夢の続きの話をしよう(下)【期間限定再録】

「おまえって験とか担ぐタイプだっけ」
「いや、担がないですよ。たまにインタビューでも聞かれるんですけど、ぜんぜんで」
 大晦日の夜ではあるけれど、あまり人通りはなかった。静かな夜に、ただ鐘の音が響いている。
「気にする人はいますけどね。絶対にピッチには右足から入るとか。この色のスパイクじゃないといやだとか」
「そういうもんか」
「人それぞれだとは思いますけど」
 そうだな、と小さく首を捻る。
「ただ、俺は、顔も知らない神様に幸運を恵んでもらうよりも、自分の力で引き寄せたいというか」
 努力した者の上にだけ幸運は落ちてくるだとか。勝負の最後の明暗を分けるのは運だとか。才能は神様からのギフトだとか。
 そういった解釈があることは知っているし、否定するつもりもないけれど。
「そういうとこ、おまえだよ」
 かつての自分の神様だった人が、呆れたように笑った。
「初詣前に言う台詞ではないとは思うけど」
「それはそれ、これはこれ、ってやつです」
 初詣に誘ったのも、神頼みをしたかったからというわけでもない。ありふれたことをしてみたかっただけだ。
 年末年始のごく普通の日常。そういった当たり前を積み重ねてみたかった。
 ふたりでいることは特別ではなく普通なのだと、体現してみたかったのかもしれない。
「でも、先輩が深山を選んでいてよかったとは思うかな」
「なにが?」
「一緒の時間を過ごせた幸運は、感謝してもいいかなって」
 顔も知らない神様という存在に、そしてなによりもこの人に。
 進学先に深山を選んでいなくとも、サッカーをしていた限りはどこかで出会っただろうと思う。ただ、先輩とあの学園で過ごした日々は、俺にとって大切なものだった。
 あの日々がなければ、今の自分はないだろうと思ってしまうくらいに。
「結局、そういうものなのかもな」
「……え?」
「偶然とかでも、なんでも。そういうものが積み重なって、今ができあがってるなら、感謝して歩いていくしかないよなと思って」
 視線を落とすと、まっすぐに前を向いている横顔があった。ゆっくりと目が合う。
「なに?」
「先輩のそういうところ、好きだなぁと思って」
 そういう真面目で誠実なところ。しっかりと自分を生きているところ。そういうところにも憧れていた。
 首を傾げられて、曖昧に笑う。
「おまえの考えてることって、たまに本気でわからない」
「お互い様ですって、それも」
「そうかもな」
 あっさりと返ってきたそれに「らしいなぁ」と思いながら頷いて、耳を澄ます。つい一昨日は俺のことはわかりやすいって言ってくれたのに、とも思いながら。
 鐘の音はいつのまにか聞こえなくなっていた。「年、明けたかな」
「過ぎてる」
 その声に、携帯を取り出して時間を確かめる。零時七分。
「あ、本当だ。おめでとうございます。というか、知ってたんですか?」
「やたらスマホが振動してたから、年明けたんだろうなって。子どもって日付が変わった直後に連絡するのに命かけてるところあるよな。新年にしろ、誕生日にしろ」
 おまえも昔は送ってきてたもんな。さも当然と過去をひっぱり出されると、少しだけ居た堪れない。
「先輩って、よく覚えてますよね。そういうこと」
「まぁ、そうかもな」
「来なくなって寂しかったですか?」
「おまえのそういうところがかわいくない」
 となると、否定しないあたりが先輩のかわいげなのだろうか。笑って、話を変える。
「今年はなにかお願いするんですか?」
「今、聞くことか。それ」
「誰かに言うと叶わなくなるってやつですか? 神頼みより俺に言ったほうが確実なことだったら、喜んで聞きますけど」
「そういう台詞を当たり前の顔で言うあたり、おまえだよ」
 呆れたふうに言うくせに、楽しそうだった。
「先輩って、俺のこと相当な自信家だと思ってません?」
「自信家というか、おまえの場合は、ぜんぶ努力と実績で裏打ちされてるだろ」
「そう言われると、それはそれで恥ずかしいかもしれない」
「いまさら」
 なにを言っているんだと言わんばかりの調子に、変わらないなぁとくすぐったくなった。こういうまっすぐなところに何度も救われた。
 ――サッカーを嫌いにならなかったのは、深山に進んだからかもしれない。
 先輩はそんなわけはないと言い捨てたけれど、俺にとってはそうだった。少なくとも、あの当時の俺にとって。
 神様。
 馬鹿みたいなことを、大真面目に思っていた時期があった。
 それは、この人のためならなんでもできるというものではなく、この人のそばにいると静かに息ができる気がするという、あくまで自己本位なものだった。
 無理をして自分をつくり上げなくてもいいという安心感を、はじめてもらった気がしたのだ。
 そのころから、ずっと追いかけていた恋だった。
「じゃあ、俺が先輩に頼んでおこうかな」
「頼む? なにを」
 できないこともあるからなという警戒が滲んでいるのが、先輩らしい。
「今年も俺のために時間を使ってくださいね」
「……それこそ、いまさらすぎるだろ」
「そうかもしれないですけど」
 学生時代とは違う。自由にできる時間は限られているし、そもそもとして距離が離れている。一緒に来てほしいとは思わない。先輩は先輩の選んだ人生があって、俺にも自分で選んだ道がある。
 キャリアの最後は日本になるかもしれないが、今はまだ海外で揉まれていたい。
 ――世界に羽ばたく、か。
 随分と昔に、先輩に言われたことだった。
 自分のキャリアは自分で決めてきたつもりだ。自分にとって一番の道を選んできたつもりだ。けれど、その決断のときに、いつもどこかに先輩の存在を感じていたように思う。
 先輩は誰よりも俺の未来をまっすぐに信じてくれていた。ある意味では、俺自身や両親よりも。なんでそこまでと言いたくなる無条件さで。
 重く感じた瞬間がないとは言わない。そんな理由で受け入れてくれないのかと思ったこともあった。
 それでも、ひとりで決めるときに、自分の可能性を疑いなく信じてくれる人がいると知っていることは、大きな救いだった。
「折原」
 目の前に差し出された手のひらの意味に悩んでいると、ふっとその瞳が笑った。
「普通にデート、したかったんだろ」
 なんだ、気づいてたのか。やっぱり敵わない。素直に頷いて、手を重ねる。自分よりもずっと大きいと思っていたイメージが崩れたのは、再会してからだった。
 うれしいのか怖いのか判断しがたい戸惑いも覚えた。けれど。
「先輩って、そういうところかっこいいですよね」
「先輩はかっこいいものなんだよ」
 なるほど、だから後輩はかわいい存在なのか。いくら俺のほうがでかくなろうとも。たしかに俺が先輩にタメ口をきいているイメージは湧きそうにない。
 これから時間を積み重ねていくなかで、それも変わっていくのかもしれないが。
「先輩」
 触れたばかりの指先は、まだ冷たさが勝っている。次第にぬくもりを帯びていくのを感じながら、呼びかけた。
 おまえの手、あったかいよな。そう言われたのはいつだっただろう。そのあとにお子様体温だなとも笑われた。どこにでもあるような、かけがえのない時間。
 そんな時間が、ずっと続いていく未来を望んでいた。
「ありがとうございます、付き合ってくれて」
「まぁ、べつに」
 あいかわらずの愛想のない声が夜に溶けていく。
「おまえは験を担がないとして、顧問として外から見てると担ぎたくなることはあるから」
 それでも、大事に思っていることは十分に伝わってきた。
 先輩にとって深山の生徒たちは身内であるらしい。あのころの、俺たちのように。
「じゃあ来年は、国立で観戦させてもらえるのを楽しみにしようかな」
「あー……、来年な。どうなるかはわかんねぇけど」
 途端に現実的になる声音に小さく笑ってしまった。それこそ初詣の前に言うことじゃないだろう。
「経験させてやれたらいいとは思うけどな」
 せっかくだし、と続けた横顔はいたって穏やかだった。その顔を見ているうちに声が喉を突いた。
「先輩は」
「――ん?」
「いい経験でしたか?」
 ずっと考えないようにしていたことがあった。
 たらればを考えるほど無意味なことはない。そう思っていたし、なによりも先輩に失礼だと思っていた。けれどどうしても頭に湧く瞬間があった。
 怪我がなければ、もっと一緒にサッカーをやれたかもしれないだとか。あんな別れ方をしなかったかもしれないだとか。
 先輩の将来の選択も違っていたかもしれないだとか。
「うん、まぁ、そうだな」
 わだかまりのない静かな声だった。
「楽しかったよ。おまえとやったサッカーに悔いはない」
「そうですか」
 その答えに、ひっそりと胸に残っていたよどみが流れていった気がした。あの日々が、俺は楽しかった。永遠に続いてほしいとも思っていた。大人になりたいと願うのとは別の次元で。
 そんなふうに思ったなにかがあふれ出たのだろうか。指先を握る力が強くなる。敵わないと何度目になるのかわからないことを思い知る。
 好きだ。先輩に出会えてよかった。好きになってもらえてよかった。
「先輩にとって、サッカーってどういうものでしたか」
 聞いてしまってから、かすかに胸がさざめいた。踏み込んでもよかっただろうか。踏み込み過ぎただろうか。
「笑うなよ」
 その心配を無意味だとわからせる、いつもどおりの声だった。
「笑いませんよ」
 どんな答えでも、笑うわけがない。前を向いていた先輩の視線が上向く。雲の隙間からうっすらと月が見えた。
「おまえそのものみたいだって、思ってたことはあるな」
「え……」
「笑うなとは言ったけど、固まるなよ」
 呆れた声に、やっと呼吸が戻った気がした。抱きしめたい衝動を押し殺して、手に力を込める。もう冷たさは残っていなかった。
「先輩」
 呼んだはいいけれど、その先に続く言葉を選べなかった。先輩も特に促しはしなかった。小さく笑った声に、夜の空気が揺れる。
 本当は、もっと一緒にやりたかった。どんな場所でも構わなかった。真剣なまなざしで取り組む、この人の横顔を見ることが好きだった。いつしかその瞳に苦しさが混ざり始めたこともわかっていた。俺はなにも言えなかったけれど。
 サッカーが好きだった。サッカーがあったからこの人と出会えた。そして同時に、サッカーがあいだにあったことで苦しんだ。
「そういうおまえはどうなんだよ」
「なにがですか?」
「おまえにとってのサッカー」
「あぁ」
 問いかけに小さく笑って、石段に足をかけた。暗がりに慣れた視界に鳥居が映る。
「俺の人生」
 ほんの少しの沈黙のあと、「おまえらしい」と先輩が笑った。その横顔は、やっぱり俺の目には特別にきれいに見える。ずっと見ていたいと願ってしまうほど。
 好きだと思う人やものがあっても、サッカーと比べてしまえば、取るに足らないものだった。この人と出会うまでは。
 サッカーと天秤にかけて、どちらも捨てたくないとはじめて思った。
 その感情を抱かせた人。だから、先輩が俺の初恋だったのだ。俺のすべてだったもの。
 俺にとって、サッカーは、生きていく道筋で、すべてで。そして先輩とつながっているものだった。