横山和の人生は、山岡寿一と出会い、四才にして終わった。
不幸な出会いだった。
だが、まず先に和の人生の始まりについて話そうか。
彼は天使のように愛らしく生まれた。
完璧主義の両親は、その外見にまず満足気だった。
だが、徐々に外見だけではカバーできなくなっていく。
睡眠時間や夜泣きのひどさ、首の座りや寝返り、腰の座りやつかまり立ち。
そういった成長の全てが、両親の考える育児スケジュールからだいぶ遅れていた。
そうして、両親は顔だけは誰よりも愛らしい我が子に苛立ちを抱えながら育児を続け、出会った。
全てが自分たちの思い描く通りの存在に。
そう。それが寿一だった。
転園した先の幼稚園に寿一はいた。
出会った瞬間から、寿一は和に結婚して! と迫り、周りにそれは無理だと宥められてからは親友となった。
いつも寿一は和の隣りにいた。
母の日の似顔絵――上手く描けない和の絵の隣に寿一が和の母親にそっくりなイラストを描いた。
工作の時間――何も作れない和の粘土を使い、寿一が作った。
運動会――かけっこがいつもビリな和の手を引いて寿一が走り、一番になった。
スイミングの体験――水に顔をつけられない和の隣で、楽しげに寿一は泳いでいた。
すべて、すべて、すべて、すべて、できない和に見せつけるかのように寿一はその隣で何食わぬ顔でできてしまう。
もちろん、和の両親は寿一をほめた。
そして、自分の息子と比べた。
それは、ずっと続いた。
小学校、中学校、高校、大学。
ずっとだ。
特に、高校受験。
和の両親には通わせたかった高校があった。
そこは、もちろん和の学力では無理だった。
家庭教師を雇い、毎日毎日勉強漬け。
友人などいなかったが、遊びに行くことさえも禁止された。
唯一、寿一とだけは許可が下りる。
それも、勉強を教えてやって、と。
寿一君になら、和を任せられるわ、と。
両親が通って欲しがった高校は、この辺では有名な進学高で、もちろん寿一もそこに行くのだろうと思われていた。
けれど、寿一はにこにこと首を振り言った。
そこは自分には簡単すぎるから、もっと上を目指すのだ、と。
和は受かる可能性はないのだと、担任に辞めておけと言われているのに。
和に勉強を教えながら寿一は当たり前のようにそういったのだ。
寿一と離れる。
喜ぶべきなのに、和は裏切られたような気持ちになった。
離れたくて仕方なかったのに。
あれほど憎くて仕方なかったのに。
よく分からない感情で心が乱れ、勉強が手につかなくなった。
そして、第一志望の高校は落ちた。
だが、寿一が自分と離れるという話を聞いた瞬間はあれほど絶望と恨みにも似た感情でいっぱいだったというのに、離れてみれば天国のようだった。
家には相変わらず寿一の影があるが、学校には何もない。
誰も和を顔だけの劣った人間として見ない。
誰も寿一と和を比較しない。
だが、やはり和は一人ぼっちだった。
外見が良かったおかげで、ちょっとしたアイドル扱いを受けることはあっても、基本的には一人で過ごしていた。
そして、そんな空虚な時間を埋めようと入ったのは文芸部だった。
読書だけでもいいし、小説を自分で書くのも良し。
各々が一人で好きなペースで活動する場所だった。
そこで和は唯一の得意を見つけた。
手慰みに書いてみた小説が、ちょっとした賞を取ったのだ。
大賞ではなく、特別賞の枠だったが、今まで何もできなかった和にしてみれば晴天の霹靂だった。
自分にもできることがある。
それがこんなにも自分を満たす。
和は生まれ変わったようだった。
そこから、和は小説を書いては送り、書いては送り。
商業デビューできるところまではいかずとも、いつも副賞、特別賞、最終選考、と辿り着く。
これで将来を生きていきたい。
そう思うのは自然なことだった。
そして、高校三年の五月。
和は今でも覚えている。
以前、賞をとった出版社から連絡が来たのだ。
商業で書いてみないか、と。
涙が出るほどうれしかった。
ようやく認められたのだと思った。
和は一つの物語を新しく書いた。
それは、歪んだ初恋の物語。
初恋をテーマに書いたその作品は、和が思った以上に受けが良かった。
けれど、書いた和自身は気持ち悪くてしょうがない作品だった。
あまりにも、あの日の自分への答え合わせのようだったから。
寿一と離れることが分かって絶望した、あの日の自分の。
だが、使えるものは使えばいいのだ。
和のあのどうしようもない感情が、寿一がこれから先の和の幸福の踏み台になればそれでいい。
だが、企画され、提出した、その作品は日の目を見ることはなかった。
徐々に遅れていく出版社からの返信。
具体性のないスケジュール。
そして、ついに音信不通となった。
人生で初めての成功を前に、その扉は閉まってしまった。
自分のなにが悪かったのか、どこか相手の機嫌を損ねることをしてしまったのか。
もっと、その企画にふさわしい人が現れたのか。
和は、もう何も書けなくなった。
もちろん、和のペラペラな精神力で大学受験など上手くいくはずもなく。
親の望む大学へは、もちろん不合格。
滑り止めさえも、不合格。
最後の温情で親戚のやっている会社で雇ってもらったが、一カ月で出社拒否。
もう何もうまくいかなかった。
完璧主義の親は、完全に和を見限った。
最後の言葉は「寿一君央明大学に受かったのに」だった。
そうして行くところのなくなった和を拾ったのは同じ会社で働いていた年上の女だった。
和の顔が好みだと言い、家にいてくれるだけでいいと言った。
和はラッキーだと思い、女の家に住みついたが、そんなに甘くはない。
女が和に求めているのは、癒しだった。
家事も出来ない、優しい言葉もかけられない、寄り添えない。
和は女の需要を何も満たせなかった。
それならば、と押し倒されたが、やはり和はそこでも何もできなかった。
そもそも、欲があまりないのだ。
AVを見ても、男の運動量が凄いな、という感想を持つだけだった。
だからこそ、現実で女体が迫ってきていても何も感じなかった。
そして、三日で追い出された。
そこから和の人生は転落の一途をたどった。
日雇いで食いつなぐ日々、電気もガスもスマホも止まって当たり前。
だが、一つだけ捨てられないものがある。
あの日書いた原稿の束。
そこにはすべてが詰まってる。
初めての希望も、これまでの寿一への憎しみも嫉妬も、羨望も――狂ったような恋心もすべてだ。
◆◇
細かな水滴を肌に感じる。
ザァーザァー、とシャワーのように降り始めた雨は開けた窓から入り込んできている。
その冷気が心地よい半面、布団が湿気っていくような不快さを覚える。
暗い部屋の中、和は眼前に迫る白く発光した幽霊が愛おし気にこちらを見つめていた。
寿一のそんな表情に和は屈辱で頬を濡らしながらも心臓が変な音を立てた。
「和。なぁ、小説にしたくなるくらいおれのこと好きだった? おれと一緒だな」
楽観的な声がそう言う。
お前と一緒にするな、そう言ってやりたいが今口を開けば嗚咽しか出ないだろう。
「和がおれを着拒にして、ブロックして、会ってもくれなくなって。おれ、寂しくてさ。そりゃ、人生で一回は和はおれから逃げるんだろうなって思ってた。和はなんにもできないくせに、プライドが高いからなぁ」
「……っ、……」
プライドが高いとは自分で思ったことはなかったが、寿一が言うのならそうなのだろう。
和はもう、自分を理解することも諦めてしまった。
「おれの母ちゃんに話したろ? 文芸部に入ってるって。だから、おれは和が小説を書いてるんだろうなって思った。もともと、和は気付いてなかったけど、読書感想文とか、作文とか得意だったろ?」
寿一が和から離れて、あたりをゆらゆらと漂う。
その間にも、雨音は強くなり、畳を濡らしていく。
「和が書けるなら、おれにも書けるかなぁって思ったのが初め。で、ちょうど募集してた賞に出したら、いつの間にか小説家になってたや。最初のうちは、小説なんかで和を養うのは難しいよなって思ったけど、書けば書く分だけ、コミカライズ、ドラマCD、アニメ化、実写映画化って色々されて、働いてる想定をしてた時と同じくらいは稼いでるし、いいかなぁって」
どうして、いつもこいつはそうなのだろうか。
和が大事にしていると知っていながら、簡単に扱う。
「小説なんか」
その言葉が、どれほど和を苛立たせるのか分かっていない。
「あ、売れなくなったときのために投資もしてるし、マンションもあるから心配しなくていいぞ。おれはもう死んでるから、これからは和に入ってくるはず」
あまりにも簡単に自分の死へと話を戻す寿一に和は奥歯を噛みしめた。
消えろ、と心底思う。
実際、会いたくもなかった。
一生、会わなくてよかった。
けれど、未だに和は寿一が死んだなんて飲み込めていないのに。
「なぁ、和? おれのこと好き? おれはね、出会った瞬間から好きだ。だから、お前と『結婚』するために色々頑張ってきたんだ。なぁ、好きって言って? そうしたら、成仏できる気がする」
和を侮辱する口で、好きだと言う。
ちょっとそこまで、というような笑顔で成仏できるきがする、と言う。
こいつは本当に感情のある人間だったのだろうか。
「……あの小説以外に、……俺がお前を好きだって言う証拠はどこにあるんだよ。……これだけ人生の大半を馬鹿にされて、侮辱されて、惨めだって言われて、俺がお前を好きになる要素、……どこにあんだよ」
たしかに、寿一の行動はすべてが和のためだったのだとさっき分かった。
和ができないから、寿一がする。
それは馬鹿にした行動でも、マウント行為でもなく、ただの使命感だったのだろう。
寿一は和と自分の間の境界が曖昧過ぎたのだ。
和が出来ないなら、自分が出来れば和もできたことになる。
そんな思考回路だったのだろう。
頭がおかしい。
けれど、百歩譲って、和がその行動は愛だったと受け取ったとして。
なら、その口から出る言葉はどうだったのだろうか。
暴言でしかなかったのに。
「侮辱? 馬鹿にした? おれそんなことした?」
キョトン、としたようにそう言われ、和の口から空気だけが零れていく。
「というか、何で好きにならないの? だって、おれって、スパダリってやつでしょ?」
「……は?」
「小説を書こうと思った時に、同じ授業を取ってた女子が言ってたんだよね。やっぱり、スパダリと何もできない女の子の組み合わせが最高だって」
寿一の大学時代の交友関係がチラついて、口内に苦みが広がったような錯覚を覚える。
割れた雨水管から流れる滝のような水音が静かな部屋に喧しかった。
「スパダリってさ、スーパーダーリンの略で、高スペックで相手を深く愛してる男のことだ。で、何もできない女の子。おれと和だなぁって思った」
上体を起こし、布団の上に座り込んだ和の隣で、和に凭れるように腰に手を回す寿一。透けて通り抜けない距離感を覚えたらしい。
「どうせ、和はおれのところに戻ってくるし、そんな未来の話を書いてみるのも一興かなって思って。おれの人生設計を物語にしたら売れちゃった」
「……くそだろ」
「きれいで、何も出来なくて、愛されなくて、おれだけに愛されてる和が世界で一番可愛いんだ」
なんで、みんな分からないのだろう。
こいつは、こんなにもいかれてるのに。
どうして、完璧マンのような扱いを受けるのだろう。
「な、だから、早く言ってくれよ。二十五歳差なら、まだいけるから」
腰を抱かれるような体勢が不快で、横にずれると、今度は膝に寝転ぶような体勢になりながら、寿一が言った。
「成仏して、今度は女に生まれ変わってくるから。そしたら、養子とか、そういうものじゃなくて、本当に夫婦になれるな。死んでラッキーかも」
開いた口がふさがらなかった。
やけに成仏させてくれ、とうるさいと思えば、来世でも和に付きまとう気らしい。
しかも、二十五歳差なんて普通に犯罪臭がするから嫌だ。
「なぁ、和? どうしたら、好きって言ってくれるんだよ。何の意地張ってんだよ」
「……お前がお前である限り、俺はお前に好きだなんて言わない。吐き気がする」
「困るのはお前だよ? おれじゃないとお前はダメじゃん」
顔がいいはずの和が今まで誰とも付き合ってこなかったのは、寿一への気持ちゆえではない。
能動性のなさや、積極性のなさゆえだ。
ヒモですら三日で捨てられるのに、誰かの恋人になどなれるわけがない。
「……生まれ変わった人間はお前なのか?」
鼻で笑うようにそう言えば、寿一がふっと真顔になった。
そして、徐々にその紙より白い顔を赤く染め、ついには耳まで真っ赤になった。
幽霊も赤面するんだな、と思いつつ、寿一のそんな表情に言葉を失う。
「和、……それってさ、今のおれと離れたくないってことだよな……」
「……は?」
「それってさ、……最上級の和からの愛してるじゃん!」
目元にうっすらと涙を浮かべた寿一。
和は背に薄ら寒いものを感じながら、舞い上がる寿一を眺めるしかなかった。
来世はお前なのか、その問いが愛してるになるのかはさておいて。
腑に落ちてしまったからだ。
寿一に冗談でも軽口でも「好きだ」と言えない理由。
邪魔なら成仏させてしまえばいいのだ。
それでも、口に出せなかった。
和は寿一に成仏してほしくなかったのだ。
現実だと思えなかったのは、現実離れしたことが起こっているからではない。
和が寿一の死を受け入れられていないからだ。
最悪だ。
なぜ、この男は和をこんな気持ちにばかりさせるのだろうか。
死の離別の苦しみなど、味わうには早すぎる。
全部、寿一のせいだ。
この人生が苦痛にまみれているのは、寿一が和に負の感情をすべてと言っていいほど味わわせてくるからだ。
「お前となんか、もう二度と出会いたくない……」
ぽつりと零れた言葉に、寿一が笑って答える。
「大丈夫だ。次出会ったら、もう二度と和のこと置いて行かないからな」
辺りが一瞬、白く染まり、ドォォンッ! と凄まじい音が空気を震わせる。
先ほどよりも一層、雨は強くなり、布団が濡れる。
台風が近づいてきていた。

