夢の続きの話をしよう(下)【期間限定再録】

 三年目なんて、ただの便利屋だよ。そんなふうに言っていたのは、栞だっただろうか。年末にあったサークルのOB会で、誰かがそんなくだを巻いていた。ひとりでできる仕事は増えて、でも重要な仕事は任されなくて、新人のサポートで残業ばっかり。上からも横からも仕事は降ってくるし。二年目の終盤でこれなんだから、春が怖い。
 そこまで思い出して、栞だったと確信がついた。そのとなりで庄司が「こいつのところ、ブラック一歩手前なんだよ。最近だいぶ溜まってるみたいでさ」と、聞いてもいないフォローをひたすら入れ続けていた。
 結婚も仕事が一段落してからじゃないと無理だって言うし、いつになるかわかったもんじゃねぇよとは、そのあとの二次会で聞かされた愚痴だ。庄司たちが付き合い出して、もう四年。そういう話が出ても、少しもおかしくない年だ。仕事に追われているあいだにも時間は流れていく。
 ――にしても、押し切られ過ぎてるよな、これは。
 向かい合う相手のやる気がないから、余計なことを考えてしまった。雑用を押し付けられることにさほどの抵抗はないが、あまりに続くと俺の仕事じゃないと言いたくはなる。
 せめて当人にやる気があれば、まだ幾分のかわいげはあるのだが。
「大変だね、先生。下っ端の顧問って」
「そう思うなら真面目に授業を受けろ。美作先生も困ってたぞ」
「留年出したくないってだけでしょ、自分のクラスから」
 佐倉は解くそぶりも見せず、くるくるとペンを回している。寮の食堂だ。テーブルに広げられた問題集のページは一向に進んでいない。
「出したくないに決まってるだろうが」
 応じる声も溜息まじりになる。出したくないに決まってんだろ、そんな面倒なもの。
 暇つぶしに、食堂の張り紙に視線を飛ばす。朝夜時間厳守。昔も似たような張り紙があった。けれど、内装の雰囲気はあの当時と違っている。少し前に内部だけ改装が入ったのだ。懐かしさのかけらは残っているものの、壁紙もテーブルも随分ときれいになっている。
 ――そういや、富原もよくやってたな。勉強会。
 テスト前になると、成績のよくなかった部員を集めて勉強会を開いていた。面倒見のいい男だったのだ。自分はと言えば、なんだかんだと理由をつけて手伝いから逃げていた。
「というか、佐倉。これ、時枝の問題集じゃねぇか。おまえのはどうした」
 問題集を拾い上げて確認した記名に、声が低くなる。真面目に使っている形跡があると思えば、そういうことだったか。
「え? 教室だけど」
「なんでだ。聞いてなかったのか?」
「聞いた。聞いた。聞きました。聞いたから、こうして真面目に待ってたんだって」
 いかにも面倒くさそうな切り返しに、問題集を持つ手に力が入る。現役時代にこんなクソ生意気な後輩がいなくてよかった。
「部活も今日は真面目に出たし、文句ないでしょ。時枝がしつこかったんだよね、休むつもりだったのに。夜も今日は絶対にいろってうるさいし。あいつ、先生のこと好きだよね」
 現役時代の後輩と連想した顔を追い出して、ページを選んで広げ直す。前学年のまとめだ。
 馬鹿なわけじゃないと思うんだけどねと担任は評していたが、基盤があるのかどうかすら俺は知らない。
「部長だからだろ。佐倉のことも気にかけてるし」
 真面目なんだよと言い足して、問題を指す。
「ほら、とりあえずやってみて、このページ。二年の復習問題だけど。佐倉、去年もあんまり授業出てないだろ。どこまで理解できてるかわからないから」
 壁時計の秒針を刻む音ががらんとした食堂に響く。見上げると、二十一時半になるところだった。二十二時の点呼までに部屋に帰さないとならない。目の前で最後までやらせるのは無理だなと、早々に諦めた。
 ぺらぺらとページを繰って眺めてはいるが、それだけだ。ペンが動く気配はない。残りは部屋で解いて明日のこの時間に持ってこい。告げて終わらせようとした矢先に、佐倉が口を開いた。
「さっきのさ」
「ん? どれ」
「嫌味? でも、真面目にやったところで実力が伴わなきゃ、なんの意味もないと思うんだけど。最後にものを言うのって才能でしょ」
「俺はそういう話をしたつもりはないんだが」
 すごい自信だなと半ば呆れた。
「あ、そう。じゃあ、なんで俺が寮を抜け出すのかって話にする? 時枝がうるさいのなんのって。ばれたらどうするんだって、もうしつこくて」
「しつこいもなにも、佐倉のために注意してくれてるんだろ」
「そうかな、自分のためだと思うけど。だって、部活動って連帯責任って言葉が大好きだから」
 部活動停止になったら困るだけでしょと。まるきり他人ごとの調子だが、拗ねているように聞こえてしまった。指摘したら長引きそうで沈黙を選んだのに、「で、聞きたい?」と追い打ちがきた。
 よくわからないが話したいらしい。話を切り上げることを諦めて、続きを促す。今日も帰宅は二十三時コースだ。
「なんでなんだ?」
「だって、つまらないし。先生だってわかるでしょ。ほら、俺も健全な男子高校生だし」
「佐倉が抜け出していい理由にひとつもなってないだろ、それ。その理屈で言えば、佐倉以外の寮生はどうなるんだ」
「インポなんじゃね。知らないけど。それか、性欲までぜんぶサッカーにまみれてるのかもね。馬鹿ばっか」
 サッカー漬けの日々を送るチームメイトを鼻先で笑い飛ばして、ペンを机の上に投げ捨てる。カンと乾いた音が静かな食堂に木霊した。
「というか、先生も寮にいたならわかるでしょ。息苦しいというか、……なんかあるじゃん。そういうの」
 身に覚えはあった。現実から切り離されたような閉塞的な空間。そこに思春期の子どもを詰め込むのだ。一種異様な世界ができあがるのは、ある意味で当たり前だ。
 ――俺は、あるかなと思ったよ。
 ふと思い出したのは、大学時代の友人の声だった。夏だった。折原と「付き合う」なんて馬鹿な選択をする前の昼下がり。
 あってもおかしくないと思ったよ。寮って、なんというか独特な環境だろ。そこでおまえと折原になにかあったって聞いても、俺は納得する。
 そんな馬鹿なことがまかり通る、隔離された世界だから起こり得た「普通」。それを息苦しいと表現する感覚は正常だ。
「それとも、先生のころは違った?」
「……え?」
「だって、あれと一緒だったんでしょ」
「あれ? あれってなんだ」
 要領を得ない話に問い直すと、「あれはあれだって」とまた笑う。
「あの、ホモ。あれが一番実績のあるOBって、深山もたかが知れてる」
「……」
「最近は県大会だってベスト八がせいぜいだし、全国制覇どころか県代表も夢のまた夢だけどね」
「佐倉」
 呼びかけて、手をつける様子のない問題集を閉じる。そんなつもりはなかったのに、大きな音を響かせてしまった。
「仮にも先輩なんだから。そういう言い方をするな」
「ふぅん。先輩だから?」
 この学園のOBで、実績のある選手で、日本を代表するストライカーで。そんな誹謗を受ける謂われもなくて。……明るい道を歩んでいくべきはずだった、俺の後輩で。
「先輩だからって理由だけで無条件に尊敬しろとか。いかにも体育会系の説教だけど、できると思う?」
「最低限の敬意くらい示すべきだと思えないわけか」
 金を落としているからというのもどうかとは思うが、深山にもサッカー部にもかなりの額を寄付してるからな。
 おまけに時間をつくって母校に顔まで出してるだろうが。後輩のために。
 そこまで苛々と考えて、抑え込む。生徒にぶつけるようなものでもないし、個人的な感情で腹を立てることでもない。
「あいつ……、いや、折原選手も、OBとして、ちゃんとここのことを気にかけてるんだから」
「それを言うなら、俺らが被った損害を考慮してくれてもいいと思うけど」
「損害?」
「想像しようともしないのって、先生もそっち側の人間だからだよね」
 遅れて、見当がついた。そちら側というのがなにかも。
「だって、ずるい言い逃げだったでしょ、あれは。本人はいいよ。どうせ、日本を出るところだったんだし。言ってすっきりもしただろうし。先生もそうだよね。昔の話だから関係ないし?」
 あの冬の日。ワイドショーで何度も流れただろう映像。俺は最初の一度しか見ていないが、なにをどう言われていたかは知っている。
 意識して遮断しようとしても、し切れなかった。それだけの正誤を問わない情報が世間にあふれていたのだ。
「結局さぁ、おもしろおかしく言われる矛先が向いたのって、現役生だった俺らでしょ」
 その当時、佐倉は深山の生徒ではなかったはずだが、そういう話ではないのかもしれない。いくつもの感情が渦巻いて、消えた。
 監督の口から、その話を聞いたことは一度もない。けれど、あの当時に深山にクレームのような電話があったことも事実として知っているし、入学志望者が減ったとも聞いた。
 ただ、折原は変わらなかった。変わらない活躍を残し、変わらない明るい笑顔でインタビューに応じた。その堂々とした姿勢に、マイナスな風潮はいつしか下火になった。
 そうして、今になった。監督は母校に折原を凱旋させ、後輩が喜ぶ。それでいいじゃないかと思っていたかった。
「先生は、かわいい後輩が直接的な批判を受けなきゃ、それでいいのかもしれないけど。俺らはそうはいかないから」
「あのな、佐倉」
「それがどの面下げて戻ってきたんだって。俺がそう思うのは、おかしいですか。先生」
 挑発的な言い方は、大人を試したい子どものそれと大差ない。そう思うことにして言葉を選ぶ。
「どう思うかは、佐倉の自由だ」
「まぁ、そうだよね」
「とはいえ、おまえも子どもじゃないんだ。その感情を当人に向けていいとは思わないし、むやみやたらに口にしていいようなものでもないと思うけどな」
 良識のある人間ならば口にしないというだけではあるけれど。
 あいつの親はどう思ったのだろうと、ふと思った。もし、俺と同じように、いきなりあの発言をテレビで聞いたのだとしたら。
 ――いや、それこそ、俺には関係のない話か。
「ついでに言うと、佐倉が真面目に練習に参加しない理由にも、寮を抜け出していい理由にもならないとも思うけど」
「うわ、つまんないまとめ方」
 鼻白んだ声に溜息を呑み込む。いまさらになって、なんでこの話題を持ち出したのかわかった。
「おまえ、今日の昼の水倉たちの話、聞いてたろ」
「うん。時枝がマジな声出してるから、おもしろいなーって思って見てた」
「大人をからかって遊ぶな。もういいから、残りはちゃんとやっとけよ。明日も来るからな」
 あっけらかんと首肯されると、それ以上のなにを言う気にもならない。「やっと終わった」とこちらが言いたい台詞を口にしながら立ち上がる。
「あー、疲れた。部活が終わってから勉強やらされるとか、すげぇストレス」
「好き勝手に喋ってただけだろうが、佐倉は」
「教師の仕事のひとつなんじゃないんですかぁ? 生徒のカウンセリングも」
「勝手に教師の仕事を増やすな。というか、なんだ。カウンセリングされたいことでもあるのか、おまえは」
 なんのためのスクールカウンセラー配置だ。専門職に丸投げしたくなりながら、時間を確認する。二十二時十分前。
「ちゃんと点呼の前に戻っとけよ」
「ねぇ、先生」
 食堂を出るところで振り返った佐倉が、いやに神妙な声を出す。
「なに」
 相談したいことがあるなら、人選を間違え過ぎてはいないか。訝しみながらも、最低限の聞く姿勢を整える。あれだけ気にかけてくれているチームメイトがいるのだ。そっちを相談相手に選定すればいいのにとも思いながら。
「俺、数学はできるんだよね。壊滅的なのは古典と英語。どっちも長文を読む気が起こらなくて」
「それ、わからないんじゃなくて、やる気がないだけだろ」
 真面目な顔つきを一転させてほほえんだ佐倉に、抱えたくなったのは頭だ。それが本当なら、俺が駆り出される必要はなかったんじゃないのか。
 だとすれば、余計な話を聞かされることもなかったのに。
「だから、明日はそのどっちかでよろしく」
 言いたいことを言って立ち去った長身を見送って、遠慮なく溜息を吐く。どうせひとりだ。
 押し付けられたのは勉強の面倒ではなく、やる気を引き出すことだったらしい。より面倒だと悟ったが、引き受けてしまった以上はやるしかない。
 明日もやる気があるだけマシなのかもしれない。いいところ探しで鼓舞して、重い腰を上げる。テーブルの上には、借り物の参考書がそのまま放置されていた。
 放っておいても明日の朝には誰かしらが見つけるだろうが、気にかかる。それも持って廊下に出たところで、「あ」と訪ねるつもりだった寮生の声がした。
「時枝」
 二階から下りてきた時枝が人当たりのいい顔で笑う。あの問題児に爪の垢を煎じてやりたい。
「もう終わり?」
「一応は。悪かったな、これ。時枝が貸してくれたんだって?」
「あいつが持って帰らなかったから、ってだけだけど。明日はあいつの鞄に置き勉してるやつぜんぶ詰め込んどく」
 気負わない顔で応じて問題集を受け取った時枝に、罪悪感が刺激される。
 教室でも口うるさく伝えてくれた上に、部活が終わったあとも、あの問題児が逃げ出さないよう食堂に連行し、必要な教材が揃っているかどうかのチェックまでしてくれたわけだ。
「頼んで悪かったな。朝から晩まで気にしてたら疲れるだろ」
「いまさらだし。というか、べつにずっと見てるわけでもないし」
「いや。時枝はよくやってるよ、本当に」
 少なくとも、俺が生徒だったころよりはずっと。慰めるというよりかは苦笑に近かったかもしれない。神経をすり減らされた実感が、労りに拍車をかける。
「あの、先生」
「ん?」
「聞いてた? その、昼休み」
「なにが?」
 さらりと聞き返せば、時枝の顔に困ったような色が浮かぶ。生真面目もここまでくると貧乏くじだなと、軽い調子で笑う。
「悪口でも言ってたのか? だったら、もうちょっと教師の目のないところでにしとけよ」
「ちが……というか、俺は言わないけど」
「まぁ、時枝はそうだろうな」
 自分が言ったわけでもないのに、こうして俺に弁明してくるくらいだ。
「俺に言われるまでもないだろうけど、早く戻れよ」
 戻るように促して、玄関に向かう。そういえば、と監督が言っていたことを思い出した。
 時枝は、小学生のときに見た最盛期の深山に憧れて、進学先に選んだらしいと。そんなことを言っていた。だから目くじらを立てていたのかと、昼間の声に遅れて納得する。どこまでも佐倉と正反対だ。
 借り物の鍵で施錠して、出てきたばかりの寮をふりあおぐ。
 内装はきれいになったが、外装は変わらない。在寮していた当時と、不思議なくらい。
 寮生たちが使っていた自転車は、まだあるのだろうか。思い浮かんだ映像に頭を振る。さすがに、もうないだろう。
 あのころでさえ、なかなかの古さだったのだ。ふたり乗りをすると、嫌なきしみ方をするような。
 その自転車に乗って抜け出したことは一度や二度ではない。よくばれなかったものだと思うが、見逃してもらっていただけかもしれない。
 先輩は。ふいにまた脳内に響いた声に、建物から視線を外して歩き出す。外はもう真っ暗だった。
 先輩は、そうやってなんでもひとりで決めるけど。あのときだって、俺になんの相談もしてくれなかったけど。
 その勝手が、どれだけ周囲の人間に影響を及ぼすのかくらい、わかってもいいと思いますよ。
 ――あぁ、思い知ってるよ。いろんな意味で。
 忘れよう、考えないようにしようと。決めた端から頭に浮かんで消えてくれない。まるで呪いだと、いつだったか思ったことがあった。
 呪いだとするのなら、俺の未練が生み出したものだとも思っていた。
 俺は、たしかにあいつが羨ましかった。俺にないものをすべて持っていた後輩が。
 けれど、俺はあいつに触れたかったのだろうか。そういう意味で、本当に。
 この寮で一緒に過ごした時間は、一年にも満たない。それなのに、その一年のあいだに俺たちはいったいなにをしていたのだろう。
 佐倉の比ではないことをしていた。露見していたらどうなっていたのかと想像して、いまさらながらぞっとした。
 俺が片足を沈めていたのは、そういう沼だった。