夢の続きの話をしよう(下)【期間限定再録】

 好きになった人は、凛とした人だった。
 ふとしたときに、きれいだなと思うことがあるから不思議だった。
 自分が同性も異性も恋愛対象にできる人間だとは知っていた。けれど、部活の仲間をそういう目で見ることはないと思っていた。最長であれば六年も同じ場所で過ごすのだ。
 面倒は避けるに越したことはない。そう考えていたし、その先輩の顔が好みだったわけでもなかったのだ。
 だから、どうしてそうなったのか、自分でもよくわからなかった。
 あるいは、気がついたら好きだったという表現が正しいのかもしれない。ターニングポイントなるものがあったことはわかる。積もり積もったものがあふれたときのことだ。
 この人に触れたいのだと知った瞬間。
 その積もり始めがいつなのかは、わからなかったけれど。
 物心ついたころから、俺のなかはサッカーばかりだった。とはいえ、誰かを「いいな」と思う瞬間がなかったわけではない。ただ、どれもすぐに消えるような淡いものだった。サッカーと比べるまでもないものだった。けれど、これは違う。そうではないのだと知った。
 そういう意味では、これが初恋と呼べるものだったのかもしれない。
 

 ――あ。
 こっち見ると思った瞬間に目が合った。
「おまえのそれって、癖?」
「え?」
「だから、その。やたら人の顔、見るの」
「あぁ」
 視線がうるさいと言われているのだと理解して、すみませんと笑う。どうすれば周囲にうまく溶け込めるか。波風立てずにサッカーに集中できるか。そのために自分はどうあるべきか。
 そんな計算が、昔からいつも頭の隅にあった。くだらないとしか言いようがない僻みで、自分のしているものを台無しにされたくなかったからだ。
 どちらかと言えば人に好かれる性質だったことが幸いしたのか。持って生まれた性格に救われたのか。そのことを苦痛だと感じたことはなかった。
 ただ当たり前のこと。そう思っていた。
 その習性で、さりげなさを装って周囲を観察しているところはあったと思う。指摘されたことはあまりなかったけれど。
 自分に向けられていた視線が、呆れたふうに逸れていく。
「べつにいいけど」
 部誌に目を落としたまま、彼が言う。突き放して響くけれど、受け入れてくれていることを知っていた。会話が途絶え、ペンを走らせる静かな音だけがふたりきりの部室に響く。
 あいかわらず真面目だ。自分だったら、当たり障りのないことを記入して終わらせる。富原さんにしてもそうだろうと思う。
 いわばルーチンワークなのだ。そこまで時間をかけるものでもない。
 ――真面目というか、融通が利かないというか。
 そのわりには、見た目のとっつきにくさときつい口調で損をしているというか。
 もっと人当たりよくしていれば、妙な軋轢は生まないだろうに。深山の中等部に入学して間もないころに思っていたことだ。
 明け透けと評してしまえる物言いを苦手だと感じてもいた。けれど。
「おまえ、いいかげん戻れよ」
 視線も合わないまま告げられたそれが、寮室を空けてばかりの後輩を案じてのものだと知っていた。
 不在の富原さんに代わって、先輩が残っているのは当然だ。けれど、俺が居残る理由はなにもない。
 先輩はひとりで残っていることを寂しく感じるタイプではない。むしろ俺の相手をする時間こそ無駄だ、くらいのことは思っていそうだ。それもわかっている。
 だから、ここにいるのは、ぜんぶ俺の勝手だった。
「戻っても疲れるんで、ここで休憩させてくださいよ」
 冗談まじりに訴えるだけで、先輩が折れてくれることも知っていた。本当にお人よしで、ちょっと心配になるくらい押しに弱い。
「……変なやつ」
 この人は、俺を俺として見てくれる。サッカーの才能だけでなく、俺を。そう思ったときにわかったのだ。
 言い方がきつくても、この人はほかの誰かのように陰で悪く言うこともなければ、人によって態度を変えることもない、平等でまっすぐな人なのだと。俺とは違う。
 俺は、特別にしたくなる。
「やだな。そんなこと言うの、先輩だけですって」
 せんない思考を追いやって、いつもの顔で笑う。なにか言いたげな視線が寄こされたけれど、それだけだった。先輩はなにも聞かなかった。
 またペンの走る音がする。先輩の字はきれいだ。癖がなくて読みやすい。適当に書いてもいいような振り返りを、丁寧に文字に起こしている。
 自分たちのことを見てくれていない、なんて。口さがない同学年の部員が言うことがあるが、そんなことはない。この人は、案外と全体をよく見ている。でも、そんなことは誰も知らなくていい。自分が知っていればいい。そう思っていた。
 滅多とないから、ということも理由のひとつだったかもしれない。けれど、俺はこの時間が好きだった。誰もいない部室にふたりきりの、静かな時間。
 深山に在籍していた六年間のうち、この人と一緒に過ごすことができたのは半分ほどでしかない。
 それでも一番たくさん見ていたのは、この人の横顔だったような気がしている。


 昔から、どこか大人びたところのある人だった。
 率先して馬鹿騒ぎに興じるチームメイトが多いなかで、そういったタイプではなかったからかもしれない。
 たったひとつなのに、追いつくことのない年齢差を意識していたからかもしれない。
 ――だから、あんまり変わってないように見えるんだよな。言ったら怒るだろうけど。
 運転中の横顔を助手席から盗み見ながら、そんなことを考える。
 怒られるというより、嫌な顔をされるだけかもしれないが。
 もちろん変わったなと感じるところもいくらでもある。ただ十年近く前に、大人になったらどんなふうになっているだろうと想像して遊んだ予想図の範囲内にあるというか。数年ぶりに顔を見ても、「あぁ、先輩だな」で得心してしまうというか。
「おい」
 前方を向いたままかけられたうんざりとした声に、小さく瞬く。あいかわらず気配に目敏い。
「気が散る」
 そんなかわいい神経してないでしょうと言うかわりに笑った。
「事故らないでくださいよ」
「おまえ乗せて事故ったら、どんな軽微なのでもニュースになりそうだからいやだ」
「俺が大事だから気をつける、でよくないですか。それ」
「生徒乗せてるほうが緊張する。責任重大過ぎて」
「ひとくくりにされたくないんですけど」
「できるわけないだろ。おまえにだったら責任とれるけど、生徒になにかあっても責任とれねぇし」
 たまに妙に男前なこと言うんだよなぁ、この人。
 もともとがゲイなわけでもバイなわけでもないだろうし。俺がいなかったら、適当にかわいい女の子と結婚して子どもつくって。男の子だったら、サッカー教えたりして。そんなありきたりで平和な家庭を築いたんじゃないのかなぁ、なんて。
 先輩ではないけれど、俺も考えることはある。だから身を引こうなどという殊勝な考えには発展しないが。
 ――あぁ、でも、先輩の遺伝子の入った子どもは見てみたかったかも。
「先輩って、お姉さんいるんでしたっけ」
「いるけど」
「結婚されてるんでしたっけ」
「してるけど」
「子どもさんとか」
「いるけど。というか、なに。どこからその話になったわけ」
「似てます?」
「……似てねぇよ。姉貴の旦那似」
 根負けした応答によって得た情報に、なんだと少し落胆する。けれど、それだけだ。
「聞いてみたかっただけです」
「あ、そう」
「はい」
 ひとりいたら十分だった。そもそもとして、俺も遺伝子を残すつもりはないし。たまにもったいないと言う人もいるけれど、そういう目的でつくるものでもないだろう。
「おまえって、本当……」
 呆れた声に、また見ていたらしいと知る。無意識だった。
「まぁ、いいんだけど。昔からそういうところ変わってるよなと思って」
「そういうところ?」
「人の顔ばっかり見て楽しいか?」
「楽しい、……まぁ、楽しいですね」
 人の顔というよりかは、先輩だからではあるけれど。
「先輩を見てるのは好きですよ、俺」
「……やっぱり、おまえ、変」
 今の間は呆れたんじゃなくて、反応に困っていただけだな。
 分析しながら、「先輩くらいからしか言われないですよ」と軽口で返す。事実、俺のことをそんなふうに評する人は多くない。
「べつに好きにしたらいいけど」
 居心地悪そうに吐かれた溜息に笑ったら、「かわいくない」と愚痴めいたことをぼやかれてしまった。
 昔の自分がかわいかったかはわからないが、この数ヶ月だけで何度も言われた。俺の自覚とは関係なく、先輩のなかではそうであるらしい。
 ――かわいい、か。
 学生時代、「先輩」という人たちは、常に前にいる存在だった。そういったイメージも影響しているのかもしれない。けれど俺にとって先輩は、かわいくもかっこいい人だった。
 深山にいて背中を追っていたころから、ずっと変わることなく。