自称スパダリなモラハラ幼馴染みが溺愛してくる件

カーテンの隙間から零れる朝日が和の目元を照らす。
心地よい冷気が頬を撫で、さらりと上質な寝衣の感触に再び意識は夢の中に帰宅しようとしている。
和は手元にあるタオルケットを手繰り寄せ、ひんやりと気持ちの良いシーツの上で丸くなる。

天国か。
一瞬、そう思ったが、やはり思い直す。
ここは、寿一の家だから。

和は誘惑にどうにか打ち勝ち、目をこすりながら上体を起こす。
だだっ広いベッドを見渡すと、隣はもうもぬけの殻だった。
きっと、毎朝恒例のジョギングにでも行っているのだろう。
この真夏にご苦労なことだ。

和が寿一の家にやってきて、早三か月。
最初の頃のように身の危険を感じて、睡眠が浅くなることはなくなり、寿一が行動しただけで目が覚めるようなことはなくなった。

最初の頃は寿一がいつ襲ってくるかもしれないと気を張っていた。
だが、そんな警戒心マックスな和を尻目に、寿一は和に本当に何も求めてこなかった。

むしろ、尽くされた。
スパダリとはこういうことなのか、と納得しかけてしまうくらいに。

けれども、和がちょろくも寿一の評価を変えようとした瞬間に奴は何食わぬ顔で和を削ってくる。

やれ、和はこんな料理食べたことないだろ?
やれ、和は運動神経鈍いだけじゃなくて、体力もないからなぁ。
やれ、和にはどうせできないんだから何もしなくていいよ。

マイナスがゼロに戻りかけた瞬間に――いや、言い過ぎた。
マイナスが少しだけプラスに寄りかけた瞬間にそうやって、台無しにして「マジでこいつなんてくたばればいいのに」そう思わされてしまう。

そんな人間と一緒に住むのはやはり疲れる。
和の肉体は一人で位していた日々と比べると格段に健康そうになった。

体重だって少し増えた。
寿一が無理矢理、筋トレをさせてくるから、筋肉だって少しついた……気がする。

けれど、やたら疲れて仕方がない。
いちいち、静かな暴言で尊厳を削られると、そうなってしまうのだろう。

さしずめ、今の和はブラック企業の社畜のようなものだ、と自分では思っている。
どうせ、こんな感想を言えば、寿一に「お前はブラック企業で働いても一日も持たないし、ブラック企業の社畜に失礼だから他所で言うなよ」と言われるだけだ。

想像したら腹が立ってきた。
寿一が寝ていた箇所に触れれば、冷えた感触が指先に伝ってくる。
だいぶ前に出て行ったらしい。

時計を見ると、時刻は朝の八時だ。
そろそろ帰ってきて、朝食の準備でもしてくんないかな、と思う。

自分でもだいぶ絆されてしまったような気がしているのだ。
初めは貯金して、すぐにでも出ていこうと思っていた。
初日に渡された五万。それプラス、持っていた十二万。
合わせて十七万があり、翌月も合わせれば二十二万だ。

そのうえ、寿一が和の借金もきれいさっぱり支払い、約束通り国保も年金も払った。
和は今、身綺麗な状態だった。

だからと言って、すぐに家を探すのも無理がある。
借金ちゃら、と言っても審査に通るわけではないのだ。
だからこそ、ゆっくりと審査なしで貸してくれる不動産屋を探しつつ、家具家電を買いそろえられる金額が貯まるまでここにいようかな、と思っただけだ。

完璧な予定だった。
なのに、今の和の懐にはなぜか一銭もないのだ。

そのせいで、この三か月、身の危険を感じながらずっと寿一と同じベッドで眠っている。

寿一は和の部屋を用意していた。
それも、モデルルーム並みの居心地のよさげな部屋を。

パソコンも、ゲーム機も、読書するために楽なソファも、昼寝に丁度よさげなラグやクッション、タオルケットまで用意されていた。
けれど、おかしなことにベッドがないのだ。

まさかと思い訊ねると、不思議そうに、

「恋人同士は同じベッドで寝るだろ?」

ということだった。
同じベッドを使うカップルもいるが、使わないカップルだっている。
そう言ったところで、恋人なんていたことないくせに、と一蹴されてしまった。

ホテルに行った男のことは寿一の中では「恋人」枠に入っていないようだった。
蒸し返してやろうと思ったが、実態のある寿一を煽って実力行使に出られたら和の腕力じゃ敵わない。
勝てない戦はしない主義だ。
くそ、縮めよ。忌々しい。

心の中で毒づいていると、玄関から音が聞こえてくる。
間延びした声で「ただいまぁ~。起きてないだろうけどぉ~」と。

起きてんだよ!
寝ててもこいつは俺を貶すのか!

今更ながらにイラっとした。
和の眉間にしわが刻まれ、ふて寝しようかと迷った瞬間、寝室の扉が開き、ひょいっと寿一が顔を出す。

「あれ、起きてたんだ。珍し。お腹空いたのか?」

「……飯」

ぶすくれた声でそう言えば、寿一がにっこりと満面の笑みを浮かべる。

「今日は、近所の喫茶店にモーニングに行こう。ちょっと、待っててな。汗臭いから風呂入ってくる」

喫茶店のモーニングには惹かれるが、和は今まさに腹が減っているのだ。
寿一が汗臭いのなんて知ったこっちゃないから、早く行きたかった。

「待ってる間に着替えてたらすぐだろ。おれの風呂より、お前の準備の方がだらだらしてるから長い」

こいつは、本当にッッ!

和の苛立ちを面白がるように寿一の口元は弧を描いている。
ぎゃふん、と言わせてやろうと和はすぐさまベッドから抜け出し、自室のクローゼットを漁る。
多分、高級であろう寝衣をその辺に脱ぎ捨てて、チェストを上から順に開けていく。

「…………」

おしゃれに疎い和は寿一のファッションセンスが分からない。
寿一の、というより世間の。

Tシャツにジーンズが一番簡単なのに、どうしてそういうものはないのだろうか。
重ね着、着崩し、合わせ方、そういう知識が必要な服が多すぎる。

やる気が失せた和はふかふかのラグの上に寝転んで、天井を見上げる。
今日も、もう既に疲れた。

◇◆

ふわふわとした酔いが眠気と回り、このまま眠ってしまえばすこぶる気持ちがいいのだろうな、そう思った。
和はボケっとテレビから流れている、少し前に流行った映画を見る。

寿一も見てはいるが、あまりにも笑いのツボも感動のツボも違いすぎて、隣から漏れ出る声が邪魔でしかない。
なぜ、ヒロインが別れで号泣している場面で笑っているのかが不思議だ。

きっと、感動の場面だったはずなのだ。
隣からの不快な笑いに耳を傾けながら、酒を煽る。

しかし、氷が唇に当たるだ。
空になってしまったらしいグラスを寿一に渡す。

「えぇ~。そろそろ、やめとけよ。また明日の朝、地獄を見るぞ」

「飲む……。アルコール少なくすんなよ」

馬鹿舌の和でもアルコールを減らされたら分かるのだ。
寿一は呆れたように自分のグラスと和のグラスをキッチンに運び、最後だからな、と言いながら酒を作る。

戻ってきた寿一の手にはみかん酒とチョコレート菓子が握られており、和はそれを奪い取った。
和の態度に寿一は腹を立てることもなく、静かに笑って、映画の続きを見る。
その空気が和には居心地が悪くて仕方がない。

寿一が何も言わなければ、他人が比較しなければ、こんなにも二人の間に流れる空気は穏やかなのに。
この空気自体は嫌いではないのだ。
普通の友人のような距離感で、普通の幼馴染のように健全な感情を持ち合えていたのなら、きっと素晴らしい友人になれただろうに。

どうしてこんなにも歪んだんだろう。
どうしてこんなにも、憎いんだろう。

全部、寿一が完璧人間だったせいに他ならない。
こんな妄想は、この二十一年で何度したのか、もう分からない。

ちびちびと酒を飲みながら、チョコレート菓子を口の中で溶かす。
みかんの酸味と、チョコレートの甘さが口の中で混じって、食欲が増してしまう。
だが、チョコレートはもうなかった。

「おい、チョコ……」

そう言って、寿一の方へと視線を向けると、寿一は和を見ていた。
寿一の視線がテレビへと向き、まるで見てみ? と言わんばかりの仕草に自然と和の視線がそちらへと向く。

酒とチョコレートに集中していたせいで気づかなかったが、映画は一番の盛り上がりを見せているところだった。

「もうさぁ、ここまで来るとストーリー仕立てのAVですって銘打った方がよくないか?」

呆れたような、観察しているかのような寿一の温度。
画面の向こうは薄暗く、二つの影が絡まりあって、スピーカーからは乱れる呼吸音と布切れの音が聞こえる。
AVならぬる過ぎるが、一般映画にしては濃すぎるだろう。

だが、酒を飲んでいる場合ではなかったな、と脳内警報が鳴る。
さっきで終わりにして、歯を磨いて寝ればよかった。

「……俺、寝る。ほら、酒の残りやる」

じりじりと迫ってくる寿一にグラスを手渡して、ソファの端に寄りながら、足に力を入れる。
立ち上がろうとした瞬間、グラスを持っていない方の手が肘置きを掴み、和の行動を制した。
ソファと寿一に囲われるような和は酒でぽやっとしてしまった思考を必死に回す。
自分の危機管理能力の低さに地団駄を踏みたい気分だ。

「か~ず」

楽しそうな寿一の声。
和の焦りを見て面白がっているようだ。
このために三か月、何も手を出してこなかったのだろうと思うとはらわたが煮え繰り返りそうだ。

和の危機管理能力はないが、寿一がそう仕向けたのだから、やっぱり和は悪くない。

視線を逸らして、この状況の打開策を必死で考えていると、寿一の指先が和の頬にかかる。
そして――。

「……んぅっ!」

唇が重なったというより、食べられた、と言ったほうが正しい。
食まれて、啄まれて、歯を立てられる。

痛みと、生々しい他人の口の感触に背筋に悪寒が走る。
ダメなのだ。
汚部屋でも何不自由なく過ごせるし、風呂に入ってなくても生きていける。
けれど、他人の粘膜の感触がダメだった。

「はっ、……っ、やめ……ッ」

抗議の声を上げれば、その一瞬のすきに唇を割って、舌が入り込んでくる。
和の舌を絡めとって、吸い上げて、なぞって。
ゾワリとした感覚が背筋を駆けていき、生理的な涙が目尻に溜まる。

寿一に体重を掛けられ、和にはどうすることも出来ない。
和の身長があと十センチ大きければ、体重が二十キロ多ければ、まだ対抗できただろうに。

和だって小さくはない。
ただ、寿一がデカいのだ。

せめてもの仕返しに思いっきり、蹴るが酔いで力の入ってない足には攻撃力がなかった。

「和、……か~ず」

キスの合間に名前を呼ばれ、頬を撫でられ、うっすらと開けた視界の先にうっとりとしたような寿一の瞳を見て、なぜだか無性に泣きたくなった。

「ね、……キスって気持ちいいんだね」

ちゅっと音を立てて離れていく寿一。
その表情はこれ以上ないほど幸福そうだった。

「かず、もっとしていい?」

そう問うくせに、和の返事も待たずに再び唇は塞がれ、完全にソファに押し倒される構図になってしまう。
いつの間にかテーブルに置かれたみかん酒のグラスが恨めしそうに結露した水滴でテーブルを濡らしている。

舌を絡めて、口蓋を舐め上げ、和の舌を食む。
徐々に嫌悪感とは違うものが和の思考を覆っているような気がした。

「和、口開けて」

「んぁ……、」

何の疑問も湧かずに、寿一の言葉に従う。
和は自分の手が、寿一の背に回されていることも分かっていなかった。

寿一が和の舌先に自身のものを絡め、自分の唾液を飲ませてくる。
不快なのに、気持ち悪いはずなのに、和の頭を占めているのは快楽だった。

キスは嫌いなのに、気持ちがいい。
自分の欲は薄いのだと思っていた。
だからこそ、女には勃たないし、男相手だって逃げた。
AVは疲れそうだな、という感想が先行して、見ることすらしんどくなって。

自分は性というものと相性が悪いのだと思っていたのに。

屈辱でしかない。
何でこんなに、こいつだけは違うのか。

自分は女がだめだから、男、男もダメだから欲が薄いのだと、距離を取ってきた。
和だって男だ。周囲が猥談で盛り上がれば、気になってしまう。
セックスは気持ちいいのだと言われれば、してみたくなる。

けれど、自慰もそこまで気持ちよくはないし、人ありきはもっとダメ。
省エネのような顔をして生きてきたけれど、自分の欠落に心底がっかりしていた。

それなのに、寿一は和のことがずっと好きだと、人生設計に入ってるのだと言っておきながら、こんなキスをする。
不愉快だ。

何が「気持ちいいね」だ。
馬鹿にしやがって。

悔しい、憎い、惨めだ。
生理的な涙とは別に、和の瞳からぽろぽろと零れていく。
それすらも屈辱だった。

寿一が、誰かとこういうことをできる人間だと思い知って、けれど、それは当たり前なのだと理解して――悔しい。

「か~ず、……なんで泣いてるんだ? 気持ち良すぎる? 和って、気持ちいいと泣いちゃう?」

アホな方向に解釈する寿一に軽く救われながら、けれど、今日はもうこれ以上来られたらしんどすぎると思った。

酒も入って、そういうムードになって、キスをして、今だって和の腿には寿一のそれが当たっている。

けれど、これ以上はむりだ。
男とできるできない以前に、和のメンタルがもたない。

恋人だと承諾したわけじゃない。
三か月、恋人のように甘やかされて暮らしたが、和にその気はないのだ。

なら、断っても、拒絶してもいいはずだ。
それは女々しいわけでも、和が弱いわけでも、情けないわけでもない。

けれど、和の胸中は進めたくない、と拒絶することへの屈辱が入り混じっていた。
吐きそうだ。

「……和、明日はさぁ、近所にな、パン屋が出来たんだ。八時から開いてるとこ。そこイートインできるから、早起きしろよ」

「……っ、は?」

はらはらと未だに流れ続ける涙は止まらない。

「メロンパンが美味しいらしいからさ。メロンパンなんて、コンビニとか、スーパーの物しか食べてないだろ? これからは美味しいの食べよう。メロンパン、好物だったろ?」

「……ひとこと、よけいなんだよ」

寿一が、和の気持ちなんて曲解しかしない寿一が、話題を逸らして、空気を換えた。
その事実に驚き、和は奥歯を噛みしめ、嗚咽を殺す。

「寝よ」

そう言って、和の唇の端にリップ音を立ててキスをする。
その時の笑顔に、出会ったばかりの四歳の寿一が重なった。

和の上からどいてソファから立ち上がる寿一が和の手を引いて、寝室へと向かう。
この日初めて、和は寿一から気遣いというものを感じた。

そして、やっぱり思うのだ。
比較されてこなければ、きちんと寿一のように愛されて育っていれば、真っ直ぐに寿一を好きになれたのだろうか、と。

友人でもいいし、それこそ周囲が思っていたように親友でもいい。
けれど、寿一が和をそういう意味で好きなように、和だってどれほど捻じれていようが、これは「恋」なのだ、と定義づけている。

その捻じれが苦しかった。
きちんと、愛せる寿一と、愛すらも「きちんと」できない和。

このすべてにおいて、対比になる構図がどうしても惨めで、屈辱で、恋の証明だったのだ。