「今日、来てるんでしょー。サッカーの折原選手。さっきたまたま見た子がいたみたいでね、騒いでたよ」
数学準備室のドアを開けた途端に教えられて、苦い顔になる。女子生徒が興味本位で詰めかけたら騒ぎになるかもしれない。
「グラウンド周り、人だかりにならないといいけど」
「……あまりひどそうだったら、注意しに行きますよ」
「大変だね、顧問も」
「顧問というより監督の小間使いですけど」
「あぁ、佐野ちゃん、サッカー部の出身なんだっけ。田野崎さん、うれしそうだったもんなぁ。佐野ちゃんが深山に来るって決まったとき」
はは、といかにも軽く笑う横顔は、まったくの他人ごとだった。勤続年数としては二年先輩にあたるが、同じ若手の域だ。なにくれとなく構ってくれるが、その分だけ面倒ごとも押し付けられている。
「うちの教え子だから顧問にくれって談判してた。ちょうど前の顧問が退職するタイミングだったのもあるんだろうけど」
「はぁ、そうらしいですね」
「あの人、うちの校長と長い仲らしいからね。ドンマイ」
それも誰からともなく聞いた話だ。おかげで部活動成績の低迷も許されているらしいとの噂も。
「ところで、佐野ちゃん。年齢的に同期くらいなんじゃないの。あの子と」
「ひとつ下です」
持ったままだった教材を自分の机に置いて、椅子を引く。予想外に佐倉の世話を焼いたせいで、置きに戻る暇もなかったのだ。
「といっても昔の話なんで。おまけに俺は途中でやめてますから。あいつがプロになってからの交流はありません」
「なんだ、そんなもんか」
「そんなもんですよ。美作先生だって、学生時代の後輩と頻繁に連絡を取り合いはしないでしょう」
社会に出て仕事に追われるようになれば、なおさらだ。現に俺も、大学在学中はあれほど一緒だったはずの庄司たちとも、会う機会はぐんと減った。グループラインで近況を報告し合うことはあるが、その程度だ。
「それで相談ってなんなんですか。またうちのクラスの子だけどサッカー部だからとか言って、こっちに押し付ける気でしょう」
「あ、そういうこと言っちゃう? もうちょっと積極的に引き受けてくれてもいいのに。むしろ俺の後輩だから俺が面倒見てやるくらいの男気はないの」
「ありません」
冷たいと思われようが、仕事は業務の範囲内で終わらせたい。ひとりひとり細やかに気を配ってやれる度量は自分にはない。視界に入れば気をつけてやりたいとは思うが、その程度だ。
そのくらい割り切らないと無理な仕事量だと、丸二年働いて思い知った。言い切って、回収していた小テストの束に手を伸ばす。これも早々に採点をすませて返さないとならない。
「そんなこと言ってさぁ」
言い包めようとしていた声が不自然に途切れる。視線を上げると、嫌そうにドアを凝視していた顔が、あからさまに俯いたところだった。なんなんだと思う間もなく、ドアが開く。
「いたいた、佐野先生」
名指しされて顔を向けると、教務主任がこれ見よがしに腰に手を当てて立っていた。
「ちょっとサッカー部が大変そうだから、ギャラリー追い返してきてくれない?」
「……僕、ですか」
「あの子たち、あたしが言っても聞かないもの。まったくいやになるったら。若い男の子に言われたほうが尾を引かないし、素直に聞くのよ」
「いや、そんなことはないと」
「それにサッカー部の顧問じゃないの、あなた」
こちらの意見を一切聞かないまま、ドアが大きな音を立てて閉まった。遠ざかっていくヒールの音に頭を抱えたくなっていると、向かい側の席から笑い声が響く。
「本当に三木先生は若い男の子が好きだよねー」
ご愁傷様と言わんばかりだ。
「美作先生が俺に押し付けたんじゃないですか」
「いやいや、あの人、もともと俺みたいなチャラいタイプより、真面目で従順そうなタイプのほうが好きなのよ。お局様気質が抜けないから」
教務主任がいたときはここぞと存在感を消していたくせに、いなくなった途端にこの言いようだ。
「中身はどうあれ、見た目は真面目そうだもんね。おまけになんだかんだで体育会系だから、上の言うことは素直に聞くし」
「中身はどうあれって」
「気性の激しい子も多いのに、平気な顔でサッカー部押さえつけてるんだから、気が弱いわけないじゃない。なに言われても適当にひょいひょい受け流してるし」
残りは夜にしようと諦めて、採点を始めたばかりだった小テストの山を元の位置に戻す。部活終了までグラウンド管理をしていないと、うるさかっただのなんのと言われかねない。
「本当に気が弱かったら、佐倉にビビってるでしょ。あいつ、態度悪い上にガタイもいいから」
「教師が生徒にビビってどうするんですか」
「俺はそのくらい適当な後輩のほうが楽でいいけどね。峰元くんとか、お堅い上に繊細だから。このあいだ泣かされてたでしょ、おたくの部の問題児に」
「泣かされ?」
「授業中にいびられて半泣きで固まったっていうのが正解らしいけど」
今日の話の大本はそれだったのだろうか。うんざりと耳を傾ける。峰元というのは、去年の春に新任採用された男性教諭だ。
「おまけに誰も助けてくれなかったんだってさ。美作先生のクラスはみんなひどいって、俺、このあいだの飲み会で延々愚痴られたのよ?」
「なんで教壇に立っていて半泣きになるんですか」
「あの子、文化系だからねぇ。うちのクラスの子たちとはもともと相性がよくないのよ、残念ながら」
文化系だろうがなんだろうが、大の大人だろうが。思ったが思うだけだ。そんなこと言えるわけもない。
「佐野ちゃんは、そのあたり相性いいもんね。同じ穴の狢だから」
「体育会系か文化系かって言われたら、体育会系かもしれないですけど」
「なんというか、良くも悪くも深山の寮育ちって感じ。上とも下とも適当にうまくやれるあたりが」
「はぁ、そうですか」
「ほら、それ、それ。そのあしらい方よ。今の子たちも、そのくらい図太く育ってくれたらいいのにねぇ」
「あいつら、教室でもなんかやらかしてるんですか」
ついこのあいだも、授業は受けてるよ、授業はね、なんて含みのあることを言っていたが。
「本当にどうでもいいようなことで、たまに時枝がマジ切れしそうな顔してるときがあるから。お、そろそろ切れそうだなぁって、カウントダウンしてるんだけど」
「数える前に阻止してくださいよ」
「いや、いや。感情を無理やり押し止めるのって不健全でしょ」
矛盾しているのか、していないのか。よくわからないことを平然と言って、にこりとほほえむ。
「ま、顧問があいだを取り持ってくれるなら、担任としては万々歳だなって」
「……はぁ」
「じゃ、今日の話はそれだから。残りはまた今度頼むけど。よろしくね」
やっぱり押し付けられた。思ったけれど、つい数日前にも監督に似たことを頼まれているのだ。手間は変わらないと考え直して、了承して席を立つ。
大変だねぇとのまったく心のこもっていない見送りを背に、来たばかりの道を戻る。甲高い声が響いてきたのは、サッカー部の専用グラウンドが見えてきたあたりだった。
着任してから一度も見たことのなかったギャラリーの数に、苦笑いしか浮かばない。教務主任のヒステリーかと少し疑っていたが、違ったらしい。
グラウンドで行われているのは紅白戦だ。単純な練習より見ていて楽しいのだろう。プレーごとに歓声が上がっている。
少し離れたところで試合を見ている監督と折原は、フェンスに群がる観客に頓着していないが、現役部員はそうできていない。わずらわしげにちらちらと視線を送っている。
――気にはなるだろうな、これだけ騒いでたら。
フェンスに張り付く集団のなかでもひときわ声の目立つグループに声をかける。
「こら。向こうは練習中なんだから、あんまり騒ぐな」
「じゃあ、終わってから写真は?」
「校内携帯持ち込み禁止」
ブレザーのポケットを探っていた手の動きが、ぎくりと止まる。
「気づかなかったことにしてやるから。ほら、遅くなる前に帰れ」
「えー!」
「じゃあ、見ててもいいけど。静かにな」
悲痛な声に妥協案で手を打つ。問題なのは見学行為ではなく声量だ。
――というか、まだ女子高生に人気あるんだな、あいつ。
ちょうど去年のいまごろにワールドカップで盛り上がっていたから、その名残かもしれない。試合を見ていなくても、ニュースで散々に名前を聞いた。
日本のエース。その名称が似合う存在になったのだという感慨は湧いたが、それだけだった。だから、ようやく過去にできたのだと思っていた。つい、数日前までは。
「ついでに、ちょっと離れて。ほら、あそこに木陰あるだろ。そこからでも十分見えるから」
桜の木の下を指で示す。遮るものはフェンス以外にないのだから、条件は同じだ。文句を言いながらも生徒の顔に了承の気配が浮かぶ。
これで少しはマシになると、一息つこうとした瞬間。
「先輩!」
背中に響いたのは、懐かしい声だった。引き寄せられるように視線を向けた先で、ボールの当たったフェンスが派手な音を立てて揺れた。
振動に驚いたらしい幾人かが悲鳴を上げると、ぎょっとしたように部員たちの動きも止まる。
「すみませーん、すっぱ抜けましたぁ」
注目をものともしない態度で近づいてきた問題児に、女子生徒の一部がばっとフェンスから離れた。そこまでビビらなくてもと思う反面、またかとの呆れが声に乗る。
「佐倉」
「なんすか。すみませんって。誰も当たってないでしょ」
そういう問題でもないが、なにを言っても通じない雰囲気に説教をする気も削がれた。すっぱ抜けるわけがないだろうが、と言うかわりに形式的な注意を施す。
「気をつけろよ」
「はーい、気をつけまーす」
気味が悪いほど素直な返事を残して、拾ったボールを手に紅白戦のピッチに戻っていく。
「なにあれ、怖いんだけど!」
「すっぱ抜けたんだと。今のでわかっただろ。あんまり近くで騒ぐと危ないから。もうちょっと距離取って静かに見てな」
元凶が去った途端に騒ぎ出す女子生徒をおざなりに宥めると、柳眉が跳ね上がった。
「先生も、ビビるなり怒るなりしてくれてもよくない? なにその無反応。これが美作先生だったら絶対もっと優しくしてくれるのに」
絶対にそんなことはないと確信できたが、夢を壊すことはない。
「美作先生なら数学準備室で暇してるぞ」
「またそうやって追い出そうとする! 先生はいつでも見れるけど、こっちは今日しか見れないもん」
なんかすごいオーラがあるよねと囁き合う声は、当初を思えば格段に小さい。注意を守る気はあるらしい。木陰に移動していく女生徒たちを見送って、最後にグラウンドへ向き直る。この調子なら、準備室に戻っても問題ないだろう。
紅白戦は中断されていた。佐倉を諫める時枝の横顔からは、部長としての注意を越えた苛立ちが滲んでいるように見えた。
――カウントダウンしてるの、俺。時枝がいつマジ切れするかなぁって。
浮かんだのは、完全におもしろがっていた同僚教師の声だった。面倒ごとばかり押し付けやがってとも思うが、見ないふりを決め込むにはかかわりを持ち過ぎてしまった。
溜息を押し殺して踵を返そうとした足が止まる。目が合ったのは懐かしい顔だった。こちらに歩いてくるのを見れば、自分に用事があると思わざるを得ない。
女子生徒たちから距離を取りたくて、グラウンドに入る。
「先輩」
珍しくどこか不機嫌そうな声だった。
「悪かったな、うちの生徒が騒がしくて」
「いえ、それはぜんぜんいいんですけど」
「良いのか悪いのかはわかんねぇけど、今ので気が削がれたみたいだから。ちょっとは静かになると思うけど」
「そっちじゃなくて。なんなんですか、あれ」
「あぁ」
そっちかと、時枝の説教を聞き流している問題児を見やる。
「うるさくて気が散ったんだろ。ちょっとムラっ気のあるやつで。センスはあるんだけどな」
「そういうことでもなくて」
「……おまえがいたころと違って、最近はこんなふうにギャラリーができることもなかったから。あいつら慣れてないんだよ。だから気が立ったんだろ。悪かったな」
「そういうことでもないんですけど、まぁいいです」
じゃあ、どういうことだよと聞き返す余力はなかった。こんなふうに話すのは、あの夜以来だ。見ないようにしていたはずの顔を、そっと見上げる。
四年前よりも、顔つきはさらに大人びたようだった。より一層、雰囲気が落ち着いたからかもしれない。
海外の一部リーグで日々揉まれているからなのか、身体つきもずっとしっかりとしていた。
――四年か。
それだけの時間が経ったのだから、当たり前の変化だった。
なにも言えないでいると、大人びた顔に根負けしたような笑みが浮かんだ。
「急ぎの仕事じゃなかったんですか」
その声に、はっとして普通を取り繕う。
「仕事だったんだよ。ただ、それよりも、こっちをどうにかしろって上に言われただけで」
「おもしろいですね。先輩がここでこき使われてるのを見るのも」
からかうように笑う声が、どこか他人行儀に響いた。
「なんか新鮮」
「そりゃ、下っ端だからな」
後方で紅白戦の再開を告げる笛の音が響いた。折原を呼ぶ監督の声も混ざる。聞こえているだろうに、折原は動かない。
「折原」
本人を前にして呼びかけたのも、あの日以来だった。その声が平然としていたことに、ほっとした。大丈夫だ。少なくとも問題はないとやり過ごすことはできる。
「監督、呼んでる」
「……わかってます」
切り替えるように小さく息を吐いて、折原が笑った。昔よく見た顔だった。
「変わらないですね、先輩は」
それがどういう意味なのか、すぐにはわからなかった。答えない俺に構うでもなく、折原は続ける。なんでもないふうに。
「なんか驚きました、いろんな意味で」
言うだけ言って背を向けた折原が、数歩進んでからふと振り返った。
「監督が、夜に付き合えって言ってましたよ。先輩なら一緒に来てくれますよね」
文句なしの後輩の笑顔で告げられて、頭が固まる。普通の先輩だったらという意味だと気がついたのは、折原が監督のもとに行ってからだった。
普通の仲のいい先輩後輩の関係なら、仕事よりもひさしぶりに帰ってきた後輩を優先しますよね。急に来たわけでもなんでもないんだから。
――そりゃ、普通はそうだろうよ、普通は。
口にできない言葉ばかりが胸のうちに溜まっていく。俺は思い知ったあとなんだよ。まだ普通になれてなかったって。
おまえは、と思った。おまえは、もう過去のことにできているのだろうけれど。
望んだとおりの未来になっているのに、一抹の寂しさを覚えたことを否定できなかった。それでも同じ心で安堵もしている。我ながら勝手だ。
「変わってない、か」
無意識に漏れた声に、はっと周囲を窺う。言いつけた場所から声援を送る女生徒からも、練習に励む部員からも遠い場所。誰にも聞こえているわけがない。当たり前のことを再認して、足元に視線を落とした。
変わったことは、おそらくいくつでもある。少なくとも年齢上の区分は大人になった。この学園にいたころとも大学に通っていたころとも違い、社会の一員として働いている。
サッカーからは、ある意味でさらに離れた。練習風景を見ても、自分だったらどうしただなんて傲慢な考えは浮かびもしなくなった。
けれど、折原が言っていたことはそういうことではないのだろう。
四年前、すべてをなかったことにしたいと願ったのは俺だった。そのはずだったのに、俺はいまだに割り切れていない。
そのことに、折原は気がついていたのかもしれない。
数学準備室のドアを開けた途端に教えられて、苦い顔になる。女子生徒が興味本位で詰めかけたら騒ぎになるかもしれない。
「グラウンド周り、人だかりにならないといいけど」
「……あまりひどそうだったら、注意しに行きますよ」
「大変だね、顧問も」
「顧問というより監督の小間使いですけど」
「あぁ、佐野ちゃん、サッカー部の出身なんだっけ。田野崎さん、うれしそうだったもんなぁ。佐野ちゃんが深山に来るって決まったとき」
はは、といかにも軽く笑う横顔は、まったくの他人ごとだった。勤続年数としては二年先輩にあたるが、同じ若手の域だ。なにくれとなく構ってくれるが、その分だけ面倒ごとも押し付けられている。
「うちの教え子だから顧問にくれって談判してた。ちょうど前の顧問が退職するタイミングだったのもあるんだろうけど」
「はぁ、そうらしいですね」
「あの人、うちの校長と長い仲らしいからね。ドンマイ」
それも誰からともなく聞いた話だ。おかげで部活動成績の低迷も許されているらしいとの噂も。
「ところで、佐野ちゃん。年齢的に同期くらいなんじゃないの。あの子と」
「ひとつ下です」
持ったままだった教材を自分の机に置いて、椅子を引く。予想外に佐倉の世話を焼いたせいで、置きに戻る暇もなかったのだ。
「といっても昔の話なんで。おまけに俺は途中でやめてますから。あいつがプロになってからの交流はありません」
「なんだ、そんなもんか」
「そんなもんですよ。美作先生だって、学生時代の後輩と頻繁に連絡を取り合いはしないでしょう」
社会に出て仕事に追われるようになれば、なおさらだ。現に俺も、大学在学中はあれほど一緒だったはずの庄司たちとも、会う機会はぐんと減った。グループラインで近況を報告し合うことはあるが、その程度だ。
「それで相談ってなんなんですか。またうちのクラスの子だけどサッカー部だからとか言って、こっちに押し付ける気でしょう」
「あ、そういうこと言っちゃう? もうちょっと積極的に引き受けてくれてもいいのに。むしろ俺の後輩だから俺が面倒見てやるくらいの男気はないの」
「ありません」
冷たいと思われようが、仕事は業務の範囲内で終わらせたい。ひとりひとり細やかに気を配ってやれる度量は自分にはない。視界に入れば気をつけてやりたいとは思うが、その程度だ。
そのくらい割り切らないと無理な仕事量だと、丸二年働いて思い知った。言い切って、回収していた小テストの束に手を伸ばす。これも早々に採点をすませて返さないとならない。
「そんなこと言ってさぁ」
言い包めようとしていた声が不自然に途切れる。視線を上げると、嫌そうにドアを凝視していた顔が、あからさまに俯いたところだった。なんなんだと思う間もなく、ドアが開く。
「いたいた、佐野先生」
名指しされて顔を向けると、教務主任がこれ見よがしに腰に手を当てて立っていた。
「ちょっとサッカー部が大変そうだから、ギャラリー追い返してきてくれない?」
「……僕、ですか」
「あの子たち、あたしが言っても聞かないもの。まったくいやになるったら。若い男の子に言われたほうが尾を引かないし、素直に聞くのよ」
「いや、そんなことはないと」
「それにサッカー部の顧問じゃないの、あなた」
こちらの意見を一切聞かないまま、ドアが大きな音を立てて閉まった。遠ざかっていくヒールの音に頭を抱えたくなっていると、向かい側の席から笑い声が響く。
「本当に三木先生は若い男の子が好きだよねー」
ご愁傷様と言わんばかりだ。
「美作先生が俺に押し付けたんじゃないですか」
「いやいや、あの人、もともと俺みたいなチャラいタイプより、真面目で従順そうなタイプのほうが好きなのよ。お局様気質が抜けないから」
教務主任がいたときはここぞと存在感を消していたくせに、いなくなった途端にこの言いようだ。
「中身はどうあれ、見た目は真面目そうだもんね。おまけになんだかんだで体育会系だから、上の言うことは素直に聞くし」
「中身はどうあれって」
「気性の激しい子も多いのに、平気な顔でサッカー部押さえつけてるんだから、気が弱いわけないじゃない。なに言われても適当にひょいひょい受け流してるし」
残りは夜にしようと諦めて、採点を始めたばかりだった小テストの山を元の位置に戻す。部活終了までグラウンド管理をしていないと、うるさかっただのなんのと言われかねない。
「本当に気が弱かったら、佐倉にビビってるでしょ。あいつ、態度悪い上にガタイもいいから」
「教師が生徒にビビってどうするんですか」
「俺はそのくらい適当な後輩のほうが楽でいいけどね。峰元くんとか、お堅い上に繊細だから。このあいだ泣かされてたでしょ、おたくの部の問題児に」
「泣かされ?」
「授業中にいびられて半泣きで固まったっていうのが正解らしいけど」
今日の話の大本はそれだったのだろうか。うんざりと耳を傾ける。峰元というのは、去年の春に新任採用された男性教諭だ。
「おまけに誰も助けてくれなかったんだってさ。美作先生のクラスはみんなひどいって、俺、このあいだの飲み会で延々愚痴られたのよ?」
「なんで教壇に立っていて半泣きになるんですか」
「あの子、文化系だからねぇ。うちのクラスの子たちとはもともと相性がよくないのよ、残念ながら」
文化系だろうがなんだろうが、大の大人だろうが。思ったが思うだけだ。そんなこと言えるわけもない。
「佐野ちゃんは、そのあたり相性いいもんね。同じ穴の狢だから」
「体育会系か文化系かって言われたら、体育会系かもしれないですけど」
「なんというか、良くも悪くも深山の寮育ちって感じ。上とも下とも適当にうまくやれるあたりが」
「はぁ、そうですか」
「ほら、それ、それ。そのあしらい方よ。今の子たちも、そのくらい図太く育ってくれたらいいのにねぇ」
「あいつら、教室でもなんかやらかしてるんですか」
ついこのあいだも、授業は受けてるよ、授業はね、なんて含みのあることを言っていたが。
「本当にどうでもいいようなことで、たまに時枝がマジ切れしそうな顔してるときがあるから。お、そろそろ切れそうだなぁって、カウントダウンしてるんだけど」
「数える前に阻止してくださいよ」
「いや、いや。感情を無理やり押し止めるのって不健全でしょ」
矛盾しているのか、していないのか。よくわからないことを平然と言って、にこりとほほえむ。
「ま、顧問があいだを取り持ってくれるなら、担任としては万々歳だなって」
「……はぁ」
「じゃ、今日の話はそれだから。残りはまた今度頼むけど。よろしくね」
やっぱり押し付けられた。思ったけれど、つい数日前にも監督に似たことを頼まれているのだ。手間は変わらないと考え直して、了承して席を立つ。
大変だねぇとのまったく心のこもっていない見送りを背に、来たばかりの道を戻る。甲高い声が響いてきたのは、サッカー部の専用グラウンドが見えてきたあたりだった。
着任してから一度も見たことのなかったギャラリーの数に、苦笑いしか浮かばない。教務主任のヒステリーかと少し疑っていたが、違ったらしい。
グラウンドで行われているのは紅白戦だ。単純な練習より見ていて楽しいのだろう。プレーごとに歓声が上がっている。
少し離れたところで試合を見ている監督と折原は、フェンスに群がる観客に頓着していないが、現役部員はそうできていない。わずらわしげにちらちらと視線を送っている。
――気にはなるだろうな、これだけ騒いでたら。
フェンスに張り付く集団のなかでもひときわ声の目立つグループに声をかける。
「こら。向こうは練習中なんだから、あんまり騒ぐな」
「じゃあ、終わってから写真は?」
「校内携帯持ち込み禁止」
ブレザーのポケットを探っていた手の動きが、ぎくりと止まる。
「気づかなかったことにしてやるから。ほら、遅くなる前に帰れ」
「えー!」
「じゃあ、見ててもいいけど。静かにな」
悲痛な声に妥協案で手を打つ。問題なのは見学行為ではなく声量だ。
――というか、まだ女子高生に人気あるんだな、あいつ。
ちょうど去年のいまごろにワールドカップで盛り上がっていたから、その名残かもしれない。試合を見ていなくても、ニュースで散々に名前を聞いた。
日本のエース。その名称が似合う存在になったのだという感慨は湧いたが、それだけだった。だから、ようやく過去にできたのだと思っていた。つい、数日前までは。
「ついでに、ちょっと離れて。ほら、あそこに木陰あるだろ。そこからでも十分見えるから」
桜の木の下を指で示す。遮るものはフェンス以外にないのだから、条件は同じだ。文句を言いながらも生徒の顔に了承の気配が浮かぶ。
これで少しはマシになると、一息つこうとした瞬間。
「先輩!」
背中に響いたのは、懐かしい声だった。引き寄せられるように視線を向けた先で、ボールの当たったフェンスが派手な音を立てて揺れた。
振動に驚いたらしい幾人かが悲鳴を上げると、ぎょっとしたように部員たちの動きも止まる。
「すみませーん、すっぱ抜けましたぁ」
注目をものともしない態度で近づいてきた問題児に、女子生徒の一部がばっとフェンスから離れた。そこまでビビらなくてもと思う反面、またかとの呆れが声に乗る。
「佐倉」
「なんすか。すみませんって。誰も当たってないでしょ」
そういう問題でもないが、なにを言っても通じない雰囲気に説教をする気も削がれた。すっぱ抜けるわけがないだろうが、と言うかわりに形式的な注意を施す。
「気をつけろよ」
「はーい、気をつけまーす」
気味が悪いほど素直な返事を残して、拾ったボールを手に紅白戦のピッチに戻っていく。
「なにあれ、怖いんだけど!」
「すっぱ抜けたんだと。今のでわかっただろ。あんまり近くで騒ぐと危ないから。もうちょっと距離取って静かに見てな」
元凶が去った途端に騒ぎ出す女子生徒をおざなりに宥めると、柳眉が跳ね上がった。
「先生も、ビビるなり怒るなりしてくれてもよくない? なにその無反応。これが美作先生だったら絶対もっと優しくしてくれるのに」
絶対にそんなことはないと確信できたが、夢を壊すことはない。
「美作先生なら数学準備室で暇してるぞ」
「またそうやって追い出そうとする! 先生はいつでも見れるけど、こっちは今日しか見れないもん」
なんかすごいオーラがあるよねと囁き合う声は、当初を思えば格段に小さい。注意を守る気はあるらしい。木陰に移動していく女生徒たちを見送って、最後にグラウンドへ向き直る。この調子なら、準備室に戻っても問題ないだろう。
紅白戦は中断されていた。佐倉を諫める時枝の横顔からは、部長としての注意を越えた苛立ちが滲んでいるように見えた。
――カウントダウンしてるの、俺。時枝がいつマジ切れするかなぁって。
浮かんだのは、完全におもしろがっていた同僚教師の声だった。面倒ごとばかり押し付けやがってとも思うが、見ないふりを決め込むにはかかわりを持ち過ぎてしまった。
溜息を押し殺して踵を返そうとした足が止まる。目が合ったのは懐かしい顔だった。こちらに歩いてくるのを見れば、自分に用事があると思わざるを得ない。
女子生徒たちから距離を取りたくて、グラウンドに入る。
「先輩」
珍しくどこか不機嫌そうな声だった。
「悪かったな、うちの生徒が騒がしくて」
「いえ、それはぜんぜんいいんですけど」
「良いのか悪いのかはわかんねぇけど、今ので気が削がれたみたいだから。ちょっとは静かになると思うけど」
「そっちじゃなくて。なんなんですか、あれ」
「あぁ」
そっちかと、時枝の説教を聞き流している問題児を見やる。
「うるさくて気が散ったんだろ。ちょっとムラっ気のあるやつで。センスはあるんだけどな」
「そういうことでもなくて」
「……おまえがいたころと違って、最近はこんなふうにギャラリーができることもなかったから。あいつら慣れてないんだよ。だから気が立ったんだろ。悪かったな」
「そういうことでもないんですけど、まぁいいです」
じゃあ、どういうことだよと聞き返す余力はなかった。こんなふうに話すのは、あの夜以来だ。見ないようにしていたはずの顔を、そっと見上げる。
四年前よりも、顔つきはさらに大人びたようだった。より一層、雰囲気が落ち着いたからかもしれない。
海外の一部リーグで日々揉まれているからなのか、身体つきもずっとしっかりとしていた。
――四年か。
それだけの時間が経ったのだから、当たり前の変化だった。
なにも言えないでいると、大人びた顔に根負けしたような笑みが浮かんだ。
「急ぎの仕事じゃなかったんですか」
その声に、はっとして普通を取り繕う。
「仕事だったんだよ。ただ、それよりも、こっちをどうにかしろって上に言われただけで」
「おもしろいですね。先輩がここでこき使われてるのを見るのも」
からかうように笑う声が、どこか他人行儀に響いた。
「なんか新鮮」
「そりゃ、下っ端だからな」
後方で紅白戦の再開を告げる笛の音が響いた。折原を呼ぶ監督の声も混ざる。聞こえているだろうに、折原は動かない。
「折原」
本人を前にして呼びかけたのも、あの日以来だった。その声が平然としていたことに、ほっとした。大丈夫だ。少なくとも問題はないとやり過ごすことはできる。
「監督、呼んでる」
「……わかってます」
切り替えるように小さく息を吐いて、折原が笑った。昔よく見た顔だった。
「変わらないですね、先輩は」
それがどういう意味なのか、すぐにはわからなかった。答えない俺に構うでもなく、折原は続ける。なんでもないふうに。
「なんか驚きました、いろんな意味で」
言うだけ言って背を向けた折原が、数歩進んでからふと振り返った。
「監督が、夜に付き合えって言ってましたよ。先輩なら一緒に来てくれますよね」
文句なしの後輩の笑顔で告げられて、頭が固まる。普通の先輩だったらという意味だと気がついたのは、折原が監督のもとに行ってからだった。
普通の仲のいい先輩後輩の関係なら、仕事よりもひさしぶりに帰ってきた後輩を優先しますよね。急に来たわけでもなんでもないんだから。
――そりゃ、普通はそうだろうよ、普通は。
口にできない言葉ばかりが胸のうちに溜まっていく。俺は思い知ったあとなんだよ。まだ普通になれてなかったって。
おまえは、と思った。おまえは、もう過去のことにできているのだろうけれど。
望んだとおりの未来になっているのに、一抹の寂しさを覚えたことを否定できなかった。それでも同じ心で安堵もしている。我ながら勝手だ。
「変わってない、か」
無意識に漏れた声に、はっと周囲を窺う。言いつけた場所から声援を送る女生徒からも、練習に励む部員からも遠い場所。誰にも聞こえているわけがない。当たり前のことを再認して、足元に視線を落とした。
変わったことは、おそらくいくつでもある。少なくとも年齢上の区分は大人になった。この学園にいたころとも大学に通っていたころとも違い、社会の一員として働いている。
サッカーからは、ある意味でさらに離れた。練習風景を見ても、自分だったらどうしただなんて傲慢な考えは浮かびもしなくなった。
けれど、折原が言っていたことはそういうことではないのだろう。
四年前、すべてをなかったことにしたいと願ったのは俺だった。そのはずだったのに、俺はいまだに割り切れていない。
そのことに、折原は気がついていたのかもしれない。



