次に柳井がうちに来る日が決まってから、俺はずっと機嫌がよかった。相変わらず、教室内ではほとんど喋らなかったが、たまに目が合うと柳井は少し微笑んでくれる。それだけで、俺たちは秘密を共有した特別な関係のように思えて嬉しかった。
俺は次の日曜日までカウントし続けた。月曜日。火曜日。水曜日。木曜日。
そして金曜日。あと一日待てば約束の日だ。明後日は柳井とお守りを作る。また可愛いものの話をして、くだらない話をして、一緒に笑う。そんなことを考えていたら、自然と口元が緩んでいた。
シャカシャカ、ちゃらちゃら。
放課後、部活が終わって帰る足取りは軽い。リュックについた可愛いものたちが歩くたび音を立てる。今日はその音もいつもより弾んで聞こえた。
昇降口を出たところで、ふと校舎裏の方を見ると、見覚えのある背中が見えた。
柳井だ。
誰かと話している。少し離れたところから見て、俺は足を止めた。
相手は女の子だった。肩くらいまでの柔らかそうな髪。小柄で、色白で、笑うと目が下がるタイプ。俺たちと同じ二年生で、クラスでも可愛いって噂されてる野球部の女子マネージャーだ。彼女に向ける柳井の表情は普段より柔らかく見えた。その光景を見た瞬間、胸の奥が変にざわつく。
……絵になるな。
でかい柳井の隣に、小柄で可愛い女子。
すごくお似合いだ。それに比べて俺は、ピンクのリュックを背負った変な男。
って、俺は何考えてるんだ。早く立ち去った方がいいと頭ではわかっているのに、気づいたら足は彼らの方へ向かっていた。
「おーい、柳井」
俺はなんでもない風を装って声をかける。
二人が同時にこっちを見る。マネージャーが「あっ」と笑った。柳井は少し驚いたように目を見開いた。その柳井の表情がさらに俺をざわつかせる。
「岸田くんだよね? 手芸部の」
「どうも」
「いやー、柳井くんがお守りを自分が作りたいって言い出した時は大丈夫かと思ったけど、もうすぐできあがるんだって?すごいね」
えっ?聞いていた話と違う。
「マネージャーさんが忙しいから柳井に頼んだんじゃないの?」
なんだか嫌な予感がする。
「えっ? 全然。確かにマネージャーは私一人だけど、去年もやってるし、特別忙しいってわけじゃないよ。お守りも私が作るはずだったんだけど、柳井くんが今手芸にハマってるから自分に作らせてくれって言ってきたんだよ。ねぇ?」
マネージャーは不思議そうに首を傾げて、柳井を見上げた。俺は信じられない気持ちで瞬きをして柳井を見る。
柳井は黙っていた。否定しない。言い訳もしない。
じゃあ、あの時言ってた、「マネージャーからお守り作りを頼まれた」って嘘?嫌々ながらもやるって態度だったのは演技?
本当に小さな嘘だ。普通なら気にするほどのことじゃない。
でも、前にもこんなことがあったじゃないか。
クラス内カースト上位の野球部が嘘をついて俺に近づいてきた。後から考えればおかしい言動もたくさんあったのにあの時は嬉しくて全然気づかなかった。
あの時の空気、あいつらの表情、カバンで殴った感覚、周囲の騒がしさ。全てが鮮明に脳裏に蘇る。
胸の奥がすうっと冷えていく。 今までの楽しかった記憶がボロボロと音をたてて崩れていく気がした。柳井の大好きだった仕草や表情の全部が嘘みたいに思えた。何か言葉を発しようとしたけど、唇が震えて何も言えなかった。
変な間があく。マネージャーは不穏な空気を察したのか、愛想笑いで「じゃあ、私用事があるから」と言って、足早で去っていった。
柳井はマネージャーがいなくなると、あきらかにほっとした顔をした。それでもすぐに口を開かなかった、言葉を選んでいるようだった。
でも、ダメだ。
嘘をついた理由は、言葉を選んで言い訳しないといけないようなことだったんだ。
俺は黙ったまま踵を返して走った。早くこの場から逃げたかった。柳井から次に出る言葉を聞くのが怖かった。
「岸田!」
柳井が後ろから追いかけてくるのがわかる。でももう彼の顔を見られない。俺はきっと今、全部が憎くて、すごくブスな顔になっている。
後ろから腕を掴まれる。柳井から全力で掴まれたら、非力な俺は逃げることなどできない。腕を引かれた反動で彼と向かい合う形になる。もう片方の腕も掴もうとして来たので、俺は全力でそれを振り払う。それでも掴もうとする柳井の手。体全体を使って逃げる俺。リュックについているアクセサリーたちもぶんぶん振り回されて、柳井の体に当たって音が出る。
「ちょっと待てって!」
「放せ!」
「っ痛!」
その声を聞いて、俺はぴたりと動くのをやめた。
右肘を押さえた柳井が顔をしかめていた。俺のリュックが彼の傷めている肘にヒットしたようだ。
柳井が顔を上げて俺を見た。その顔はすごく傷ついていて、悲しげで、本当は「ごめん」と言って肘に触れたかった。
でもできなかった。
だって、俺だって傷ついているから。ここで俺が折れたら負けだから。
俺は唇を噛み締めて正門へ向かった。鼻の奥がつんとした。目頭が熱くなって泣きそうだったのを必死に堪えながら走った。
自宅の玄関を開けて、そのまま無言で自室に向かう。居間にいたお母さんが「帰って来たらただいまぐらい言ったら?」と顔を出したが、俺が走って自室に向かうのを見ると、それ以上は何も言わなかった。
部屋に入ると、そのままベッドに突っ伏した。堪えていた涙が一気に出てきた。悔しいのか悲しいのか、自分でもわからない。ただ胸が痛かった。
しばらくして、スマホの通知音が鳴った。俺はリュックからスマホを取り出す。
画面には柳井の名前とメッセージ。
『ごめん』
また鳴る。
『ちゃんと話したい』
さらに続く。
『今から家行く』
既読なんてつけたくなくて、俺は通知画面だけで文章を追った。どれも短い文だった。飾り気もなくて、不器用で、でも柳井らしい。その簡潔な言葉が、悔しいくらい心地よかった。
しばらくして、玄関のベルが鳴る。
階下からお母さんの声がした。
「柳井くんが来たよ!」
最初は追い返してやろうと思った。でも、ここまで追って来たんなら言い訳ぐらいは聞いてやるか。
俺は乱暴に涙を拭って洗面所へ向かった。冷たい水で顔を洗う。深呼吸してから玄関へ向かう。
玄関の扉を開けると、柳井は俯いて立っていたが、俺の姿を見ると少し微笑んだ。俺はこんなかわいい笑顔に負けるまいと必死に仏頂面を貫いた。
しかし、急に柳井に握った手を差し出され、思わずその手を見つめる。
「さっき……落としていったから」
そう言って柳井は手を開いた。それは俺のリュックについていた三センチほどのビーズのキーホルダーだった。さっきの衝撃で外れたのだ。
俺は熱いものが込み上げてくるのを感じた。
こいつは本当に、可愛いものを大事にする人なんだ。
「……こんなところで話すのもなんだから、部屋に来て」
ローテーブルを挟んで向かい合って座っていても、先週みたいな穏やかな空気はもうなかった。
静かだった。でも、ただ気まずいだけじゃない。ここから何かが変わる気がしていた。それがいい方向なのか、悪い方向なのかはわからない。ただ、もう前と同じには戻れない気がした。
柳井は話したいことがあって家まで来たはずなのに、なかなか口を開かなかった。
俺はふと、ぎゅっと結んだ自分の手のひらを解いた。手の中には柳井がさっき拾ってくれた小さな愛くるしいキーホルダー。それを見ていたら、なんだか急に全部が馬鹿馬鹿しくなった。
俺は「可愛いものが好き」だとか「大事にしたい」だとか偉そうに言っておきながら、そのリュックで柳井を傷つけた。しかも、このキーホルダーが落ちたことにも気づかなかった。柳井が拾ってくれなかったら、あの時のピンキーみたいに雨ざらしになって、誰かに踏まれていたかもしれない。
「……これ、拾ってくれてありがとう」
そう言うと、柳井は首を横に振った。
「いや、俺のせいだから」
暗い顔だった。叱られた犬みたいで、少しだけ意地悪したくなる。
「早く言い訳きかせてよ。なんで自分からお守りを作るって言ったの? なんで手芸部まで来て俺に手伝わせたの?」
わざと軽く言ったのに、柳井は俯いたままだった。しばらく黙ったあと、低い声がぽつりと落ちる。
「ずっと岸田と仲良くなりたかった。だから手芸部まで行けば話せると思った」
柳井はそこで一度息を止める。
「でも、俺みたいなのが裁縫を教えてくれって手芸部に押しかけたら、岸田に変に思われるかもしれない。だから嫌々ながらも作ることになったから教えてくれって言った。別に俺だってここに来たかったわけじゃないってフリをした。一種の予防線だよ。そうやって言えば断られても傷つかない」
「確かに、本心で言ったことを拒否られると辛いよね」
今の今まで忘れていたけど、最初に家庭科室の前で会った時、なんとか教えることを回避したい俺を柳井は必死に説得していた。頭まで下げて。柳井がどんな思いであそこまで来たんだろうと思うと少し胸が痛んだ。
柳井はふっと自嘲気味に笑った。
「最初から本当の気持ちを言えば良かったんだよな。そうすれば岸田をこんなに不安にさせることもなかった。」
そこで言葉が止まる。柳井はずっと下に目線を落としている。
「……だから」
ゆっくり声を絞り出す。
「これだけは伝えたくてここにきた」
顔や耳、それからズボンをぎゅっと握った手まで真っ赤だ。
「キモいって思うかもしれないけど」
また沈黙。
「俺みたいなのが言っても、迷惑かもしれないけど」
柳井は覚悟を決めるみたいに顔を上げた。真っ直ぐ、俺を見る。
「俺、岸田のことが好きだ。岸田に恋してる」
一瞬、意味がわからなかった。
好き?
恋?
「えっと……今度はそういうやつ? そうやって俺の反応を楽しんでんだったら」
「本当だって。俺は演技ができるほど器用じゃない」
柳井の顔色がすっと元に戻る。胸につかえていたものが取れてすっきりしたという顔だった。
こっちはまだ混乱中だが。
「俺は好きなものを周りに否定されるのが怖くて隠してる。ずっと全部隠してるんだ。だから隠さない岸田に憧れてた。岸田のリュックの音がしたら近くにいるんだなって思って探した。岸田はいつも機嫌良さそうに笑ってて可愛くて、近くにいたら目で追ってた。実際、仲良くなって岸田のことを知ったら、もっと好きになった。もっと可愛い人だって思った」
柳井が膝を使ってこちらへ近づいてくる。鼻先近くまで顔が近づいて、俺は反射的にのけ反ってしまう。
「だから、俺とはもうこれっきりでもいい。でもさ、岸田は自分に可愛いものが似合わないって言ったけど、俺はすごく似合ってると思う。周りの声なんか気にしなくていい。岸田は可愛いものに囲まれて幸せそうな顔してるのが似合ってる」
そしてまた柳井がふっと笑みを浮かべた。俺の大好きな優しい笑顔だった。
「それに可愛いものを持つのに資格がいるんだったらさ、それはきっと岸田みたいに可愛いものを大好きだって言って、大事にできる人だ」
そう言うと、柳井は自分が近づきすぎていることに気づいたのか、照れながら後ろへ下がった。
今度は俺の方が黙る番だった。
可愛いものが似合うには資格が必要で、俺はその資格を持っていないと思っていた。
可愛いものは可愛い人にしか似合わない。
俺はこの呪いの言葉にずっと囚われていた。
でも違ったんだ。
そもそもそんな資格も呪いも存在してなかった。
俺は勝手に、ありもしないものにずっと怯えていた。
言葉が出ない代わりに涙があふれた。さっきみたいに自分で制御できない涙がぼろぼろこぼれる。でもさっきの涙とは違う。俺の体の芯の部分で固まっていた氷みたいなものが、一気に溶けて流れ出てきたかのような不思議な感覚だった。
言葉にせずとも、俺の中で何かが変わったことははっきりとわかった。
そんな俺に慌てる柳井。その姿も可愛い。俺は泣きながら笑った。
俺は次の日曜日までカウントし続けた。月曜日。火曜日。水曜日。木曜日。
そして金曜日。あと一日待てば約束の日だ。明後日は柳井とお守りを作る。また可愛いものの話をして、くだらない話をして、一緒に笑う。そんなことを考えていたら、自然と口元が緩んでいた。
シャカシャカ、ちゃらちゃら。
放課後、部活が終わって帰る足取りは軽い。リュックについた可愛いものたちが歩くたび音を立てる。今日はその音もいつもより弾んで聞こえた。
昇降口を出たところで、ふと校舎裏の方を見ると、見覚えのある背中が見えた。
柳井だ。
誰かと話している。少し離れたところから見て、俺は足を止めた。
相手は女の子だった。肩くらいまでの柔らかそうな髪。小柄で、色白で、笑うと目が下がるタイプ。俺たちと同じ二年生で、クラスでも可愛いって噂されてる野球部の女子マネージャーだ。彼女に向ける柳井の表情は普段より柔らかく見えた。その光景を見た瞬間、胸の奥が変にざわつく。
……絵になるな。
でかい柳井の隣に、小柄で可愛い女子。
すごくお似合いだ。それに比べて俺は、ピンクのリュックを背負った変な男。
って、俺は何考えてるんだ。早く立ち去った方がいいと頭ではわかっているのに、気づいたら足は彼らの方へ向かっていた。
「おーい、柳井」
俺はなんでもない風を装って声をかける。
二人が同時にこっちを見る。マネージャーが「あっ」と笑った。柳井は少し驚いたように目を見開いた。その柳井の表情がさらに俺をざわつかせる。
「岸田くんだよね? 手芸部の」
「どうも」
「いやー、柳井くんがお守りを自分が作りたいって言い出した時は大丈夫かと思ったけど、もうすぐできあがるんだって?すごいね」
えっ?聞いていた話と違う。
「マネージャーさんが忙しいから柳井に頼んだんじゃないの?」
なんだか嫌な予感がする。
「えっ? 全然。確かにマネージャーは私一人だけど、去年もやってるし、特別忙しいってわけじゃないよ。お守りも私が作るはずだったんだけど、柳井くんが今手芸にハマってるから自分に作らせてくれって言ってきたんだよ。ねぇ?」
マネージャーは不思議そうに首を傾げて、柳井を見上げた。俺は信じられない気持ちで瞬きをして柳井を見る。
柳井は黙っていた。否定しない。言い訳もしない。
じゃあ、あの時言ってた、「マネージャーからお守り作りを頼まれた」って嘘?嫌々ながらもやるって態度だったのは演技?
本当に小さな嘘だ。普通なら気にするほどのことじゃない。
でも、前にもこんなことがあったじゃないか。
クラス内カースト上位の野球部が嘘をついて俺に近づいてきた。後から考えればおかしい言動もたくさんあったのにあの時は嬉しくて全然気づかなかった。
あの時の空気、あいつらの表情、カバンで殴った感覚、周囲の騒がしさ。全てが鮮明に脳裏に蘇る。
胸の奥がすうっと冷えていく。 今までの楽しかった記憶がボロボロと音をたてて崩れていく気がした。柳井の大好きだった仕草や表情の全部が嘘みたいに思えた。何か言葉を発しようとしたけど、唇が震えて何も言えなかった。
変な間があく。マネージャーは不穏な空気を察したのか、愛想笑いで「じゃあ、私用事があるから」と言って、足早で去っていった。
柳井はマネージャーがいなくなると、あきらかにほっとした顔をした。それでもすぐに口を開かなかった、言葉を選んでいるようだった。
でも、ダメだ。
嘘をついた理由は、言葉を選んで言い訳しないといけないようなことだったんだ。
俺は黙ったまま踵を返して走った。早くこの場から逃げたかった。柳井から次に出る言葉を聞くのが怖かった。
「岸田!」
柳井が後ろから追いかけてくるのがわかる。でももう彼の顔を見られない。俺はきっと今、全部が憎くて、すごくブスな顔になっている。
後ろから腕を掴まれる。柳井から全力で掴まれたら、非力な俺は逃げることなどできない。腕を引かれた反動で彼と向かい合う形になる。もう片方の腕も掴もうとして来たので、俺は全力でそれを振り払う。それでも掴もうとする柳井の手。体全体を使って逃げる俺。リュックについているアクセサリーたちもぶんぶん振り回されて、柳井の体に当たって音が出る。
「ちょっと待てって!」
「放せ!」
「っ痛!」
その声を聞いて、俺はぴたりと動くのをやめた。
右肘を押さえた柳井が顔をしかめていた。俺のリュックが彼の傷めている肘にヒットしたようだ。
柳井が顔を上げて俺を見た。その顔はすごく傷ついていて、悲しげで、本当は「ごめん」と言って肘に触れたかった。
でもできなかった。
だって、俺だって傷ついているから。ここで俺が折れたら負けだから。
俺は唇を噛み締めて正門へ向かった。鼻の奥がつんとした。目頭が熱くなって泣きそうだったのを必死に堪えながら走った。
自宅の玄関を開けて、そのまま無言で自室に向かう。居間にいたお母さんが「帰って来たらただいまぐらい言ったら?」と顔を出したが、俺が走って自室に向かうのを見ると、それ以上は何も言わなかった。
部屋に入ると、そのままベッドに突っ伏した。堪えていた涙が一気に出てきた。悔しいのか悲しいのか、自分でもわからない。ただ胸が痛かった。
しばらくして、スマホの通知音が鳴った。俺はリュックからスマホを取り出す。
画面には柳井の名前とメッセージ。
『ごめん』
また鳴る。
『ちゃんと話したい』
さらに続く。
『今から家行く』
既読なんてつけたくなくて、俺は通知画面だけで文章を追った。どれも短い文だった。飾り気もなくて、不器用で、でも柳井らしい。その簡潔な言葉が、悔しいくらい心地よかった。
しばらくして、玄関のベルが鳴る。
階下からお母さんの声がした。
「柳井くんが来たよ!」
最初は追い返してやろうと思った。でも、ここまで追って来たんなら言い訳ぐらいは聞いてやるか。
俺は乱暴に涙を拭って洗面所へ向かった。冷たい水で顔を洗う。深呼吸してから玄関へ向かう。
玄関の扉を開けると、柳井は俯いて立っていたが、俺の姿を見ると少し微笑んだ。俺はこんなかわいい笑顔に負けるまいと必死に仏頂面を貫いた。
しかし、急に柳井に握った手を差し出され、思わずその手を見つめる。
「さっき……落としていったから」
そう言って柳井は手を開いた。それは俺のリュックについていた三センチほどのビーズのキーホルダーだった。さっきの衝撃で外れたのだ。
俺は熱いものが込み上げてくるのを感じた。
こいつは本当に、可愛いものを大事にする人なんだ。
「……こんなところで話すのもなんだから、部屋に来て」
ローテーブルを挟んで向かい合って座っていても、先週みたいな穏やかな空気はもうなかった。
静かだった。でも、ただ気まずいだけじゃない。ここから何かが変わる気がしていた。それがいい方向なのか、悪い方向なのかはわからない。ただ、もう前と同じには戻れない気がした。
柳井は話したいことがあって家まで来たはずなのに、なかなか口を開かなかった。
俺はふと、ぎゅっと結んだ自分の手のひらを解いた。手の中には柳井がさっき拾ってくれた小さな愛くるしいキーホルダー。それを見ていたら、なんだか急に全部が馬鹿馬鹿しくなった。
俺は「可愛いものが好き」だとか「大事にしたい」だとか偉そうに言っておきながら、そのリュックで柳井を傷つけた。しかも、このキーホルダーが落ちたことにも気づかなかった。柳井が拾ってくれなかったら、あの時のピンキーみたいに雨ざらしになって、誰かに踏まれていたかもしれない。
「……これ、拾ってくれてありがとう」
そう言うと、柳井は首を横に振った。
「いや、俺のせいだから」
暗い顔だった。叱られた犬みたいで、少しだけ意地悪したくなる。
「早く言い訳きかせてよ。なんで自分からお守りを作るって言ったの? なんで手芸部まで来て俺に手伝わせたの?」
わざと軽く言ったのに、柳井は俯いたままだった。しばらく黙ったあと、低い声がぽつりと落ちる。
「ずっと岸田と仲良くなりたかった。だから手芸部まで行けば話せると思った」
柳井はそこで一度息を止める。
「でも、俺みたいなのが裁縫を教えてくれって手芸部に押しかけたら、岸田に変に思われるかもしれない。だから嫌々ながらも作ることになったから教えてくれって言った。別に俺だってここに来たかったわけじゃないってフリをした。一種の予防線だよ。そうやって言えば断られても傷つかない」
「確かに、本心で言ったことを拒否られると辛いよね」
今の今まで忘れていたけど、最初に家庭科室の前で会った時、なんとか教えることを回避したい俺を柳井は必死に説得していた。頭まで下げて。柳井がどんな思いであそこまで来たんだろうと思うと少し胸が痛んだ。
柳井はふっと自嘲気味に笑った。
「最初から本当の気持ちを言えば良かったんだよな。そうすれば岸田をこんなに不安にさせることもなかった。」
そこで言葉が止まる。柳井はずっと下に目線を落としている。
「……だから」
ゆっくり声を絞り出す。
「これだけは伝えたくてここにきた」
顔や耳、それからズボンをぎゅっと握った手まで真っ赤だ。
「キモいって思うかもしれないけど」
また沈黙。
「俺みたいなのが言っても、迷惑かもしれないけど」
柳井は覚悟を決めるみたいに顔を上げた。真っ直ぐ、俺を見る。
「俺、岸田のことが好きだ。岸田に恋してる」
一瞬、意味がわからなかった。
好き?
恋?
「えっと……今度はそういうやつ? そうやって俺の反応を楽しんでんだったら」
「本当だって。俺は演技ができるほど器用じゃない」
柳井の顔色がすっと元に戻る。胸につかえていたものが取れてすっきりしたという顔だった。
こっちはまだ混乱中だが。
「俺は好きなものを周りに否定されるのが怖くて隠してる。ずっと全部隠してるんだ。だから隠さない岸田に憧れてた。岸田のリュックの音がしたら近くにいるんだなって思って探した。岸田はいつも機嫌良さそうに笑ってて可愛くて、近くにいたら目で追ってた。実際、仲良くなって岸田のことを知ったら、もっと好きになった。もっと可愛い人だって思った」
柳井が膝を使ってこちらへ近づいてくる。鼻先近くまで顔が近づいて、俺は反射的にのけ反ってしまう。
「だから、俺とはもうこれっきりでもいい。でもさ、岸田は自分に可愛いものが似合わないって言ったけど、俺はすごく似合ってると思う。周りの声なんか気にしなくていい。岸田は可愛いものに囲まれて幸せそうな顔してるのが似合ってる」
そしてまた柳井がふっと笑みを浮かべた。俺の大好きな優しい笑顔だった。
「それに可愛いものを持つのに資格がいるんだったらさ、それはきっと岸田みたいに可愛いものを大好きだって言って、大事にできる人だ」
そう言うと、柳井は自分が近づきすぎていることに気づいたのか、照れながら後ろへ下がった。
今度は俺の方が黙る番だった。
可愛いものが似合うには資格が必要で、俺はその資格を持っていないと思っていた。
可愛いものは可愛い人にしか似合わない。
俺はこの呪いの言葉にずっと囚われていた。
でも違ったんだ。
そもそもそんな資格も呪いも存在してなかった。
俺は勝手に、ありもしないものにずっと怯えていた。
言葉が出ない代わりに涙があふれた。さっきみたいに自分で制御できない涙がぼろぼろこぼれる。でもさっきの涙とは違う。俺の体の芯の部分で固まっていた氷みたいなものが、一気に溶けて流れ出てきたかのような不思議な感覚だった。
言葉にせずとも、俺の中で何かが変わったことははっきりとわかった。
そんな俺に慌てる柳井。その姿も可愛い。俺は泣きながら笑った。

