――こういうこと言うと怒られるかもしれないですけど。日本に戻るのが楽しみだって、やっと素直に思えるようになりました。
本格的な冬の気配が足元に忍び寄り始めたころだった。年末年始はまとまった休みになるから日本に帰りますと。習慣になったスカイプでの通話中にうれしそうに笑った。
電話やメッセージでやりとりを重ねてはいたが、直に顔を合わせるのは半年ぶりだ。
住んでいる場所を考えればしかたない空白だが、会える日がわかると待ち遠しい。
迎えに行くと告げると、ぱっと画面の向こうで顔がほころぶ。それだけで時間の都合はどうとでもしてやろうと思うのだから、疑いようもなくほだされている。
こういうことを言うのもあれですけどと、折原が言ったのはそのときだった。
――待っていてほしい人が待っていてくれるのって、想像していたよりもずっとうれしいものなんですね。
――やっと日本に「帰る」んだって実感が持てた気がします。
だから、先輩も少しくらい楽しみにしていてくださいねと続いた言葉に笑ってしまった。それが一月ほど前の話だ。
早々に仕事を片付け、サッカー部の練習が休みになるタイミングで休暇はもぎ取った。そうしてやってきた空港のロビーで、俺は苦笑いを噛み殺していた。
試合に合わせて帰国したわけでもないのに、どこから情報が回るのだろう。それとも、たまたま居合わせた人間が目敏く見つけるのだろうか。
到着早々に囲まれたらしい姿を遠巻きに、とりとめもなく考える。
――まぁ、深山にいたころも似たようなもんだったか。
人当たりのいいそつのない対応はプロ選手の見本そのものだった。そういったことをしている折原をはじめて見たのは、栞に連れられて練習場に行ったときだ。
時間は流れ、新人と呼ばれる時代も過ぎただろうに、丁寧な対応は変わらない。
いかにも折原らしい横顔に目を細める。律儀で義理堅く、人に優しい。
ああいうふうに囲まれている場面を見ても、嫉妬したことはほとんどなかった。大変だろうなと思うことは幾度もあったけれど。
見つめているうちに目が合った。人当たりのいい笑顔が、見慣れたものに変わる。その変化に幼い優越感を覚えていたのも、ずっと昔の話だ。
ファンサービスを切り上げて近づいてきた顔に苦笑が浮かぶ。
「見てたなら助けてくださいよ」
「俺にどうこうできるレベルは超えてる」
「……昔はしてくれたのに」
どことなく拗ねた瞳が眼鏡の奥からのぞく。眼鏡にマスクで防備してばれていたら、変装の意味はないと思うのだが。おまけにいつの話だ、それは。小さく肩をすくめる。
そもそもあれは、人の大学で目立つ真似をするから出ざるを得なかった、というだけだ。
「おまえの存在が派手過ぎるんだろ」
「目立たないように生きてるつもりなんですってば、これでも。注目されてもいいことないし。それなのに勝手に目立つんだから、俺の責任じゃないですよ」
まぁ、そうかもしれないけれど。
「それで、こっちは俺の責任だと思うんですけど」
「ん?」
「迎えに来たお友達だとは思われてないですよ、これ」
申し訳なさそうな声に、人だかりを一瞥する。本人が去ったというのに輪は崩れていない。興味津々な視線に笑って、頷いた。
「まぁ、そうだしな」
迎えに行くと提案したときも、うれしそうに笑ったあとで、気持ちだけでいいですよと折原は言った。そう思ってもらえるだけで十分なんで、と。
それが「先輩」を足に使うことへの遠慮だけでないとわかっていた。わかっていて、行けるからと押し切った。
「帰るぞ」
視線は気にしないそぶりで、足を踏み出す。
年の終わりの空港は、人であふれている。そのなかの幾人が気づいていようが気づいていまいが、どうでもいいことなのかもしれない。
マイナスのたらればばかりを懸念して、自分の世界を狭める必要もない。
そんなふうに考えるようにしていると言ったら、富原あたりは、その年になっても人間は変われるんだなと大笑いしそうだが。そのあとに安心したとも言うのだと思う。
「折原?」
返事がないのを振り返ると、折原がふっとほほえんだ。
「はい」
昔からよく聞いた、まっすぐな声。となりに追いつきながら伊達眼鏡もマスクも外している。その顔を見上げると、眉尻が下がった。
「気を使ったんです。先輩に」
「ばれてたけどな」
「だから、もういいかなって。なんかそれに隠してて気づかれるほうが恥ずかしさが倍増するというか。芸能人きどりかよ、みたいな」
「べつにそこまでは思ってないけど」
「そこまではって、ちょっと思ってたんじゃないですか、やっぱり」
そういう顔してたと思ったとぼやくのに、小さく笑う。好きで目立ちたいわけじゃないと折原は言うが、昔からそういう存在だった。
華があって人を惹きつける、誰にも引けを取らないサッカー選手。俺の知りうる限り一番のエース。サッカーの神様と評したくなった絶対。
そんな人間が、人目を引かないわけがない。
「ねぇ、先輩」
ふいに変わった声の調子に、となりをあおぐ。その横顔は柔らかで静かだった。
「俺、冬ってあんまり好きじゃなかったんですけど」
「冬?」
「別れの季節って感じがして。でも」
言葉を区切って、笑う。
「もう忘れそうだな、ぜんぶ」
一度目は、寮の部屋だった。二度目は、その四年後。冬の車中だった。
――そうか。どっちも、冬だったか。
自宅のテレビで、すべてを突き放した顔で笑った折原を見たのも、この時期だった。場所も、ここだ。空港でリポーターに向かって告げられた言葉を、なにもできないままテレビ越しに見た。そして折原はドイツに発った。それがもう四年前の話だ。
早いような、長いような。あっというまだったとも思うし、遠い昔のようにも感じる。たくさんの後悔をした。随分と遠回りもした。その分だけ余計に傷つけた。
告げようとした言葉が、喉の奥で詰まる。
「なんですか?」
ざわめきにかき消されたと思ったのか、問い直す顔が近い。のぞき込んでくる瞳に、なにかがゆるんだ。
昔から、本当にただの後輩だったはずのころから、折原は優しい。その瞳や声音に甘やかされていると感じて、落ち着かなかったことすらあった。
「先輩」
どうかしましたかと続いた声に、首を振る。
「なら、いいんですけど。けっこう混んでるから。疲れる前に言ってくださいね」
にことほほえむ顔は、あのころと同じ華やかさと人懐こさが入り混じっている。けれど確実に大人びた。これに弱かったんだよなとも思う。
「女子か」
「違いますって。敬ってるんですよ。大事にしてる、でもいいですけど」
それはそれで老人介護と評されている気もするが。困らせるつもりはなかったので、早々に話を戻す。今度は簡単に言葉になった。
「これからの冬のほうが多くなる。……だから、記憶も、イメージも、変わってくだろ」
いつか。出会ってから先輩後輩であった時間より、付き合い出してからのほうが長くなる日がやってくる。
春も、夏も、秋も冬も。会えない時間のほうが長い日が続いても、この先も一緒に歩いていくのなら、いつかきっと。
「なんか、プロポーズみたいですね。それ」
珍しく照れた顔をしたと思ったら、これだ。冗談にして笑う折原に、どうとでも取れとおざなりに言い返す。どうせ、ぜんぶ伝わっている。足を速めたのが最後の抵抗だ。
「ねぇ、先輩」
それさえもあっというまに追いついて、呼ぶ。人混みのなかでも続きは鮮明に耳に届いた。昔から、折原の声はまっすぐに届く。
その理由に気がつかないふりをしていたころから、ずっと変わることなく。
ふいに、かつての寮の部屋を思い出した。深山の高等部。今の生徒たちが使っているきれいなそれではない、旧式だった相部屋。
グラウンドから聞こえてくる声がひどく遠くて、張り詰めた面持ちの折原と、隔絶された世界にふたりきりみたいだと。そんな馬鹿なことを思っていたことを。
「好きですよ、俺も」
世界へとつながっていると思った、後輩の背中。その背を押してやることが正しいのだと信じていた。そのとなりに、今こうして立っている。あるいは、ここが夢のさなかなのかもしれない。
世界へとつながり、飛び立っていく空の道。
そうであれば、足を踏み出す先に夢が続いていくのだろうか。
答えなんてわかっているという微笑が、らしすぎて笑ってしまった。自信にあふれていて、抱え切れないほどの可能性を持っていて、それなのに自分を好きなのだという年下の男。
その情を跳ね除けることがどれほど困難だったかも、自分の心に嘘を吐いて意地を張るのがどれほど無意味だったかも。
それでも幸せになってほしいと、ずっと願っていたことも。過去も今も未来もすべてを込めて、告げる。
「知ってるよ」
本格的な冬の気配が足元に忍び寄り始めたころだった。年末年始はまとまった休みになるから日本に帰りますと。習慣になったスカイプでの通話中にうれしそうに笑った。
電話やメッセージでやりとりを重ねてはいたが、直に顔を合わせるのは半年ぶりだ。
住んでいる場所を考えればしかたない空白だが、会える日がわかると待ち遠しい。
迎えに行くと告げると、ぱっと画面の向こうで顔がほころぶ。それだけで時間の都合はどうとでもしてやろうと思うのだから、疑いようもなくほだされている。
こういうことを言うのもあれですけどと、折原が言ったのはそのときだった。
――待っていてほしい人が待っていてくれるのって、想像していたよりもずっとうれしいものなんですね。
――やっと日本に「帰る」んだって実感が持てた気がします。
だから、先輩も少しくらい楽しみにしていてくださいねと続いた言葉に笑ってしまった。それが一月ほど前の話だ。
早々に仕事を片付け、サッカー部の練習が休みになるタイミングで休暇はもぎ取った。そうしてやってきた空港のロビーで、俺は苦笑いを噛み殺していた。
試合に合わせて帰国したわけでもないのに、どこから情報が回るのだろう。それとも、たまたま居合わせた人間が目敏く見つけるのだろうか。
到着早々に囲まれたらしい姿を遠巻きに、とりとめもなく考える。
――まぁ、深山にいたころも似たようなもんだったか。
人当たりのいいそつのない対応はプロ選手の見本そのものだった。そういったことをしている折原をはじめて見たのは、栞に連れられて練習場に行ったときだ。
時間は流れ、新人と呼ばれる時代も過ぎただろうに、丁寧な対応は変わらない。
いかにも折原らしい横顔に目を細める。律儀で義理堅く、人に優しい。
ああいうふうに囲まれている場面を見ても、嫉妬したことはほとんどなかった。大変だろうなと思うことは幾度もあったけれど。
見つめているうちに目が合った。人当たりのいい笑顔が、見慣れたものに変わる。その変化に幼い優越感を覚えていたのも、ずっと昔の話だ。
ファンサービスを切り上げて近づいてきた顔に苦笑が浮かぶ。
「見てたなら助けてくださいよ」
「俺にどうこうできるレベルは超えてる」
「……昔はしてくれたのに」
どことなく拗ねた瞳が眼鏡の奥からのぞく。眼鏡にマスクで防備してばれていたら、変装の意味はないと思うのだが。おまけにいつの話だ、それは。小さく肩をすくめる。
そもそもあれは、人の大学で目立つ真似をするから出ざるを得なかった、というだけだ。
「おまえの存在が派手過ぎるんだろ」
「目立たないように生きてるつもりなんですってば、これでも。注目されてもいいことないし。それなのに勝手に目立つんだから、俺の責任じゃないですよ」
まぁ、そうかもしれないけれど。
「それで、こっちは俺の責任だと思うんですけど」
「ん?」
「迎えに来たお友達だとは思われてないですよ、これ」
申し訳なさそうな声に、人だかりを一瞥する。本人が去ったというのに輪は崩れていない。興味津々な視線に笑って、頷いた。
「まぁ、そうだしな」
迎えに行くと提案したときも、うれしそうに笑ったあとで、気持ちだけでいいですよと折原は言った。そう思ってもらえるだけで十分なんで、と。
それが「先輩」を足に使うことへの遠慮だけでないとわかっていた。わかっていて、行けるからと押し切った。
「帰るぞ」
視線は気にしないそぶりで、足を踏み出す。
年の終わりの空港は、人であふれている。そのなかの幾人が気づいていようが気づいていまいが、どうでもいいことなのかもしれない。
マイナスのたらればばかりを懸念して、自分の世界を狭める必要もない。
そんなふうに考えるようにしていると言ったら、富原あたりは、その年になっても人間は変われるんだなと大笑いしそうだが。そのあとに安心したとも言うのだと思う。
「折原?」
返事がないのを振り返ると、折原がふっとほほえんだ。
「はい」
昔からよく聞いた、まっすぐな声。となりに追いつきながら伊達眼鏡もマスクも外している。その顔を見上げると、眉尻が下がった。
「気を使ったんです。先輩に」
「ばれてたけどな」
「だから、もういいかなって。なんかそれに隠してて気づかれるほうが恥ずかしさが倍増するというか。芸能人きどりかよ、みたいな」
「べつにそこまでは思ってないけど」
「そこまではって、ちょっと思ってたんじゃないですか、やっぱり」
そういう顔してたと思ったとぼやくのに、小さく笑う。好きで目立ちたいわけじゃないと折原は言うが、昔からそういう存在だった。
華があって人を惹きつける、誰にも引けを取らないサッカー選手。俺の知りうる限り一番のエース。サッカーの神様と評したくなった絶対。
そんな人間が、人目を引かないわけがない。
「ねぇ、先輩」
ふいに変わった声の調子に、となりをあおぐ。その横顔は柔らかで静かだった。
「俺、冬ってあんまり好きじゃなかったんですけど」
「冬?」
「別れの季節って感じがして。でも」
言葉を区切って、笑う。
「もう忘れそうだな、ぜんぶ」
一度目は、寮の部屋だった。二度目は、その四年後。冬の車中だった。
――そうか。どっちも、冬だったか。
自宅のテレビで、すべてを突き放した顔で笑った折原を見たのも、この時期だった。場所も、ここだ。空港でリポーターに向かって告げられた言葉を、なにもできないままテレビ越しに見た。そして折原はドイツに発った。それがもう四年前の話だ。
早いような、長いような。あっというまだったとも思うし、遠い昔のようにも感じる。たくさんの後悔をした。随分と遠回りもした。その分だけ余計に傷つけた。
告げようとした言葉が、喉の奥で詰まる。
「なんですか?」
ざわめきにかき消されたと思ったのか、問い直す顔が近い。のぞき込んでくる瞳に、なにかがゆるんだ。
昔から、本当にただの後輩だったはずのころから、折原は優しい。その瞳や声音に甘やかされていると感じて、落ち着かなかったことすらあった。
「先輩」
どうかしましたかと続いた声に、首を振る。
「なら、いいんですけど。けっこう混んでるから。疲れる前に言ってくださいね」
にことほほえむ顔は、あのころと同じ華やかさと人懐こさが入り混じっている。けれど確実に大人びた。これに弱かったんだよなとも思う。
「女子か」
「違いますって。敬ってるんですよ。大事にしてる、でもいいですけど」
それはそれで老人介護と評されている気もするが。困らせるつもりはなかったので、早々に話を戻す。今度は簡単に言葉になった。
「これからの冬のほうが多くなる。……だから、記憶も、イメージも、変わってくだろ」
いつか。出会ってから先輩後輩であった時間より、付き合い出してからのほうが長くなる日がやってくる。
春も、夏も、秋も冬も。会えない時間のほうが長い日が続いても、この先も一緒に歩いていくのなら、いつかきっと。
「なんか、プロポーズみたいですね。それ」
珍しく照れた顔をしたと思ったら、これだ。冗談にして笑う折原に、どうとでも取れとおざなりに言い返す。どうせ、ぜんぶ伝わっている。足を速めたのが最後の抵抗だ。
「ねぇ、先輩」
それさえもあっというまに追いついて、呼ぶ。人混みのなかでも続きは鮮明に耳に届いた。昔から、折原の声はまっすぐに届く。
その理由に気がつかないふりをしていたころから、ずっと変わることなく。
ふいに、かつての寮の部屋を思い出した。深山の高等部。今の生徒たちが使っているきれいなそれではない、旧式だった相部屋。
グラウンドから聞こえてくる声がひどく遠くて、張り詰めた面持ちの折原と、隔絶された世界にふたりきりみたいだと。そんな馬鹿なことを思っていたことを。
「好きですよ、俺も」
世界へとつながっていると思った、後輩の背中。その背を押してやることが正しいのだと信じていた。そのとなりに、今こうして立っている。あるいは、ここが夢のさなかなのかもしれない。
世界へとつながり、飛び立っていく空の道。
そうであれば、足を踏み出す先に夢が続いていくのだろうか。
答えなんてわかっているという微笑が、らしすぎて笑ってしまった。自信にあふれていて、抱え切れないほどの可能性を持っていて、それなのに自分を好きなのだという年下の男。
その情を跳ね除けることがどれほど困難だったかも、自分の心に嘘を吐いて意地を張るのがどれほど無意味だったかも。
それでも幸せになってほしいと、ずっと願っていたことも。過去も今も未来もすべてを込めて、告げる。
「知ってるよ」



