【長編版】舐めて齧って残さず食べて

「……慈雨くん?」

「……ん? どうした? 八尋」

 すっかり遠くなってしまった耳に、柔らかでそれでいて馴染みのある声が落ちてきた。
 俺が寝ているベッドがキシリと小さな軋みをあげ、誰かが座ったことが分かる。
 最近すっかり見えなくなった目が、ぼんやりとだがキラキラとした輝きを掴んだ。

「……ねぇ? 約束……覚えてる?」

「ん……? 約束……約束ねぇ……」

「なぁに? 覚えてないの?」

 ふくれっ面になってることがありありと伝わる声は、ずいぶんと若々しい。
 
「お前とは、たくさん約束したからなぁ。どれのことだろうな……?」

 含み笑いをしながら、そんな軽口を返せば、布団の上に置いていた手をポンっと叩かれた。
 そして、叩いた場所を撫でる手の感触。皺だらけになった手に触れる感触がずいぶんと遠いことに、いよいよかと覚悟が決まる。

「もうっ! 慈雨くんっておじいちゃんになってもそういうところあるよね!」

「人間、年を取ったくらいじゃ変わんねぇよ」

 八尋の言葉に釣られるように、俺の言葉も変わっていく。
 それはまるで八尋と出逢ったあの頃のようだ。

「でもま、約束は覚えてるよ。ちゃーんとな。だからさ、八尋。俺を……」

 舐めて、齧って、残さず食べて……?



 ふわりと病室のカーテンを揺らすのは、窓から吹き込んだ風。
 ベッドを覆いかぶさるように膨らんだカーテンが元の位置に戻る頃には、ベッドは空っぽになっていた。
 ただそこに残されたのは、誰かが寝ていたであろうくぼみだけ。
 そこにいたはずの人が何処へ消えたかは……誰も知らない。

 ただ柔らかな風が吹いていた。