「おまえ、どこにいたんだよ!」
休憩中だったグラウンドが、佐倉の登場にざわついた。一番に近寄ってきた時枝の勢いに苦笑いしていると、水倉が囁いた。時枝を追ってきたらしい。
「こいつ、五時間目からいなかったの」
「さぼりかよ」
真面目に注意している時枝と対照的に、佐倉はへらへらとした態度を崩さない。気の毒にと思ったのが伝わったのか、水倉が肩をすくめた。
「そう、さぼり。時枝の行動を読んでたんだと思うけど。授業終わりに教室にいたら連行されるって」
「大変だな、あいつ」
「こうして先生に連行されてるんだから、逃げた意味なかったみたいだけど」
ふたりで見守っているうちに、時枝の声のトーンが落ち着き始める。ひとまず言いたいことは言い切ったようだ。
どこかほっとした水倉の顔に、こいつもこいつで大変そうだなと思いながら、声をかける。
「なぁ、水倉。監督……」
「佐野」
問い終わる前に、背後から呼ぶ声がした。グラウンドに入ってきた監督の顔がほころぶ。
「来れたのか。よかったな」
「あ、……いえ。仕事なんですけど。その、佐倉を捕まえてしまったので、連れてきただけです」
「出会わなかったらお互い面倒なことにならなかったのに」
「誰のせいだと思ってるんだ、おまえは」
そもそもとして、おまえは面倒だのなんだのと言える立場じゃないだろう。苛立ちを抑え込んで低く告げる。これが在学中の後輩だったら、もっと派手に怒鳴り飛ばしている。
「佐倉も。忙しいところ先生が気にかけて連れてきてくれたんだ。そんな言い方はないだろう」
小学生にするような諫め方だったが、それ以上の反論はなかった。今に始まったことではないが、佐倉は監督にだけは案外と素直だ。唯一のかわいげかもしれない。
「じゃあ、俺はこれで」
「まぁ、ちょっと待て、佐野。もう来るから」
言いざま、監督が振り返る。
「折原」
その名前に、制御できないところで心臓が跳ねた気がした。
「すみません、なんか懐かしくて。見ながら歩いてたら遅くなりました」
「そうか。前に来たのは、――あぁ、あれも五年は前になるか」
「五年、いや四年ですね。日本にいた最後の夏だったから」
変わらない人当たりのいい声が応じて、ゆっくりと視線が動く。
「懐かしいな。ちょうどあのときも先輩と来たんですよね」
それは、本当に昔。この場所でよく聞いた声と同じものだった。ふたりきりのときに耳にしていたものとは違う、誰に対しても平等に向けられていた明るい声。
「先輩」
視線が合ったと認識したときには、折原は自然な顔で笑っていた。完璧な後輩の顔。
「おひさしぶりです」
「あぁ」
不自然にならない程度にそっと視線を外す。
「ひさしぶり」
ひさしぶりに会う後輩に向ける顔がつくれていたかは、わからなかった。
「佐野。少しくらい見ていったらどうだ。直の後輩だろう」
監督の提案に、水倉がえっと小さい声を上げた。その声を無視して、すみませんと断る。「ちょっと呼ばれてまして」
「誰?」
「おまえらの担任だ、担任。中間考査の前に頭が痛いってよ」
「先生、また美作先生にパシられてんの?」
「ねぇよ」
「じゃあ、またいいように使われてるんだ」
気に入られてるもんねと、うれしくないことを水倉が口にする。教師同士の仲が悪いと思われるよりはいいが、語弊がある。
あの人は、自分より立場の低い人間が入ってきたのをいいことに、ここぞと利用しているだけだ。
「というか先生って一軍でやってたの? ぜんぜん見えないんだけど」
見えなくてけっこうだし、当たり前だ。現役だったのは十年近く前の話になる。
「一年も一緒にやってねぇよ」
必要のない嘘を吐くのも馬鹿らしくて、事実を伝える。そうだ、高等部で一緒に過ごした時間は一年にも満たない。
会話を打ち切って、ほらとグラウンドの奥を示す。部員たちの列はすでにできあがっている。監督も折原を連れてそちらへ歩き出していた。
「いつまでも喋ってないで、早く戻れ」
追いやると、水倉が今にも逃亡しそうな佐倉の腕を掴んだ。引きずるようにして三人で列に入っていく。その背中を見送って、反対方向へ足を向ける。グラウンドを出る手前で足が止まったのは、半ば無意識だった。
これだけの距離があれば、顔は見えない。言い訳めいた考えを心に振り返る。
仮入部の一年生も含めれば、二百名近い部員数だ。その数を前にしても、かつての後輩の自然体な雰囲気は崩れない。
まずは歓談ということなのか、生徒たちの質問を受けるかたちで話は進んでいた。もともとがサービス精神が旺盛で、頭の回転の速い男だ。
ドイツでの近況に、去年あったワールドカップの話。日本にいたころのクラブチームの話題。そのどれをも生徒が満足するように話して聞かせている。
「高校生だったころに、意識してたことってありますか?」
「深山、好きでしたか?」
質問が尽きたのか、小学生のような他愛ないものが飛び出している。ほほえましいと思う反面、答えを聞きたくはなかった。
折原がそつなく答えることを疑ってはいない。ただ、あいつの声で嘘か本音かの判別がついてしまいそうで嫌だった。
「――だったよ」
止めていた足を動かして、その場を離れる。昔、折原は俺の声がよく響くと言っていたが、俺にとっては折原の声がそうだった。どこにいても耳に届いた。
「ここは、俺の選手としての基盤を育ててもらった場所だから」
そして、それは今も変わらないらしい。出身者として満点の回答が風に乗って聞こえてきた。
「いい仲間にも先輩にも恵まれたしね」
ずきりとどこともいえない箇所が痛んだ。溜息を呑み込んで空をあおぐ。春らしい青空は、いかにも練習日和だった。
部員数は全盛期のころに比べれば減ったが、それでもあいかわらずの大所帯だ。あのなかからも、今の折原のように凱旋する生徒が出るかもしれない。
高校でいまひとつでも、大学で急に伸びることもある。そう考えると誰がなっても不思議ではない。誰にでも可能性は残っているし、未来はある。そういう時期だ。
いい先輩にも同期にも後輩にも恵まれた。それは事実だろう。けれど、俺はいい先輩ではなかった。
ただの「いい先輩」でいられたらよかった。正しい道を示し続ける年長者であれたらよかった。
休憩中だったグラウンドが、佐倉の登場にざわついた。一番に近寄ってきた時枝の勢いに苦笑いしていると、水倉が囁いた。時枝を追ってきたらしい。
「こいつ、五時間目からいなかったの」
「さぼりかよ」
真面目に注意している時枝と対照的に、佐倉はへらへらとした態度を崩さない。気の毒にと思ったのが伝わったのか、水倉が肩をすくめた。
「そう、さぼり。時枝の行動を読んでたんだと思うけど。授業終わりに教室にいたら連行されるって」
「大変だな、あいつ」
「こうして先生に連行されてるんだから、逃げた意味なかったみたいだけど」
ふたりで見守っているうちに、時枝の声のトーンが落ち着き始める。ひとまず言いたいことは言い切ったようだ。
どこかほっとした水倉の顔に、こいつもこいつで大変そうだなと思いながら、声をかける。
「なぁ、水倉。監督……」
「佐野」
問い終わる前に、背後から呼ぶ声がした。グラウンドに入ってきた監督の顔がほころぶ。
「来れたのか。よかったな」
「あ、……いえ。仕事なんですけど。その、佐倉を捕まえてしまったので、連れてきただけです」
「出会わなかったらお互い面倒なことにならなかったのに」
「誰のせいだと思ってるんだ、おまえは」
そもそもとして、おまえは面倒だのなんだのと言える立場じゃないだろう。苛立ちを抑え込んで低く告げる。これが在学中の後輩だったら、もっと派手に怒鳴り飛ばしている。
「佐倉も。忙しいところ先生が気にかけて連れてきてくれたんだ。そんな言い方はないだろう」
小学生にするような諫め方だったが、それ以上の反論はなかった。今に始まったことではないが、佐倉は監督にだけは案外と素直だ。唯一のかわいげかもしれない。
「じゃあ、俺はこれで」
「まぁ、ちょっと待て、佐野。もう来るから」
言いざま、監督が振り返る。
「折原」
その名前に、制御できないところで心臓が跳ねた気がした。
「すみません、なんか懐かしくて。見ながら歩いてたら遅くなりました」
「そうか。前に来たのは、――あぁ、あれも五年は前になるか」
「五年、いや四年ですね。日本にいた最後の夏だったから」
変わらない人当たりのいい声が応じて、ゆっくりと視線が動く。
「懐かしいな。ちょうどあのときも先輩と来たんですよね」
それは、本当に昔。この場所でよく聞いた声と同じものだった。ふたりきりのときに耳にしていたものとは違う、誰に対しても平等に向けられていた明るい声。
「先輩」
視線が合ったと認識したときには、折原は自然な顔で笑っていた。完璧な後輩の顔。
「おひさしぶりです」
「あぁ」
不自然にならない程度にそっと視線を外す。
「ひさしぶり」
ひさしぶりに会う後輩に向ける顔がつくれていたかは、わからなかった。
「佐野。少しくらい見ていったらどうだ。直の後輩だろう」
監督の提案に、水倉がえっと小さい声を上げた。その声を無視して、すみませんと断る。「ちょっと呼ばれてまして」
「誰?」
「おまえらの担任だ、担任。中間考査の前に頭が痛いってよ」
「先生、また美作先生にパシられてんの?」
「ねぇよ」
「じゃあ、またいいように使われてるんだ」
気に入られてるもんねと、うれしくないことを水倉が口にする。教師同士の仲が悪いと思われるよりはいいが、語弊がある。
あの人は、自分より立場の低い人間が入ってきたのをいいことに、ここぞと利用しているだけだ。
「というか先生って一軍でやってたの? ぜんぜん見えないんだけど」
見えなくてけっこうだし、当たり前だ。現役だったのは十年近く前の話になる。
「一年も一緒にやってねぇよ」
必要のない嘘を吐くのも馬鹿らしくて、事実を伝える。そうだ、高等部で一緒に過ごした時間は一年にも満たない。
会話を打ち切って、ほらとグラウンドの奥を示す。部員たちの列はすでにできあがっている。監督も折原を連れてそちらへ歩き出していた。
「いつまでも喋ってないで、早く戻れ」
追いやると、水倉が今にも逃亡しそうな佐倉の腕を掴んだ。引きずるようにして三人で列に入っていく。その背中を見送って、反対方向へ足を向ける。グラウンドを出る手前で足が止まったのは、半ば無意識だった。
これだけの距離があれば、顔は見えない。言い訳めいた考えを心に振り返る。
仮入部の一年生も含めれば、二百名近い部員数だ。その数を前にしても、かつての後輩の自然体な雰囲気は崩れない。
まずは歓談ということなのか、生徒たちの質問を受けるかたちで話は進んでいた。もともとがサービス精神が旺盛で、頭の回転の速い男だ。
ドイツでの近況に、去年あったワールドカップの話。日本にいたころのクラブチームの話題。そのどれをも生徒が満足するように話して聞かせている。
「高校生だったころに、意識してたことってありますか?」
「深山、好きでしたか?」
質問が尽きたのか、小学生のような他愛ないものが飛び出している。ほほえましいと思う反面、答えを聞きたくはなかった。
折原がそつなく答えることを疑ってはいない。ただ、あいつの声で嘘か本音かの判別がついてしまいそうで嫌だった。
「――だったよ」
止めていた足を動かして、その場を離れる。昔、折原は俺の声がよく響くと言っていたが、俺にとっては折原の声がそうだった。どこにいても耳に届いた。
「ここは、俺の選手としての基盤を育ててもらった場所だから」
そして、それは今も変わらないらしい。出身者として満点の回答が風に乗って聞こえてきた。
「いい仲間にも先輩にも恵まれたしね」
ずきりとどこともいえない箇所が痛んだ。溜息を呑み込んで空をあおぐ。春らしい青空は、いかにも練習日和だった。
部員数は全盛期のころに比べれば減ったが、それでもあいかわらずの大所帯だ。あのなかからも、今の折原のように凱旋する生徒が出るかもしれない。
高校でいまひとつでも、大学で急に伸びることもある。そう考えると誰がなっても不思議ではない。誰にでも可能性は残っているし、未来はある。そういう時期だ。
いい先輩にも同期にも後輩にも恵まれた。それは事実だろう。けれど、俺はいい先輩ではなかった。
ただの「いい先輩」でいられたらよかった。正しい道を示し続ける年長者であれたらよかった。



