夢の続きの話をしよう(下)【期間限定再録】


「なんかすみません、俺まで送ってもらっちゃって」
「べつに」
 監督を送り届けてふたりきりになった車内で、沈黙を破ったのは折原だった。監督がいたときと変わらない、穏やかな声。
 酒を飲まない口実に運転手を買って出たのは俺の都合だし、監督ひとりを送るもふたりを送るも、さした違いはない。
 助手席のほうに意識を向けないようにしながら、カーラジオのボリュームをわずかに上げる。
「まぁ、客みたいなもんだし」
「そうか、そうなるのか」
 あっさりと折原は頷いた。
「それはそれで変な感じですけど」
 先輩と後輩というより、そちらのほうがマシかもしれない。そうであれば、この居心地の悪さも不思議ではなくなる。
「おまえ、今、どこに泊まってんの?」
 日本にいたころはクラブの寮に入っていたはずだが、それも何年も前の話だ。一ヶ月ほど日本にいると言っていたから、実家に戻っているのかもしれない。
 ――となりの県だったかな、たしか。
 さすがにそこまでは送れないが、使い勝手のいい駅までなら送ってやれる。終電には余裕のある時間だ。
「行く前にマンション買ったんですよね。だから、そこ」
 こっちに帰ってくることもあるんで、そのときように。折原が告げた場所は、ここから三駅も離れていなかった。就職後に移り住んだ俺のアパートからも二駅ほどの距離しかない。
「先輩は? 前のところにまだ住んでるんですか?」
「いや、卒業するときに引っ越した」
「深山まではちょっと距離ありましたもんね」
 当たり障りのない会話に、そうだなと相槌を打つ。早く着けばいいのにと思う反面、むやみにスピードを上げる気にはなれなかった。
「でも、正直、ちょっと意外でした。先輩が深山にいたことも、サッカー部の顧問をしてたことも」
 その言葉に、つい視線がとなりに動いた。前を向いたまま、折原が続ける。静かな声だった。
「先輩は、あそこには戻りたくないのかなって思ってたから」
 なんでそんなふうに思ったんだとは聞けなかった。
「べつに」
 普通を装ったまま、答える。
「私学出身者が母校に戻るのはよくある話だ」
 採用する側も、出身者を好む。就職活動においてアドバンテージがあったから選んだ。それだけだ。
「顧問のほうも、俺はなにもしてないしな」
 それも事実だった。必要以上のことをする気はないし、監督も求めていないだろう。
「たまに顔出して、最低限の義理は果たしてるけど。監督も俺くらいのほうが使い走りにしやすくてちょうどいいんだろ」
「そんなことはないと思いますけど」
 いまさら気を使う必要もないだろうに、声音が和らぐ。
「そのわりには、生徒さんは懐いてるみたいですし」
「嫌味か」
 御し切れていないどころか振り回されているところを散々に見ただろうに。溜息まじりに言い返せば、折原は「まさか」と軽く笑った。
 沈黙が流れた。そのあとで、折原が口を開く。
「グラウンドでも言いましたけど、変わらないですね、先輩は」
 その横顔とは、一度も視線は合わなかった。
「ぜんぜん、変わらない」
「おまえは変わったな」
「当たり前じゃないですか」
 さらりと折原は受け流した。
「もう、四年ですよ」
 ――そんなに変わってないと思うんですけど。でも先輩がそう言ってくれるなら、ちょっとは俺も成長したのかな。
 だったらうれしいと素直にはにかんでいた顔が、ひどく遠かった。当たり前だ。四年も前の話だ、折原の言うとおり。
「でも、先輩」
 その声は、やはり静かだった。監督や生徒の前で話していたものとも、もっと昔にふたりでいたころに聞いていたものとも違う。あのころから四年の歳月が流れて、折原が話すようになったもの。それが言葉にならない違和感を訴えてくる。
 変わることは当たり前で、望んでいたことなのに。
「だから戻ってきたんですよ、俺」
 どういう意味だと聞く気にもなれなかった。
 ――きらいになれたらよかった。
 そう言った折原の声も、顔も、覚えている。忘れようと言い聞かせて過ごしてきたけれど、叶っていなかったと思い知った。
 それでもと思った。折原が向ける先を間違えていた感情を、きれいに捨てることができたのなら、それでよかったのだ。
「送ってもらってすみませんでした。ありがとうございます」
 次の角のところなんでと告げられて、肩から力が抜けた。自意識過剰だと笑われようとも、俺が割り切れていないのだから笑えない。
「先輩」
 路肩に寄せてとめたところで、折原が呼ぶ。その声に、いつかの記憶が呼び起こされた。あのころは、よく車内で話していた。ほかの誰にも聞かれないところで、ふたりきりで。
「怪我、ひどいのか」
 遮って問いかけたのは、折原の口からなにかを聞くことが恐ろしかったからだ。今の折原は昔のようなことは言わないとわかっていても。
「え? あぁ、それほどでもないですよ。ただ、ちょっと癖になりそうだったんで」
 かすかに浮いた戸惑いを消して、折原が笑う。たいしたことではないと示すように。メスを入れるのは避けて、監督やチームドクターとの協議も経て、開幕までの期間は古巣の日本でリハビリを。
 折原が来ると知ったときに、監督から聞き及んだものと同じ内容だ。それでも、本人の口からあらためて聞くと、一層安心する。
 折原が折原であるために、無用な障害はいらない。深山に在学していたころから、ずっと思っていたことだった。
 そうでさえあれば折原は幸せだと、俺が信じていたかったのかもしれない。
「なんか、先輩の呪いみたいだって思うことありますよ、俺」
「は……?」
「だって、言ったじゃないですか。あの日、俺に」
 予想外の言葉に顔を上げた先で視線が合う。折原が皮肉るように、小さく笑った。
 なんにでもなれる。どこまでもいける。
 プロになって、海外に出て、日本を代表する選手になって。
 怪我をするようなことがあっても、ちゃんと治る。大丈夫、大丈夫だ。
 ぜんぶ、うまくいく、おまえなら。
 それは、あの日。退寮するとき、寮室にひとりやってきた折原に言ったことだった。
 どう言えばいいのかわからないまま、必死にひねり出した。こうして思い返しても、なにを言っているのかと嗤いたくなるほどに滑稽だ。
 それでもあのとき、俺は俺なりに本気だった。
「ふざけんなよって思ったけど、言えなかった。言い返すだけのものを、俺は持ってなかったから」
「……」
「だから、削ぎ落とせるものは削ぎ落としたいって、そう思ったんですよ」
 それはいったいなんの話だと聞いてしまえたら、よかったのかもしれない。折原は淡々とした表情を崩さなかった。
 静かな声が車内に響く。もう降りろだとか、もういいだとか、そんな制止も出てこなかった。
「ねぇ、先輩。今の俺と一緒にいることで先輩が得られるメリットってあまりないでしょう」
「折原」
「俺といたら、どんな勘繰り受けるか、わかったものじゃないですもんね。俺は事実だから構いませんし、いまさらなんとも思いませんけど」
 言い切って、挑発するように折原が目を細めた。
「先輩は、そうじゃないんですもんね?」
「俺は」
 折原から目を逸らして膝元に視線を落とす。それは無意識ではあったのだけれど、ふとよぎったのは馬鹿馬鹿しい「たられば」だった。
「おまえに、あんなことを言ってほしかったわけじゃない」
「でしょうね」
 わかっていたと言いたげに折原はさらりと首肯した。「知ってます。だから俺の勝手です」
「ぜんぶ俺の勝手です。俺の選択した言動も、――あのころ、先輩を好きだったことも」
 俺にはどうでもいいんですと。そう言った折原を押し返した。あのときの自分の判断が間違っていたとは今でも思わない。思いたくはない。
 そもそも、なんでこんな話になっているのかわからなかった。もう、おまえにはどうでもいいことじゃないのか。それとも、恨み言を伝えないとおさまらないのか。カーラジオからは、好みでもなんでもない流行りの歌が流れ続けていた。
「先輩。俺は、先輩を選びに戻ってきたんじゃないんです。先輩に選んでもらいに帰ってきたんです」
「……意味がわからない」
 やっと発した言葉は、自分でも信じがたいほど覇気がなかった。その返答に、ふっと折原が笑った。大人びた、俺の知らない顔で。
「本当に変わらないですね、先輩」
 今日だけで三度も聞いたと、どこか投げやりに思った。おまえは変わったんじゃなかったのか、とも。
「でも、いいんです。今日、俺が言いたかったことはそれだけなんで。すみません、時間とっちゃって」
 言葉尻をゆるめて、折原が話を切り上げた。四年前によく聞いた声だった。しかたないと諦めて受け入れたようなそれでもって、いつも逃げ場を残してくれた。気まずさを引きずらないように、気を使ってくれていた。
 その優しさに、俺はずっと甘えていた。
「折原」
 ドアを開けて外に出る直前。ステアリングに視線を落としたまま、呼びかけた。律儀に折原が動作を止めて視線を向ける。顔を上げることはできなかった。平坦な声を維持することで精一杯だ。いつも、そうだ。
「おまえのそれは思い込みだって言っただろ。それとも性質の悪い冗談のつもりか」
「先輩がそう思うなら、先輩にとってはそうなのかもしれないですね」
 突き放す物言いにも、折原は変わらなかった。
「でも、違います。それに、俺の気持ちを先輩が決める権利はないですよ」
 だから、それは俺が刷り込んだものじゃないのか。俺が突き落としたものじゃないのか。
 叫びそうになる心を抑えて黙り込む。折原が一度そっと息を吐いた。知っている。それが折原が本音を告げる前触れだったことも。折原が意味のない嘘を吐かないことも。
「俺の感情は、俺のものです」
 誰に命令されたわけでもない。強制されたら変わるものでもない。それは当たり前のことだと言っているようだった。
「俺は、俺の意思で、佐野先輩にもう一度会いにきたんです」
 なにを言えばいいのかわからなかった。それなのに、「おやすみなさい」と折原がドアを閉めようとしたときに言葉が零れた。ほとんど無意識だった。
「馬鹿だな」
 呆れるでも怒るでもなく、折原はかすかに笑って応じた。「言ったじゃないですか」
「俺、馬鹿になりたかったんです、って」