慣れたフレグランスの香りと寒いほどの冷房。
ドリンクホルダーに差したぬるくなってしまったカフェラテに口をつけながら「店員さんを呼んでね」と繰り返す台を見つめる。
本日何度目だろうか。
呼び出しボタンを押してはいるが、全く来ない店員を待つ。
両隣の客は迷惑そうに顔を顰めているが、和のせいではないので、そんなに不機嫌にならないでほしい。
玉づまりを起こす、この台が悪いのだ。
エラーを頻発するくせに、爆発しているこの台が悪いのだ。
つまり、嫉妬お疲れ様です。
ようやく来た店員に休憩する旨を伝え、和はパチ屋を出る。
最近の勝っている時のブームは近くの喫茶店でランチをすることだった。
はやり人間、金を持つと生活水準は簡単に上がるのだ。
下げることはだいぶ難しい。
今の和にあのボロアパートにいた頃のように生きろと言われても適応するまでにだいぶ時間がかかるだろう。
パチ屋を出てたった数分で、額にはじんわりと汗が滲む。
やはり、帰宅は夕方か夜がいい。
喫茶店に入り、席に着き、悩むことなく一番安いランチを頼む。
チーズとトマトのホットサンドとコーヒーのセットだ。
店員が和に背を向け、静かな音楽の流れる空間で一人になった瞬間、和の唇から重苦しいため息が出た。
パチンコ玉が大量に出るのは面白いが、あの台自体はクソだな。
開発者に物申したい気分だ。
当たってるのに面白くないとは、どういうことだ。
和がそんな事を考えていると、おもむろに対面に座ってくる女性。
いつもの顔見知りの中年女性だった。
「難しい顔して、どうしたの?」
「……俺の行くところに必ずいる」
「あのね、周り見てみなさいよ。パチ屋の常連ばっかよ。しかも、ここを君に教えたのは私よ。わ・た・し」
そういえばそうだ。
「で? この間のバカみたいな大敗は取り戻せそうなの?」
一ヶ月前の和の負けのことだろう。
元々持っていた十二万と寿一からの小遣いの五万のうち二万を元手にコツコツ増やした二十万。
それが、一日でなくなってしまったのだ。
あれは何があったのだろう。
和はよく覚えていない。
「……全然っす。今日の分を捲っただけっすね。今のところ」
「あんなに出てるのに?」
「あの台に座るまでに、スロットで……」
「……もぉ〜、おバカだわ」
倍々チャレンジは良くない。
身をもって知っているというのに、やってしまうのはギャンブラーの性が。
「でも、最近はすごーくオシャレよね? ヒモにしてくれる女の人にでも出会った?」
「……ヒモって、何かしないといけないっすよね?」
「そうねぇ〜。何もしないなんて、ぬいぐるみみたいなものじゃない?」
「……ぬいぐるみ」
「ぬいぐるみは手に入れた時にお金が少しかかるけど、人間はずぅ~っとお金がかかるのよ? ぬいぐるみと同じように見えて、やっぱり何もしないなんて邪魔よねぇ」
移動してきた際に持ってきたであろうホットコーヒーに砂糖を入れてくるくるとかき混ぜている女性。
言葉は強いが、いつだって悪意は微塵もないのだ。
「なに? 本当にヒモにしてくれる女がいたの? え、女神?」
女ではないし、女神とは対極にいるやつである。
女神はきっと、和を削らないし、優しく包み込んでくれるだろう。
「女神ではないけど、……ヒモみたいな状態にはいます」
「……え、こんなところにいていいの?」
「何も言われないっすね」
「家事とか……」
「しなくていいって言われてるんで」
「え、女神じゃん」
何度だって言う。
女神ではない。女神に失礼だ。
「そこに居るだけでいいってこと? えぇ~、いいなぁ。パチンコできるってことは、お小遣もくれるってことでしょ? え、羨まし」
そうなのだ。
和は世間一般では、ものすごく恵まれた部類にいるのだ。
好きなだけ眠れて、好きなものを食べれて、好きな時に好きなことができる。
夢のような生活だ。
日雇いのバイトだって探さなくていいし、財布の中身に思いを馳せて生きていかなくていいなんて、天国のようだ。
だというのに、和は心底疲れている。
寿一のせいだ。
そこに寿一がいるだけで、和は休まらない。
労働だと割り切った。
けれど、割り切れない。
ならば、ヒモの極意をしてみようと思うのだが、ヒモの極意とは何だろうか。
「ヒモって、何すればいいんすか」
「家事とか? あと、仕事から帰ってきたときに、癒してあげたりとか……」
「それって、自立してない恋人とどう違うんすか」
女性が目を丸くして、手持ち無沙汰にコーヒーをくるくるしていた手を止めた。
そうして、少し考えるように言う。
「相手を好きかどうかじゃない?」
心臓が嫌な跳ね方をする。
幸い、女性はそんな和の反応など気付くこともなく、再びミルクを入れてコーヒーを混ぜていく。
「ほら、好きでも自分のことしか考えられない人と、それでもいいから一緒にいたい人がいて、需要と供給が合った結果だと思うのよね」
なるほど、と思いながら話を聞いていると、女性が頼んだであろうハムとチーズのホットサンドが運ばれてくる。
まだ、何も来ない和を放って、女性はホットサンドに齧りつきながら、話を続ける。
「で、そういう需要と供給が合ったカップルの働いてないほうがヒモって呼ばれる。でも、結婚したら呼称は変わるのよね。だから、正当性があるかないか、じゃないの? ヒモだって世間で言われる状態の恋人でも、結婚したら正当性を得る。あ、あれよ? 同意があった場合のみだからね?」
「……好きじゃなかったら?」
「それは、名実ともに正真正銘の『ヒモ』よ。可哀そうよねぇ。恋人には相手を養って、養われる社会的な正当性が無いから、どんなに本人たちが良くても、そのクズい『ヒモ』と一緒にされるわけで」
で、と女性が一つ目のホットサンドを食べ終えて、手をおしぼりで拭きながらこちらを見た。
「君はどっちなの? そんなこと聞くくらいだから、好きじゃないの? 女神なのに?」
「……ヒモって家事手伝いってことっすかね。一般的に」
あからさまに自分の問いに答えない和に女性は苦笑しつつ、二個目のホットサンドに手を付けた。
「まぁ、してくれたら嬉しいなぁって感じじゃない? だって、養ってるくらいなんだし、好きなんでしょ。だから、癒やしてくれたらそれでいいって人が多いんじゃない?」
「癒やし……」
「仕事から疲れて帰って、おかえり、頑張ったねって抱きしめてくれたら回復する! って人とか。ただ、誰にも取られたくないから、楽な環境を与えてるだけとか」
つまり、現状で数ができることは何もないということだ。
和は寿一のために何もしたくはない。
けれど、現状が苦しい。
なにに対して苦しいのかは分からない。
この状態が寿一のヒモならば、ヒモらしくしたら少しは楽になると思ったのだ。
それが、家事手伝いならば、一日に一回でも食器を洗うでも、洗濯をたたむでもしてやろうと考えた。
だが、寿一自身に寄り添うなんてごめんだ。
「相手が何もしなくていいって言ってるんだったら甘えたら? うわべだけの言葉とか行動なんて一番女が腹立つことなんだし」
「たとえば?」
「ヒモで居続けたいために、好きだよとか、愛してるよ、みたいな。機嫌をとって媚を売るみたいな? あとは、そうだなぁ……身体で繋ぎ止めるみたいな」
今、何も口に入れてなくて本当に良かった。
むせるところだった。
「尊敬と感謝だけ、とりあえずはあればいいでしょ」
そう言ってペロリとランチを平らげた女性は、おしぼりで口元をぬぐって席を立つ。
意識はもう窓の外に見えるパチ屋の自分の台にあるのだろう。
「さぁて、昼休憩は終わり! 君の台が出続けることを祈ってるよ」
なんて、少しバカにしたようにニヤリと笑って会計に行ってしまう。
嵐のような人だ。
その後ろ姿を見ながら、和は考える。
尊敬と感謝。
それらは果たして、自分が持つべきものだろうか、と。
こんなに自分を惨めにするのに。
和の眼の前にランチが運ばれてくる。
せっかくの、大勝ランチになる予定だったのに味は覚えていなかった。
◆◇
この捻れた恋に気づいたのは高校三年の初夏だった。
出版社から声がかかり、和が書いた小説。
そこに、寿一への感情がすべて在った。
自分をこんなにも惨めにし、孤独にし、何もできなくさせたのに、なぜ、なぜなのだ、と気持ちが悪かった。
絶対に伝えるつもりはなかった。
だから、小説で世に出て、この気持ち悪い感情が昇華されることを楽しみにしていた。
今まで、何もできない和を助ける何でもできる寿一として人気者になり、天才性も分かりやすく周囲に誇示できたのだ。
たまには和の踏み台として使ってもいいはずだ。
たとえそれが、自分の片思いだとしても。
だと思っていたのに、結果は出版社側の音信不通による企画の白紙。
この恋は行き場を失い、けれど、気づいてしまったせいで、和は普通に戻れなくなった。
和の感情をめちゃくちゃにし、親も周囲もすべて、和から引き剥がして、和を孤独にしたのに、そんな相手を好きだなんて馬鹿げてる。
当時は寿一の気持ちなんて知らなかった。
ただの距離の近いやつ、何でもできるくせにマウント取らないと気がすまないやつ、できない和を隣において、できる自分を見せたいやつ、くらいにしか認識してなかった。
けど、唯一、和を見てくれていた人間だった。
出来なくても呆れない。
バカにしたようなことを言うけど、悪意がない。
確かに削れはする。
出来ないことを、出来ないと認識させられて、自分の無能さを認めさせられる。
けれど、寿一は何でもできるくせに、何もできない和をいつも見つけてくれるのだ。
いつだって、なぜできないのか、なぜ分からないのか、そうやって詰る声の中で生きてきた。
すごいともてはやされる人間に怒声も何もなく構われることかま、無意識に和の自己肯定感を上げる唯一のものだった。
だが、それを認めてしまうのはあまりにも気持ち悪い。
だからこそ、山岡なごみ――寿一の書く物語が和への気持ちなのだと知ったときは思わず吐いた。
自意識過剰だと思おうとした。
けれど、思えなかった。
だって、すべてが繋がるのだ。
寿一の行動が、視線が、小説を読めば補完されるのだ。
暴言は補完されなかったが、悪意はないことを知っていたから、否定の材料にはならなかった。
そうやって、小説が出るたびに寿一からラブレターを渡されたような気持ちになった。
本人はモラハラ野郎だが、小説の中の寿一をモデルにしているであろうキャラクターは文字通りのスパダリで、綺麗な感情しか持っていなかったから。
だからこそ、自分の捻れた感情すら綺麗なものになった気がした。
しかし、読み終えれば現実に戻り、綺麗になってなどいないのだと思い知る。
寿一は和に会いにこないし、会いに来られたところで受け入れられるはずがないからだ。
すべては寿一のせいだ。
ただ、この「恋」に関しては、すべて和の責任だ。
だって、歪んだのは和がまともに愛されてなかったせいなのだから。
ドリンクホルダーに差したぬるくなってしまったカフェラテに口をつけながら「店員さんを呼んでね」と繰り返す台を見つめる。
本日何度目だろうか。
呼び出しボタンを押してはいるが、全く来ない店員を待つ。
両隣の客は迷惑そうに顔を顰めているが、和のせいではないので、そんなに不機嫌にならないでほしい。
玉づまりを起こす、この台が悪いのだ。
エラーを頻発するくせに、爆発しているこの台が悪いのだ。
つまり、嫉妬お疲れ様です。
ようやく来た店員に休憩する旨を伝え、和はパチ屋を出る。
最近の勝っている時のブームは近くの喫茶店でランチをすることだった。
はやり人間、金を持つと生活水準は簡単に上がるのだ。
下げることはだいぶ難しい。
今の和にあのボロアパートにいた頃のように生きろと言われても適応するまでにだいぶ時間がかかるだろう。
パチ屋を出てたった数分で、額にはじんわりと汗が滲む。
やはり、帰宅は夕方か夜がいい。
喫茶店に入り、席に着き、悩むことなく一番安いランチを頼む。
チーズとトマトのホットサンドとコーヒーのセットだ。
店員が和に背を向け、静かな音楽の流れる空間で一人になった瞬間、和の唇から重苦しいため息が出た。
パチンコ玉が大量に出るのは面白いが、あの台自体はクソだな。
開発者に物申したい気分だ。
当たってるのに面白くないとは、どういうことだ。
和がそんな事を考えていると、おもむろに対面に座ってくる女性。
いつもの顔見知りの中年女性だった。
「難しい顔して、どうしたの?」
「……俺の行くところに必ずいる」
「あのね、周り見てみなさいよ。パチ屋の常連ばっかよ。しかも、ここを君に教えたのは私よ。わ・た・し」
そういえばそうだ。
「で? この間のバカみたいな大敗は取り戻せそうなの?」
一ヶ月前の和の負けのことだろう。
元々持っていた十二万と寿一からの小遣いの五万のうち二万を元手にコツコツ増やした二十万。
それが、一日でなくなってしまったのだ。
あれは何があったのだろう。
和はよく覚えていない。
「……全然っす。今日の分を捲っただけっすね。今のところ」
「あんなに出てるのに?」
「あの台に座るまでに、スロットで……」
「……もぉ〜、おバカだわ」
倍々チャレンジは良くない。
身をもって知っているというのに、やってしまうのはギャンブラーの性が。
「でも、最近はすごーくオシャレよね? ヒモにしてくれる女の人にでも出会った?」
「……ヒモって、何かしないといけないっすよね?」
「そうねぇ〜。何もしないなんて、ぬいぐるみみたいなものじゃない?」
「……ぬいぐるみ」
「ぬいぐるみは手に入れた時にお金が少しかかるけど、人間はずぅ~っとお金がかかるのよ? ぬいぐるみと同じように見えて、やっぱり何もしないなんて邪魔よねぇ」
移動してきた際に持ってきたであろうホットコーヒーに砂糖を入れてくるくるとかき混ぜている女性。
言葉は強いが、いつだって悪意は微塵もないのだ。
「なに? 本当にヒモにしてくれる女がいたの? え、女神?」
女ではないし、女神とは対極にいるやつである。
女神はきっと、和を削らないし、優しく包み込んでくれるだろう。
「女神ではないけど、……ヒモみたいな状態にはいます」
「……え、こんなところにいていいの?」
「何も言われないっすね」
「家事とか……」
「しなくていいって言われてるんで」
「え、女神じゃん」
何度だって言う。
女神ではない。女神に失礼だ。
「そこに居るだけでいいってこと? えぇ~、いいなぁ。パチンコできるってことは、お小遣もくれるってことでしょ? え、羨まし」
そうなのだ。
和は世間一般では、ものすごく恵まれた部類にいるのだ。
好きなだけ眠れて、好きなものを食べれて、好きな時に好きなことができる。
夢のような生活だ。
日雇いのバイトだって探さなくていいし、財布の中身に思いを馳せて生きていかなくていいなんて、天国のようだ。
だというのに、和は心底疲れている。
寿一のせいだ。
そこに寿一がいるだけで、和は休まらない。
労働だと割り切った。
けれど、割り切れない。
ならば、ヒモの極意をしてみようと思うのだが、ヒモの極意とは何だろうか。
「ヒモって、何すればいいんすか」
「家事とか? あと、仕事から帰ってきたときに、癒してあげたりとか……」
「それって、自立してない恋人とどう違うんすか」
女性が目を丸くして、手持ち無沙汰にコーヒーをくるくるしていた手を止めた。
そうして、少し考えるように言う。
「相手を好きかどうかじゃない?」
心臓が嫌な跳ね方をする。
幸い、女性はそんな和の反応など気付くこともなく、再びミルクを入れてコーヒーを混ぜていく。
「ほら、好きでも自分のことしか考えられない人と、それでもいいから一緒にいたい人がいて、需要と供給が合った結果だと思うのよね」
なるほど、と思いながら話を聞いていると、女性が頼んだであろうハムとチーズのホットサンドが運ばれてくる。
まだ、何も来ない和を放って、女性はホットサンドに齧りつきながら、話を続ける。
「で、そういう需要と供給が合ったカップルの働いてないほうがヒモって呼ばれる。でも、結婚したら呼称は変わるのよね。だから、正当性があるかないか、じゃないの? ヒモだって世間で言われる状態の恋人でも、結婚したら正当性を得る。あ、あれよ? 同意があった場合のみだからね?」
「……好きじゃなかったら?」
「それは、名実ともに正真正銘の『ヒモ』よ。可哀そうよねぇ。恋人には相手を養って、養われる社会的な正当性が無いから、どんなに本人たちが良くても、そのクズい『ヒモ』と一緒にされるわけで」
で、と女性が一つ目のホットサンドを食べ終えて、手をおしぼりで拭きながらこちらを見た。
「君はどっちなの? そんなこと聞くくらいだから、好きじゃないの? 女神なのに?」
「……ヒモって家事手伝いってことっすかね。一般的に」
あからさまに自分の問いに答えない和に女性は苦笑しつつ、二個目のホットサンドに手を付けた。
「まぁ、してくれたら嬉しいなぁって感じじゃない? だって、養ってるくらいなんだし、好きなんでしょ。だから、癒やしてくれたらそれでいいって人が多いんじゃない?」
「癒やし……」
「仕事から疲れて帰って、おかえり、頑張ったねって抱きしめてくれたら回復する! って人とか。ただ、誰にも取られたくないから、楽な環境を与えてるだけとか」
つまり、現状で数ができることは何もないということだ。
和は寿一のために何もしたくはない。
けれど、現状が苦しい。
なにに対して苦しいのかは分からない。
この状態が寿一のヒモならば、ヒモらしくしたら少しは楽になると思ったのだ。
それが、家事手伝いならば、一日に一回でも食器を洗うでも、洗濯をたたむでもしてやろうと考えた。
だが、寿一自身に寄り添うなんてごめんだ。
「相手が何もしなくていいって言ってるんだったら甘えたら? うわべだけの言葉とか行動なんて一番女が腹立つことなんだし」
「たとえば?」
「ヒモで居続けたいために、好きだよとか、愛してるよ、みたいな。機嫌をとって媚を売るみたいな? あとは、そうだなぁ……身体で繋ぎ止めるみたいな」
今、何も口に入れてなくて本当に良かった。
むせるところだった。
「尊敬と感謝だけ、とりあえずはあればいいでしょ」
そう言ってペロリとランチを平らげた女性は、おしぼりで口元をぬぐって席を立つ。
意識はもう窓の外に見えるパチ屋の自分の台にあるのだろう。
「さぁて、昼休憩は終わり! 君の台が出続けることを祈ってるよ」
なんて、少しバカにしたようにニヤリと笑って会計に行ってしまう。
嵐のような人だ。
その後ろ姿を見ながら、和は考える。
尊敬と感謝。
それらは果たして、自分が持つべきものだろうか、と。
こんなに自分を惨めにするのに。
和の眼の前にランチが運ばれてくる。
せっかくの、大勝ランチになる予定だったのに味は覚えていなかった。
◆◇
この捻れた恋に気づいたのは高校三年の初夏だった。
出版社から声がかかり、和が書いた小説。
そこに、寿一への感情がすべて在った。
自分をこんなにも惨めにし、孤独にし、何もできなくさせたのに、なぜ、なぜなのだ、と気持ちが悪かった。
絶対に伝えるつもりはなかった。
だから、小説で世に出て、この気持ち悪い感情が昇華されることを楽しみにしていた。
今まで、何もできない和を助ける何でもできる寿一として人気者になり、天才性も分かりやすく周囲に誇示できたのだ。
たまには和の踏み台として使ってもいいはずだ。
たとえそれが、自分の片思いだとしても。
だと思っていたのに、結果は出版社側の音信不通による企画の白紙。
この恋は行き場を失い、けれど、気づいてしまったせいで、和は普通に戻れなくなった。
和の感情をめちゃくちゃにし、親も周囲もすべて、和から引き剥がして、和を孤独にしたのに、そんな相手を好きだなんて馬鹿げてる。
当時は寿一の気持ちなんて知らなかった。
ただの距離の近いやつ、何でもできるくせにマウント取らないと気がすまないやつ、できない和を隣において、できる自分を見せたいやつ、くらいにしか認識してなかった。
けど、唯一、和を見てくれていた人間だった。
出来なくても呆れない。
バカにしたようなことを言うけど、悪意がない。
確かに削れはする。
出来ないことを、出来ないと認識させられて、自分の無能さを認めさせられる。
けれど、寿一は何でもできるくせに、何もできない和をいつも見つけてくれるのだ。
いつだって、なぜできないのか、なぜ分からないのか、そうやって詰る声の中で生きてきた。
すごいともてはやされる人間に怒声も何もなく構われることかま、無意識に和の自己肯定感を上げる唯一のものだった。
だが、それを認めてしまうのはあまりにも気持ち悪い。
だからこそ、山岡なごみ――寿一の書く物語が和への気持ちなのだと知ったときは思わず吐いた。
自意識過剰だと思おうとした。
けれど、思えなかった。
だって、すべてが繋がるのだ。
寿一の行動が、視線が、小説を読めば補完されるのだ。
暴言は補完されなかったが、悪意はないことを知っていたから、否定の材料にはならなかった。
そうやって、小説が出るたびに寿一からラブレターを渡されたような気持ちになった。
本人はモラハラ野郎だが、小説の中の寿一をモデルにしているであろうキャラクターは文字通りのスパダリで、綺麗な感情しか持っていなかったから。
だからこそ、自分の捻れた感情すら綺麗なものになった気がした。
しかし、読み終えれば現実に戻り、綺麗になってなどいないのだと思い知る。
寿一は和に会いにこないし、会いに来られたところで受け入れられるはずがないからだ。
すべては寿一のせいだ。
ただ、この「恋」に関しては、すべて和の責任だ。
だって、歪んだのは和がまともに愛されてなかったせいなのだから。

