窓に叩きつけられる伸びすぎた雑草の葉。
どこまで成長するのだろうと引っこ抜かずにいたが、バサバサとすりガラスの向こうで揺れる様子を見るに和の膝の高さまで伸びたようだ。
引っこ抜いておけばよかった。
昼間だと言うのに部屋の中は薄暗く、閉め切っているせいでサウナのようだった。
雨さえ降っていなければ、窓を開けるのに。
本当は出勤しようと思っていたのだ。
台風の日はパチ屋も荒れる。
そういうジンクスのもと、今日も荒稼ぎする予定だった。
だが、天気が悪すぎる。
持っているビニール傘では無事に辿り着かないだろう。
車を持っている人が羨ましい。
「……はぁ」
起床後から何度目か分からない溜め息をつく。
何もすることがないのだ。
スマホは止まっているし、食べるものもないし、飲み物は大事に飲まないといけない。
そして何より、寿一がいない。
幽霊は自由に姿を現すことができるらしい。
姿が見えないときは一体どこにいるのだろうか。
寿一自体はどうでもいいが、寿一の周辺は涼しいのだ。
この締め切った部屋の中で、和は今にも干からびてしまいそうだった。
昨夜、笑顔のままブチギレる寿一に満足して、和は眠りについた。
意味のわからない罪悪感や不安でソワソワしてしまうが、和は絶対に何もなかった、など言ってやるものかと決めてある。
これまでの人生で和の自己肯定感や承認欲求、自己理解を好き勝手にぐちゃぐちゃにしてきたのだ。
その結果として受け取ればいい。
寿一なんぞ、後悔して後悔して、悪霊にでもなってしまえばいいのだ。
苦しめばいい。
和がずっとそうだったように。
満足したら除霊してやる。
寿一の金で。
「あっつ……」
だが、その前に和が死んでしまいそうだ。
暑い、お腹すいた、喉乾いた、暇。
不快のオンパレード。
金ならまだあるから、近くのスーパーに行ってもいいのだ。
けれど、出るならパチ屋にも行けばいいのでは?
そう思ってしまって、行くか行かないかでかれこれ二時間は揺れている。
だが、そろそろ決めなければ。
こんなに適当に暮らしているが、実はあまり体は強くなかったりする。
天気が悪いと頭痛が起こるし、寒くても頭痛がするし、疲れるとすぐに熱を出す。
つまり、現在、和はものすごく体調が悪い。
ストレスだ。
寿一という幽霊によるストレスで体調を崩してしまった。
本当に寿一は和にとって毒でしかない。
「…………行くか」
窓を叩く雨粒の勢いに、明日の自分を思う。
和はもちろん、年金は全額免除の申請をしているし、国保など入っていない。
つまり、風邪を引いても病院に行くという選択肢はないのだ。
体は絶妙な塩梅で弱く、別に死ぬわけでもないし、大病をするわけでもない。
ただ、小さな不調が多いだけだ。
だからこそ、この状態の自分が雨に濡れて風呂もはいれない状態でいればどうなるのか分かる。
無駄に苦しむだけだ。
ノロノロと起き上がり、トートバッグの中から財布を取り出す。
どこからどう見ても手作りの布の財布。
簡単な作りだが、縫製はしっかりしており、けれど尋常でないほどに草臥れている。
それは中学の家庭の授業で寿一が作ったものだった。
布を決め、財布を作ると決めたのは和だ。
だが、和は不器用だった。
買った布も残り少なくなって、二進も三進もいかなくなっていた時、寿一が和をからかいながら簡単そうに作ってしまった。
そんな財布をその辺にあったビニール袋に入れて、ポケットに突っ込む。
これでお札が死ぬことはない。
どうせ、傘を差したって壊れるだけなので、和は腹を括って、家を出た。
今日は大人しく帰ろう。
そう、心に決めて。
◆◇
いつもより早い帰宅だった。
かろうじて生きているスマホを見れば、時刻は午後五時。
外も中も薄暗くはあるが、完全に日の光が落ちているわけではない。
和は重く水分を吸ったTシャツの裾を絞り、玄関ですべてを脱いだ。
それでも和の立っている場所には水たまりが出来ている。
粟肌が立っているのを無視して、洗ったかどうかも分からないバスタオルで軽く髪を拭いて、肌にまとわりついている水分を拭き上げていく。
拭いたところで、べたべたするのは雨の成分のせいだろう。
汚いって言うもんな。
少しだけげんなりしながら、明日にでも銭湯に行こうと予定を立てる。
家を出た瞬間にはスーパーに行くだけと決めていた。
だが、気が付くとびしょ濡れの和は、いつものパチ屋にいた。
これは啓示だと思い、千円だけ、と台に座った。
そこからはやはり、台風のジンクスに従うべきなのだと心底思った。
千円は十二万円になった。
これで、最低ラインの生活に戻れる。
しかも、レトルトのカレーやら、牛丼やら、白米やらにも交換してその金額だ。
しかも、しかも、今日はワゴンサービスのお姉ちゃんを呼び放題だった。
水分不足で頭痛が酷かったが、そこで何とか持ち直したというわけだ。
大勝、大勝。いい日だ。
全裸のまま、薄暗い部屋の中で下着と寝巻を探す。
布団の上に散らかされた衣類の中から、適当に見繕い、身に纏う。
若干、身体が痛い気がするが、大勝の代償だと思うしかない。
だが、ここで和は思い出す。
レトルトの食品を買ったところで、今の和にはそれを調理する方法はないじゃないか、と。
最近、物忘れが激しい。
スマホが止まっていたことを忘れて帰宅したり、電子レンジが使えないことを忘れてレンジ調理の食品を交換してきたり。
朝から何も食べていない腹は、食べれないのだと理解した瞬間にぐぅ、と鳴きだす。
もう一度、家から出るのか?
外を見れば、近くに生えている木がしなるほどに揺れており、大粒の雨が喧しい音を立てながら窓ガラスに当たっている。
そんな様子に和は食欲を見ないふりをした。
一日抜いたくらいじゃ死にはしない。
たしか、景品の入った袋の中にお菓子があったはずだ。
それを食べて明日の天気が緩んだ隙に出かけよう。
風呂に入って、飯を食って、電気代を二ヶ月分払ってこよう。
電気がないのがスマホがないことよりも生きていくのが難しい。
洗濯も風呂も外注というのはめんどくさいのだ。
和はじんわりと疲れが滲む体を布団に横たえて、天井を見る。
寿一は、ショックすぎて成仏したのだろうか。
ふと、そんなことを思った。
だとしたら、和はこの世で本当に一人になったんだな、と。
一体、いつまで両親に期待していたのだろう。
周囲に理解を求めただろう。
その全てを寿一が折り、和の願いを寿一が引き受けていた。
いや、引き受けていたんじゃない。
勝手に、寿一が奪っていたのだ。
流しそうめんを流した瞬間からすべて取っていく人間のように。
和の願いを周囲に届く前の段階で、独り占めしていたのだ。
だというのに、和に誰も近寄らなくなって、その願いに価値を見出す人間がいなくなったのに、当の寿一はこの世からリタイアだ。
ありえない。
しかも、簡単に成仏したなんて許せることじゃない。
和は寿一が嫌いだ。大っ嫌いだ。
だからこそ、楽になったなんて考えるだけで反吐が出る。
「……ふざけんなよ。好き、なんて言ってないのに勝手に成仏しやがって」
自分でも思った以上に嫌悪の色が滲んだ声。
この感情をどうすればいいのか分からなかった。
濡れた髪が布団を濡らす。
その感触が不快だった。
「――成仏なんて出来る訳ないだろ。嫌すぎて悪霊になりそうだ」
壊れそうなほどにガタガタと揺れる窓や外の配管の音だけが響いていた部屋の中に、不機嫌な声が落ちた。
「……はっ、なればいいのに」
「和……。おれ、こんなに傷付いたのは初めてだ。少しくらい優しくしてくれ」
ざまあみろ、としか思わない。
和は寿一のせいで辛酸をなめて生きてきたのだ。
この程度で辛いだと?
笑わせるな。甘ったれが。
「そもそも、昨日の話は裏切りでしかない」
「女は良くて、男はダメなのか? やることは一緒なのに。あぁ、お前が俺を抱く予定だったなら、新品じゃないと嫌だったってことな? だから別に女に突っ込もうが気にしないけど、って話か」
「和。怒るぞ」
何が「怒るぞ」なのか。
図星でしかないだろうに。
どこからともなく現れた寿一は和の枕元に立ち、和を見下ろしている。
雨に濡れて、パチ屋で濡れたまま打って、また帰宅時に濡れて。
体の芯から冷えているのだ。
寿一は意図してなくても、小型のエアコンみたいな存在なのだから近寄ってほしくない。
治まりかけていた鳥肌が再来した。
「……どのくらい、続いてたんだ」
それが、ホテルに行った男との関係の話だと理解するのに少しだけ時間がかかった。
「お前に何か関係あんの? 知ったところで、どうすんだよ。死んでるのに」
「……男とならできたのか? そういうわけじゃないだろ。お前の恋愛対象は女じゃん」
「恋愛対象と欲の対象は違うかもしれないだろ」
「なら、……おれがまどろっこしいことしないで、お前に好きだから付き合ってって言ってたら、おれとしたの?」
悲痛な声だった。
あまりにも弱々しい声で、和は自分が高揚していることに気付く。
和はとても気分が良かった。
「おまえと? するわけないじゃん。お前なんて嫌いなんだから」
和の吐き捨てるような言葉に、寿一の瞳から涙がこぼれていく。
ようやく満たされたような気がした。
「お前は、……っ、おれが好きだろ。なのに、なんで……、なんで、そんなにおれを拒否するんだ。お前のために人生設計もした、お前のために何でもしてやってきた。なのに、なんで……っ」
「俺がいつしてほしいって言ったんだ」
和の言葉に寿一が瞳を見開いた。
「お前がやることなすこと、俺にとっては屈辱でしかない。自分の不甲斐なさを見せつけられて、馬鹿にされて、できない前提で扱われて……、どうして盲目に好きでいられるんだ」
言葉が止まらない。
こんなこと言うはずじゃない。
言ってもどうにもならないどころか、和自身の惨めさを寿一に差し出しているだけだ。
「お前がいるから、俺は認められない。お前が俺を何もできなくさせたんだ。……お前のせいで人生ぐちゃぐちゃだ。……っ、会わなかったくせに、俺が拒絶したくらいで、すぐ引いたくせに! 今更、来んなよ! 全部、今更なんだよ!」
本当に自分は寿一の言うように堪え性がない。
こんなの、告白以外のなにものでもないじゃないか。
寿一が泣いた。
ずっと自分を踏みつけていた相手を踏みつけている気分になり、満たされた。
満たされたら、無意識にもっと満たされたくなってしまったのかもしれない。
死んでいるのに。
今更、和が手を伸ばしても寿一は手に入らないのに。
恨みがましい言葉を投げつけて、けれど寿一はきっと和の言いたいことを理解する。
和は自分が分からなかった。
寿一がふらりと膝をつく。
涙で頬は濡れ、その表情はまるで子供のようだった。
「おれ、言ったじゃん……。和は絶対に一度はおれから離れるって。……おれは、この七年で、お前を養うために――」
「頼んでない。お前の自己満じゃん……。俺と一緒にいたいなら、苦労しろよ。金持ちになってからなんて、生ぬるいこと言ってないで、金がなくても覚悟決めろよ。中途半端なんだよ、いつも。俺はお前と苦労なんてしない。お前ひとりが苦労しろ」
「中途半端だった……?」
「中途半端だ。何が、スパダリだよ。お前はスパダリじゃねぇ! モラハラだ!」
「……え」
はらはらと未だに涙を流しながら、寿一がポカンと口を開けた。
「和にもできるんだから、おれにもできる。それがお前の口癖だ。お前はすぐ俺を下げるんだよ。不愉快だ。スパダリなら、俺を癒せよ。削るな! だから、中途半端だって言ってんだ。お前なんて、外面だけスパダリの皮を被ったモラハラ野郎だ」
和の言葉に寿一が顔を歪めて、更に涙を流す。
号泣と言って差し支えない様子に和の根っこが癒されていく。
「違う。違うし……。和はなんでも悪い方向に考えすぎる! おれはただ! ただ……、おれの好きなところを伝えてただけだ!」
「は? どこがだよ。和は出来ない、和はしない、ほらできなかったな、どこが好きなところなんだよ! 馬鹿にしてしかない!」
「馬鹿になんてしてない! お前は本当に何もできないじゃないか! 勉強もおれよりできないし、手先も不器用で、言われたことの半分もこなせない。事実だろ。けど、おれはお前のそんな欠点だって好きなのに!」
泣きじゃくりながらそういう寿一に和はドン引きだった。
今までの和を下げる発言の全てが好意だったというのか。
つまり、そういう意味で和は出来ない(そんなところが好き)と言っていたというわけか。
頭がおかしい。
それで喜ぶ人間がどこにいるというのだ。
なんで、こんなに人間の解像度が低い奴が書く物語が売れるのだろう。
世界がおかしい。
「おれのことが好きなのに、なんでおれのこと分かってくれないの……っ、なんで」
「逆に言いたいんだけど。俺のことが好きなら、俺が何を嫌がって、お前を拒絶したのか理解しろよ。だから、お前といたくないんだ」
「好きなら一緒にいたいだろ!」
「なら、七年も放置したのはなんなんだよ。……で? 放置した挙句、死んで、来世? ふざけんな。俺はお前のために苦しむのも、待つのも、苦労もしたくないって言ってんじゃん!」
和だって、いくら寿一が憎いからってめちゃくちゃなことを言ってるのは理解している。
けれど、これが本音だ。
こんな気持ちにさせた寿一が悪いのだ。
「放置してない! 迎えに行くために、金貯めてたんだ! 離れたのは和なのに、なんでおれが悪いんだよ」
「……お前のせいだろ。全部、お前のせいだ」
鼻の奥がツンとして、喉の奥が熱い。
和は顔を見られないように寝返りをうち、寿一に背を向けた。
「……俺が家族から見捨てられたのも、底辺みたいな生活してるのも、女に勃たないのも――好きが何なのか分からないくらい歪んだのも、全部」
お前のせいだ、そう口から忌々し気に零れた言葉。
背後から息を飲む気配がした。
「和……、かず」
寿一が弱々しく、名前を呼んでくる。
布団が湿っていくのはきっと、濡れたままの髪のせいだ。
「ほら、……やっぱりさ、お前、おれのこと好きじゃん」
都合のいい耳だ。
そこしか拾わない。
だが、それが寿一なのだ。
和はもう諦めている。
「なぁ、女に生まれ変わるから、受け入れてな。大丈夫だ。バイアグラでも盛って、既成事実作るから」
「…………」
「男はもう、しょうがないことにする。だから、もう女はやめて」
本当にこういう所が嫌なのだ。
自分の欲しい答えが少しでも見えると、和の行動を縛るようなことを言う。
何の権限があって、お前にそんなことを決められないといけないのか。
和はそう思って、反発してしまう。
「おれ……、ほら、やっぱり、和に好きって言われたら成仏できるんだ」
そんな言葉に和は勢いよく上体を起こして、振り返る。
そこには、いつもより発光の弱い幽霊がいた。
「……っ、好きだなんて言ってない!」
「言ってたさ。お前が真っ直ぐ伝えてくるなんて、おれは思ってない。お前の言葉を愛してるに訳しただけ」
和のことは何でもわかっている。
そんな勝ち誇ったような表情で寿一が笑う。
流石幽霊というべきか、涙の痕は残っていなかった。
いつもの余裕綽々な、気に喰わない男でしかなかった。
「またすぐ会えるよ」
何、勝手に成仏する気でいるんだ。
おかしいだろ。
何、すべてを把握したような顔をしてるんだ。
「か~ず」
いつもの和の神経を逆撫でするような甘い声。
じっとりと湿気を含んだ空気、冷え切った体と気温の差、痛みだす後頭部、ガタガタと揺れるアパート。
すべてが不快で堪らない。
「小さくてスタイルのいい綺麗な女、な? その通りに生まれ変わってくるから、待ってろ」
そういう所だけ、改心したように和の要望を叶えようとしてくるところが嫌いだ。
「おれの遺産が入って来るとは思うけど、時間がかかるようなら、生活保護でも貰えよ。どうせ、和は働けないよ。働くことが向いてないし、頑張れない。和を雇う会社にも迷惑だ」
先ほども、モラハラ野郎だと伝えたはずなのに、何も変わらない。
「けどさ、流石に借金が二十万で自己破産しようとしてるのはやめた方がいいと思う。ちゃんと、おれの遺産から全部払えよ」
その辺に散らかっていた書類でも見たのだろう。
勝手に人の支払い明細や催促状を見るなんて最悪だ。
徐々に薄くなっていく寿一の姿。
こんなにもあっけないなんて思わなかった。
自分の短絡さが恨めしかった。
寿一を悪霊にして、お祓いしてもらおうと決めたばかりなのに。
こんなに早く一人になるなんて。
先ほどまでの口論すら、遠い記憶のように思えた。
「和、ちゃんと好きだって言ってくれ。愛してるでもいいぞ」
つい数分前まで絶望で染まっていた表情は晴れやかで、和ははらわたが煮えくり返りそうだった。
自分の堪え性のなさに。
そして、寿一の都合のいい耳と感性に。
「……、……言うわけない。好きじゃない。愛してるわけがない……っ! 早く死ね! 消えろよ。……裏切者が」
「うん。……ありがとう。またな」
寿一は心底幸福そうに笑って――消えた。
あまりにもあっけない。
あまりにも惨めで、辛い。
台風は大型で、ゆっくりと進んでいるらしい。
パチ屋のWi-Fiに繋いだスマホで見たニュースが思い出される。
完全に日の落ちた部屋で、和は嗚咽を噛み殺す。
なんで、あんな奴のために泣かないといけないのだ。
寿一に振り回されるのは七年前にやめたのだ。
それなのに、和の瞳からは絶え間なく涙が流れ、呼吸がままならない。
寒くてどうにかなってしまいそうだった。
湿気った布団に横になり、丸まって、足元にあったタオルケットを頭まで被る。
埃やカビの臭いがするが、もうどうでもよかった。
この世界から、和を隠してくれる何かが必要だったのだ。
寿一が死んだ。
やっとそれを理解して、和の中で何かが取り返しのつかないほどに壊れてしまったような気がした。
こんなに歪んだのに、こんなに汚れたのに、和をそうした人間はもういないのだ。
どこに怒りをぶつければいいのか、責任を置けばいいのか分からない。
歪みは全て寿一のせいなのに。
いつだって、苦しむのは和なのだ。
どこまで成長するのだろうと引っこ抜かずにいたが、バサバサとすりガラスの向こうで揺れる様子を見るに和の膝の高さまで伸びたようだ。
引っこ抜いておけばよかった。
昼間だと言うのに部屋の中は薄暗く、閉め切っているせいでサウナのようだった。
雨さえ降っていなければ、窓を開けるのに。
本当は出勤しようと思っていたのだ。
台風の日はパチ屋も荒れる。
そういうジンクスのもと、今日も荒稼ぎする予定だった。
だが、天気が悪すぎる。
持っているビニール傘では無事に辿り着かないだろう。
車を持っている人が羨ましい。
「……はぁ」
起床後から何度目か分からない溜め息をつく。
何もすることがないのだ。
スマホは止まっているし、食べるものもないし、飲み物は大事に飲まないといけない。
そして何より、寿一がいない。
幽霊は自由に姿を現すことができるらしい。
姿が見えないときは一体どこにいるのだろうか。
寿一自体はどうでもいいが、寿一の周辺は涼しいのだ。
この締め切った部屋の中で、和は今にも干からびてしまいそうだった。
昨夜、笑顔のままブチギレる寿一に満足して、和は眠りについた。
意味のわからない罪悪感や不安でソワソワしてしまうが、和は絶対に何もなかった、など言ってやるものかと決めてある。
これまでの人生で和の自己肯定感や承認欲求、自己理解を好き勝手にぐちゃぐちゃにしてきたのだ。
その結果として受け取ればいい。
寿一なんぞ、後悔して後悔して、悪霊にでもなってしまえばいいのだ。
苦しめばいい。
和がずっとそうだったように。
満足したら除霊してやる。
寿一の金で。
「あっつ……」
だが、その前に和が死んでしまいそうだ。
暑い、お腹すいた、喉乾いた、暇。
不快のオンパレード。
金ならまだあるから、近くのスーパーに行ってもいいのだ。
けれど、出るならパチ屋にも行けばいいのでは?
そう思ってしまって、行くか行かないかでかれこれ二時間は揺れている。
だが、そろそろ決めなければ。
こんなに適当に暮らしているが、実はあまり体は強くなかったりする。
天気が悪いと頭痛が起こるし、寒くても頭痛がするし、疲れるとすぐに熱を出す。
つまり、現在、和はものすごく体調が悪い。
ストレスだ。
寿一という幽霊によるストレスで体調を崩してしまった。
本当に寿一は和にとって毒でしかない。
「…………行くか」
窓を叩く雨粒の勢いに、明日の自分を思う。
和はもちろん、年金は全額免除の申請をしているし、国保など入っていない。
つまり、風邪を引いても病院に行くという選択肢はないのだ。
体は絶妙な塩梅で弱く、別に死ぬわけでもないし、大病をするわけでもない。
ただ、小さな不調が多いだけだ。
だからこそ、この状態の自分が雨に濡れて風呂もはいれない状態でいればどうなるのか分かる。
無駄に苦しむだけだ。
ノロノロと起き上がり、トートバッグの中から財布を取り出す。
どこからどう見ても手作りの布の財布。
簡単な作りだが、縫製はしっかりしており、けれど尋常でないほどに草臥れている。
それは中学の家庭の授業で寿一が作ったものだった。
布を決め、財布を作ると決めたのは和だ。
だが、和は不器用だった。
買った布も残り少なくなって、二進も三進もいかなくなっていた時、寿一が和をからかいながら簡単そうに作ってしまった。
そんな財布をその辺にあったビニール袋に入れて、ポケットに突っ込む。
これでお札が死ぬことはない。
どうせ、傘を差したって壊れるだけなので、和は腹を括って、家を出た。
今日は大人しく帰ろう。
そう、心に決めて。
◆◇
いつもより早い帰宅だった。
かろうじて生きているスマホを見れば、時刻は午後五時。
外も中も薄暗くはあるが、完全に日の光が落ちているわけではない。
和は重く水分を吸ったTシャツの裾を絞り、玄関ですべてを脱いだ。
それでも和の立っている場所には水たまりが出来ている。
粟肌が立っているのを無視して、洗ったかどうかも分からないバスタオルで軽く髪を拭いて、肌にまとわりついている水分を拭き上げていく。
拭いたところで、べたべたするのは雨の成分のせいだろう。
汚いって言うもんな。
少しだけげんなりしながら、明日にでも銭湯に行こうと予定を立てる。
家を出た瞬間にはスーパーに行くだけと決めていた。
だが、気が付くとびしょ濡れの和は、いつものパチ屋にいた。
これは啓示だと思い、千円だけ、と台に座った。
そこからはやはり、台風のジンクスに従うべきなのだと心底思った。
千円は十二万円になった。
これで、最低ラインの生活に戻れる。
しかも、レトルトのカレーやら、牛丼やら、白米やらにも交換してその金額だ。
しかも、しかも、今日はワゴンサービスのお姉ちゃんを呼び放題だった。
水分不足で頭痛が酷かったが、そこで何とか持ち直したというわけだ。
大勝、大勝。いい日だ。
全裸のまま、薄暗い部屋の中で下着と寝巻を探す。
布団の上に散らかされた衣類の中から、適当に見繕い、身に纏う。
若干、身体が痛い気がするが、大勝の代償だと思うしかない。
だが、ここで和は思い出す。
レトルトの食品を買ったところで、今の和にはそれを調理する方法はないじゃないか、と。
最近、物忘れが激しい。
スマホが止まっていたことを忘れて帰宅したり、電子レンジが使えないことを忘れてレンジ調理の食品を交換してきたり。
朝から何も食べていない腹は、食べれないのだと理解した瞬間にぐぅ、と鳴きだす。
もう一度、家から出るのか?
外を見れば、近くに生えている木がしなるほどに揺れており、大粒の雨が喧しい音を立てながら窓ガラスに当たっている。
そんな様子に和は食欲を見ないふりをした。
一日抜いたくらいじゃ死にはしない。
たしか、景品の入った袋の中にお菓子があったはずだ。
それを食べて明日の天気が緩んだ隙に出かけよう。
風呂に入って、飯を食って、電気代を二ヶ月分払ってこよう。
電気がないのがスマホがないことよりも生きていくのが難しい。
洗濯も風呂も外注というのはめんどくさいのだ。
和はじんわりと疲れが滲む体を布団に横たえて、天井を見る。
寿一は、ショックすぎて成仏したのだろうか。
ふと、そんなことを思った。
だとしたら、和はこの世で本当に一人になったんだな、と。
一体、いつまで両親に期待していたのだろう。
周囲に理解を求めただろう。
その全てを寿一が折り、和の願いを寿一が引き受けていた。
いや、引き受けていたんじゃない。
勝手に、寿一が奪っていたのだ。
流しそうめんを流した瞬間からすべて取っていく人間のように。
和の願いを周囲に届く前の段階で、独り占めしていたのだ。
だというのに、和に誰も近寄らなくなって、その願いに価値を見出す人間がいなくなったのに、当の寿一はこの世からリタイアだ。
ありえない。
しかも、簡単に成仏したなんて許せることじゃない。
和は寿一が嫌いだ。大っ嫌いだ。
だからこそ、楽になったなんて考えるだけで反吐が出る。
「……ふざけんなよ。好き、なんて言ってないのに勝手に成仏しやがって」
自分でも思った以上に嫌悪の色が滲んだ声。
この感情をどうすればいいのか分からなかった。
濡れた髪が布団を濡らす。
その感触が不快だった。
「――成仏なんて出来る訳ないだろ。嫌すぎて悪霊になりそうだ」
壊れそうなほどにガタガタと揺れる窓や外の配管の音だけが響いていた部屋の中に、不機嫌な声が落ちた。
「……はっ、なればいいのに」
「和……。おれ、こんなに傷付いたのは初めてだ。少しくらい優しくしてくれ」
ざまあみろ、としか思わない。
和は寿一のせいで辛酸をなめて生きてきたのだ。
この程度で辛いだと?
笑わせるな。甘ったれが。
「そもそも、昨日の話は裏切りでしかない」
「女は良くて、男はダメなのか? やることは一緒なのに。あぁ、お前が俺を抱く予定だったなら、新品じゃないと嫌だったってことな? だから別に女に突っ込もうが気にしないけど、って話か」
「和。怒るぞ」
何が「怒るぞ」なのか。
図星でしかないだろうに。
どこからともなく現れた寿一は和の枕元に立ち、和を見下ろしている。
雨に濡れて、パチ屋で濡れたまま打って、また帰宅時に濡れて。
体の芯から冷えているのだ。
寿一は意図してなくても、小型のエアコンみたいな存在なのだから近寄ってほしくない。
治まりかけていた鳥肌が再来した。
「……どのくらい、続いてたんだ」
それが、ホテルに行った男との関係の話だと理解するのに少しだけ時間がかかった。
「お前に何か関係あんの? 知ったところで、どうすんだよ。死んでるのに」
「……男とならできたのか? そういうわけじゃないだろ。お前の恋愛対象は女じゃん」
「恋愛対象と欲の対象は違うかもしれないだろ」
「なら、……おれがまどろっこしいことしないで、お前に好きだから付き合ってって言ってたら、おれとしたの?」
悲痛な声だった。
あまりにも弱々しい声で、和は自分が高揚していることに気付く。
和はとても気分が良かった。
「おまえと? するわけないじゃん。お前なんて嫌いなんだから」
和の吐き捨てるような言葉に、寿一の瞳から涙がこぼれていく。
ようやく満たされたような気がした。
「お前は、……っ、おれが好きだろ。なのに、なんで……、なんで、そんなにおれを拒否するんだ。お前のために人生設計もした、お前のために何でもしてやってきた。なのに、なんで……っ」
「俺がいつしてほしいって言ったんだ」
和の言葉に寿一が瞳を見開いた。
「お前がやることなすこと、俺にとっては屈辱でしかない。自分の不甲斐なさを見せつけられて、馬鹿にされて、できない前提で扱われて……、どうして盲目に好きでいられるんだ」
言葉が止まらない。
こんなこと言うはずじゃない。
言ってもどうにもならないどころか、和自身の惨めさを寿一に差し出しているだけだ。
「お前がいるから、俺は認められない。お前が俺を何もできなくさせたんだ。……お前のせいで人生ぐちゃぐちゃだ。……っ、会わなかったくせに、俺が拒絶したくらいで、すぐ引いたくせに! 今更、来んなよ! 全部、今更なんだよ!」
本当に自分は寿一の言うように堪え性がない。
こんなの、告白以外のなにものでもないじゃないか。
寿一が泣いた。
ずっと自分を踏みつけていた相手を踏みつけている気分になり、満たされた。
満たされたら、無意識にもっと満たされたくなってしまったのかもしれない。
死んでいるのに。
今更、和が手を伸ばしても寿一は手に入らないのに。
恨みがましい言葉を投げつけて、けれど寿一はきっと和の言いたいことを理解する。
和は自分が分からなかった。
寿一がふらりと膝をつく。
涙で頬は濡れ、その表情はまるで子供のようだった。
「おれ、言ったじゃん……。和は絶対に一度はおれから離れるって。……おれは、この七年で、お前を養うために――」
「頼んでない。お前の自己満じゃん……。俺と一緒にいたいなら、苦労しろよ。金持ちになってからなんて、生ぬるいこと言ってないで、金がなくても覚悟決めろよ。中途半端なんだよ、いつも。俺はお前と苦労なんてしない。お前ひとりが苦労しろ」
「中途半端だった……?」
「中途半端だ。何が、スパダリだよ。お前はスパダリじゃねぇ! モラハラだ!」
「……え」
はらはらと未だに涙を流しながら、寿一がポカンと口を開けた。
「和にもできるんだから、おれにもできる。それがお前の口癖だ。お前はすぐ俺を下げるんだよ。不愉快だ。スパダリなら、俺を癒せよ。削るな! だから、中途半端だって言ってんだ。お前なんて、外面だけスパダリの皮を被ったモラハラ野郎だ」
和の言葉に寿一が顔を歪めて、更に涙を流す。
号泣と言って差し支えない様子に和の根っこが癒されていく。
「違う。違うし……。和はなんでも悪い方向に考えすぎる! おれはただ! ただ……、おれの好きなところを伝えてただけだ!」
「は? どこがだよ。和は出来ない、和はしない、ほらできなかったな、どこが好きなところなんだよ! 馬鹿にしてしかない!」
「馬鹿になんてしてない! お前は本当に何もできないじゃないか! 勉強もおれよりできないし、手先も不器用で、言われたことの半分もこなせない。事実だろ。けど、おれはお前のそんな欠点だって好きなのに!」
泣きじゃくりながらそういう寿一に和はドン引きだった。
今までの和を下げる発言の全てが好意だったというのか。
つまり、そういう意味で和は出来ない(そんなところが好き)と言っていたというわけか。
頭がおかしい。
それで喜ぶ人間がどこにいるというのだ。
なんで、こんなに人間の解像度が低い奴が書く物語が売れるのだろう。
世界がおかしい。
「おれのことが好きなのに、なんでおれのこと分かってくれないの……っ、なんで」
「逆に言いたいんだけど。俺のことが好きなら、俺が何を嫌がって、お前を拒絶したのか理解しろよ。だから、お前といたくないんだ」
「好きなら一緒にいたいだろ!」
「なら、七年も放置したのはなんなんだよ。……で? 放置した挙句、死んで、来世? ふざけんな。俺はお前のために苦しむのも、待つのも、苦労もしたくないって言ってんじゃん!」
和だって、いくら寿一が憎いからってめちゃくちゃなことを言ってるのは理解している。
けれど、これが本音だ。
こんな気持ちにさせた寿一が悪いのだ。
「放置してない! 迎えに行くために、金貯めてたんだ! 離れたのは和なのに、なんでおれが悪いんだよ」
「……お前のせいだろ。全部、お前のせいだ」
鼻の奥がツンとして、喉の奥が熱い。
和は顔を見られないように寝返りをうち、寿一に背を向けた。
「……俺が家族から見捨てられたのも、底辺みたいな生活してるのも、女に勃たないのも――好きが何なのか分からないくらい歪んだのも、全部」
お前のせいだ、そう口から忌々し気に零れた言葉。
背後から息を飲む気配がした。
「和……、かず」
寿一が弱々しく、名前を呼んでくる。
布団が湿っていくのはきっと、濡れたままの髪のせいだ。
「ほら、……やっぱりさ、お前、おれのこと好きじゃん」
都合のいい耳だ。
そこしか拾わない。
だが、それが寿一なのだ。
和はもう諦めている。
「なぁ、女に生まれ変わるから、受け入れてな。大丈夫だ。バイアグラでも盛って、既成事実作るから」
「…………」
「男はもう、しょうがないことにする。だから、もう女はやめて」
本当にこういう所が嫌なのだ。
自分の欲しい答えが少しでも見えると、和の行動を縛るようなことを言う。
何の権限があって、お前にそんなことを決められないといけないのか。
和はそう思って、反発してしまう。
「おれ……、ほら、やっぱり、和に好きって言われたら成仏できるんだ」
そんな言葉に和は勢いよく上体を起こして、振り返る。
そこには、いつもより発光の弱い幽霊がいた。
「……っ、好きだなんて言ってない!」
「言ってたさ。お前が真っ直ぐ伝えてくるなんて、おれは思ってない。お前の言葉を愛してるに訳しただけ」
和のことは何でもわかっている。
そんな勝ち誇ったような表情で寿一が笑う。
流石幽霊というべきか、涙の痕は残っていなかった。
いつもの余裕綽々な、気に喰わない男でしかなかった。
「またすぐ会えるよ」
何、勝手に成仏する気でいるんだ。
おかしいだろ。
何、すべてを把握したような顔をしてるんだ。
「か~ず」
いつもの和の神経を逆撫でするような甘い声。
じっとりと湿気を含んだ空気、冷え切った体と気温の差、痛みだす後頭部、ガタガタと揺れるアパート。
すべてが不快で堪らない。
「小さくてスタイルのいい綺麗な女、な? その通りに生まれ変わってくるから、待ってろ」
そういう所だけ、改心したように和の要望を叶えようとしてくるところが嫌いだ。
「おれの遺産が入って来るとは思うけど、時間がかかるようなら、生活保護でも貰えよ。どうせ、和は働けないよ。働くことが向いてないし、頑張れない。和を雇う会社にも迷惑だ」
先ほども、モラハラ野郎だと伝えたはずなのに、何も変わらない。
「けどさ、流石に借金が二十万で自己破産しようとしてるのはやめた方がいいと思う。ちゃんと、おれの遺産から全部払えよ」
その辺に散らかっていた書類でも見たのだろう。
勝手に人の支払い明細や催促状を見るなんて最悪だ。
徐々に薄くなっていく寿一の姿。
こんなにもあっけないなんて思わなかった。
自分の短絡さが恨めしかった。
寿一を悪霊にして、お祓いしてもらおうと決めたばかりなのに。
こんなに早く一人になるなんて。
先ほどまでの口論すら、遠い記憶のように思えた。
「和、ちゃんと好きだって言ってくれ。愛してるでもいいぞ」
つい数分前まで絶望で染まっていた表情は晴れやかで、和ははらわたが煮えくり返りそうだった。
自分の堪え性のなさに。
そして、寿一の都合のいい耳と感性に。
「……、……言うわけない。好きじゃない。愛してるわけがない……っ! 早く死ね! 消えろよ。……裏切者が」
「うん。……ありがとう。またな」
寿一は心底幸福そうに笑って――消えた。
あまりにもあっけない。
あまりにも惨めで、辛い。
台風は大型で、ゆっくりと進んでいるらしい。
パチ屋のWi-Fiに繋いだスマホで見たニュースが思い出される。
完全に日の落ちた部屋で、和は嗚咽を噛み殺す。
なんで、あんな奴のために泣かないといけないのだ。
寿一に振り回されるのは七年前にやめたのだ。
それなのに、和の瞳からは絶え間なく涙が流れ、呼吸がままならない。
寒くてどうにかなってしまいそうだった。
湿気った布団に横になり、丸まって、足元にあったタオルケットを頭まで被る。
埃やカビの臭いがするが、もうどうでもよかった。
この世界から、和を隠してくれる何かが必要だったのだ。
寿一が死んだ。
やっとそれを理解して、和の中で何かが取り返しのつかないほどに壊れてしまったような気がした。
こんなに歪んだのに、こんなに汚れたのに、和をそうした人間はもういないのだ。
どこに怒りをぶつければいいのか、責任を置けばいいのか分からない。
歪みは全て寿一のせいなのに。
いつだって、苦しむのは和なのだ。

