タンブラーに入れたカフェラテは若干、氷が解けて水っぽい。
和は飲み口を締めて、サイドテーブルに置き、そのまま再び柔らかなラグへと寝転んだ。
自室にて何をするでもなく、クッションを抱きながら和はぼんやりと過ごしていた。
家出未遂から三日、寿一は和の行動を制限することはなかった。
「帰って来るなら、浮気以外は目を瞑る」
そう言って、ホテル代の消えた一万ちょっとも返してくれた。
だが、和は解せない。浮気とはなんだ。
こちとら、恋人関係を結んだつもりはないぞ、と言ってやりたかった。
デカいモニターから流れる、数年前に映画化した「山岡なごみ」原作のラブストーリーが静かに部屋に響いている。
これは、山岡なごみ――寿一の三作目の小説だった。
いつも通り、スパダリの男と、可哀想な女の話。
シンデレラストーリーと銘打たれたそれは、大ヒットだった。
いつだって、寿一の物語のヒロインは和の要素を持っている。
完璧に和に寄せていたのは、今映画化しているものと、それのIF物語だけで、それ以外は一つの要素だった。
親から愛されない、何もできない、プライドが高い、他責、他人との繋がりを作れない。
そんな女をなんでもできる男が助けて、溺愛して、守る話だった。
気持ち悪くて、少しだけ、ほんの少しだけ、自分の惨めな部分が間接的に肯定されているような感覚。
寿一の物語を読むと、和は言い得ない感情が沸き上がるのだ。
あまりにも気持ち悪いラブレターだ。
ラグに寝転がり、モニターを見上げるように昔、一度だけ見た映画を見る。
最近は、日中そうやって過ごしていた。
飲み物を用意して、本を読んで、その本の映画を見る。
パチンコに行きたい気持ちも少なからずあるが、和にとっては珍しく足が動かなかった。
着替えて、準備して、歩いていくことが面倒だった。
寿一の物語は、ほとんどすべてが映画化されるか、ドラマ化されているから、時間を潰すにはちょうど良かったのも家にいる理由だ。
そして、日中は寿一も仕事部屋に籠っているか、出版社に行ったり、何やら忙しくしているようで、図らずも一人なのだ。
その間に和は空調の効いた部屋で本を読み、映画鑑賞をし、昼寝をする。
昼食やおやつも寿一が用意してくため、何も問題はない。
今日も寿一は外出している。
映画が上映されているからだろう。忙しそうだった。
「……ふぁ~」
流石に動いて昼食でも食べるか、とのろのろと上体を起こして自室を出る。
リビングへと繋がる廊下に出れば、痛いほどの静寂が和の鼓膜をツンと刺してくる。
だが――がちゃり、と玄関の扉が開いた。
お早いお帰りだな、そう少しだけがっかりしつつも、視線を向ければ、
「……あれ、和くん?」
寿一を柔らかく、小柄にした可愛らしい中年の女性が立っていた。
「…………」
「え、え、ええええええええええええっ! え、あの子ったら! 和くん! ごめんねぇぇぇぇぇ!!」
寿一の母親である洋子はものすごい勢いで和の元へと駆け寄り、肩を掴んで、念入りに何かをチェックしている。
和はその勢いにされるがままになりながら、変わっていないなと思った。
「誘拐されたのよね! ほんと、あの子ったら、ずっと和くんのことが好きで……、っていや、そうじゃなくて、ごめんねぇ!」
マシンガントークに鼓膜を揺さぶられながら、和はゆっくりと洋子の手を解き、口を開く。
「お久しぶりです。……えっと、あいつ……、寿一は今、いなくて」
「久しぶり! そうなの、知ってるのよ。いない時を見計らったの。あの子ったら、ちっとも連絡寄越さないから、これは何か良からぬことをしてると思って、見に来たってわけ! そうしたら、本当にしてるじゃないの!!」
ぷりぷりと怒る洋子に自然と和の口角が上がる。
和は昔からこの人のことが好きだった。
密かに、この人が母親だったら、と何度も思ったものだ。
できない和を見ても笑わないし、できるまでやってみよう、と言ってくれる。
和の理想の母親で、この人だったからこそ、寿一のようなメンタルが生まれたのだろうと思っている。
「あ、こんなところで立ち話はいけないわね! リビングにでも行って、寿一のとっておきのお菓子を食べましょう! 飲み物はね、オレンジティーを作ってきたのよ」
「……あいつ、好きっすもんね」
和がそう言って笑えば、洋子はポカンとしたように挙動を止めて、しかし、すぐにふんわりと笑った。
「そうなの。寿一はね、昔からこれが好きだから。……和くんも好きでしょう? 美味しそうに飲んでたもんね」
洋子に促され、リビングへと向かう。
勝手知ったるなんたら、で洋子は空調を付けて、和をソファに座らせ、キッチンでせかせかと動く。
そうして「あった、あった!」とにんまりと笑うと、氷を入れたグラスと見つけたそれを持って、和の対面に座った。
「和くんはお腹空いてる?」
「はい」
「なら、全部食べちゃおうか」
それは、缶入りのクッキーで、寿一の好物だった。
残りを自分と和に取り分けて、缶をその辺に放った。そして、慣れた手つきで、オレンジティーをグラスに入れていく。
「再会を祝して~って、祝しちゃだめだわ。え、和くん……どうしてここにいるのか、聞いてもいいかな……」
不安そうに視線を彷徨わせている洋子に、和は掻い摘んで、この三か月を説明する。
もちろん、寿一が幽体離脱して和のところに来ていたなんて言わない。
頭がおかしいと思われる。
「……明らかに、誘拐以外のなにものでもないわ。ごめんね……」
「いや……、金銭的に被害を被ってるのはあいつ……」
「いいのよ! 自分がするって言ったんだし、そのために寿一はお金持ちになるために色々と試行錯誤してたんだから。湯水のように使っちゃいなさい」
仮にも息子だと言うのに、それでいいのか。
オレンジティーに口を付けながら、和は居心地が悪い。
それは、洋子が百パーセント和に申し訳なく思い、和を責めないからだ。
「もうね、あんたは将来どうしたいの!? ってくらいに、迷走って言うか、片っ端から資格を取ったり、セミナーに行ってみたり、アルバイトをしてみたり。……大学に行っても、ずっと口癖は和を養うためにお金持ちにならなくちゃ、なの。この子は、ストーカーになるんじゃないかって思って、頭が痛かったのよねぇ」
そりゃそうだ。
自分の息子が、全く何もできない男の尻ばかり追いかけて、犯罪を犯すかもしれないのだ。頭が痛かろう。
「で、結局、こうなったった。小説まで成功させるなんて、思わなかったけどさぁ……全部、イマジナリー和くんとの恋愛小説でしょ? 私、どんな気持ちで読めばいいんだろうって思って……。あ、ごめん。和くんは知りたくなかったよね! 気持ち悪いよね! ごめんんんんん!」
ここに寿一がいたなら、どんな反応をしただろうか。
この親子はわりと情報が筒抜けなのだ。
「いや、……だいぶ、分かってたんで、大丈夫っす」
「あ、そう? ……でさ、あのさ……、これからどうするのかって考えてる? 寿一から逃げるなら、手伝う気はあるのよ? 私も旦那もね。いつか、寿一が和くんの同意なしに、和くんを困らせるような未来って、簡単に想像できてしまってね。話をしてはいたんだ」
周囲から神童だ、善人だ、凄い奴だ、と評価の高い寿一。
だが、意外と両親からの評価はシビアだったらしい。
「和くん、どうしたい?」
その問いに、喉が詰まった。
「和くんは寿一を――どう思ってる?」
急所を思いっきり刺されたような、そんな感覚。
他人から寿一と比較され「何もできない」とみられることよりも堪えたような気がした。
ドクンドクン、と強く脈打つ心臓が耳元にあるんじゃないかと思うほどに喧しい。
真っ直ぐに、申し訳なさそうに、和を見つめる洋子に和は――。
◆◇
部屋に夕日が差し込むころ、寿一がノックもなしに和の部屋に顔を出した。
朝に寿一が出かけて行ったときと同じく、ラグの上でクッションを抱えるように天井を見つめる和に珍しくギョッとしたような表情を見せた。
「え、ずっとそうしてたのか? 体調悪い? 風邪ひいたか? どこも出かけてないし、何もしてないのに?」
一言余計である。
「晩御飯、ピザでも取ろうと思ったんだけど、おかゆの方がいいか?」
「ピザ」
「なんだ、元気じゃん。ほら、電気でもつけて、本読むか、ゲームするか、映画見るかしとけよ。何もしないと、和はす~ぐ変なこと考えだして、病むんだから」
和が何を考えているかも知らないくせに、「変なこと」と断定して、病むと言ってくる。
腹立たしくて会話をストライキしてしまいそうだ。
寿一は全く動かない和を見かねたように部屋の電気を付け、ラグから和を引き上げ、ソファに座らせた。
百九十も身長があれば、当たり前なのだろうか。
一応、和だって百七十五はあるのだ。
最近は規則正しい生活と栄養満点な食事で体重も増えた。
そんな成人男性を軽々と持ち上げられるなんて、筋肉の結果なのか、身長の結果なのか教えてほしい。
「ほら、どうする。本読むか? ゲーム? 映画?」
和の隣に腰を下ろして、どうする? と聞いてくる。
その距離の近さは和の中では三日前から許容できるようになったことの一つだった。
浸食はどんどん進んでいる。
いや、認めていないだけで、和の中の感情はとっくの昔に堕ちているのだ。
見ないふりをしているだけだ。
そうやって、抵抗していても気持ち悪いのに、どうして直視できようか。
「……ピザ」
「もう食べるのか? まだ夕方なのに……。あ、お前、昼飯食べなかったんだろ! そりゃ、腹減るって!」
ふんす、と怒っているていを取る寿一は昼間の洋子にとてもよく似ていた。
「今日の昼は、明日食べるからいいんだ」
「明日は明日で作ろうと思ってたのにか? 明日は焼きそばにする予定だったぞ」
「お前は?」
「明日も打ち合わせでこの時間」
なら、別に作らなくてもいいのに。
和がそう思っていると、ニマニマと口元が嬉しさで緩んでいる寿一。
「気付ているか? お前、おれの予定聞いたんだ……」
「……飯のためにな」
寿一の幸せはだいぶ低いところにあるな、と最近思っている。
和が家にいたら幸せ、予定を聞いたら喜ぶ。
なんでもできる男の癖に、幸福のラインが低すぎて心配になってくる。
「何でもいいから、ピザ頼めよ。俺、シーフード」
「はぁ〜、少しは浸らせてくれよぉ。ま、和はお腹が空きすぎて死にそうだから、仕方ない」
寿一が、違うからな? バカにしたんじゃなくて、おれの和の好きなところ言っただけだかんな? と言い訳をする。
どうでもいい。
言い訳をするなら、さっきの「何もしてないのに?」に欲しかったところだ。
いちいちズレている。
そもそも、変わろうとしているのは分かるが、言わない方向ではなくて、言ったことに対して説明が入るようになるのはなんなんだ。
寿一が思う和の好きなところなど微塵も興味はないのに。
「……洋子さん来たぞ」
和がそう言えば、寿一は「うげぇ」と顔を歪めた。
「母ちゃん来たの? うわ~、マジか。あれだろ? おれが何かしでかしてないか確認しに来たんだろ?」
さすが、息子。大正解だ。
「で、しでかしてたから、もぉ~! って怒ってたんだろ? ……今年は盆も年末も帰るよやめよ」
「帰ってやれよ。しでかしてるって疑っててもオレンジティー持ってきてくれたんだから」
「はぁ~、和はおれの母ちゃん好きだもんなぁ。だってさぁ、絶対説教が待ってるってわかるのに帰りたくないって」
さり気なく巻き付いてくる寿一の腕。
和は振りほどくことなく、寿一の方へと少し凭れた。
「説教されるようなことをしたって認識があって何よりだ」
鼻で笑うようにそう言えば、寿一が少し黙って口を開いた。
「……母ちゃんに何言われたんだ」
「誘拐されたのか? うちのバカ息子がごめんねぇ! って」
「それだけじゃないだろ。……だから、母ちゃんと和を会わせたくないんだ。和に余計なこと言う」
「…………」
「自分の人生は自分で握ったほうが、そりゃいいさ。おれはそうやって生きていくし、そうするように育った」
僅かに空いていた隙間を寿一が和を引き寄せて埋める。
その動作が心底ムカついて、けど安心してしまったのだ。
いや、安心した自分にムカついたのかもしれない。
昼間、和は洋子に答えを出した。
その答えを肯定されたような気がしたから。
「和の人生は……、和はしなくていいよ。するなよ。なにも考えないでここにいていいから。……しなくていいように育ったんだ。なら、おれに握られるために、って考えればいいじゃん。しんどいなら、しなくていいんだよ」
何もできない和のままでいて、そう耳元で静かに零れた。
「もう誰も和ができないことを責めないし、おれと比較もされない。だから、……おれに対して劣等感をもつなよ」
まるで、悪魔の誘惑のようだ。
好きなことだけして、苦しまなくていいのだと言っている。
その責任は全部、寿一が肩代わりし、和はここで怠惰に過ごしていいのだと。
けれど、和が一番しんどいのは、その寿一といることだ。
「……お前、おれが一番、何が苦しいのか知ってるか」
「できない自分を直視すること。できないことが露呈すること。……おれと比べられること」
自分で聞いていてなんだが、できないできないうるせぇな。
若干、ムッとしつつも、和は言葉をつづけた。
「俺が一番、苦しいのは、……しんどいのは、お前といることだ」
体に巻き付く寿一の腕に力がこもったのが分かる。
息を詰めたまま、寿一が静かに和の肩に顔を伏せた。
「たしかに、お前といると比べられるし、できない自分が惨めになる。そこが苦しい。けど、……一番苦しいのは、お前のこと嫌いなのに、……、大っ嫌いなのに、――好きなんだ」
「っ、……」
「気持ち悪いんだよ。……お前に全部奪われて、できないって見下されて、俺が出来たなら自分もできるだろうって、俺の唯一得意だったことでも評価されて、プロになって、売れて……、っ、お前見てると……しんどい」
言いたくなかった。
けど、昼間に洋子さんが来て、和にどうしたいのか聞いたとき、寿一ではなく、洋子さんに申し訳なくなった。
洋子さんは寿一の異常性を理解しているし、和を責めていない。
けれど、彼女にとって、一番大事なのは寿一なのだ。
和が密かに母親のように慕っている彼女の一番大事な存在を、和は消費しているだけなのだと昼間に気付いた。
寿一がどんなに、和にとって憎くても、屈辱の発生源でも、彼女にとって大事な息子なのだ。
それは、和が寿一を心底羨ましいと思っていることの一つで、嫌いになれない理由の一つだった。
「俺は、お前が俺のことで悩んでるのを見ると嬉しい。苦労してるのを見ると幸せだ。……お前が歪ませたんだ。お前のせいで、……っ、寿一のせいで、お前しかダメになったんだ」
「……かず」
のろのろと顔を上げた寿一の目元は今にも零れてしまいそうなほどの水滴が溜まっている。
そこにわざと指先で触れて、決壊させれば、やはり、それだけで和は満たされてしまう。
「俺は何もしない。お前が売れなくなって、落ちぶれて、借金まみれになっても、お前にぶら下がって、お前の金で生きる。……俺のために一生苦労しろ。俺は、底辺生活もできるけど、人間は生活レベルを落とすのは難しいんだ。……どれだけ、寿一の収入が少なくなっても、毎月五万を要求するし、くれなきゃ文句言う。お前が労働でへとへとになって帰ってきても、家事はしないし、飯も作らない。――それでもいいって言ったのはお前だ」
顔を歪ませて、心底幸せだと泣く寿一に体重を預ける。
そんな和を大事に抱きしめて、寿一は子供みたいにしゃくりあげている。
「……お前が俺を馬鹿にするのは、腹立つし、しんどいけど、もう慣れた。……お前に生活を整えられて、金もらってるから、それの対価だと思ってやる」
「馬鹿にして、っない、っ……て、言ってるのに。おれの、すきなとこだって……、教えてやってんだって……」
嫌な感性過ぎる。
徐々に差し込んでいた鮮やかなオレンジ色が薄くなり、部屋には影が落とされる。
冷房の静かな機械音と寿一の泣き声が部屋に響いて、一番晒したくなかった本音をぶちまけたにも関わらず、和の心はだいぶ凪いでいた。
「俺のために、そうやって一生泣いて、苦しんでくれ」
これは、逃避であり、敗北であり――勝利なのだ。
◇◆
どうしたい、洋子にそう聞かれた和は言葉に詰まった。
だが、しばらくするとストン、と感情が胸に落ち、言葉になった。
「……俺は、昔から寿一のことが好きですよ。ただ、認めたくなかっただけで」
「…………」
「だって、あいつって俺の欲しかったもん、全部持ってんだもん。……頭もいいし、体格だっていいし、運動もできるし、手先も器用。みんなに好かれて、ニコニコできて、肯定してくれる親もいる。……なのに、正反対の俺のことずっと見捨てないから……」
洋子は眉間に眉を寄せ、オレンジティーの入ったグラスを持つ和の手に触れる。
その手は温かかった。
「俺、ここにいたくているんすよ。認めたくないから、いるための理由を探して、逃げたけど、出て行こうなんて本気で考えたことない」
惨めで、恥ずかしくて、どうしようもない本音だった。
けれど、いつだってこの人の前では素直に出てきてしまう。
寿一には絶対に言わない本音。
自分にも認めない本音。
それを言葉にしてしまって、きっと洋子が帰った後に後悔して、気持ち悪くなって、死にたくなるんだと思う。
だが、もうそれはしょうがないことなのだ。
「……そっか」
洋子はそう言って、和の手をぽんぽんと叩いた。
微笑みながらオレンジティーを飲み、空気を変えるようにクッキーを和に差し出してくる。
「寿一はね、和くんを養子にするんだって」
なんてことないように、そんなことを言われ、受け取って口に入れたクッキーが喉に引っかかった。
「だからね、和くんは私の孫ってことになるのよ~」
「…………」
「なんかあったら、私に言っていいからね。寿一とケンカしたらうちに「帰って」来なさいね」
笑った顔はやはり、寿一によく似ていた。

