心地よい空気が和の頬を撫でた。
嗅ぎ慣れない独特な匂いが鼻腔を通り抜け、和はうっすらと覚醒する。
腕と足を動かせば、肌に当たるサラリとしたシーツにここが自室ではないことを悟った。
どこだろうか。
重いまぶたをこじ開け、太陽光の明るさに負けながらも、どうにかこうにか周囲を見渡す。
「……え」
多分、ここは病院ではないだろうか。
現に和の腕には管が繋がれ、ベッド脇には点滴スタンドがあった。
初めて点滴に繋がれたな、なんて変な感動を覚えつつ、これからどうするべきかが脳内会議に掛けられる。
寝起きだろうが何だろうが、これは由々しき事態だった。
金がないのだ。
いや、十二万あるはずだが、あれは使いたくない。
その前に、足りるのか?
国保には入っていない。全額負担だ。
逃げるか……、しれっと抜け出そう。
勝手に連れてきた奴が悪い。
俺に金はない。
和は慎重に腕から点滴の針を抜いて、ベッドを抜け出す。
足にあまり力がはいらないが、そのうち慣れるだろう。
病室のどこを見ても、どこを開けても、自分のものと思われる荷物はないため、足音を立てずに扉へと向かえば――。
ガラリ、と勢いよく病室の扉が開く。
そこに立っていたのは――寿一だった。
「は……? ……は、え? え? ……っ、はぁ!?」
太陽の光が透ける体ではない、発光もしてない、生身の人間。
和は開いた口がふさがらない。
一体、いつから夢を見ていたのだろうか。
寿一が死んだなんて夢だったのだろうか。
「和、なんで点滴とったんだよ。お前、やっぱりバカだろ」
混乱する和を他所に、目の前の男は呆れた面持ちでそう言って、和をひょいっと持ち上げると、適当にベッドへと放り、ナースコールを押す。
あまりの言い草と、扱いに普段の和なら不機嫌一直線だったが、混乱が勝ち、開いた口からは空気が零れるだけだった。
聞きたいことは山ほどあった。
生きてたのか、とか。
夢だったのか、とか。
何で病院にいるのか、とか。
俺の十二万円はどうしたのか、とか。
もちろん、ここの支払いはお前だよな、とか。
だが、あれよあれよという間に病室には看護師がやってきて、点滴を抜いたことを怒られ、医師にも栄養失調状態のことや生活習慣についてチクチクと言われた。
だって、しょうがないじゃないか。
栄養のあるものは高いのだ。自炊は一人暮らし、ひいては男の一人暮らしなど、無視を割高になってしまうし、食材は腐る。
そして、和は社会への適性がないのだ。
胸の中で毒づきながら、言われていることを右から左に聞き流す。
和の背後では寿一が腕を組みながら、医師や看護師の話を聞いていた。
なぜ、お前がそこに居る。
病室から出ていけ。
そもそも、家族以外は出ていくのが普通ではないのか。
正直、右から左へと流さずとも和の注意はすべて寿一に向かっており、なにも頭に入っていかない。
医師と看護師が退室したのち、不穏な沈黙が病室へと流れる。
いつ逃げ出そうか、そればかり考えるが、病室を出るには寿一を越えねばならない。
仁王立ちしている自分よりも体格のいい男を超えていくには今の和は体力がなさ過ぎる。
「目が覚めたら退院していいって言われてるから、早く着替えてよ」
急にそんなことを言われ、和は理解が追い付かない。
先ほど、逃げようとした際に病室を漁ったが、何もなかったはずだ。
「着替えさせてほしいのか?」
「は?」
いたずらっぽくそう言われ、和は反射的にイラっとしてしまう。
「命の恩人に向かって、その口のきき方はどうなんだ? おれがいなけりゃ、お前、干からびて死んでたのに」
もうちょっと優しくしてくれよなぁ~、と宣い、無遠慮にベッドに腰掛けてくる。
「おれさ、二週間まえくらいに交通事故にあったらしくて」
「は」
どこからどう見ても無傷で健康そうである。
寿一の頭からつま先までを、どんなに目を凝らして見ても包帯も絆創膏も何もない。
「運よく無傷でさ、けど意識だけは戻らなかったんだと~。で、その間、おれは幽体離脱して、和に会ってたんだけど……。あれって、おれの夢?」
「……は?」
理解が追い付かなかった。
交通事故に遭って、無傷というのがまた寿一らしい運の良さだな、とイラつくし、意識がない間に幽体離脱……? つまり、死んでなかったということだ。
つまり、つまり、……和は騙されたのだ。
騙されて、あんなにみっともなく騒いで、本心をぶちまけて――死のう。
いや、殺そう。
「夢じゃないよな。だって、おれと会うの七年ぶりのはずなのに、和が怒鳴らない」
「……怒鳴られる心当たりでもあんのかよ」
「んふふ、おれのすることは中途半端なんだっけ?」
にんまりと笑ったかと思えば、そんなことを言った。
「金がなくても覚悟決めろよ――だっけ? おれがお前を放置してたのが気にくわなかったんだもんなぁ」
うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ~~~~~~~~!!
最悪だ! 最悪だ!
覚えてやがる!
夢じゃない!
あの最悪な幽霊は本当にこいつだったのか!
「それに、夢じゃなかったから和に会いに行けた。お前のことは大抵知ってるけど、家の場所は知らなかったんだ」
迎えに行くときは探偵でも使おうと思ってたんだよ、なんて怖いことを言っているが、今の和には何も聞こえない。
羞恥と戦うことで精一杯である。
死んだと思ったから、口から零れただけなのに。
生きていたなんて、なんていう裏切りなんだ。
「お前の家を知ってたら、準備も出来てないのに会いに行きそうだったから、知らないままでいたんだ。けど、幽霊になって、これ以上お前を野放しにしてたら死ぬなって思った」
野放しってなんだよ。
ベッドのシーツを睨むことしか出来ない。
「目が覚めて、何の異常もなかったからすぐに退院できたんだ。で、幽霊だった時の視覚情報を頼りにお前の家を見つけて、中に入ったら――あ、お前、鍵かけろよな。不用心だ」
いちいち注意を挟んでくるのはなんなんだ。
腹が立ってしょうがない。そんなこと、寿一に言われることでもない。
ベッドに寿一が腰掛けたことにより、二人の距離が近くなり、その近さに触れ合ってもいないというのに体温がじんわりと感じられる。
和は人との間のその感覚が嫌いだった。
だというのに、寿一相手には何も感じないから嫌なのだ。
安心も感じないが。
「中に入ったら、もうサウナ状態でさ、布団の上で和が干からびてたから救急車呼んだ。あの時、本当に怖かったんだぞ。せっかく、おれが生きてるのに、お前が死ぬとか……何のために生きてるんだろうって思った。きっと……、和は生まれ変わっても、おれに会いに来てくれないから」
そう自嘲気味に笑う寿一に和は視線を上げた。
眉を八の字に下げ、情けなく笑う寿一の表情に先ほどまでのささくれていた気持ちは少しだけ和らいだ。
「だから、おれがしつこくするしかないだろ? 和は恋愛初心者だからな。好きだと思ってても、自分から行けないんだ。むしろ、こうやって悪態つくことしか出来ないからなぁ」
だが、いつもの余裕そうな表情に切り替わり、速攻でバカにしてくる。
すぐそこに感じてしまう寿一の体温にムズムズし、和はベッドの反対側に寄った。
「和。ほら、早く着替えて帰ろう」
寿一が持っていた鞄から服を取り出し、渡してくる。
新しそうなそれは、洗濯されており、サイズは和に丁度よさげだった。
「救急車を待ってる間に一応、入院に必要そうなものを探したんだ。けど……、ぼろ布みたいな服しかなかったから、買ってきた」
「はぁ? ボロくねぇよ! ふざけんな! 人の持ち物を否定ばっかしやがって!」
「いや、ボロいでしょ。襟のところなんて、よれよれだし、色も褪せてる。ジーンズなんて裾が擦り切れちゃってるじゃん。ボロだ、ボロ」
あんまりな言い分に腹が立つ。
あれらは、衣類に金を使いたくない和が涙を呑んで買った物たちだ。
末永く活躍してもらおうと思っている物なのに、こんなに貶されていいわけがない。
「だから、そういう所がモラハラだって言ってんだよ! ボロ、ボロ、ボロってうっせぇな! ほっとけ」
「モラハラってさぁ、事実じゃん。和は事実言われて拗ねてるだけでしょ? すぐハラスメントにしないよ」
「マジでむかつく! さっさと入院費用払って消えろ!」
こういうやつが平気な顔してハラスメントするんだ。
お前こそ、社会に出るな。会社が迷惑する。
「え、おれがいなくなったら、和はどこに帰るの? 家の場所分かる?」
「は?」
気分を害すでもなく、キョトン、としたようにそう言われ、和には意味が分からない。
「だって、お前の家、引き払っておいたよ?」
「…………はぁ!?」
「あんな、夏は暑くて冬は寒そうな場所よくないって。しかも、和はおれにお前のために苦労してほしいんだろ? ってことはさ、一緒に住みたかったってことじゃん」
「曲解だ! ふざけんなよ! 夏は暑くても外にいればいいんだ! 冬は我慢できる! 家賃が安かったんだぞ! それをお前!」
「どうせ、取り壊しが決まってたんだからいいじゃん。必要そうなものはおれがまとめたし、今日にでも業者が入って清掃してくれるから、お前は何にもしなくていいよ」
開いた口からは、もはや怒りが強すぎて何も出てこない。
これから一体どうするのだ。
和は自分が家を探せるだなんて思っていない。
収入はないに等しい、滞納歴は真っ黒、保証人もいない。
こんなんで、部屋を貸してくれるところがどこにある。
「ほら、着替えろよ。帰ろ」
満面の笑みの寿一に和はもう、毒づく元気も残っていない。
おかしい、たくさん寝ていたはずなのに。
「……帰るってどこにだよ。俺にはあそこ以外帰るところないのに」
実家だって、葬式にも出なくていいって言われてるのに。
友達すらいない和には行ける場所などどこにもない。
「は? 一緒に住みたかったんだろ? 一緒に住む以外、あるか?」
「お前と住むとか無理。お前と住んだら、絶対に精神がやられる。無理。嫌だ。死にたくなる」
「大袈裟だなぁ。和が弱すぎるんだ。おれ以上にお前に優しいやつなんているか? 高層マンションで三食昼寝付き、毎月お小遣い五万円、家事も何もしなくていいし、そこに居てくれるだけでいい。和は何もしなくていいよ。ほら、おれって和に世界一優しい」
「……小遣い五万」
「そう。これは和が和のために使っていいお金。食費も、生活必需品も全部、おれの負担。これからは金の心配しなくていいよ。和のために国保だって払ってやるし、年金だって払ってやる。今までの免除分も払う。どう? いい条件じゃないか?」
条件だけ聞けば、良すぎる。
女のヒモになる以上に簡単だった。
「……お前に何のメリットがあんだよ」
「メリット?」
和の質問の意図が全く分かりません、というような表情をし、寿一が馬鹿にしたように鼻で笑った。
「お前がそこに居るだけで、おれはいいって何回言えばわかるんだ? 和をヒモにし損ねた女と一緒にしないでくんない?」
本気で腹を立てたような色の声。
だが、ヒモにし損ねるってなんだ。なり損ねるならわかるが。
「おれはお前に何かしてもらおうと思ったことなんてない。お前はどうせ、自分のためにしか動かないのに。求めたって無駄だろ? だから、おれが全部するんだ。和としたいことは、おれが動けばいいだろ?」
「……その言葉がどれだけ俺を馬鹿にしてるのか分かってんのか? 無意識か? 頭見てもらえよ、このモラハラが」
「はぁ、モラハラ、モラハラってほんとうるさいな。だから、働けないんだよ」
すべてを和の精神力のなさに紐づけてくるが、これはそういう話だろうか。
寿一のモラハラ思想の話のはずだ。
「ほら、早く着替えろよ。それとも、お前の十二万を使って支払うか? 色々、検査もしてたし、入院も合計三日。どのくらいかかるんだろうなぁ」
「……マジで、お前なんか嫌いだ」
「はいはい。ほら、早く」
そう言って、寿一が和の病衣を脱がそうと手を伸ばしてくる。
その手を寸でのところで掴み、寿一を睨みつければ、何が悪いのかと言うように半眼で見つめられる。
「ちんたらしてる和が悪いのにさ。あ~あ、おれって可哀想」
「着替えるから、さっさと出ていけ」
「出て行ったら、和逃げるじゃん」
「仕切りカーテンの後ろにでもいればいいだろ」
結局、寿一の思うがままだ。
勝ち誇ったように笑う寿一が持っていた鞄をそのまま和に渡してくる。
中身を見れば、半袖のインナーシャツ、靴下、新品の靴が入っていた。
用意周到過ぎて、顔が引きつるのが分かる。
げんなりした気持ちのまま、病衣を脱いでそれらを身に着ける。
ちょうど全部が終わったと同時にカーテンが開き、寿一が和にキャップを被せた。
「体は拭いてたけど、風呂には入ってないだろ? 髪がべたついてるから、被ってな」
そう言えば、あの雨の日から風呂に入っていない。
つまり、五日は風呂に入っていないことになる。
「家に着いたら、すぐ風呂沸かすから入れよ。おれは、色々やることあるから少し出るけど」
「……逃げるかもな」
「大丈夫だ。逃げても、探すからな」
さわやかな笑顔で寿一が言う。
和はもう、何も言う事は出来なかった。
◆◇
入院費用を寿一に支払わせ、辿り着いた先は二年前に建ったばかりの高級マンションだった。
金のなかった和が日雇いで工事中の警備員として何度か入ったことがある。
汗水たらして和が働いた場所に寿一が住んでいるのだと思うと面白くなかった。
三階までが商業施設になっているそこは、五階からが住居スペースで、十三階建てのマンションだ。
寿一の部屋は八階にあり、そういえば、昔から「八」という数字が好きだったな、と思い出す。
商業施設の上にあるマンション。
どんな感じなのだろうか、と興味があったが、自分とは縁がないと思っていたため、パンフレットも見たことがなかった。
実際に中に入れば、寿一の買った部屋は3LDKの間取りの角部屋だった。
広々とした対面キッチンと広めのリビング。
家具ですら高級そうで、ソファなんてお昼寝に最高な心地よさだ。
トイレも、風呂も、和の住んでいたアパートの物とは比べ物にならない綺麗さで、格差を見せつけられた気分だった。
そんな和は今、約五日分の垢を流していた。
三回洗ってようやく泡立つ髪と二回でようやくさっぱりした体。
そんな体を湯船に沈め、これからどうするかを考える。
どうやって逃げるか。
寿一と生活を共にするなんて、ごめんだった。
この短時間でどれだけの暴言を浴びたか。
けれど、逃げたとして、どこで生活をするのだろうか。
家はもうない。
スマホもきっと、寿一が持っている。
どうやって逃げればいいのだろうか。
白く色のついたお湯に顔を半分付けながら、ぶくぶくと子供のように遊ぶ。
こんなことはいつぶりだろうか。
実家にいた時――小学校低学年の頃が最後だ。
徐々に眠気が目元を覆う。
広い浴室はバスタブもデカくて、うっかり眠ってしまえば水没しそうだ。
水死体になるのは嫌だな、そう思い、和は引き上げることにする。
脱衣所に出れば、いつの間にか準備されているバスタオルや衣類。
スキンケアセットまでおかれており、せっかく温まった気持ちも冷めていく。
若干、不貞腐れた気持ちを抱えてリビングに戻ると、出て行ったはずの寿一がそこに居た。
「あ、さっぱりした? 長かったな。二時間は入ってたぞ?」
ソファの上で、パソコンを膝に乗せ、優雅にコーヒーを飲んでいる寿一は妙に様になっており、反射的にイラついてしまう。
「和のアパートに行って、清掃後の確認してきた。あと、いりそうなものが本当にないか確認したけど、なかったと思う。全部ゴミ」
一言多いのだ。
最後の、全部ゴミ、の言葉がなければ、ありがとう、と素直に言えるのに。
……いや、寿一にお礼なんて死んでも言わない。
「必要そうなものは和の部屋に置いてあるから、確認して。てか、ちゃんと化粧水塗ったか? 合わないやつだった?」
パソコンを置き、部屋の入り口から動かない和に大股で近寄ってくる。
水が滴る髪、濡れる肩口、すでにかさついた肌。
一瞬で和の状態をみて、寿一がはぁ~、と長い溜息を吐いて部屋を出て行き、すぐに戻ってきた。
手にはドライヤーと和が触りもしなかったスキンケアセット。
寿一は和の手を無理矢理引いて、ラグの上に座らせると、おもむろに化粧水を自分の手に取り、和の顔に塗ったくってくる。
遠慮もなく顔に触れられて、腹立たしい。だが、あまりにも拘束力が強すぎて和にはどうにもできない。
化粧水、保湿クリームを乱暴に丁寧に塗られ、ドライヤーで髪を乾かされる。
女のヒモになり損ねた時の記憶がよみがえり、あの時の女は和にこれをしてほしかったのだと、今ようやく理解した。
「まぁ、よく考えたら、この化粧水とかが和に合うか合わないかなんて、和に分かるわけないよな。和に手を出せる価格帯じゃないし」
「……いちいち馬鹿にしてくるのやめてくんない? 腹立つ。ストレスで早死にしそう」
「ほんと、繊細だな。事実は事実として受け入れろよ」
そういう事ではない。
いくら、事実だからと言って、馬鹿にされていい気がする人間は少数だ。
和はその少数派ではない。
「で、どうする? 月五万の小遣いと、このマンションでのおれとの生活。それでいいだろ?」
寿一の言葉に和は少し驚いたが、すぐにそうでもないと気づく。
和は寿一が自分に選択肢を差し出していることに驚いたのだが、住むか、住まないか、の二択のように見えるが、実際は一択しかない。
だって、和にはいくところがないのだから。
「……いつか出てってやる」
「はいはい。頑張れよ」
快適さに負けたわけではない。
ただ、この間のことを思いだしたのだ。
寿一との苦労は和にとっての労働に値する。
そう。和はこれから労働をするのだ。
寿一によって、自分が傷つけられるかわりに住む場所と金を得るのだ。
これは立派な労働である。
「あ、和?」
「……あ?」
不機嫌を隠さない声で、そう振りむけば、寿一の顔がすぐそこにあり、驚きすぎて目と閉じた。
ふと感じる、唇に当たる柔らかい何かに二度目の驚き、体を支えていた腕が滑り、後ろに倒れる。
受け身も取らずに倒れた和は後頭部をフローリングに強かにぶつけ、痛みに悶えるたが、寿一はそれを見て爆笑だった。
「ふっ、ふふふ、ふはっ! 和って、やっぱり運動神経も良くないから、こういう時にダメだよなぁ~」
あまりにも痛くて床で丸くなってる和を見下ろしながら、寿一が和を引っ張り上げる。
寿一の脚の間に収まっているようなムカつく態勢と距離ではあるが、痛みでそれどころではない。
「あ~、笑った~。大丈夫? あ、たんこぶ出来てるじゃん」
頭を押さえる和の手をほどき、寿一が優しくそこに触れて、笑いながらも、労わるように言う。
こいつは誰だ。
「氷枕あるし、冷やしとこうか。ほら、ここに横になれよ」
すぐそこにあるソファをぽんぽんと叩き、寿一が冷蔵庫へと向かう。
寿一が離れたことで、和に正常な思考が戻ってきた、絶句するしかない。
あいつは、今何をしたか?
「はぁ~~~~~~~~!?」
すべてを理解し、和は叫んだ。
叫ばずにはいられなかった。
「和、うるさい」
原因はこれである。
どこに感情を持っていけばいいのかが不明だ。
感情労働とはそう言う事なのか!
氷枕にタオルを巻きつけ、ソファに置き、和を横にならせる寿一はやはりてきぱきとしており、腹が立つ。
和は寿一といると腹が立ち、苛立つことしかない。
傷ついて、悲しくなるという段階は中学の頃で終っている。
それでも、こいつといると疲れるのだ。
負の感情が動きすぎて、ストレスが半端ない。
だと言うのに、
「ははっ、ようやく和にキスできたや」
なんて馬鹿げたことを、頬を染めて言っているのだ。
げんなりどころか、身の危険しか感じない。
「これからは、恋人でよろしくね」
「寝言は寝て言え」
女のヒモにはなれなかったが、つまり寿一のヒモになったということだ。
つまりつまり、……え、むり。
「か~ず、どうせおれのことが好きならいいじゃん。な?」
「よくねぇよ。好きじゃねぇよ」
和の悪態も右から左の寿一。
病み上がりの和にはキャパオーバーだ。
心地よいソファと後頭部のひんやりとした感触、目元を覆う寿一の手のひらの温かさ。
すべてが和を眠りの世界に導いていく。
現実逃避。
和の得意技が今、和を苦しめる。
寝てはいけない、そう思うのに、体は言う事を聞かなかった。
流石に寝込みを襲うことはしないだろう。
寿一の倫理観に一縷の願いを託して、和は意識を手放した。
嫌いな相手に願うなんて滑稽だな、そう思いながら。
嗅ぎ慣れない独特な匂いが鼻腔を通り抜け、和はうっすらと覚醒する。
腕と足を動かせば、肌に当たるサラリとしたシーツにここが自室ではないことを悟った。
どこだろうか。
重いまぶたをこじ開け、太陽光の明るさに負けながらも、どうにかこうにか周囲を見渡す。
「……え」
多分、ここは病院ではないだろうか。
現に和の腕には管が繋がれ、ベッド脇には点滴スタンドがあった。
初めて点滴に繋がれたな、なんて変な感動を覚えつつ、これからどうするべきかが脳内会議に掛けられる。
寝起きだろうが何だろうが、これは由々しき事態だった。
金がないのだ。
いや、十二万あるはずだが、あれは使いたくない。
その前に、足りるのか?
国保には入っていない。全額負担だ。
逃げるか……、しれっと抜け出そう。
勝手に連れてきた奴が悪い。
俺に金はない。
和は慎重に腕から点滴の針を抜いて、ベッドを抜け出す。
足にあまり力がはいらないが、そのうち慣れるだろう。
病室のどこを見ても、どこを開けても、自分のものと思われる荷物はないため、足音を立てずに扉へと向かえば――。
ガラリ、と勢いよく病室の扉が開く。
そこに立っていたのは――寿一だった。
「は……? ……は、え? え? ……っ、はぁ!?」
太陽の光が透ける体ではない、発光もしてない、生身の人間。
和は開いた口がふさがらない。
一体、いつから夢を見ていたのだろうか。
寿一が死んだなんて夢だったのだろうか。
「和、なんで点滴とったんだよ。お前、やっぱりバカだろ」
混乱する和を他所に、目の前の男は呆れた面持ちでそう言って、和をひょいっと持ち上げると、適当にベッドへと放り、ナースコールを押す。
あまりの言い草と、扱いに普段の和なら不機嫌一直線だったが、混乱が勝ち、開いた口からは空気が零れるだけだった。
聞きたいことは山ほどあった。
生きてたのか、とか。
夢だったのか、とか。
何で病院にいるのか、とか。
俺の十二万円はどうしたのか、とか。
もちろん、ここの支払いはお前だよな、とか。
だが、あれよあれよという間に病室には看護師がやってきて、点滴を抜いたことを怒られ、医師にも栄養失調状態のことや生活習慣についてチクチクと言われた。
だって、しょうがないじゃないか。
栄養のあるものは高いのだ。自炊は一人暮らし、ひいては男の一人暮らしなど、無視を割高になってしまうし、食材は腐る。
そして、和は社会への適性がないのだ。
胸の中で毒づきながら、言われていることを右から左に聞き流す。
和の背後では寿一が腕を組みながら、医師や看護師の話を聞いていた。
なぜ、お前がそこに居る。
病室から出ていけ。
そもそも、家族以外は出ていくのが普通ではないのか。
正直、右から左へと流さずとも和の注意はすべて寿一に向かっており、なにも頭に入っていかない。
医師と看護師が退室したのち、不穏な沈黙が病室へと流れる。
いつ逃げ出そうか、そればかり考えるが、病室を出るには寿一を越えねばならない。
仁王立ちしている自分よりも体格のいい男を超えていくには今の和は体力がなさ過ぎる。
「目が覚めたら退院していいって言われてるから、早く着替えてよ」
急にそんなことを言われ、和は理解が追い付かない。
先ほど、逃げようとした際に病室を漁ったが、何もなかったはずだ。
「着替えさせてほしいのか?」
「は?」
いたずらっぽくそう言われ、和は反射的にイラっとしてしまう。
「命の恩人に向かって、その口のきき方はどうなんだ? おれがいなけりゃ、お前、干からびて死んでたのに」
もうちょっと優しくしてくれよなぁ~、と宣い、無遠慮にベッドに腰掛けてくる。
「おれさ、二週間まえくらいに交通事故にあったらしくて」
「は」
どこからどう見ても無傷で健康そうである。
寿一の頭からつま先までを、どんなに目を凝らして見ても包帯も絆創膏も何もない。
「運よく無傷でさ、けど意識だけは戻らなかったんだと~。で、その間、おれは幽体離脱して、和に会ってたんだけど……。あれって、おれの夢?」
「……は?」
理解が追い付かなかった。
交通事故に遭って、無傷というのがまた寿一らしい運の良さだな、とイラつくし、意識がない間に幽体離脱……? つまり、死んでなかったということだ。
つまり、つまり、……和は騙されたのだ。
騙されて、あんなにみっともなく騒いで、本心をぶちまけて――死のう。
いや、殺そう。
「夢じゃないよな。だって、おれと会うの七年ぶりのはずなのに、和が怒鳴らない」
「……怒鳴られる心当たりでもあんのかよ」
「んふふ、おれのすることは中途半端なんだっけ?」
にんまりと笑ったかと思えば、そんなことを言った。
「金がなくても覚悟決めろよ――だっけ? おれがお前を放置してたのが気にくわなかったんだもんなぁ」
うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ~~~~~~~~!!
最悪だ! 最悪だ!
覚えてやがる!
夢じゃない!
あの最悪な幽霊は本当にこいつだったのか!
「それに、夢じゃなかったから和に会いに行けた。お前のことは大抵知ってるけど、家の場所は知らなかったんだ」
迎えに行くときは探偵でも使おうと思ってたんだよ、なんて怖いことを言っているが、今の和には何も聞こえない。
羞恥と戦うことで精一杯である。
死んだと思ったから、口から零れただけなのに。
生きていたなんて、なんていう裏切りなんだ。
「お前の家を知ってたら、準備も出来てないのに会いに行きそうだったから、知らないままでいたんだ。けど、幽霊になって、これ以上お前を野放しにしてたら死ぬなって思った」
野放しってなんだよ。
ベッドのシーツを睨むことしか出来ない。
「目が覚めて、何の異常もなかったからすぐに退院できたんだ。で、幽霊だった時の視覚情報を頼りにお前の家を見つけて、中に入ったら――あ、お前、鍵かけろよな。不用心だ」
いちいち注意を挟んでくるのはなんなんだ。
腹が立ってしょうがない。そんなこと、寿一に言われることでもない。
ベッドに寿一が腰掛けたことにより、二人の距離が近くなり、その近さに触れ合ってもいないというのに体温がじんわりと感じられる。
和は人との間のその感覚が嫌いだった。
だというのに、寿一相手には何も感じないから嫌なのだ。
安心も感じないが。
「中に入ったら、もうサウナ状態でさ、布団の上で和が干からびてたから救急車呼んだ。あの時、本当に怖かったんだぞ。せっかく、おれが生きてるのに、お前が死ぬとか……何のために生きてるんだろうって思った。きっと……、和は生まれ変わっても、おれに会いに来てくれないから」
そう自嘲気味に笑う寿一に和は視線を上げた。
眉を八の字に下げ、情けなく笑う寿一の表情に先ほどまでのささくれていた気持ちは少しだけ和らいだ。
「だから、おれがしつこくするしかないだろ? 和は恋愛初心者だからな。好きだと思ってても、自分から行けないんだ。むしろ、こうやって悪態つくことしか出来ないからなぁ」
だが、いつもの余裕そうな表情に切り替わり、速攻でバカにしてくる。
すぐそこに感じてしまう寿一の体温にムズムズし、和はベッドの反対側に寄った。
「和。ほら、早く着替えて帰ろう」
寿一が持っていた鞄から服を取り出し、渡してくる。
新しそうなそれは、洗濯されており、サイズは和に丁度よさげだった。
「救急車を待ってる間に一応、入院に必要そうなものを探したんだ。けど……、ぼろ布みたいな服しかなかったから、買ってきた」
「はぁ? ボロくねぇよ! ふざけんな! 人の持ち物を否定ばっかしやがって!」
「いや、ボロいでしょ。襟のところなんて、よれよれだし、色も褪せてる。ジーンズなんて裾が擦り切れちゃってるじゃん。ボロだ、ボロ」
あんまりな言い分に腹が立つ。
あれらは、衣類に金を使いたくない和が涙を呑んで買った物たちだ。
末永く活躍してもらおうと思っている物なのに、こんなに貶されていいわけがない。
「だから、そういう所がモラハラだって言ってんだよ! ボロ、ボロ、ボロってうっせぇな! ほっとけ」
「モラハラってさぁ、事実じゃん。和は事実言われて拗ねてるだけでしょ? すぐハラスメントにしないよ」
「マジでむかつく! さっさと入院費用払って消えろ!」
こういうやつが平気な顔してハラスメントするんだ。
お前こそ、社会に出るな。会社が迷惑する。
「え、おれがいなくなったら、和はどこに帰るの? 家の場所分かる?」
「は?」
気分を害すでもなく、キョトン、としたようにそう言われ、和には意味が分からない。
「だって、お前の家、引き払っておいたよ?」
「…………はぁ!?」
「あんな、夏は暑くて冬は寒そうな場所よくないって。しかも、和はおれにお前のために苦労してほしいんだろ? ってことはさ、一緒に住みたかったってことじゃん」
「曲解だ! ふざけんなよ! 夏は暑くても外にいればいいんだ! 冬は我慢できる! 家賃が安かったんだぞ! それをお前!」
「どうせ、取り壊しが決まってたんだからいいじゃん。必要そうなものはおれがまとめたし、今日にでも業者が入って清掃してくれるから、お前は何にもしなくていいよ」
開いた口からは、もはや怒りが強すぎて何も出てこない。
これから一体どうするのだ。
和は自分が家を探せるだなんて思っていない。
収入はないに等しい、滞納歴は真っ黒、保証人もいない。
こんなんで、部屋を貸してくれるところがどこにある。
「ほら、着替えろよ。帰ろ」
満面の笑みの寿一に和はもう、毒づく元気も残っていない。
おかしい、たくさん寝ていたはずなのに。
「……帰るってどこにだよ。俺にはあそこ以外帰るところないのに」
実家だって、葬式にも出なくていいって言われてるのに。
友達すらいない和には行ける場所などどこにもない。
「は? 一緒に住みたかったんだろ? 一緒に住む以外、あるか?」
「お前と住むとか無理。お前と住んだら、絶対に精神がやられる。無理。嫌だ。死にたくなる」
「大袈裟だなぁ。和が弱すぎるんだ。おれ以上にお前に優しいやつなんているか? 高層マンションで三食昼寝付き、毎月お小遣い五万円、家事も何もしなくていいし、そこに居てくれるだけでいい。和は何もしなくていいよ。ほら、おれって和に世界一優しい」
「……小遣い五万」
「そう。これは和が和のために使っていいお金。食費も、生活必需品も全部、おれの負担。これからは金の心配しなくていいよ。和のために国保だって払ってやるし、年金だって払ってやる。今までの免除分も払う。どう? いい条件じゃないか?」
条件だけ聞けば、良すぎる。
女のヒモになる以上に簡単だった。
「……お前に何のメリットがあんだよ」
「メリット?」
和の質問の意図が全く分かりません、というような表情をし、寿一が馬鹿にしたように鼻で笑った。
「お前がそこに居るだけで、おれはいいって何回言えばわかるんだ? 和をヒモにし損ねた女と一緒にしないでくんない?」
本気で腹を立てたような色の声。
だが、ヒモにし損ねるってなんだ。なり損ねるならわかるが。
「おれはお前に何かしてもらおうと思ったことなんてない。お前はどうせ、自分のためにしか動かないのに。求めたって無駄だろ? だから、おれが全部するんだ。和としたいことは、おれが動けばいいだろ?」
「……その言葉がどれだけ俺を馬鹿にしてるのか分かってんのか? 無意識か? 頭見てもらえよ、このモラハラが」
「はぁ、モラハラ、モラハラってほんとうるさいな。だから、働けないんだよ」
すべてを和の精神力のなさに紐づけてくるが、これはそういう話だろうか。
寿一のモラハラ思想の話のはずだ。
「ほら、早く着替えろよ。それとも、お前の十二万を使って支払うか? 色々、検査もしてたし、入院も合計三日。どのくらいかかるんだろうなぁ」
「……マジで、お前なんか嫌いだ」
「はいはい。ほら、早く」
そう言って、寿一が和の病衣を脱がそうと手を伸ばしてくる。
その手を寸でのところで掴み、寿一を睨みつければ、何が悪いのかと言うように半眼で見つめられる。
「ちんたらしてる和が悪いのにさ。あ~あ、おれって可哀想」
「着替えるから、さっさと出ていけ」
「出て行ったら、和逃げるじゃん」
「仕切りカーテンの後ろにでもいればいいだろ」
結局、寿一の思うがままだ。
勝ち誇ったように笑う寿一が持っていた鞄をそのまま和に渡してくる。
中身を見れば、半袖のインナーシャツ、靴下、新品の靴が入っていた。
用意周到過ぎて、顔が引きつるのが分かる。
げんなりした気持ちのまま、病衣を脱いでそれらを身に着ける。
ちょうど全部が終わったと同時にカーテンが開き、寿一が和にキャップを被せた。
「体は拭いてたけど、風呂には入ってないだろ? 髪がべたついてるから、被ってな」
そう言えば、あの雨の日から風呂に入っていない。
つまり、五日は風呂に入っていないことになる。
「家に着いたら、すぐ風呂沸かすから入れよ。おれは、色々やることあるから少し出るけど」
「……逃げるかもな」
「大丈夫だ。逃げても、探すからな」
さわやかな笑顔で寿一が言う。
和はもう、何も言う事は出来なかった。
◆◇
入院費用を寿一に支払わせ、辿り着いた先は二年前に建ったばかりの高級マンションだった。
金のなかった和が日雇いで工事中の警備員として何度か入ったことがある。
汗水たらして和が働いた場所に寿一が住んでいるのだと思うと面白くなかった。
三階までが商業施設になっているそこは、五階からが住居スペースで、十三階建てのマンションだ。
寿一の部屋は八階にあり、そういえば、昔から「八」という数字が好きだったな、と思い出す。
商業施設の上にあるマンション。
どんな感じなのだろうか、と興味があったが、自分とは縁がないと思っていたため、パンフレットも見たことがなかった。
実際に中に入れば、寿一の買った部屋は3LDKの間取りの角部屋だった。
広々とした対面キッチンと広めのリビング。
家具ですら高級そうで、ソファなんてお昼寝に最高な心地よさだ。
トイレも、風呂も、和の住んでいたアパートの物とは比べ物にならない綺麗さで、格差を見せつけられた気分だった。
そんな和は今、約五日分の垢を流していた。
三回洗ってようやく泡立つ髪と二回でようやくさっぱりした体。
そんな体を湯船に沈め、これからどうするかを考える。
どうやって逃げるか。
寿一と生活を共にするなんて、ごめんだった。
この短時間でどれだけの暴言を浴びたか。
けれど、逃げたとして、どこで生活をするのだろうか。
家はもうない。
スマホもきっと、寿一が持っている。
どうやって逃げればいいのだろうか。
白く色のついたお湯に顔を半分付けながら、ぶくぶくと子供のように遊ぶ。
こんなことはいつぶりだろうか。
実家にいた時――小学校低学年の頃が最後だ。
徐々に眠気が目元を覆う。
広い浴室はバスタブもデカくて、うっかり眠ってしまえば水没しそうだ。
水死体になるのは嫌だな、そう思い、和は引き上げることにする。
脱衣所に出れば、いつの間にか準備されているバスタオルや衣類。
スキンケアセットまでおかれており、せっかく温まった気持ちも冷めていく。
若干、不貞腐れた気持ちを抱えてリビングに戻ると、出て行ったはずの寿一がそこに居た。
「あ、さっぱりした? 長かったな。二時間は入ってたぞ?」
ソファの上で、パソコンを膝に乗せ、優雅にコーヒーを飲んでいる寿一は妙に様になっており、反射的にイラついてしまう。
「和のアパートに行って、清掃後の確認してきた。あと、いりそうなものが本当にないか確認したけど、なかったと思う。全部ゴミ」
一言多いのだ。
最後の、全部ゴミ、の言葉がなければ、ありがとう、と素直に言えるのに。
……いや、寿一にお礼なんて死んでも言わない。
「必要そうなものは和の部屋に置いてあるから、確認して。てか、ちゃんと化粧水塗ったか? 合わないやつだった?」
パソコンを置き、部屋の入り口から動かない和に大股で近寄ってくる。
水が滴る髪、濡れる肩口、すでにかさついた肌。
一瞬で和の状態をみて、寿一がはぁ~、と長い溜息を吐いて部屋を出て行き、すぐに戻ってきた。
手にはドライヤーと和が触りもしなかったスキンケアセット。
寿一は和の手を無理矢理引いて、ラグの上に座らせると、おもむろに化粧水を自分の手に取り、和の顔に塗ったくってくる。
遠慮もなく顔に触れられて、腹立たしい。だが、あまりにも拘束力が強すぎて和にはどうにもできない。
化粧水、保湿クリームを乱暴に丁寧に塗られ、ドライヤーで髪を乾かされる。
女のヒモになり損ねた時の記憶がよみがえり、あの時の女は和にこれをしてほしかったのだと、今ようやく理解した。
「まぁ、よく考えたら、この化粧水とかが和に合うか合わないかなんて、和に分かるわけないよな。和に手を出せる価格帯じゃないし」
「……いちいち馬鹿にしてくるのやめてくんない? 腹立つ。ストレスで早死にしそう」
「ほんと、繊細だな。事実は事実として受け入れろよ」
そういう事ではない。
いくら、事実だからと言って、馬鹿にされていい気がする人間は少数だ。
和はその少数派ではない。
「で、どうする? 月五万の小遣いと、このマンションでのおれとの生活。それでいいだろ?」
寿一の言葉に和は少し驚いたが、すぐにそうでもないと気づく。
和は寿一が自分に選択肢を差し出していることに驚いたのだが、住むか、住まないか、の二択のように見えるが、実際は一択しかない。
だって、和にはいくところがないのだから。
「……いつか出てってやる」
「はいはい。頑張れよ」
快適さに負けたわけではない。
ただ、この間のことを思いだしたのだ。
寿一との苦労は和にとっての労働に値する。
そう。和はこれから労働をするのだ。
寿一によって、自分が傷つけられるかわりに住む場所と金を得るのだ。
これは立派な労働である。
「あ、和?」
「……あ?」
不機嫌を隠さない声で、そう振りむけば、寿一の顔がすぐそこにあり、驚きすぎて目と閉じた。
ふと感じる、唇に当たる柔らかい何かに二度目の驚き、体を支えていた腕が滑り、後ろに倒れる。
受け身も取らずに倒れた和は後頭部をフローリングに強かにぶつけ、痛みに悶えるたが、寿一はそれを見て爆笑だった。
「ふっ、ふふふ、ふはっ! 和って、やっぱり運動神経も良くないから、こういう時にダメだよなぁ~」
あまりにも痛くて床で丸くなってる和を見下ろしながら、寿一が和を引っ張り上げる。
寿一の脚の間に収まっているようなムカつく態勢と距離ではあるが、痛みでそれどころではない。
「あ~、笑った~。大丈夫? あ、たんこぶ出来てるじゃん」
頭を押さえる和の手をほどき、寿一が優しくそこに触れて、笑いながらも、労わるように言う。
こいつは誰だ。
「氷枕あるし、冷やしとこうか。ほら、ここに横になれよ」
すぐそこにあるソファをぽんぽんと叩き、寿一が冷蔵庫へと向かう。
寿一が離れたことで、和に正常な思考が戻ってきた、絶句するしかない。
あいつは、今何をしたか?
「はぁ~~~~~~~~!?」
すべてを理解し、和は叫んだ。
叫ばずにはいられなかった。
「和、うるさい」
原因はこれである。
どこに感情を持っていけばいいのかが不明だ。
感情労働とはそう言う事なのか!
氷枕にタオルを巻きつけ、ソファに置き、和を横にならせる寿一はやはりてきぱきとしており、腹が立つ。
和は寿一といると腹が立ち、苛立つことしかない。
傷ついて、悲しくなるという段階は中学の頃で終っている。
それでも、こいつといると疲れるのだ。
負の感情が動きすぎて、ストレスが半端ない。
だと言うのに、
「ははっ、ようやく和にキスできたや」
なんて馬鹿げたことを、頬を染めて言っているのだ。
げんなりどころか、身の危険しか感じない。
「これからは、恋人でよろしくね」
「寝言は寝て言え」
女のヒモにはなれなかったが、つまり寿一のヒモになったということだ。
つまりつまり、……え、むり。
「か~ず、どうせおれのことが好きならいいじゃん。な?」
「よくねぇよ。好きじゃねぇよ」
和の悪態も右から左の寿一。
病み上がりの和にはキャパオーバーだ。
心地よいソファと後頭部のひんやりとした感触、目元を覆う寿一の手のひらの温かさ。
すべてが和を眠りの世界に導いていく。
現実逃避。
和の得意技が今、和を苦しめる。
寝てはいけない、そう思うのに、体は言う事を聞かなかった。
流石に寝込みを襲うことはしないだろう。
寿一の倫理観に一縷の願いを託して、和は意識を手放した。
嫌いな相手に願うなんて滑稽だな、そう思いながら。

