令和のシンデレラは終電で帰宅する



 陽が沈み、輝かしいネオンが彩る裏通り。会員制のクラブの一角で、及川(おいかわ)(しの)は小さく溜め息を吐いた。

 あれだけドレスは着ないと言ったのに、用意されたのはホルターネックタイプのロングドレスだ。サイドのスリットが、下着ギリギリまで入っているため、座り方によっては、履いていないように見える。

 郷に入っては郷に従えと理解しつつも、さすがにこれでは月夜に提灯。履き慣れないハイヒールを足元でカコカコっと鳴らし、篠は口を尖らせた。

――この調子だと、今日もハズレかあ……

 時刻は午後十一時を回ったところ。あと一時間ほどで終電の時間となる。銀座のクラブであれば、軽く『当たり』が引けるかと思ったが、人生はそう甘くない。

 あからさまなマウント取りに、いらぬお説教まで浴びせられて、現時点で、こちらの精神ゲージの残量はゼロ。どいつもこいつも、一国の王になったつもりなのか。多大なる傲慢さで、こちらを罵ってきた。

 しかし、大層な口振りの者に限って、懐は狭く、財布の口は硬い。やってられるかと、重い腰を上げれば、その心中が読まれたのだろう。奥でフロアを見下ろしていた男が視線を送り、こちらへ手招いてきた。

「篠、八番テーブルにヘルプ入って」
「誰のテーブル?」
「美園さん」
「……はぁっ、またか」
「おい、そんな顔すんなよ。俺が虐めてるみたいだろ?」
「その通りじゃん。那岐(なぎ)くんさっきから、痛客のとこばっか当ててくるし」
「高級クラブの客なんざ、九割方痛客だ。まともな奴はなあ、金払って女と飲まないんだよ」
「……那岐くん、声抑えないと叱られるよ」

 堂々たる事実だとしても、時と場所によっては、不謹慎な発言になりかねない。案の定、無線で厳重注意が入り、那岐は後頭部を軽く掻きながら、強引に篠を待機室から弾き出す。

 引き返そうにも、内側から鍵を掛ける徹底ぶりだ。財布まで取られた状態では帰宅もできず、篠は渋々と客の元へ向かった。

 荒っぽい幼馴染とは違い、エスコート係の黒服は紳士的。コント並みに歩行が不安定な女でも、眉一つ変えずに強靭に支えて見せる。

「――お客様、こちら篠さんです」
「……失礼します、篠です」


 すーっと、重厚なカーテンが開かれ、一気に視線が集中した。

 若い男が四人。シンプルでありながらも光沢のあるスーツに、傷ひとつないストレートチップの革靴が品格を表す。テーブルに並べられたボトルの銘柄からも、彼らの財力が容易に窺えた。

 篠は軽く会釈をしてから、ざっと視線を走らせて、角の空いている席に腰掛ける。

「はぁっ……クソッ、円安の影響がガチでエグい! 今月も売上がスプラッシュ・ファウンテンだ!」
「意味がわからない、大盛況ってことか?」
「違う、たぶんマウンテンの誤字。真っ逆さまって言いたかったんだと思う」
「持ち株売って補填すればいいだろ?」
「それで今朝の株取引、大損したらしい」
「あははっ! 泣きっ面に蜂だなあ、悠斗(ゆうと)

 席について早々、ガンッと目前でローテーブルが足蹴られる。悠斗と呼ばれた男は、なにやら虫の居所が悪いようで。荒く髪を掻き毟り、注がれたばかりのグラスを一口で空にしてしまった。

 泣き黒子のある目元は赤らみ、僅かに腫れているようにも見える。呂律の回り具合からして、すでに何軒か店を渡り歩いた後なのだろう。まるで駄々を捏ねる幼児のように、恥じらいもなく感情を露わにしていた。

「あー面白くねぇ。今週は色々と付いてねぇし、美園は被りの客で、全然顔見せねぇし」
「指名料払ってんのにな〜」
「もう一本ボトル入れてやれば来んじゃね?」
「お前が蒸留酒瓶ダすんなら、入れてやるよ」

 話題が指名の嬢へと流れると、途端にヘルプの女たちの顔色が変わった。

 それもそのはず、万が一でも客の機嫌を損ね、帰られてしまえば大問題になる。売れっ子の嬢であれば、なおさらのこと。派閥争いの頂点に立つ女の怒りは、進んで買いたいものではない。

 幸いにも、今回のターゲットは、今顔を表したばかりの者へと向かったのだろう。悠斗は隣に座る篠の顔を覗き込み、酒臭い息を吹きかけた。

「なあ……あんたさ、さっきからなーんも話さねえけど、やる気あんの?」

 グッと肩を当てられ、体重を掛けられる。痛みはなくとも、不快感は最高値。不満げに眉を寄せれば、反抗的と取られたのか。今度は酒をぶっ掛けられ、ポタポタッと大粒の雫が細い髪から垂れ落ちた。

――はぁ……だっる

 篠は顔色一つ変えずに、手元にあったハンカチで、額を伝う水滴を払う。大した反抗もせずに、無言で空いたグラスへ酒を注ぐと、どうやら興を削いだらしい。盛大な舌打ちが投げ捨てられた。

「お前、本当につまんねぇな。脱ぐなり、腰振るなりしたらどうだ?」
「あははっ、セクハラじゃん」
「悠斗、泣かせるなよ~」
「はあ? お前ら馬鹿か? 学も芸もねえ女が稼ぐ方法なんて、股開く以外になにがあんだよ?」

 煙草臭い空気が充満する中、下卑た笑いが鼓膜を汚す。急上昇する苛立ちと倦怠感。今すぐにでもその胸ぐらに掴みかかってやりたいところだが、ここで暴れれば、幼馴染に迷惑が掛かってしまう。

 無理を言って働かせてもらっている手前、面倒事はできるだけ避けたい。

 フーっと、長く息を吐き、込み上げる激情を拡散させる。そうして少しばかり冷静さが舞い戻ると、篠は空中でふわりと浮遊する、黒い帯を捉えた。

「や、やだな……悠斗さんっ、今日どうされたんですか? いつも愉しく呑んでくれるのに」
「うちのお店、性的なサービスはNGだって、ご存知ですよね……?」
「じゃあそれ以外でもいいけど、何してくれんの? 美園は来ねえし、まともな会話できる女もいねぇ。社会経験のないボンクラ頭と飲んでも、楽しくねぇんだよ」
「な、何って……っ」
「テーブルチャージ料で四万五千、指名料で五千円だっけ? あんたらに、それだけの価値が提供できるのかって聞いてんだよ」

 間に割って入ったヘルプの嬢にまで突っ掛かり、お客様という大義名分で言いたい放題。ここまでくると、ただのイチャモンだ。

 アルコールの過剰摂取で、理性を制御する大脳新皮質の活動が鈍くなっている。その影響で感情的になり、平衡感覚を保つ部分まで麻痺しているようだった。

 簡単に言ってしまえば、赤ちゃんのイヤイヤ期状態。見るもの成すこと、すべてが気に入らない。これに正当性を掲げたとて、話は平行線を辿る。

――五万円分の価値、ね……

 さてどうするか、と脳内で「二歳児・イヤイヤ期・対処法」を検索に掛けると、突如、篠の頭部が柔らかな触感で包まれた。

「――悠斗、そこまでにしときな。出禁になるよ」
綾世(あやせ)か? 遅かったな~」
「一樹、悠斗には飲ませるなって言っただろ? どうなってるんだ?」
「はぁ~も~お前は黙ってろよ」
「黙るのは君の方だ。不幸が重なってイラついてんのはわかるけど、八つ当たりはよくない」


 白いタオルで視界が包まれる中、肩への圧迫感が引き、酔っ払い男が引き剥がされたことを感じ取る。

 どうやら客の知人が現れ、止めに入ってくれたらしい。「この不躾野郎どもに、まとも友人がいたのか」と、篠はタオルを取り、横に立つ男を見上げた。

「あの……これ、ありがとうございま――」

 礼を述べようと口を開くも、それはすぐさま差し止められる。

 大きく見開いてしまった目はすぐさま逸らし、顔を伏せた。しかし、それだけでは不十分だったのだろう。彼の背から伸びてきた黒い帯は、まるで映画のフィルムのように長く、滑らかに解け、視界へと映り込んでくる。

 何十、何百と浮遊する黒い帯状の連なり。その一枚一枚が、単体の意思を持って、警報を鳴らすのだ。この男に、けして関わってはいけない――と。

 吐き気を催すほどの情報に目眩を覚え、篠は瞼を閉じた。

 どう足掻いても、今日は負け試合。お目当ての人物には出会えず、ただ時間を浪費しただけ。おまけにヤバそうな男まで顔を表し、これ以上粘っても、全くいい予感がしない。

――……もう帰ろう

 思い立ったが吉日。颯爽と身支度を整え、半分ほど腰を上げる。自身のグラスを空にして、おしぼりは三角におって、テーブルの隅っこへ。すると、不意に、別方向から流れてきた帯が手招くように頬をなで、しゅるんっと手元に舞い降りた。

 いつもであれば、目もくれずに払い落とすはずが、今日は少しばかり躊躇われる。苛立ちと倦怠感を覚えつつも、客の言い分は、あながち間違ってはいなかったからだ。

 五万も払っておいて、指名嬢は顔を見せに来やしない。おおかた、本命ホストと別室でワッショイの最中なのだろうが、そりゃあ文句の一つでも言いたくはなる。

――まあ、たぶん荒れてる原因は、それじゃないんだろうけど……

 篠はやれやれと首を振り、別の嬢に突っ掛かり始めた悠斗の袖を引いた。

「……悠斗さん、左手をお借りしても宜しいですか?」
「なにすんの?」
「お店のルール上、脱いだり腰を振ったりはできないんです」
「それはさっき聞いた」
「代わりに手相を見させていただけませんか?」


 くるりと身を翻し、こちらに向き直った顔は赤く、アルコールが頭のてっぺんまで染み回っている。瞼も半開きで、誰がどう見ても完全な泥酔状態だ。

 まあ、これぐらいがちょうどいいだろうと、やや強引に手を取れば、なぜか横に立つ男までこちらを覗き込んできた。

 なんとも形容し難い圧力が加わる下、緩く揺れた瞳は、ゆっくりと帯に記された記録を辿る。

「……とても裕福なご家族の元に、お生まれになったんですね」
「そりゃ見たらわかるだろ? 銀座で豪遊できるレベルの経済力があるんだから」
「確かに、美園さんはとくに『高級』ですから」
「あはっ、それ言っていいのか? あいつにチクるぞ」
「それは困ります」

 肌に触れると、途端に角がなくなり、声調が落ち着く。酒さえ入らなければ、礼儀のある男なのかもしれない。
 本人が言うように、ここ数日は彼にとって、辛辣な日々だったのだろう。寂しげに丸まった背の向こうで、長い、長い帯が大きな輪を作り、彼の身を優しく抱き締めるように、巻き付いた。

「……お祖母さんのことは、残念でしたね」
「それ……誰に聞いた?」
「だから手相ですって」

 手を軽く握りながらも、視線は空中を浮遊するフィルムを追う。何千、何万と刻まれたシーンは愛に溢れ、なによりも慈悲深い。

 溢れ出てくる帯の中から、彼の求めている『答え』を探し出すと、篠は暫し瞳を休めるように瞼を閉じた。

「人間のもつ五感のうち最後まで残るものは、聴覚だと言われています。この感覚は、運動機能が働かなくても役割を果たせるそうです。なので、お会いになったのが、お亡くなりになった後だとしても、悠斗さんの声は、お祖母さんに届いていたと思いますよ」
「……お前、気持ち悪いな」
「ふふっ、よく言われます」

 ヒクッと目元に皺を寄せた表情は、疑い二割、眠気が八割といったところか。夢の中の出来事と思い込んでいるのかもしれない。無論、それを見越しの「サービス」のため、全く問題はない。

 五万ほどの価値があるかどうかは、本人次第だ。金に限らず、この世に存在するものは変動的で、既定値などあってないようなもの。

 大人しくなった悠斗の手を解放すると、代わりに彼のスマホを手渡し、篠はそっと耳打ちをする。

「あなたのお探しのものは、今日の午後に、ご自宅に届いたようですよ。コンシェルジュの方から、電話が掛かってきてませんか?」
「はぁっ!? ……最悪、あいつ郵送にしてたのか。どうりで見つからないわけだ」
「悠斗、なんのことだ?」
「クソ婆が作った盃だよ。ずっと取りに来いって言ってて、放置してたやつ」

 言うが早いか、ジャケットを引っ掴み、悠斗は席を立つ。その目的は言うまでもなく、彼の祖母からの贈り物を受け取るためだろう。呆気に取られた友人を残し、駆け出した身体は、仄暗い店の廊下の方へと消えていった。

 メインゲストが退場したことで、お開きになるのかと思いきや、存外男たちは強かだ。投げ置かれていったクレジットカードを目に、満場一致で追加の酒を注文する。

 それは横に立つ男も同じようで――綾世は、篠の隣へと腰を落ろし、あからさまな熱視線を送ってきた。

「な……なんでしょうか?」
「……君、面白いね。少し僕と話さない?」
「せっかくのお誘いですが、遠慮します」
「どうして?」
「そろそろローテーションの時間ですし、それに……人を探してるんです」
「どんな人か聞いてもいい?」
「……顔にホクロがある人」
「ああ、だから悠斗のとこに付いたのか……大丈夫、僕もあるよ。前髪で見えないけど、ほら」


 ふふっと軽やかに鼻を鳴らしてから、前髪を掻き上げる。さらりと揺れた髪はそのまま耳の上辺りで固定され、小さな黒子が顕になった。

 位置的に言えば眉の延長上、顳顬のあたり。自己申告がなければ、間違いなく見逃していただろう。篠はチラリと時間を確認し、綾世の方へと向き直った。

「なにか飲まれますか?」
「なんでもいいよ。それより……さっきの、どうやったの?」
「どうやったとは?」
「手相なんて見てなかっただろ? 彼の肩の斜め上ぐらいを追ってた」


 顔を合わせて早々に、前置きもないど直球を投げ込んでくる。品性があるように見えたのは、その見た目だけか。恐ろしく整った目元を麗しげに細めて、綾世は返答を強いるように甘く微笑んだ。

「兄が……教えてくれたんです」
「君のお兄さんが? なんて?」
「今日、ここでホクロのある人に会えるから、『お願い』をして来いと」
「へえ、どんなお願い?」

 これは「当たり」か「ハズレ」なのか。その確信が持てず、言葉尻に躊躇いが滲んでしまう。ここ三日間、ガラにもないキャスト役を引き受けた、飲めない酒を笑顔で流し込んだ理由は、「とある目的」のためだ。

 ハズレであればストレス値があがり、不要な出費に強いられる可能性もある。しかし動かなければ、状況が変わらないのも事実。何度と歴史が塗り替えられようと、世の中には絶対的なルールが存在した。それは、貪欲に行動しなければ、欲しいものは手に入らない、ということ。

 篠は腿の上でぎゅっと手を握り締め、意を決するようにそれを口にする。

「お金を……貸していただきたいんです」
「いくら?」
「……六」
「六十万?」
「……いえ」
「六百万?」
「六……千万ほど」
「なかなかの大金だね、なにするの?」
「無人島を買って、野鳥観察に行きたいそうです」
「金返す気ないだろ」

 ズバッと核心を突かれ、思わず口籠る。ある程度予想していた反応だが、実際に言葉にされると衝撃が強い。

 六千万円。一般庶民が家のローンを組んで、一生を掛けて返すような金額だ。いくら銀座の高級クラブとはいえ、やはりポンッと貸してくれる大物はいないのか。

 ならばっと歯を食い縛り、今度は、しっかりと綾世の顔を見据えて、頼み込んだ。

「お願い、もう一つあるんです」
「船でも買いたいの?」
「いえ、日比々崎の都市開発を遅らせて欲しい……と」
「それはもっと無理な話だな。僕一人の一存で決められるものじゃない」

 その話が出るとは、予想していなかったのか。目の前の顔は一瞬だけ驚きを示し、すぐさま元の穏やかなものへと戻っていった。

 感情表現が乏しいわけではないのに、その心中に渦巻くものが見えてこない。先ほどお帰りになったご友人とは違い、なかなか手強い相手だ。

 さて、どこから切り崩していこうかと、身構えれば、それを察するように、美しい口角が吊り上げられる。

「君の故郷なの?」
「いえ、縁もゆかりもない土地ですね」
「あははっ、じゃあなんで?」
「干しなめこ飴の製造工場があるんです」
「久しぶりに聞いたな。駄菓子だっけ?」
「そうです。兄が熱狂的な大ファンで、廃業だけは差し止めたいって」
「野鳥観察に駄菓子オタクって、個性的なお兄さんだね」

 たわいない会話を交わしながらも、別のことに思考を巡らせている。それは彼の冷たい瞳の色からも明らかで、篠は自身の背に、汗が滲むのを感じとった。

 彼の背から伸びてくる大量の黒い帯。始めは見ないようにと、目を逸らしていたが、量が多すぎて、嫌でも視界に入ってしまう。

 切り刻まれた肉片に、くり抜かれた眼球。真空パックに詰め込まれていく臓器たちは、どれも鮮やかな赤を纏っている。どのフィルムにも薄暗い部屋と血塗れのタイルが映り込み、最後は光の一切届かない山奥の中で途絶えた。

 この男は、どのような繋がりで、これほどの「死」を蔓延らせているのだろう。

「……どうかした?」
「いえ、大丈夫です」

 舐めるように絡み付きてくる視線は、不快でありながらも艶っぽく、篠はぶるりっと、肩を震わる。

「申し訳ないけど、力にはなれないな」
「どうしても?」
「どうしても」
「そうですか……じゃあ――」
「――お客様、失礼します。美園が戻りました……篠、お前はもう引け。そろそろ時間だぞ」

 快い返事が貰えないまま、タイムオーバー。那岐の声にはっとなり、慌てて時間を確認する。腕時計の針はちょうど十二時を刻んだところであり、篠は「ひっ」と声を漏らして立ち上がった。

 待機室へ戻り、財布と上着を拾って駅まで駆ける。最低でも十分は必要で、間に合うかどうかは信号のタイミング次第だ。

 無論、ハイヒールなど履いている余裕はなく、篠は豪快にドレスを捲り上げて素足を晒した。

「ヤバいヤバいヤバいヤバいっっ」
「……待って、もう少しだけ話せない?」
「すみませんが、帰宅時間なんです」
「帰宅? まさか電車で帰るのか?」
「はい、あと十分ほどで終電なので」
「は……あははっ! 令和のシンデレラは、タクシーにすら乗せてもらえないのか」

 立ち上がった瞬間、グッと手を捕まれ、男性的な力強さを肌で感じる。横に立たれると、その長身をまざまざと感じてしまい、図らずも顔が赤らんでしまう。

「連絡先を教えてくれない? それもダメ?」
「…………」
「そんなに僕のことが嫌い?」

 はあっと、わざとらしく溜め息を吐き、伺うようにこちらを覗き込む。なんとも洗練された女の堕としテクニックだ。関わらないに越したことはない。

 篠は裸足のまま廊下の方へと駆け出すと、一度だけ立ち止まり、綾世の方へと向き直った。こちらを見据える彼と、目を合わせたのは一瞬のこと。すぐさまテーブルの隅に置かれていた一冊の本へと視線を移し、足早に彼の元へと戻る。

「あの……綾世さん」
「なに?」
「小説は好きですか?」
「そうだね。どちらかというとビジネス書のが多いけど、小説も読むよ」
「再来週の水曜日に、クリスティーナ・ロベルの本が発売されるんです。三年ぶりの新刊なので、もしよかったら、手に取ってみてください」
「……わかった、見かけたら買ってみる」

 ふわっと柔らかな笑みで返されて、なぜか胃の辺りがきゅんっと収縮するのを覚える。脈拍もだいぶ早まっているようだが、空腹と疲労からくる不整脈だろう。

 篠は軽く会釈を送り、肩丈の髪を振り乱しながら、薄暗い廊下を駆けていった。



つづく