夢の続きの話をしよう(下)【期間限定再録】

「っつか、そういうなんの根拠もない変な噂やめろよ」
 飛び込んできた険のある声に、教室のドアを引こうとしていた手が止まった。普段が普段なだけに珍しい。
「失礼だろ、どっちにも」
「なにマジになってんだよ、時枝。ただの冗談だって」
「冗談って言えば、それでぜんぶすむわけでもないだろ」
 宥めすかす調子にも、応じる声の固さは変わらなかった。とはいえ、喧嘩というほどのものでもない。放っておいて問題のないレベルだ。ただ。
「これはまた、入りにくいタイミングで遭遇しちゃったねぇ」
 ひょいとかけられた声に、うんざりと振り返る。たまたま通りかかったらしい。
「美作先生」
「なんの用事だったの、佐野ちゃん。うちのクラスに」
「このあいだ美作先生が押し付けてくれた例のあれですよ」
「あ、本当にやってくれるの? すっごい助かる。じゃあ、かわりに怒っといてあげようか?」
「小学生じゃあるまいし、いりません」
 そりゃそうだと笑いながら去っていく背中を一瞥して、あらためてドアに手をかけた。昼休みの終了まで、まだ十分ほど時間は残っている。
 問題児の担任から、もうひとつのお願いごととやらを問答無用に押し付けられたのが、一昨日のことだ。
 卒業がやばくなりそうなのがひとりいてさぁ、から話が始まり、赤点だと対外試合に出られないからサッカー部も困るよね。おまけに今年度もおたく副担だよね。担任持ちの俺より時間にゆとりはあるはずだよねと畳みかけられた。負けた。
 年長者に強く出られないのは、骨の髄まで染み込んだ体育会系の血のなせる業なのか。
 ――最近は、そうでもないんだろうけどな。
 時代が変われば変わるものだ。過去の伝統や流儀を押し付けたいわけでもない。耳に入れてしまったばかりの「変な噂」は頭の隅に追いやって、ドアを引く。
 ぎょっとしたサッカー部所属の生徒たちの視線も気づかないふりで、教室内を見渡す。三分の一ほど席は埋まっていたが、肝心の問題児の姿はない。
「珍しいね、先生。三年の棟に来るの」
 出直すかと戻りかけたところで水倉に呼ばれて、サッカー部の一団に近づく。ふたりほど気まずい顔を隠せていないが、噂のネタにしていた教師が現れたらそんなものだろう。
「佐倉は?」
「あれ。さっきまでいたのに。なぁ、いたよな?」
「知らね。さぼる気なんじゃねぇの、昼から」
 不機嫌さのとれていない声で応じて、時枝が顔を上げる。
「なんで佐倉? それこそ珍しいね、先生がすすんで構うの」
「好きで構いにきたんじゃねぇよ。美作先生に泣きつかれたの。あいつが赤点回避できるようになんとかしてくれって」
「また特別待遇なのね、佐倉」
「佐倉が特別にできてないからこうなってんだよ。なんなら水倉も一緒に補修受けるか?」
 ひとりだろうがふたりだろうが手間は変わらない。受けるほうからすれば、余計な勉強などしたくもないだろうが。
 案の定、水倉は藪をつついたという顔で首を振った。「いい、いい。大丈夫」
「赤点取る予定ないし。っつか、取ったら試合出れないし」
 それが当たり前のはずなんだけどなと思いながら、問いかける。
「日中の授業後は部活があるし、部活が終わってから寮でやらせるってことで美作先生とも監督とも話はついてるんだけど。まさかとは思うけど、夜は寮に帰ってるよな?」
 万が一、戻っていないという事実があっても聞きたくはないが。
「あー……」
 時枝と水倉が顔を見合わせている。
「帰ってきて、ないの」
 つつきたくもない藪を自分もついたことを悟って、声音が下がった。知ってしまえば、知らないままではいられない。
「いや、帰ってきては。帰ってきてはいるんだけど。その、たまに点呼のあとにいないことがあるというか」
 白状した時枝に、溜息ひとつで告げる。巻き添えを回避したい気持ちはわかるから、きつくも言えない。
「今日の夜、抜き打ちで行くから。そのときにいなかったら、謹慎くらいは覚悟しろって言っとけ」
「それ、抜き打ちって言わないんじゃ」
「ついでに、教科書と問題集、机につっこんだままなら、寮に持って帰れとも言っておいて。一緒に見るから」
「数学以外でも?」
 調子よくからかう声に当たり前だとやり返して、廊下に出る。あと数分で五時間目開始のチャイムが鳴るはずだが、佐倉が戻ってくる気配はなかった。このあとに授業はないから、時間は空いている。けれど探しに行く気にはなれなかった。周りがどう手を尽くしたところで、本人にその気がなければ解決しない。
 数学準備室には誰もいなかった。そのことにほっとしながら、自席に着く。授業がなくても、やるべきことはいくらでもあった。
 そろそろ中間考査の問題もつくらなければならない。目についた参考書をぱらぱらと捲る。
 ――だから戻ってきたんですよ、俺は。
 考えまいとしていた声がふいによみがえった。打ち消そうとすると、今度は追いやったはずの生徒の噂が浮かび上がる。
 ――デキてたりすんのかな。あのふたり、なんか妙な空気だったじゃん。深山にいたころのチームメイトってわりには。
 ――なに言ってんだよ、男同士だろ。
 ――いや、でも、ほら。あの人って、ゲイなんだろ?
 そうだよ、でも。誰にも言わないかわりに、心のなかで反論する。ゲイだからって理由だけで、俺を選ぶわけがないだろう。
 ――そんなことくらいで俺は潰されるつもりも、駄目になるつもりもないですよ。
 つい数日前に聞いたものとは違う、四年前の声。なんで覚えているんだと自分に呆れた。参考書に集中することを諦めて、小さく息を吐く。
 あいつの言っていることは間違っていなかった。そう思うことができるのは、今の折原の活躍があるからだ。
 それでも下世話な声は出る。好意的であるはずの場所でも、くだらない噂が立つ。
 あんなことを言いさえしなければ、受ける謂われのない風評だった。
 俺は、そんなことを許したくなかった。あいつには、無用な障害のない道を歩いてほしかった。俺の独りよがりだとわかっていても、最後までその考えは消えなかった。
 あいつの言う「そんなこと」は、俺にとっては重大で、重要なことだった。