【長編版】舐めて齧って残さず食べて

「さて、まずはここから出なきゃなんだけど……」

 服を着直した俺たちは、くるりと座敷牢の中を見回した。
 見れば見るほど、ひいばあちゃんが閉じ込められていた座敷牢と同じ場所だった。

 だが……。

「ここは……燃え尽きたはずなんだよなぁ……」

 ぼそりと落とした呟きに、八尋が首を傾げるのが見えた。
 だから、俺はひいじいちゃんの日記に書いてあったことをかいつまんで告げる。

 ここに閉じ込められていた生贄になる予定だったひいばあちゃんの話。
 そのひいばあちゃんを手籠めにしようとした当時の村長の話。
 村長の息子だったひいじいちゃんが、村長からひいばあちゃんを救い出し……。
 その時に、自分の父親を手にかけたこと、そして燃え始めたここをそのままに、ひいばあちゃんと逃げ出したひいじいちゃんの話を。

「なるほど……。ということは、ここは現実の世界ではないね? まぁ、僕を閉じ込めておけるんだし……僕の力を吸い取れるみたいだし……。嫌な場所だ」

「力、吸い取られてんのか?!」

 さらりととんでもないことを告げる八尋に小さな苛立ちが湧いた。
 おま、それ結構重要な話だろうがよ!

「うーん、うん。まぁ。でも吸い取られる量より、慈雨くんからもらうほうが多いから……」

「じゃなくてだなっ! もし俺がここに来られなかったらどうするつもりだったんだよ! 力を吸い取られ切ったらお前……っ!」

 俺に会いに来たのだって、力が失われ、腹が減って減って存在が消えそうだったから、最後の力を振り絞ってきたんだ。
 つまり、力がなくなってしまえば、コイツは消えてしまう。
 助けのないままここに居続ければきっと……。

「おまえー!!」

「ごめんって。もう大丈夫だから……」

「くっそ! とっとと出るぞ!!」

 怒りに任せて、牢の扉を蹴る。頑丈にできてるのか、派手な音はしたがただそれだけだった。

「ちっ!」

「慈雨くん待ってってば。もー。僕と手を繋いで? それで僕に力が流れてくのをイメージして……。そう……上手」

 風もないのに八尋の髪がふわりと浮き上がる。
 銀色の輝きも増しているようで、暗闇を淡く照らし出し始めた。
 
「……行くよ」

 掌底を打つような姿勢で、俺と繋がってるのとは反対の手で牢の扉に触れた途端……。

「ひぇ?!」

 扉が吹っ飛んだ。

「……八尋、すげぇな」

「……慈雨くん、僕をなんだと思ってたの? いちおう龍なんだけど……」

 拗ねたような口調の八尋に苦笑を返す。

「いや、忘れてたわけじゃないんだが……」

 ぼりぼりと後頭部を掻きながら、言い訳を口にする。
 学校生活ではどう見てもイケメンの優男にしか見えてなかったとか言ったら怒るかな?
 だいたい今だってずいぶんと子どもっぽい仕草だ。神性の欠片もない。

 なんてことを考えたのは、しっかりと伝わってそうだ。
 ジト目で俺を睨む八尋の手を引いて、誤魔化すように座敷牢を後にしたのだった。

◆ ◆ ◆

「う……わぁ……」

 八尋と手を繋ぎ、薄暗い階段を登っていく。
 まるで在りし日の曾祖父母みたいに。
 だけど隠し階段から顔を出した俺は、思わず絶句した。

 赤く染まった空。
 燃え盛る家屋。
 ぶわりと吹き付ける熱風が、幻でないことを示していた。

「これ……は……? ゴホッ!」

「慈雨くん!?」
 
 口を開いた途端、熱風に喉を焼かれそうになる。
 八尋の手が動き、ふわりと水のヴェールに包まれた。

「八尋……? これは?」

「いちおう水に宿る龍だからね。これくらいはできる。だけど……」

「……わかった。早くここから抜け出そう」

 八尋が言いよどんだ部分。それは恐らくこの水のヴェール自体があまり持たないのだろう。
 それはひとえに八尋自身の力が少ないから。俺が触れてるとは言え、二人揃って共倒れになるのは勘弁だ。

 急いで出口を探そうとした俺たちに……三つの影が立ち塞がった。

「……アイツらは……」

 ゆらりゆらりと不気味に揺れる影。
 一つは大柄な影だ。真っ黒だからわかりにくいが、あの腕の太さに見覚えがあった。
 あれは恐らく……氷雨を追い詰めた村長(むらおさ)の息子だ。
 二人目は……でっぷりと太った男の影。
 やっぱり見覚えのあるそいつは恐らく……。ひいじいちゃんの父親だろう。

 だけど三人目は……誰だ?

「あれは……」

 ぼそりと八尋が呟いた。

「八尋、誰だかわかんのか? 俺、あの左端のヤツだけわっかんねぇ」

「……たぶんあれは……。阿女の夫の弟だ。阿女が僕のところに来るとき、よく……森の木の影から見てた……」

「……こえぇよそれ」

 なるほどだから俺の記憶にないのか。
 基本夢は誰かの身体に憑依したみたいな状態だ。
 阿女の夢は、俺自身が阿女になっていたから、阿女が認識してないと俺も認識できない。

「でも……なんでアイツらが……?」

 ゆらゆらと揺れる黒い影はじりじりと俺たちに近づいてくる。

『なぜ……なぜだひさめ……なぜおれのものに……ならない……』

『どうせ……みずうみにすてるなら……すきにしてもよかろう……なのになぜ……』

『ひさめ……ひさめ……』

『……しずく……しずく……』

『なぜ……』

『なぜ……』

『なぜ……阿女は……』

『おれたちのものにならないんだっ!!!!!』

「うわっ!?」

「慈雨くん?!」

 ぶわりと黒い影が膨れ上がる。
 襲い掛かってきた影から俺を守ろうと、八尋が俺を抱きしめた。

「っ!? やひろっ!?」

「う……あ……」

 黒い影が八尋の輝きを奪っていくように、八尋の身体から彩が生気が抜けていく。
 そして身体からも……。

 顔色はこの上なく悪い。

「八尋ッ!?」

 力の抜けた八尋の身体を抱きしめながら後ずさる。
 まるで八尋の力を吸い取ったかのように肥大化し、合体する三つの影。
 ぶよぶよとした黒い塊のあちこちから三人分の手足が生えていた。
 そして……三つの顔も。
 どの顔も恨めし気に、憎らし気に八尋を見ている。

 全くもって訳がわからない。

「っ!? コイツら?! 八尋になんの恨みがあるってんだよっ!?」

 八尋の身体を抱きしめ叫んでも、もごもごとした声しか聞こえてこない。

『がががが……りゅうじ……ん……そいつ……さえ……いなければ……』

『いらな……い……いらない……』

『そいつさえ……いなければ……っ! ひさめ……ひさめ……ヒサ……メェェッェェ!』

『しずく……シズ……ククククククク……』

「なん……だよ、コイツら……。おい! 八尋! しっかりしろっ!」

 ぺちぺちと頬を叩いても、八尋から反応がない。
 まるで今にも消えてしまいそうなその様子に、焦燥だけがつのる。

「っ! なんだってんだよっ! くそがっ!」

 悪態しかつけない自分が歯痒い。
 グロテスクな塊は、八尋を狙って黒い触手を伸ばす。
 吐き気をおさえながらはじき返しても、直ぐに戻ってくる。

 この空間からの脱出方法もない。八尋の姿はどんどん薄れていく。
 黒い塊は周囲の炎を吸ってでもいるのか、ますます肥大化していった。
 それどころか……。

『どうして……どうして……』

『ころされるなんて……ころされる……』

『そんちょうにしたがった……だけなのに……』

『どうして……ころされなきゃいけないの……?』

 黒い塊の後ろから、亡者のような影が次々と現れた。
 口々に吐き出しているのは恨み言。
 内容を聞く限り、ひいばあちゃんの父親に殺された人たちなのだろう。
 そんな影が次々と現れ、黒い塊に吸収されていく。

 さらに……。
 ぼこり、ぼこりと塊の表面が浮き上がる。
 そして様々な人の顔になっていった。
 恨みがましそうな男の顔。
 泣きながら何かを訴えるように口を開く女の顔。
 小さな子どもの顔すらあった。

 それらが口々に恨み言を口にする。

「……ひぃ!」

「じう……くん……」

「っ!? 八尋!?」

 苦し気な八尋の声が腕の中から聞こえてきた。

「やひろっ!」

「じうく……ん……ぼくのことは……おいて……にげて……」

「逃げるつったってどこに逃げんだよバカ! つかお前を置いてくわけねぇだろうが! なんで俺がここまで来たと思ってんだよっ!」

 バカがっ!
 吐き捨てるようにそう言っても、八尋は小さく微笑むだけだ。

「だけど……じうくんがあの呪いにとりこまれたら……」

「っ! ……アレはいったいなんなんだよ……」

「アレは……恨みのかたまり……。阿女に、阿女の血筋を手に入れようとして、手に入れられなかった男たちの……」

「なん……だそれっ! 自分勝手な連中だなおい! つか氷雨殺した奴なんか自業自得じゃねぇかっ! ついでにひいばあちゃんに手を出そうとしたヤツだって人間としてどうかと思うしっ! ついでに阿女の夫の弟とか一番訳わかんねぇぞっ!」

 この状況が腹立たしくて、思わず悪態が口をつく。
 だってそうだろう?
 そもそも阿女は八尋と契約してこの地に留まる決意をするくらい夫が好きだったし、氷雨は八尋のことが好きで断っただけだし、ひいばあちゃんに至っては自分を閉じ込めてるような輩好きになるわけねぇだろうがっ!

「わけわかんねぇ!! クソ野郎どもがっ!」

 俺の大声に黒い塊はひるむどころが、怒りの咆哮をあげる。
 なんて自分勝手な連中だよクソがっ!

「くそったれめっ! 俺たちをここから出しやがれっ!」

『うるさいうううううううう————!!』

「じうくん?!」

「八尋っ!?」
 
「……うぅ……」
 
 ぶわりと黒い塊が広がって触手の一部が俺たちに襲い掛かってきた。
 俺を庇った八尋が苦痛のうめき声をあげた。

「っ!? 八尋っ! やひろっ!」

 八尋の背中が大きく切り裂かれていた。

「じうく……ん……」

 ぐっと俺の手を握る八尋。
 俺は慌てて八尋に力が流れていくようイメージした……が、拒絶された。
 
「やひろ?!」

「じうくん……にげて……」

「だからっ! お前を残していけるかってーの! ほら! 俺を食えよっ! お前の力にしろって! っ……! なんで拒絶すんだよこのバカっ!」

 ぐっと八尋の頬を掴んで、唇を寄せる。
 ねじ込むようにして舌を差し込んで、自分の生命力とかそんなわけわかんないけど八尋の力になりそうなものを流し込むイメージをする。
 なのに……拒絶された。

「八尋ッ!」

「だめ……これ以上食べたら、慈雨くんも動けなくなる……から……」

 ぐっと後頭部を掴まれ、今度は八尋から深く口付けられた。
 やっと力を受け取ってくれる気になったかと口をひらけば、八尋から何かが流れ込んできた。

「んむぅ?! 八尋!? てめっ!」

 無理やりにキスを解けば、ますます青い顔をした八尋が小さく笑みを浮かべていた。

「ぼくの力をわけたから……ここからにげ……て……」

 色を失くしてく水色の瞳。徐々に下がっていくまぶた。
 俺の後頭部を掴んでいた手から力が抜けて……。

「八尋っ!? おまっ! ふざけんなっ! ふざけんじゃねぇぞっ!? どいつもこいつも……っ!」

 ぐっと八尋の身体を抱きしめる。
 じわじわと近づいてきていた黒い塊は、八尋の足先を飲み込もうとその触手を伸ばしている。

「くんなっ! くるなよっ! 八尋はぜってぇ誰にもやらねぇよっ!」

 蹴飛ばしても蹴飛ばしても触手は迫ってくる。
 いつの間にか俺の背中には瓦礫が触れていた。
 もう……逃げ場などない。

「っ! ふざけんなっ! どいつもこいつも! 八尋っ!」

 八尋の身体を抱きしめる。
 予想以上に冷えた身体に、心まで冷えてしまいそうだ。

「八尋……っ! どうして……っ!」

 ぼたぼたと涙が落ちる。
 泣いてる場合じゃないのに涙腺が持ち主のいうことをきかない。

「やひろ……っ! せっかく逢えたのに……っ!」

 いやだいやだいやだ。
 こんなところで訳の分かんねぇ逆恨みに巻き込まれて死にたくねぇ。

「やひろ……。いやだよやひろ……」

 黒い塊の本体が近づいてくる。
 うねうねとした触手が俺たちを逃がさないと言わんばかりに取り囲んだ。
 黒い塊の一部が裂けるように広がった。それはまるで大口を開けたようで……。真っ暗な中に呑み込まれそうにな……って……。思わずぎゅっと目を瞑った。

 バチンッ!

「っ!?」

 何かが弾き飛ばされたような音に、恐る恐る目を開ける。
 目に映った光景は……。

「……阿女?」

 俺たちを守るように立っているのは……。
 うっすらと発光している女性だった。歴史の教科書に載っていそうな服に身を包んだその人は、長い髪を頭頂部で纏め背中に流していた。
 直接会った覚えはないはずなのに、どこか既視感のあるその人は……。

『さよう。わしの顔を見るのは初めてだったか? 吾子よ。ここまでよう頑張ったな』

 柔らかな声が落ちてくる。それにどこか安心してしまうのは、相手の顔がどことなく母親に似ているからだろうか。

『わたしたちの……力もおわたしします……』

「……え?」

 いつの間にか俺の横にも一人の女性がいた。
 いや、たくさんの女性に囲まれていた。
 その中で一人だけ男性も交ざっていた。火傷の痕がある腕で隣に立つ女性の腰を引き寄せてるその人は……。

「ひいじいちゃんと……ひいばあちゃん?」

 仏壇に飾られた写真でしか見たことのない二人が、俺の目の前に立っていた。

『私たちのせいで……すまない……』

『怖い目に遭わせてごめんなさい……』

『力を……』

『どうか……』

『オヤシロ様と幸せになって……』

 ぐっと俺の手を握り締め、そう告げる女性。
 もしかして……。

「……氷雨?」

 俺の手を握ってた女性がコクリと頷き、未だ目を伏せたままの八尋に柔らかな視線を落とした。

 『どうか……オヤシロ様を……』

 握られていた手に力が籠められ、ふんわりと温かな力が流れ込んでくる。
 いつの間にか俺の肩に何人もの手が乗せられていた。
 そこからも柔らかな力が流れ込んできた。

 色を失っている八尋の唇に、己のものをそっと寄せる。
 ぐるぐると身体の中を駆け巡る力、出口を求めてさまようその力を……。
 そっと八尋へと流し込んだ。

 少しずつ。少しずつ。

 ミシミシと阿女の張った防壁を軋ませる存在がいる。
 じわりと焦りの浮かぶ阿女の表情に、気持ちだけが急いてしまう。
 だけど、たくさんの女性たち。恐らく今まで生贄にされてきた女性たちだろう。
 そして俺の元に八尋を連れてきてくれたのも彼女たちだ。

 彼女たちへ感謝の念を持ちながら、貰った力を八尋へ全部流し込む。

 そして……。
 八尋の瞼が僅かに震え、水色の瞳が覗いた。

「……八尋?」

 僕の顔をじっと見て、僕の後ろにいる彼女たちを見る。

『八尋……そろそろもたぬ。其方の力で……わしが結んでしまった因縁を……断ち切ってはくれぬか?』

 苦し気な阿女の言葉に、頷きを返した八尋はすっくと立ちあがった。
 キラキラと輝く銀髪が水のようのさらりと揺れる。
 どこか神々しいその姿が眩しくて、俺は僅かに目を眇めた。

「慈雨くん、手伝って?」

 こちらへと、俺へと伸ばされた手を嬉しく思ってしまうのは、氷雨に、他の彼女たちに失礼だろうか?
 そんなことを思いつつ、すらりとした八尋の手に自分の手を重ねた。
 ぐっと握り締められたから、ぐっと握り返す。
 もう二度と、この手を離さないと誓いながら。

 ふわりと八尋の輪郭が崩れた。

「っ!?」

「捕まって……」

 慌てて八尋に抱き着いた瞬間。

「っ?! うわっ!」

 ドンッという音と共に、八尋が空高く舞い上がった。

「……わぁ……」

 炎を映して赤く染まった空を切り裂き、湖水の色を切り取ったような身体をくねらせて、龍となった八尋が空を跳ねる。
 銀のたてがみに必死にしがみつきながら、俺はその光景を見ていた。

 グァァァァァァァ————

 巨大な(あぎと)をひらいて、咆哮が辺りに響き渡る。
 咆哮は衝撃波となって、真っ黒な塊を散り散りに切り裂いた。

『慈雨くん、願って……。この因縁を……断ち切れるよう……』

「あ、うん」

 頭に直接響くような八尋の声に驚きつつも、俺はそっと目を瞑って祈った。
 この因縁が終わるように。二度と生贄なんて捧げることがないように。姉を、娘をとられて復讐にかられる人がでてこないように……。
 そして……俺の命が尽きるまで、八尋と共に在れるように……と。

 ポタリ。
 
 頬に雫が落ちた。
 
 ぽつぽつと落ちてきた水滴は、あっという間に雨となって呪われた大地へと降り注いでいく。
 散り散りになってすら、恨みがましく蠢いていた黒い塊へ。
 穢れてしまった村へ。
 渇水で剥き出しになっていた大地へ。

 雨が、降り注ぐ。

『あぁ……慈しの雨だね……』

 低く高く、八尋の声が頭にこだまする。
 全てを流し、潤していく雨を、俺は空からじっと見ていた。……八尋とともに。

「終わった……かな?」

「え?」

 キラリと龍の身体が発光し、ふわりとした浮遊感に包まれた。
 気が付けば、人の(なり)に戻った八尋に抱きかかえられている。

「え、ちょ、急には怖いって」

 八尋が俺を落とすわけがないと思いつつ、人形(ひとがた)の八尋の腕の中というのはどうにも落ち着かない。
 山よりも高い、雲の方が近い高所となればなおさらだ。

「ふふっ。慈雨くん可愛いね」

 そんなことを呑気に宣う八尋に、コイツはさっきまで死にかけてたことを忘れたのかと恨みがましい視線を送ってしまう。

「……とりあえず、降りようぜ」

 八尋を促せば、あっという間に俺の両足は地面についていた。
 そこは、俺が黒い影に襲われた場所だった。
 ここへ初めて足を踏み入れた時は、ダムの水面は下がり村の残骸を晒していたが、今は水の中に沈んでいる。
 そんな長い時間、大量に雨が降ったわけではないのに……と不思議に思いながらも、さっきまで自分の身に起きてたことのほうが不思議だしなぁと、諦めにも似た心境に陥る。
 だいたい俺の隣にいるヤツ自体、龍とかいう超常現象の塊なんだ。もう驚くとかそう言ったレベルの話じゃない。

 キラキラと太陽の光を照り返すダムの水面を見つめていると、そっと背後から抱きしめられた。

「……これで、八尋は()()から完全に解き放たれたのか?」

 そう訊ねる事自体おかしいのかもしれない。
 そもそも八尋はここの湖で生まれた存在なんだろうから。解き放たれるというのも違う気がする。

「……そうだね。僕はもう、ここに縛られていない。その内力を失って消えるだろう」

 首元にある八尋の腕を抱きしめる。
 今すぐにでも消えてしまいそうで……怖い。

「八尋……」

 くるりと八尋の腕の中で身体を返す。
 向かい合う形になって、八尋の水色の瞳をそっと覗き込んだ。
 
「なぁ……。俺を全部あげるから。俺の一生を全部あげるから……だから……」

 消えないでくれよ……。
 
 口にしてしまえば消えてしまいそうで、口に出せない。
 だけど、きっと伝わったはずだ。
 その証拠に、八尋は水色の瞳を優しく眇めた。

「いいの? そんなこと言われたら僕もう遠慮しないよ? 慈雨くんを全部もらうから。全部だよ。ぜぇんぶ。ぜぇんぶ舐めて、齧って、残さず食べてあげる。……君が死ぬときにね。一緒に自然に戻ろう……。風になって土になって水になって……ずっと共に在ろう……」

「……いいぜ。ずーっと、ずーっと……な」

 柔らかく微笑む唇に、俺は噛みつくようなキスを返した。