ジリジリと減っていく財布の残高と反比例するように日中の気温が上がっていく。
こうなればエアコンのない屋内になんていられない。
和は今日も今日とて、真面目に出勤していた。
今日は一円から始め、いい感じに増やして換金し、四円でも爆進中だ。
やはり、風呂に入った翌日は運が向上している気がする。
早めに電気代を払ったほうがいいかもしれない。ガスはまだ止まってなかったはずだから、風呂には入れるだろう。
「今日は景気がいいみたいじゃない?」
顔見知りの中年女性が対面で唐揚げ定食を食べながらそう言った。
和がちゃんぽんをすすっていると、勝手に相席してきたのだ。
今日も機嫌が良さそうなところを見るに、勝っているらしい。
たまにはボロ負けしろ。
「まぁ、今の俺には憑いてますからね」
「日本語おかしくない?」
「正しい日本語っすよ」
勝っているのだから焼肉でも食べようと思ったのだが、財布が軽くなるのを恐れた和は今日もパチンコ店に併設されている食事処でランチだ。
ランチできるだけでも幸せだ。
「てか、聞いてよ! さっき、プレミアがでたわけ! 青保留よ? まったく熱くもないリーチで、赤カットイン。ね? イラッとするでしょ? 赤の無駄遣いだって! 案の定負けで、やめようかと思ったら、プレミア復活演出よ! ど? 脳天やられちゃうでしょ!?」
「よかったっすね」
棒読みな和の相槌に、女性は嫌な顔もせず、本日の台の挙動を語っている。
マジで興味ない。
他人の台とかどうでもいい。
ようやく潤いかけている財布を思いながら麺をすする。
電気が止まって早一週間。
翌日に潤った財布の中身は和が生きているだけで減っていく。
パチンコだけが金を減らす原因ではないのだ。
人間は生きていれば必ず金のかかる生き物だ。
食べるのもそう。風呂もそう。洗濯もそう。
電気代を払うというのは、すべてを上手く回す入口のようなものだ。
分かっている。
けれど、今電気代を払ったところで、もうすぐ次の電気代がやってくるのだと思ったら払う気が失せてしまうのは仕方がないだろう。
払う気が失せてしまうような仕組みなのが悪いのだ。
和だって、電気代を払ったほうが結果的に安く済むことは分かっている。
最近は銭湯も高いし、コインランドリーも安くない。
和の台はすでに沈黙したが、食べ終わったらどうするのか考えなければならない。
まだ日の入りまで時間がある。
「あ、最近、この映画の広告よく見るわ」
マシンガンのように己の台の挙動の素晴らしさを語っていた女性が、ふとテレビに向いた。
映っていたのはまたも和の嫌いな映画の広告だった。
「小説は読んだことあるのよねぇ。今度見に行くんだけど、一緒いく?」
突然の誘いに啜っていた麺が口から零れ落ちてしまう。
「……え、拾ってくれる気に」
「え? そんなわけないじゃない。いらないいらない」
即、一刀両断だった。
そこまで否定されると面白くはない。
「たまには、私だって綺麗な顔した男を侍らしたいじゃない?」
「俺は置物」
「置物になれる男ってすごいのよ? 美女はいくらでもいるけど、イケメンってそうそういないんだから。誇りなさいよ」
「俺、顔だけってよく言われるんで。そこにありがたみと持ったことないっすね」
「ほら、この映画のヒロインも顔だけで何も出来ないから、親近感湧きそうだなって思って。それに、この作者好きなんじゃないの?」
女性の言葉に和の麺が再びスープに帰っていった。
「好きじゃないです」
「え、負けてる度にベンチで……えっと、山岡なごみ、だっけ? その人の本見てない? しかも、毎回本も違うけど」
「……あの本は、負けてる時に読むともっと打とうと思わなくなるというか……、胸糞悪くなって、運勝負しようなんて思わなくなるというか」
ようやく捕まえた麺を啜るが、なぜだか味がしない。
やはり、あの本の作者は幸福なランチの時間さえも邪魔してくるのか。
「胸糞悪い? え、私もあの人の本、何冊か読んだことあるけど、純愛ラブストーリーで感動しない?」
「うげぇ……。あれのどこが感動するんすか」
「え、同じ本読んでる? え、例えば、この次映画になるやつはさ、消えた幼馴染の女の子を何とか探し出して、けど探し出せたのに、女の子は主人公を拒絶する。その理由は? 主人公は分からないけれど、今度こそ逃がさないという想いを込めて、ゆっくりと女の子の拒絶を溶かしていくっていう、王道のラブストーリーじゃない。あれでしょ? 溺愛っていうんだっけ?」
ぞわりと鳥肌が立ったのは、強過ぎる冷房のせいじゃないはずだ。
「……女は何で逃げたんすかね。主人公の男から逃げたかったんじゃないんすか? あれは主人公の視点で進んでいく物語だったから、女が愛されて喜んでいるように見えただけで、本当は嫌で泣いてたんじゃないっすか? 気持ち悪いって」
投げやりにそう言えば、呆れたような表情で小鉢に唐揚げが一つ置かれた。
「栄養失調で、思考回路が捻じれてしまったのね。可哀想に」
「あざす」
失礼な物言いだが、唐揚げに罪はないし、和は潔癖でもないので唐揚げをありがたくいただくことにする。
「え、え、ならさ、新刊はどうだったの?」
「過去一でキモかった」
このタイミングだから出たのだろうが、映画のIF物語だった。
もし、女が男なら。
そういう話だった。
過去一で買ったのを後悔したし、もう二度と読むことはないだろう。
「だいぶ世間では好評らしいよ?」
「アタマいかれてる。女の時は何も出来なくて、ジリ貧で、何も出来ないから体売ることも出来ないし、そういう度胸もない。男になれば、社会の底辺で、顔が良くても女のヒモにもなれなくて、ギャンブルで金を溶かすしかできないクズ。……一体、どこに好きになる要素があるんすか? 説得力がない」
「あははっ! それ、わりと君の自己紹介じゃん!」
女性はツボってしまったようで、身体を震わせて笑っている。
和は大きく息を吐いて、もらった唐揚げに口を付ける。
醬油ベースの味付けで美味しい。
「でもさぁ、憧れないの?」
「どこに憧れる要素が……」
「だって、お金の心配もなくて、何でも買ってくれて、家事もしてくれて、住む場所だって、高層マンションだよ? 君は働くの嫌いでしょ?」
たしかに、それを聞けば、この底辺生活が馬鹿らしくなってくる。
「ほら、早く食べて次の台探さないと取られちゃうよ」
話しかけてきたのはそっちだというのに、やはり女性の話題は忙しい。コールセンターみたいなものだ。
記憶力と瞬発力と寄り添い力が必要。
和には向いてない。
残りの唐揚げと、みそ汁をぺろりと平らげた女性は、来た時と同じようにルンルンとした足取りで己の台に帰っていく。
ここから負けてしまえ。
和は心の中で呪詛を吐いて、自分のちゃんぽんに意識を戻す。
ただ、思った。
和のこの七年は一体何だったのだろうか、と。
金の心配もなく、物欲も満たし、寝ているだけでご飯が出てくる生活。
寿一は和が快適な人生を棒に振ったのだと言った。
あの女性と話して、本当にそうなのかもしれないと思った。
寿一への嫌悪はきっと、労働をして対価を得ることに似ているのだ。
快適な生活を手に入れるために、寿一への嫌悪を受け入れたらよかったのに。
そうしたら、寿一は――死ななかったんじゃないのだろうか。
◇◆
肌を撫でる風に湿度が混ざっている。
真っ暗に染まった空を見上げれば、分厚い雲に覆われ、星も月も見えやしない。
やや大きめなTシャツの裾を揺らす勢いに、天気が荒れる気配がする。
和は足早にアパートへの帰路を急ぐ。
せっかく、銭湯に行ったのに降られたらたまったものではない。
走るのはだるいので、和にとっての猛スピードで歩く。
けれど、すぐに汗をかくからやめた。
のんびりと薄暗い夜道を進み、古臭いアパートに辿り着く。
どこもかしこも錆だらけで、照明があるにはあるが電球はだいぶ前に切れておりただの飾りになっている。
シン、と静まり返ったアパート。
三か月後に取り壊されると聞かされたのはいつのことだっただろうか。
和は新しい住居を探さなければな、と思いつつ何も出来ていない。
今時、トイレのドアノブの方がおしゃれではないかと思えるような、そこにカギを突っ込み、力任せに解錠する。最近は、カギが折れるのではないかと思うほどに回らない。
だが、今日は一発で開いた。
明日もいい日になるだろう。
家の中に入り、癖で照明のスイッチを押してしまう。
どうせ付かないのに、閉まったと思ってもう一度そこを押してしまうまでがセットだ。
外よりも光が差し込まず、一寸先も見えない闇の中、慣れと勘だけで、いつもの定位置に辿り着き、腰を下ろした。
じんわりとした疲れが身体を巡り、長い溜息が零れる。
和は布団の上に倒れこみながら、足で窓を開ける。どうせ取られて困るものなんてないのだ。
カギは掛けていない。
湿気った風は、先ほどよりも明確に雨の匂いを含んでいる。
すぐに降り出すのだろう。
「……雨か」
嫌に静かな夜だ。
うるさい寿一も出てこない。
もしかしたら、成仏したのかもしれない。
成仏……。
心臓が変な音を立て、少し息苦しかった。
枕元に丸まっていたトートバッグの中から本を取り出す。
それはこの前かった本であり、大っ嫌いな山岡なごみの新刊だ。
帯びには「映画化決定! 感謝記念のIF物語」と書かれている。
こんなもん書くより、全くの最新作を書いたほうがいいに決まってる。
こんなくそみたいな……。
なんで、あいつは何でもできるんだろう。
和が唯一、人よりできることだったものですら、プロにはなれなかったというのに。
本なんて、読んでるところなんて見たことなかったのに。
なんで――。
「か~ず、今日は一段と遅かったな」
和の思考を遮るように甘ったるい声が名前を呼んだ。
もう慣れたものだ。
寿一に感情なんて見せてはいけないのだ。
「あ、その小説読んだんだ? 売れてるよなぁ。どう思った?」
売れてるよなぁ、なんて白々しい。
そもそも、なにが売れない作家だ。ふざけるな。
「こんな気色の悪い話よく書けるな。……顔だけが取り柄の何もできないクズ――お前が俺のことをどう思ってるのかよく分かった」
ぽい、と本を放り投げれば、寿一がニコニコと和の真上に浮かぶ。
発光しているし、冷気が漂っているしで、今の電気を止められた和の家にはちょうどいい存在だ。
ただ、真上にいられると眩しいし、その顔を見るだけで腹立たしい。
「知ってたんだ?」
「……七年も連絡すら取ってなかったのに、お前がおれのことを知ってるように、俺だってお前のことは知ってる。山岡なごみ? 気色わりぃんだよ。ふざけんな」
寝返りを打って、寿一の圧から逃げようとするが、寿一は和に覆いかぶさるように距離を詰めてくる。
「おれは、正規ルートだよ? おれは母ちゃんから和はどこでどうしてるのかっていう情報の断片が入ってくるから、ちょっとその辺うろついてれば、お前のことはすぐわかる。逆にお前は? だって、縁切られてるだろ?」
知られているだろうとは、小説を読んでいればすぐに分かった。
どの作品だって、ヒロインは和のような女だったから。
いつだって、顔だけよくて、惨めで、可哀想で何もできない無力な女。
それでいて、やたらプライドだけは高くて、可愛げがない。
いつだって友人も家族もいなかった。
いるのは、自分を心底愛している主人公の男だけだ。
「てか、お前の母親はどこで俺の情報をもらってるんだよ。お前の言った通り、俺は……、あの人たちから縁は切られているし、葬式にも出なくていいって言われてんだ」
「んふふ~、知りたいか? なら、おれの質問に答えてくれ」
寿一との会話は疲れる。
和の思った通りには絶対に進まない。
今までも近かった顔をさらにぐっと近づけて、まるで押し倒されているかのような体勢になる。
不愉快極まりない。
実態があれば蹴り飛ばしてやれたのに。
「なぁ、押入れの――」
「ッ……! 読んだのか!」
寿一の言葉の先が嫌なほどよく分かり、和は背けていた顔を寿一へと向ける。
「うん。読んだよ。和って、何もできないけど小説は書けるんだね。知ってたけど」
「……――ッ」
負の感情が渦巻き、吐き気がした。
恥、恨み、憎しみ、羨望、嫉妬、そして――僅かな歓喜。
泥水のように薄汚れた感情が胸を覆い、鼻の奥が詰まった。
「和が書いてたの知ってるから、おれは小説を書いたんだ。だから、山岡なごみ。お前はきっと、プロにはなれないけど、お前がきっかけでおれがプロになれたなら、それはきっと、お前の成功だろ?」
当たり前の顔でそう言われ、和の中で何かが割れる音がした。
そして、本当の意味で理解したのだ。
寿一の今までの行動を。
すべて、すべて、すべて――本当に、和のためでしかなかったのだと。
あぁ、もう本当にすべてがめんどくさい。
和はもう、自分が寿一に泣き顔を晒していることにも気づけなかった。
一番見られたくない姿だったはずなのに。
こんな、惨めでどうしようもない姿、寿一にだけは見られたくなかったはずなのに。
もう、どうでもよかった。
こうなればエアコンのない屋内になんていられない。
和は今日も今日とて、真面目に出勤していた。
今日は一円から始め、いい感じに増やして換金し、四円でも爆進中だ。
やはり、風呂に入った翌日は運が向上している気がする。
早めに電気代を払ったほうがいいかもしれない。ガスはまだ止まってなかったはずだから、風呂には入れるだろう。
「今日は景気がいいみたいじゃない?」
顔見知りの中年女性が対面で唐揚げ定食を食べながらそう言った。
和がちゃんぽんをすすっていると、勝手に相席してきたのだ。
今日も機嫌が良さそうなところを見るに、勝っているらしい。
たまにはボロ負けしろ。
「まぁ、今の俺には憑いてますからね」
「日本語おかしくない?」
「正しい日本語っすよ」
勝っているのだから焼肉でも食べようと思ったのだが、財布が軽くなるのを恐れた和は今日もパチンコ店に併設されている食事処でランチだ。
ランチできるだけでも幸せだ。
「てか、聞いてよ! さっき、プレミアがでたわけ! 青保留よ? まったく熱くもないリーチで、赤カットイン。ね? イラッとするでしょ? 赤の無駄遣いだって! 案の定負けで、やめようかと思ったら、プレミア復活演出よ! ど? 脳天やられちゃうでしょ!?」
「よかったっすね」
棒読みな和の相槌に、女性は嫌な顔もせず、本日の台の挙動を語っている。
マジで興味ない。
他人の台とかどうでもいい。
ようやく潤いかけている財布を思いながら麺をすする。
電気が止まって早一週間。
翌日に潤った財布の中身は和が生きているだけで減っていく。
パチンコだけが金を減らす原因ではないのだ。
人間は生きていれば必ず金のかかる生き物だ。
食べるのもそう。風呂もそう。洗濯もそう。
電気代を払うというのは、すべてを上手く回す入口のようなものだ。
分かっている。
けれど、今電気代を払ったところで、もうすぐ次の電気代がやってくるのだと思ったら払う気が失せてしまうのは仕方がないだろう。
払う気が失せてしまうような仕組みなのが悪いのだ。
和だって、電気代を払ったほうが結果的に安く済むことは分かっている。
最近は銭湯も高いし、コインランドリーも安くない。
和の台はすでに沈黙したが、食べ終わったらどうするのか考えなければならない。
まだ日の入りまで時間がある。
「あ、最近、この映画の広告よく見るわ」
マシンガンのように己の台の挙動の素晴らしさを語っていた女性が、ふとテレビに向いた。
映っていたのはまたも和の嫌いな映画の広告だった。
「小説は読んだことあるのよねぇ。今度見に行くんだけど、一緒いく?」
突然の誘いに啜っていた麺が口から零れ落ちてしまう。
「……え、拾ってくれる気に」
「え? そんなわけないじゃない。いらないいらない」
即、一刀両断だった。
そこまで否定されると面白くはない。
「たまには、私だって綺麗な顔した男を侍らしたいじゃない?」
「俺は置物」
「置物になれる男ってすごいのよ? 美女はいくらでもいるけど、イケメンってそうそういないんだから。誇りなさいよ」
「俺、顔だけってよく言われるんで。そこにありがたみと持ったことないっすね」
「ほら、この映画のヒロインも顔だけで何も出来ないから、親近感湧きそうだなって思って。それに、この作者好きなんじゃないの?」
女性の言葉に和の麺が再びスープに帰っていった。
「好きじゃないです」
「え、負けてる度にベンチで……えっと、山岡なごみ、だっけ? その人の本見てない? しかも、毎回本も違うけど」
「……あの本は、負けてる時に読むともっと打とうと思わなくなるというか……、胸糞悪くなって、運勝負しようなんて思わなくなるというか」
ようやく捕まえた麺を啜るが、なぜだか味がしない。
やはり、あの本の作者は幸福なランチの時間さえも邪魔してくるのか。
「胸糞悪い? え、私もあの人の本、何冊か読んだことあるけど、純愛ラブストーリーで感動しない?」
「うげぇ……。あれのどこが感動するんすか」
「え、同じ本読んでる? え、例えば、この次映画になるやつはさ、消えた幼馴染の女の子を何とか探し出して、けど探し出せたのに、女の子は主人公を拒絶する。その理由は? 主人公は分からないけれど、今度こそ逃がさないという想いを込めて、ゆっくりと女の子の拒絶を溶かしていくっていう、王道のラブストーリーじゃない。あれでしょ? 溺愛っていうんだっけ?」
ぞわりと鳥肌が立ったのは、強過ぎる冷房のせいじゃないはずだ。
「……女は何で逃げたんすかね。主人公の男から逃げたかったんじゃないんすか? あれは主人公の視点で進んでいく物語だったから、女が愛されて喜んでいるように見えただけで、本当は嫌で泣いてたんじゃないっすか? 気持ち悪いって」
投げやりにそう言えば、呆れたような表情で小鉢に唐揚げが一つ置かれた。
「栄養失調で、思考回路が捻じれてしまったのね。可哀想に」
「あざす」
失礼な物言いだが、唐揚げに罪はないし、和は潔癖でもないので唐揚げをありがたくいただくことにする。
「え、え、ならさ、新刊はどうだったの?」
「過去一でキモかった」
このタイミングだから出たのだろうが、映画のIF物語だった。
もし、女が男なら。
そういう話だった。
過去一で買ったのを後悔したし、もう二度と読むことはないだろう。
「だいぶ世間では好評らしいよ?」
「アタマいかれてる。女の時は何も出来なくて、ジリ貧で、何も出来ないから体売ることも出来ないし、そういう度胸もない。男になれば、社会の底辺で、顔が良くても女のヒモにもなれなくて、ギャンブルで金を溶かすしかできないクズ。……一体、どこに好きになる要素があるんすか? 説得力がない」
「あははっ! それ、わりと君の自己紹介じゃん!」
女性はツボってしまったようで、身体を震わせて笑っている。
和は大きく息を吐いて、もらった唐揚げに口を付ける。
醬油ベースの味付けで美味しい。
「でもさぁ、憧れないの?」
「どこに憧れる要素が……」
「だって、お金の心配もなくて、何でも買ってくれて、家事もしてくれて、住む場所だって、高層マンションだよ? 君は働くの嫌いでしょ?」
たしかに、それを聞けば、この底辺生活が馬鹿らしくなってくる。
「ほら、早く食べて次の台探さないと取られちゃうよ」
話しかけてきたのはそっちだというのに、やはり女性の話題は忙しい。コールセンターみたいなものだ。
記憶力と瞬発力と寄り添い力が必要。
和には向いてない。
残りの唐揚げと、みそ汁をぺろりと平らげた女性は、来た時と同じようにルンルンとした足取りで己の台に帰っていく。
ここから負けてしまえ。
和は心の中で呪詛を吐いて、自分のちゃんぽんに意識を戻す。
ただ、思った。
和のこの七年は一体何だったのだろうか、と。
金の心配もなく、物欲も満たし、寝ているだけでご飯が出てくる生活。
寿一は和が快適な人生を棒に振ったのだと言った。
あの女性と話して、本当にそうなのかもしれないと思った。
寿一への嫌悪はきっと、労働をして対価を得ることに似ているのだ。
快適な生活を手に入れるために、寿一への嫌悪を受け入れたらよかったのに。
そうしたら、寿一は――死ななかったんじゃないのだろうか。
◇◆
肌を撫でる風に湿度が混ざっている。
真っ暗に染まった空を見上げれば、分厚い雲に覆われ、星も月も見えやしない。
やや大きめなTシャツの裾を揺らす勢いに、天気が荒れる気配がする。
和は足早にアパートへの帰路を急ぐ。
せっかく、銭湯に行ったのに降られたらたまったものではない。
走るのはだるいので、和にとっての猛スピードで歩く。
けれど、すぐに汗をかくからやめた。
のんびりと薄暗い夜道を進み、古臭いアパートに辿り着く。
どこもかしこも錆だらけで、照明があるにはあるが電球はだいぶ前に切れておりただの飾りになっている。
シン、と静まり返ったアパート。
三か月後に取り壊されると聞かされたのはいつのことだっただろうか。
和は新しい住居を探さなければな、と思いつつ何も出来ていない。
今時、トイレのドアノブの方がおしゃれではないかと思えるような、そこにカギを突っ込み、力任せに解錠する。最近は、カギが折れるのではないかと思うほどに回らない。
だが、今日は一発で開いた。
明日もいい日になるだろう。
家の中に入り、癖で照明のスイッチを押してしまう。
どうせ付かないのに、閉まったと思ってもう一度そこを押してしまうまでがセットだ。
外よりも光が差し込まず、一寸先も見えない闇の中、慣れと勘だけで、いつもの定位置に辿り着き、腰を下ろした。
じんわりとした疲れが身体を巡り、長い溜息が零れる。
和は布団の上に倒れこみながら、足で窓を開ける。どうせ取られて困るものなんてないのだ。
カギは掛けていない。
湿気った風は、先ほどよりも明確に雨の匂いを含んでいる。
すぐに降り出すのだろう。
「……雨か」
嫌に静かな夜だ。
うるさい寿一も出てこない。
もしかしたら、成仏したのかもしれない。
成仏……。
心臓が変な音を立て、少し息苦しかった。
枕元に丸まっていたトートバッグの中から本を取り出す。
それはこの前かった本であり、大っ嫌いな山岡なごみの新刊だ。
帯びには「映画化決定! 感謝記念のIF物語」と書かれている。
こんなもん書くより、全くの最新作を書いたほうがいいに決まってる。
こんなくそみたいな……。
なんで、あいつは何でもできるんだろう。
和が唯一、人よりできることだったものですら、プロにはなれなかったというのに。
本なんて、読んでるところなんて見たことなかったのに。
なんで――。
「か~ず、今日は一段と遅かったな」
和の思考を遮るように甘ったるい声が名前を呼んだ。
もう慣れたものだ。
寿一に感情なんて見せてはいけないのだ。
「あ、その小説読んだんだ? 売れてるよなぁ。どう思った?」
売れてるよなぁ、なんて白々しい。
そもそも、なにが売れない作家だ。ふざけるな。
「こんな気色の悪い話よく書けるな。……顔だけが取り柄の何もできないクズ――お前が俺のことをどう思ってるのかよく分かった」
ぽい、と本を放り投げれば、寿一がニコニコと和の真上に浮かぶ。
発光しているし、冷気が漂っているしで、今の電気を止められた和の家にはちょうどいい存在だ。
ただ、真上にいられると眩しいし、その顔を見るだけで腹立たしい。
「知ってたんだ?」
「……七年も連絡すら取ってなかったのに、お前がおれのことを知ってるように、俺だってお前のことは知ってる。山岡なごみ? 気色わりぃんだよ。ふざけんな」
寝返りを打って、寿一の圧から逃げようとするが、寿一は和に覆いかぶさるように距離を詰めてくる。
「おれは、正規ルートだよ? おれは母ちゃんから和はどこでどうしてるのかっていう情報の断片が入ってくるから、ちょっとその辺うろついてれば、お前のことはすぐわかる。逆にお前は? だって、縁切られてるだろ?」
知られているだろうとは、小説を読んでいればすぐに分かった。
どの作品だって、ヒロインは和のような女だったから。
いつだって、顔だけよくて、惨めで、可哀想で何もできない無力な女。
それでいて、やたらプライドだけは高くて、可愛げがない。
いつだって友人も家族もいなかった。
いるのは、自分を心底愛している主人公の男だけだ。
「てか、お前の母親はどこで俺の情報をもらってるんだよ。お前の言った通り、俺は……、あの人たちから縁は切られているし、葬式にも出なくていいって言われてんだ」
「んふふ~、知りたいか? なら、おれの質問に答えてくれ」
寿一との会話は疲れる。
和の思った通りには絶対に進まない。
今までも近かった顔をさらにぐっと近づけて、まるで押し倒されているかのような体勢になる。
不愉快極まりない。
実態があれば蹴り飛ばしてやれたのに。
「なぁ、押入れの――」
「ッ……! 読んだのか!」
寿一の言葉の先が嫌なほどよく分かり、和は背けていた顔を寿一へと向ける。
「うん。読んだよ。和って、何もできないけど小説は書けるんだね。知ってたけど」
「……――ッ」
負の感情が渦巻き、吐き気がした。
恥、恨み、憎しみ、羨望、嫉妬、そして――僅かな歓喜。
泥水のように薄汚れた感情が胸を覆い、鼻の奥が詰まった。
「和が書いてたの知ってるから、おれは小説を書いたんだ。だから、山岡なごみ。お前はきっと、プロにはなれないけど、お前がきっかけでおれがプロになれたなら、それはきっと、お前の成功だろ?」
当たり前の顔でそう言われ、和の中で何かが割れる音がした。
そして、本当の意味で理解したのだ。
寿一の今までの行動を。
すべて、すべて、すべて――本当に、和のためでしかなかったのだと。
あぁ、もう本当にすべてがめんどくさい。
和はもう、自分が寿一に泣き顔を晒していることにも気づけなかった。
一番見られたくない姿だったはずなのに。
こんな、惨めでどうしようもない姿、寿一にだけは見られたくなかったはずなのに。
もう、どうでもよかった。

