鈍雲が過ぎ去った日盛り時。駅前で買ったカフェラテに口を付けながら、干しなめこ飴を舌で転がす。ワンコインで掴める至福の一時。
篠は怠惰を全身で表すように芝生へ寝転がり、うつらうつらと瞼を瞬かせる。
「……篠、今日は一限から実技が入ってるって言ってなかったか? いいの? こんなとこで、ぼんやりしてて」
「那岐くんも同じ講義取ってたよね?」
「いい天気だな〜」
「いい天気だね〜」
目覚ましを五つも設定していたにも関わらず、音を聞いたのは最後の一つだけ。スヌーズを速攻でキャンセルし、たらふく睡眠を貪った後に目を覚ますと、すでに一限を逃していた。
同じ理由で電車を逃した那岐とは、駅のホームで合流し、そのまま最寄りの公園で、朝食を共にすることとなる。
大学も三年目にもなれば、警告メールごときではビビらない。むしろ、「一限から実技を入れる方が悪い」と一蹴し、こうしてどこまでも青い空の下で、堂々と惰性を貪るほどだ。
「お前の論文また賞取ったって? 今年で何回目だ?」
「四回目だったかなあ」
「例の島には行けそう?」
「ダメっぽい。だから代わりに、ドローン飛ばしてもらおうかなって」
「それはそれで金が掛かりそうだなあ……今回のテーマはなんだ?」
「『ガサマナツツミ鳥の正常位交尾に関する見解』」
「やっぱり野鳥なのか」
前方五メートルほどの距離で、愛の営みに励むカワラバトを見つめ、篠は盛大な溜め息を吐く。
鳩の発情期は、ほぼ年中無休。ガチめの真夏を除くオールシーズンで交尾に明け暮れ、年に七〜八回ほど産卵する。
爪でメスの背にしがみつき、尾羽を左右に激しく振る姿は大変勇ましい。典型的な後背位ではあるが、これこそ王道だと興奮を滾らせていると、横に座っていたはずの男が姿を消していた。どうやら造形美といえるサイズの巨乳を見つけ、スカウトに向かったらしい。
篠は軽く欠伸をしてから、那岐のバックパックを背負い、一人先に大学の裏門の方へと足を向ける。涼やかな水飛沫が飛び散る噴水を横切り、自動販売機の立ち並ぶエリアを抜けた先。ちょうど公園の出口あたりで、不意に、後ろから腕が掴まれた。
「……なにかご用でしょうか?」
「ごめん、夜職の子に外で声掛けるのは、マナー違反だってわかってるんだけど」
「いえ、それは気にしませんが……大丈夫ですか?」
「いや、だめ……息切れで死にそう」
「ガチめの全力疾走かましましたね」
ゼーゼーっと、背大きく上下させながら、男は骨ばった手の甲で、額を滴る汗を拭う。一体どれほどの距離を走ってきたのだろう。シャツは肌に張り付くほどの汗で湿り、引き締まったボディーラインが浮き彫りだ。
悩ましげな表情に、着崩されたスーツ。本人にその自覚はなくとも、息継ぎの声が完璧にアノ時のソレであり、篠は顔を紅潮させつつ目を逸らした。
「君、大学生だったのか?」
「老け顔って言いたいんですか?」
「その逆。未成年だと思ってたから、安心した」
「日本だと十八歳以下の飲酒は違法なんですよ」
「あははっ、夜職やってるくせにお堅いな」
やっと呼吸が整ってきたのか。男はふっと相互を崩し、乱れた前髪を掻き上げる。そこにはあの夜見た時と同じホクロがあり――篠はぼんやりと、脳の端に押しやっていた記憶を浮上させた。
「……綾世さん?」
「今、思い出したの?」
「すみません……人の顔を覚えるのが苦手で」
「あははっ、別にいいよ。それより、君が勧めてくれた本、空港で見つけたから買ってみたんだ」
「クリスティーナ・ロベルの新刊ですか?」
「そう、すごくよかった。ミステリーだとは思わなくって、読み始めたら止まらなくってさ。気が付いたら、乗る予定だった飛行機を乗り過ごしてた……」
手に持っていた本を手渡し、少しばかり声のトーンを下げる。歯切れの悪さから、まだ先があるのかと、反応を返さずにいると、向かい側のビルボードで、午後のニュース番組が流れ始めた。
経済、新人アイドルの熱愛発覚に、政治家の不祥事。次々と切り替わるコンテンツの中。次に映し出された映像は、先週ドバイで起こった飛行機事故の映像だった。
乗客百七十二人が死亡する中、生存者はたったの二人。痛ましい悲劇は、国を跨いだ先にも大きな衝撃を与え、多くの者に深い爪痕を残した。
「……マクトゥームでの墜落事故、あれは僕が乗る予定だった飛行機だ」
「よかったですね、乗り過ごしてて」
「予知ができるお兄さんがいるって言ってたけど……本当は、何を見ることができるんだ?」
当たり障りのない返答でかわしたはずが、却って、疑心を煽る形になったのだろう。綾世は篠の手を掴み、前回と同様に、ど直球で正鵠を射てくる。
「僕を生かした理由はなに?」
重々しい追求と共に、その背の方から黒い帯が流れてきた。先日よりも量が増え、苦痛を記すフィルムの長さも格段に伸びている。鼓膜を殴り付ける痛々しい叫び声は、幻聴なのか。それとも、実際にビルボードから放たれているものなのか。
判断が付かずに硬直していると、その中の一つが、なにかを急かすように、鈍く光った。
「……日比々崎の都市開発は成功します。たったの五年で移住者の数は鰻登り。見越した以上の成果が得られると思います……けれど個性のない都市はやがて衰退し、また過疎化の道を辿るかもしれません。小さな駄菓子工場ならなおさら、一家心中なんて悲劇も……」
ぽつりっと、水を滴らせるように落とされた言葉は、独り言に近い。目前の相手がどこまで信じるのか。どこまで、人の心を持ち合わせているのか。それがわからない段階では、手の打ちようがなかったからだ。
ただ一つ、この場で縋れるものがあるとすれば。彼がこの時、この場に立っているという、奇跡的な巡り合わせだろう。
「生きている限り、変化は付きものです。それは昔からその地に住み続ける方々も、理解しているはず……ただ、可能であれば。少しだけ時間を与えてほしいんです。小さな商店にも、生き残るチャンスをあげてください」
ちらりと視線を送ると、相手の顔からは笑顔が消えていた。元より、可愛らしげな「お願い」で留められる域は、遠に過ぎている。相手が腹のうちを晒してくれるのならば、むしろ好都合だ。
篠はふっと、笑みを溢してから、一歩、また一歩と綾世の間合いへと歩み寄った。
「――それに急速に開発が進めば、そのうち御影山のスキーリゾート計画も再発しますよ? それはあなたにとっては、面白くない話なのではないでしょうか?」
近い位置で顔を覗き込み、ついでに周りに人気がないことを確認する。そして、そっと耳元に擦り寄ると、内緒話をするように小声で、それを吹き込んだ。
「悪いお仕事をなさるのであれば、どうでしょう……手頃なサイズの離島があるみたいですよ? もちろん名義は海外のものでも可能です」
「……君のお兄さんは、そんなに野鳥が好きなのか?」
「鳥類の交尾に性的な興奮を抱くらしいです」
「性嗜好がだいぶ尖ってるなあ」
ふーっと、長く吐き出された息には、どんな感情が含まれていたのだろう。綾世は篠の手を握り閉めたまま、瞼を伏せて、口の端に喜悦を匂わせる。
「いいよ、全ての条件を飲んでやる……もし、君が僕の条件を飲めるなら」
「なんでしょう?」
「僕の婚約者にならないか?」
「……それはまた、急なお話ですね」
莫大な金が動く話だ。ある程度の条件は覚悟していたが、こればかりは予想の範囲外。突然の外角高めの投球に戸惑い、篠は頬をヒクつかせた。
「せっかくですが、今は学業がありますので、謹んでお断りさせていただきます」
「あははっ……君はなにか勘違いをしているようだけど、僕はそれほどいい人じゃないよ」
一歩下がれば、一歩詰められ、徐々に距離が狭まっていく。歩数が同じでも、歩幅が違えば、あっという間に彼の腕の中。強靭なボディーガードまで横に付かれればもう、逃げ場はない。
「購入したばかりの島に一番乗りで行きたいなら、すぐにでも連れてってやる。埋める遺体が一つ増えたところで、大した痛手にはならないからな?」
「……綾世さん、恩を仇で返すタイプですか?」
「鳥類の交尾に興奮する変態を娶ってやるって言ってるんだ、最高の恩返しだろ?」
穏やかな昼下がりの公園の中。口付けを交わす男女が二人。道行く人の目には、ドラマティックな映画のワンシーンのように映っていたのだろう。
しかし、現実はそう美しくは終われない。
獰猛なシンデレラに舌を噛み切られ、溢れ出た鮮血だけが、この物語の真実を語っていた。
令和のシンデレラは終電で帰宅する
END

