自称スパダリなモラハラ幼馴染みが溺愛してくる件

冷えすぎた空気とフレグランスの香り。
ジャラジャラと玉の弾かれる音に、脳天を溶かすような高音。
実に最高だ――自分の台ならば。

横山和(よこやまかず)は島横のベンチに腰掛け、ぼんやりと天井を見上げた。
あと千円あれば、あの台のデータランプを光らせたのは自分だったに違いないのに。

和はふてくされた気持ちをどうにか押し込んで、読み終えた本を閉じる。
やはり、こんなもの買ってくるんじゃなかった。これを買って財布から飛んでいった千円札があれば、そう思えてならない。

乱暴に本をくたびれたトートバッグに突っ込み、立ち上がろうとすれば、顔なじみの中年の女性が和に缶コーヒーを差し出す。

「ダメだったの?」

こくん、と頷いた和を見て女性は楽しそうに笑う。

「パチンコ向いてないんじゃない?」

「向いてる人いるんすかね」

「んー? なんて?」

久しぶりに人と喋ったせいか声がかすれて、この爆音の中では声も通らない。
そんな自分に嫌気が差しながら、和はなんでもない、と首を横に振った。

「帰るの?」

「金ないんで」

もう財布には五百円しか入っていない。
帰って明日入れる日雇いのバイトでも見つけなければ。
三日後にはスマホ代の支払いも期限が来る。
それも、先々月分の支払いが。

「この前みたいに競艇に入って行かないようにね」

「…………」

一瞬、それもありだなと思う。
だが、トートバッグに投げ入れた文庫本の重みが嫌に肩に感じられ、帰ろう、とため息をついた。

「はぁ〜、今の顔いいね。アンニュイでイケメンって感じ」

「なら、拾ってください」

「それは嫌だなぁ。顔だけ良くても、何もできなければ粗大ゴミよ。若いんだから真っ当に生きな〜」

なるほど、的を射てるな。そう思った。

「じゃ、私は休憩でランチだから。またね」

つまり、勝っているのだろう。
この女性の隣で何度か打ったことがあるが、休憩を取ってお昼に行くのは大概勝っているときであり、大当たり中である。
隣席に見せびらかしながら、余裕綽々な表情で離席するのだ。
嫌なやつ。

ルンルンとでも聞こえてきそうな後ろ姿を見送り、和はトボトボとパチンコ店を出る。
交換所に並ぶ列が忌々しい。
これは早急にコンビニでアイスでも買わなければやってられない。

「……はぁ」

自分でも思った以上に大きなため息に、三万が消し去られた事実を思い出して再び重い息が口からこぼれる。
あの台に座らなければよかった。

右隣を選べば、今ごろパチンコ店の向かいにある焼き肉屋でお昼を食べていたというのに。
明日の労働もしなくてよかったのに。スマホ代も先々月分くらいなら払ってもよかったのに。

後悔がいくつも溢れて嫌になる。
いつものコンビニに足を踏み入れ、若干汗で湿った頭皮が冷やされていくのを感じて、もう少しだけあそこにいればよかったな、とまた後悔だ。

チョコのバーアイスと大きめのペットボトルのお茶を買い、残金は……百円玉すらなくなってしまった。

照りつける日差しは、朝から強すぎる冷房にあたり体の芯まで冷えていたはずの和の体を意図も容易くじっとりと汗ばませる。

今夜から寝苦しくなりそうだ、とアイスをかじりながら和は帰宅する。
時刻は午後一時半。足取り軽く家を出た三時間後のことだった。
三時間で三万円。
今回は持ったほうだと、自分を慰めるしかない。

◆◇

カーテンを揺らす生暖かな風。
じんわりとした不快な空気に和は何度目か分からない寝返りを打った。
明かりの一つも灯らない暗闇。冷蔵庫のジー、という機械音すら聞こえなくなってしまったこの六畳一間のワンルームはどこか不気味だった。

「……はぁ」

昼からずっと溜息しか口から出ない。
腹も減っているからしょうがないのだろうが、朝まで手元にあった三万円が恋しかった。
和は考える。
もし、今の自分だったらその三万円を有意義に使えたのに、と。

まず、電気代を払う。七千円。
携帯代を払う。七千円。
飯を食う。二千円。
残りをパチンコで増やす。

完璧だ。
最初から四円じゃなくて、一円で増やしてから四円に座ればよかったのだ。朝の自分はそこから間違っていたのだ。

だが、どれだけ悔いても三万円は戻ってこず、電気は止められ、仕事は見つけられず、夜ご飯も忘れていた。

家に帰って、すべてを把握した和はもうどこに出かける気力すらなかった。
せめて、あの時、Wi-Fiの使える場所に行くという選択肢をしていれば、明日の仕事くらいは見つかっただろうに。

そう。家に帰ってから探そうなんて、スマホを止められているのに無理だ。
スマホを使えるのはWi-Fiを使える施設の中だけだ。
最悪、パチンコ店のメンバーズカードの中にある一万発の貯玉を換金すれば生きていけるが、それは惜しい。
あれは和が死に物狂いで貯めた一万発だ。家賃に取っておきたい。

「……はぁ。ヒモになりたい」

シン、と静まり返った部屋に和の情けない呟きが響く。

「でもさぁ、和はヒモ適性ないだろ? ヒモっていうのは、何もせずに養われるだけじゃダメなんだよ?」

分かっている。高校を卒業したての頃、一カ月でやめた会社で知り合った女性に飼われかけたことがある。
だが、三日で追い出されたのだ。
快適で不愉快だったあの日々を思い出し、和は思わず反論の声を上げる。

「うるせぇな……。俺だって……」

だが、ふと、気付く。

「は……?」

この家に和以外の声が響いていいはずがないのだ。
しかも、この声。
親の次にずっと聞いてきたこの間延びした低音。
和の神経を逆撫でる男の声。

「か~ず」

和は振り向けなかった。
え、怖い怖い。

だって、この部屋には誰も呼んだことがない。
そもそも、この声の持ち主とは高校三年生の夏に絶縁しているのだ。
家を教えているわけもないし、カギを渡していつでも来れるようにしてるわけでもない。
だというのに、背後から聞こえる不愉快で不気味な声。

「え、和~? 聞こえてない? そんなわけないよね? だって、さっき、おれの声に反応したもんな」

若干、背後から冷気が漂ってきていると感じるのは和の思い込みだろうか。

「ふ~ん。……和の初恋は四歳の時。モモ組のはるかちゃんに好きって言われて舞い上がって、一週間後くらいにフラれちゃったんだよな。舞い上がって、はるかちゃん、はるかちゃんってくっついてたのにな。お花をプレゼントしたら、もう和のこと好きじゃないって言われて、寿一君が好きって言われたんだよなぁ。逆立ちできるのがカッコいいって。和は逆立ちできなかったもんなぁ。次に好きになったのは――」

「だぁ~~! うるせぇ!」

タオルケットを蹴り飛ばし、勢いよく上体を起こして振り返れば、暗闇でも分かるうっすらとした存在。

「……っ、ひっ、」

見なきゃよかった。
それは半透明でスクリーンに映像を映したときのような、そんな色味の人間のようなものだった。
そいつが和のよく知った、けれども少しだけ大人びた表情で笑ってこっちを見ている。
ホラーだ。

「ほら~。和はおれのこと聞こえるし、見えるんだ。ちゃんと初めから反応しなぁ~?」

ガタイのいいイケメンの幽霊が音もなく和に近寄る。
ドッドッド、と心臓が喧しく、口から出て行ってしまいそうだ。

「おま、……お前、……幽霊?」

「そうらしい。おれ、死んだのかぁ」

あっけらかん、とそう言い放つ幽霊――山岡寿一(やまおかじゅいち)が和に手を伸ばし、微かに震える手を握ろうとしてくる。

「ちぇ……やっぱり、触れない」

やはり、その手はプロジェクターの映像のように和の手をすり抜けてしまった。

「俺を……呪いに来たのか」

思わず漏れたそんな問いに、寿一がキョトンとしたようにこちらを見て、意地悪そうに笑った。

「呪ってほしいなら、そうする。でも、和を呪っておれになんのメリットがあるんだ?」

「……勝手に無視して、縁も切った」

「まぁ、和が人生で一度はそういうことしちゃうって言うのはおれの想定内だ」

「は?」

「だって、和はどうしようもないからな。おれに嫉妬して苦しくなって、逃げ出すんじゃないかなって思ってた。だいぶ早かったけど」

暗闇の中でぼんやりと浮かぶ幽霊がにっこりと和を心底馬鹿にしたように笑う。

「あ~あ、真っ暗じゃん。電気止まったのか? スマホだって圏外になってるってことは止まってるし、……やせた?」

触れられないというのに、寿一は和の頬に手を伸ばし、撫でるような仕草をする。
珍しく真剣な、その視線に和はこれまでを思い出してしまう。
そして――面倒くさくなった。

「寝る」

「え?」

「俺、明日も並ぶから、朝までに成仏してなければ起こして」

「和~? お金ないのに、どこに並ぶって言うのさ」

蹴り飛ばしたタオルケットを整え、寿一に背を向けて寝転ぶ。
だが、寿一は回り込んで和の視界を埋めてきた。
生前からこの男は距離が近いのだ。その近さに何度ギョッとしたことか。

「大丈夫だよ。おれが死んだってことは、おれの遺産が和に入ってくるってことだから。明日か明後日にでも誰かここに来るんじゃないかな」

「……いや、なんでお前の金が俺に入ってくるわけ。それに、相続税も払えないのにもらっても困る」

ニコニコと添い寝をするかのように和にべったりと引っ付いてくる寿一。
その身体はひんやりとしており、絵面を想像すると腹立たしくて気持ち悪くて仕方がないのに心地よい。

「和に金があるなんて思ってないから大丈夫だ。ちゃんと、相続税分も考えて残してるさ。けど、こんなに早く死ぬなんて思ってなかったからな。まだちゃんと貯めきれてない。……お前、無駄遣いするもんなぁ」

分かったような口調でそう言われ、腹立たしい。
だが、何が一番腹立たしいかって、それがすべて事実だからだ。
和は寿一のそういう所が大っ嫌いだった。

「はぁ〜、なんでおれ死んだんだよぉ。……もう少しでお前を迎えに行こうと思ってたのに」

「…………」

「お前はおれの未練なんだ。……なぁ、おれのこと好きだろ? 成仏する前に一度でいいから、素直になれよぉ」

心底嫌いだ。
和は幽霊の世迷言を無視して目を閉じる。
状況は死にたくなるほど不快だが、生ぬるい風もじっとりと湿りそうな布団も全部幽霊が冷やしてくれる。

これは冷房。
自分にそう言い聞かせながら、和は眠気に縋る。
全部これは夢なのだ。明日になれば、変な夢を見たのだと笑えるはずだ。

寿一が死ぬなんて、夢なのだ。