「そういや、俺、掃除とか一切してないけど」
マンションのエレベーターで告げられた内容に、首を傾げる。
「前は妹さんがしてくれてたんじゃないのか?」
「いや、あいつは、……妹は頼んでいたというか。実家暮らしなんで、ひとりで遊びたいときに好き勝手に使ってたんですよ。だから、使うなら掃除くらいはしろよって言っただけで」
先輩にしてもらいたいなんて思ってないし。むしろしてもらったら落ち着かないし。申し訳ないし。
鍵を返せと言ったときのひと悶着も一緒に思い出すと苦笑いになった。
笑われるか、心配されるか。先輩の反応がどちらに転がるか判断がつかないから、言うつもりはない。とりあえず、今のところは。
「じゃあなんで渡したわけ、おまえ」
不思議そうな顔に、少しだけ悩んでから本心を告げる。
「持っててほしかったから?」
「それだけ?」
「なんというか、渡せる人がいるのってうれしいなと思って」
受け取ってもらえて、待っていてくれる人がいる。そう思うだけで、必要に迫られて用意しただけだった場所が、帰る家に思えた。だから本当にそれだけで、俺の勝手だ。
昔、先輩が合鍵をくれた理由は、また違うのだろうけれど。
「だから、それだけです」
なにかをしてほしいだとか、そういったことを求めているわけでもない。そう言うと、視線がふっと逸れた。
言葉にしたいことは、ちゃんと伝えるようにしている。昔からだ。それなのに、そのたびに先輩は少し困ったような顔をした。以前はもっと、許容することを怖がっているふうでさえあった。受け入れたら最後だと思っているようなかたくなさ。
それがもどかしくて、けれど、いつかとも思っていた。いつか自分が大人になって、となりに立つことができるようになれば変わるのかもしれない、と。
「そうか」
なんというか、あまり聞いたことのない素直な声だった。内心で驚いていると、静かな声が続いた。
「なら、いいけど」
「先輩」
触りたいと思ったときには手が伸びていた。腰に触れる。引き寄せると驚いたように顔が上がった。そこに一度だけ口づける。
目を瞬かせる顔がどこか幼くて、ちょっとかわいい。思っているうちに、眉間に皴が寄る。見慣れた顔だ。
「……おまえな」
昔はふたりきりになると、こうしてここぞと触れていた。
「はい」
「場所、考えろよ」
それも、よく言われた台詞だった。
――やめれないのは、先輩が簡単に許すから、なんだけどな。
昔からそうなのだ。なんだかんだと言うわりに、俺のすることを退けない。
「じゃあ、場所が違ったらいいですか」
耳元で囁くと、溜息を吐かれた。それだっていつものことだ。あのころから変わらないポーズ。
「先輩?」
「本当に、かわいくない」
諦めて受け入れる声に、そっと笑う。
先輩の言う「かわいい」がなにを指しているのかはわからない。ただ、俺が先輩にたいして「かわいい」と思うことがあるとすれば、それは「愛しい」に近かった。
好きだから大切にしたいだとか、優しくしたいだとか。そういったものと同系列の感情。
エレベーターが着く間際に、手を離す。場所はわきまえているつもりだし、我慢することには慣れている。慣れないのは、先輩の顔だ。
触ると迷惑そうな顔をするくせに、いざ手を離すと寂しげな顔になる。本人は気がついていなかっただろうけれど。
深山にいたころも、再会したあとも。自分の欲求や衝動をやり過ごすことはできても、その顔だけはなかなか見慣れることができなかった。
マンションのエレベーターで告げられた内容に、首を傾げる。
「前は妹さんがしてくれてたんじゃないのか?」
「いや、あいつは、……妹は頼んでいたというか。実家暮らしなんで、ひとりで遊びたいときに好き勝手に使ってたんですよ。だから、使うなら掃除くらいはしろよって言っただけで」
先輩にしてもらいたいなんて思ってないし。むしろしてもらったら落ち着かないし。申し訳ないし。
鍵を返せと言ったときのひと悶着も一緒に思い出すと苦笑いになった。
笑われるか、心配されるか。先輩の反応がどちらに転がるか判断がつかないから、言うつもりはない。とりあえず、今のところは。
「じゃあなんで渡したわけ、おまえ」
不思議そうな顔に、少しだけ悩んでから本心を告げる。
「持っててほしかったから?」
「それだけ?」
「なんというか、渡せる人がいるのってうれしいなと思って」
受け取ってもらえて、待っていてくれる人がいる。そう思うだけで、必要に迫られて用意しただけだった場所が、帰る家に思えた。だから本当にそれだけで、俺の勝手だ。
昔、先輩が合鍵をくれた理由は、また違うのだろうけれど。
「だから、それだけです」
なにかをしてほしいだとか、そういったことを求めているわけでもない。そう言うと、視線がふっと逸れた。
言葉にしたいことは、ちゃんと伝えるようにしている。昔からだ。それなのに、そのたびに先輩は少し困ったような顔をした。以前はもっと、許容することを怖がっているふうでさえあった。受け入れたら最後だと思っているようなかたくなさ。
それがもどかしくて、けれど、いつかとも思っていた。いつか自分が大人になって、となりに立つことができるようになれば変わるのかもしれない、と。
「そうか」
なんというか、あまり聞いたことのない素直な声だった。内心で驚いていると、静かな声が続いた。
「なら、いいけど」
「先輩」
触りたいと思ったときには手が伸びていた。腰に触れる。引き寄せると驚いたように顔が上がった。そこに一度だけ口づける。
目を瞬かせる顔がどこか幼くて、ちょっとかわいい。思っているうちに、眉間に皴が寄る。見慣れた顔だ。
「……おまえな」
昔はふたりきりになると、こうしてここぞと触れていた。
「はい」
「場所、考えろよ」
それも、よく言われた台詞だった。
――やめれないのは、先輩が簡単に許すから、なんだけどな。
昔からそうなのだ。なんだかんだと言うわりに、俺のすることを退けない。
「じゃあ、場所が違ったらいいですか」
耳元で囁くと、溜息を吐かれた。それだっていつものことだ。あのころから変わらないポーズ。
「先輩?」
「本当に、かわいくない」
諦めて受け入れる声に、そっと笑う。
先輩の言う「かわいい」がなにを指しているのかはわからない。ただ、俺が先輩にたいして「かわいい」と思うことがあるとすれば、それは「愛しい」に近かった。
好きだから大切にしたいだとか、優しくしたいだとか。そういったものと同系列の感情。
エレベーターが着く間際に、手を離す。場所はわきまえているつもりだし、我慢することには慣れている。慣れないのは、先輩の顔だ。
触ると迷惑そうな顔をするくせに、いざ手を離すと寂しげな顔になる。本人は気がついていなかっただろうけれど。
深山にいたころも、再会したあとも。自分の欲求や衝動をやり過ごすことはできても、その顔だけはなかなか見慣れることができなかった。



