺達は――
「そして六位は――『親友』です」
俺は目を丸くして饗庭を見る。
饗庭がこちらを見て照れ笑いした。そして、俺の手を取って大きく上げた。
場内からまたワッと歓声が上がって、胸がカァッと熱くなりドキドキと心臓が鳴った。
二人で顔を見合わせて笑った。
「――ていうかさぁ、手ぇ繋がなくてもよかったんじゃない?」
昼休憩の時間。俺達はいつも通り史学準備室にいた。てっきり誰も来ないかと思って教室で食べる気だったのだけど、高校生ともなれば親が来ていない生徒が殆どで、結構な生徒が教室に戻ってきたために俺達は避難して来たのだ。
今日のお昼ご飯は、俺が体育祭に(饗庭を見学に)行くことを大喜びした母の手作り弁当。饗庭の分と二人分作ってくれて、俺達は一緒にそれを食べていた。
「確かに」
饗庭はぽかんとする。
「なんか、借り物だから俺が持っていかなきゃと思って」
「なんだよそれ」
俺は面白くなってクスクス笑う。まあ俺も、反射的に手を伸ばしたけどさ。
俺がふざけて
「じゃあお姫様抱っこで持っていってもらえば良かった」
と言うと、饗庭はげんなりした顔をした。
「勘弁してよ」
「しかし『親友』かぁ。そっかぁ」
「なんだよ」
「『学校一の美人』とかかと思ったのに」
「今どき無いでしょ、そういうの」
「分かってるけど」
「城井がさ、始まる前『有里もなんか出れたらいいのに』って言ってくれてて。お題が『親友』だったから交換してくれたんだよ。礼言っとけよ、あとで」
「うん」
俺は大人しく頷く。
――あと、『好きな人』の可能性もあるかなと思ったんだけど。
そう言ってやろうかと思ったけど、なんか、言えなかった。『好きな人』でも、饗庭はちゃんと皆の前で俺を呼んでくれたのかなって、ちらりと思った。
午後のプログラム、ラストから二つ目は『クラス対抗リレー』だ。
一年生から三年生まで、同じ数字のクラスが同じチームで、各学年男女三人ずつ六人が出る。十八人で繋ぐリレーは、この体育祭の目玉競技だ。
同じクラスから男は三人しか出られない中、その一人に饗庭が選ばれているというのは俺としても鼻が高い。
チームの勝利とか他人の活躍に興味が無い俺も、この競技ばかりは饗庭のいる六組チーム全体を応援せざるを得ないだろう。
饗庭の走順はアンカーの二人前のようだ。同じクラスの女子が三人走った、その次。
抜いたり、抜かれたり、リレーはかなり白熱して、三年生の番になる後半ともなるとかなり差も出ていた。六組チームはその中でも上位三位争いの中にいて、まだまだ巻き返しができそうだ。
饗庭の順番はこの後。俺は緊張して手に汗を握った。
――どうか、饗庭がいい活躍できますように!
饗庭の前の走者の女子が、バトンを饗庭に渡す二、三メートル前で足を縺れさせた。俺は双眼鏡を覗いたまま「あっ」と息を呑んだ。
饗庭が急いで彼女の方に駆け寄る。
リレーのセオリーとしては、饗庭はバトンをさっと取って走り出すべきだろう。でも彼は彼女に何か声を掛けて、彼女が頷いてから走り始めた。ロスタイムは三秒といったところか。
――あーあ、こりゃまたモテるな。
俺は心の中でやれやれと首を振る。本当にもう、こんなときにまで優しくて呆れてしまう。
――まあ俺は奴のそういうところに惚れてしまっているのだ、仕方ない。
結局その後ドラマのようなどんでん返しなんかは起きなくて、六組チームは三位だった。
――面白かった。
俺は力が抜けて、窓から離れ椅子に座った。
はあ……と息を吐いて、頭の中で今の興奮を振り返る。
普段サッカーとか野球とか、テレビで放送されているスポーツにもなんの興味も無い俺が、こんな風にどこかのチームを応援して熱い気持ちになるのは初めてだった。
「なるほど世間の人たちはこういう風に応援を楽しんでいるんだな」って、その気持ちが初めて分かった気がした。
リレーの後は、体育祭の締め、フォークダンスの時間だ。入場口付近には三年生全員が集まってガヤガヤしている。その中から饗庭を探し出すのはなかなか難しかった。
――あ、近江だ。浮かれてやがるなあいつ、分かりやすい。
俺は自分のクラスの集団を見つけて、その辺りを入念に見る。饗庭の姿はなかなか見つからなかった。リレーに出てたから遅れてるのかな? こういうのって大体、出席番号順か背の順なんじゃないかと思うんだけど……
熱心に饗庭の姿を探して、俺はふと我に返った。
何が悲しくて、女の子と楽しく踊る饗庭を見守ってやらないといけないのだろう。
――止めだ、止め。
馬鹿らしくなって、俺は窓から離れて教室の中を振り返った。
すると、ちょうど教室の入り口から饗庭が入って来るところだった。
俺は饗庭を見つめてぽかんとする。
「え、何してんの」
「いや、俺もやっぱフォークダンス止めとこうかなと思って」
俺は瞬く。饗庭は俺の方に近付いてきて、自分の席に横向きに座った。
「……お母さんに遠慮してるの?」
少し考えて俺が言うと、饗庭は瞳を揺らして
「まあ、それもあるかも」
と言った。
俺は不機嫌に饗庭の後ろ、自分の席に座る。別に饗庭に怒ってるわけじゃないけど。
「饗庭が踊りたいなら、そういう理由で止めるの、なんか、やだな」
「いや別に、踊りたいってことも無いし」
「女の子と手を繋ぐチャンスなのに?」
俺が言うと饗庭は苦笑した。
「別にいいから俺、そういうの」
「……」
俺は勿論、饗庭が女の子と楽しそうに踊っているところなんて見たくない。見たくは無いが、母親に妙な遠慮をして、饗庭の最後の体育祭の思い出が切ないものになってしまうのはもっと嫌だった。
俺は大袈裟に溜め息を吐き、膝をパンと叩いて立ち上がる。
「しょうがないなぁ」
「え?」
「ほら、踊ってあげる」
俺は饗庭の前に立って、彼に手を差し出した。
「はぁ?」
「フォークダンスってさ、自分の好きな人まで順番が回って来るかどうかが結構ポイントなんじゃない? 回って来ない人もいるでしょ、多分。大好きな有里君とフォークダンスが踊れるなんて、饗庭君良かったね」
「……お前、踊り分かるの?」
「分かんない」
一回も授業に出ていないのだ。分かるわけが無い。
「ね、俺踊りたい。教えて?」
俺が小首を傾げて饗庭を見ると、饗庭はハァと溜め息を吐いて、俺の手を取り立ち上がった。
俺達は机と椅子を前に押しやって、教室の後方に場所を作った。そうしている内にフォークダンスの音楽が響き始めた。何年も前からずっと人気の、爽やかな恋愛ソング。そういうのに興味が無い俺でも、メロディーを聴いたことくらいはあるやつだ。
「手を取って、お辞儀する」
俺は饗庭の言う通りに彼の真似をする。
「はい、前に出て……。後ろに下がって……そうそう」
フォークダンスは初め、男女共に同じ振り付けが続く。そんなに難しくなくて、半分は感覚で、なんとなく付いていくことができた。この調子なら、同じフリの三回目くらいからは上手く踊れそうだ。
「そんで、くるりとまわる――」
せっかく順調だったのに、男子が手を上げて女子をくるりと回す振りのところになって、俺達はお互いにきょとんとして相手の目を見た。
俺達は手を高く上げて、ふたりとも固まっていた。当然、相手が回るのだと思って。
俺達は基本、どちらも自分が男役と信じて疑っていないところがある。いや別に、相手のことを女役と思っているわけじゃないんだけど。
「ええっ、回るの俺なの? 饗庭君回ってよ」
俺が抗議すると、
「えー、なんかやなんだけど」
饗庭も渋い顔をする。
「そう言わずに! ほーら」
俺は半ば強制的に、手を回して饗庭をくるりと回らせた。
渋々回転した饗庭は、
「じゃあ次はお前な」
と言いながら踊りを再開する。
「ええー」
「はい! 手を取って、お辞儀して、右足、左足、くるりと回る!」
俺も渋々回されて、おかしくなって二人で笑った。
次第に振りにも慣れてくる。ポップな音楽に自然と体がノッて来て、俺達は立場を入れ替えながら踊った。
なんだかすごく楽しくて、ずっとずっと、曲が終わらなければいいのにと思った。
高校三年生。最後の体育祭は、初めての体育祭でもあった。
すごく楽しくて、幸せな思い出になった。
相手にとってもそうだったらいいなって、君の手を取りそう思った。



