夢の続きの話をしよう(下)【期間限定再録】

「先輩って」
 そこまで言ったくせに、振り向くと「なんでもないです」と笑う。言いたいことを我慢した顔で。また似合わないことをしていると思ったが、促しはしなかった。
 こういうことが増えたのは、折原が高等部に上がってきてからだった。正確には夏を過ぎたころから、だったかもしれない。
「なんでもないなら、もう戻れ。そろそろ切れられるぞ。点呼のときにいつもいないって」
「……あと五分は大丈夫」
 な、はずですと続いた語尾に、となりで同じく参考書を開いていた富原が眉を下げた。たった一才しか変わらないのに、窘めるという表現があまりにも似合う。
「佐野は夜に詰め込んでるから。あんまり邪魔してやるなよ」
「いや、べつに」
 やたら寮室に入り浸っているとはいえ、折原は放っておいても静かだから邪魔ではない。
 たまに、こいつの同室者はどう思っているのかと考えることもあるが、折原のことだ。俺が心配しなくてもうまくやっているに違いない。そう結論が出るから、消灯までのあいだならと好きにさせていた。
 富原が折原をかわいがっていたことも理由のひとつではあったけれど。
 その富原が、しかたないと言わんばかりに小さく笑った。折原には見えなかっただろうが、どうせ甘やかしていると思ったに違いない。
 ……おまえのほうが、よっぽど大目に見てるだろうが。
「やっぱり、邪魔。あと五分だなんだってごねてないで帰れ」
「ごねてないですってば。そうやってすぐに先輩は子ども扱いする」
「されるようなことばっかりしてるからだろ」
「わかりましたって。帰ります、帰ります」
 滅多にしない子どもっぽい言い方をするときは、なにかしらの魂胆があるときだ。後輩の特権をここぞと使って甘えようとするときか、そうと見せかけて誤魔化したいとき。
 案の定、「喧嘩するなよ」と口をはさんだ富原に「俺が勝てるわけないじゃないですか」なんて笑っている。
 怒られる前に帰りますと言って、折原は出て行った。ふたりきりになった部屋で、富原がしみじみと呟く。
「あいつも大人になったんだな」
「……じじいか」
「せめて父親でよくないか?」
 兄にしろとゆすらないところに、諦念が感じ取れて笑ってしまった。昔から実年齢より落ち着いた性格ではあったけれど、中等部で部長をやらされたあたりで拍車がかかった。自分に求められているものを察知して体現してしまうのも、性分といえば性分なのだろうが。
 ――大人、ねぇ。
 折原に限らず、顔つきや身体つきが変わり始める時期だ。一学年下の後輩たちが春に入寮してきたときも、でかくなったと思った記憶がある。
 富原が言っていることが、そういう意味でないとはわかっていたけれど。
 区切りのついた参考書を閉じて、となりに視線を向ける。切羽詰まってやっているものではない。ただの保険だ。そのことを俺は理解しているし、富原もわかっている。
「中等部にいたころは、ここで一緒にサッカーをすることがゴール、みたいな調子だったじゃないか」
 なにを思い出したのか、富原が懐かしそうに笑う。一年待っていてくださいねと。場所も考えず何度も言っていたのは折原だ。富原が覚えていたところで少しも思議ではない。
「それ以上を考える気がなかったんだろ」
「じゃあ、今は、その先が気になるようになったんだな」
「……」
「ついでに、それを素直に口にしていいのかどうかも考えるようになったわけだ」
 かわいいじゃないかと同意を求めるように続けられて、溜息で応じる。
「父親でも爺さんでもいいけど、とりあえず保護者だな。おまえはあいつの」
「どちらかというと、それは佐野だろう」
 あっさりと断言されて閉口する。どうせ俺がかわいがっている後輩は折原だけだ。まんべんなく後輩を気にかけている富原とは違う。
「受験するのか?」
「選択肢はあるに越したことはないだろ。おまえもそう思ってるから、真面目に内申キープしてんだろ」
 聞きたかったのは、この話だったのだろうか。どこか困った顔で、「まぁ、それはそうだが」と頷いてから、富原が言葉を換えた。
「じゃあ、もう、大学ではサッカーはしないつもりなのか?」
「どうだろうな」
 そのときの俺には、ひとつの限界が見え始めていた。近くに天才がいると否が応にも思い知る。あいつには敵わない。それでも、ギリギリ底辺に掠るかもしれない可能性にかけて、あと四年やり続けるのか。その先はあるのか。
 ――ずっと、ここにいられるわけでもないしな。
 そんなことは自分自身が一番わかっていた。折原が理解していたのかは知らないけれど。
 サッカーは今までの人生のすべてだった。それはたしかだった。けれど、これから先の将来も賭けるとは言い切れなくなっていた。
 いつまでも夢のようなことを言っていられないと、わかるようになった。
 そしてそれは、閉ざされた空間だからこそ許されていた、この関係も。
「佐野」
 呼びかけに、知らず落ちていた視線を上げる。
「あまり、からかってやるなよ」
 曖昧な言い方に、俺も笑った。曖昧に。気づいていたとしても、富原は肯定も否定もしない。そんな気がしていた。
 それが中等部のころから築いてきた信頼だったのか。少しでも長く「今」を続けたかった俺の願望だったのか。判断はつかなかったが、結果として富原はなにも言わなかった。深山にいたあのころ、最後までなにも。
 だから、最初から最後まで俺たちふたりだけの秘密になった。
 秘密を数えながら落ちていくことは簡単だった。願望に抗わないことはたやすかった。けれど同時に、落ちてしまえば這い上がるために労を要することもわかっていた。
 だから枠組みが必要だった。今だけという保険が。いつかは手放すのだという決意が。そうでなければ流されることもできなかった。
 折原がどこまでわかっていたのかは知らない。けれど、あのころ、最終的にすべてをよしと決めていたのは、折原ではなく俺だったはずだ。
 ほかの学校よりはいくらかゆるやかだったかもしれない。それでも、上下関係の絶対はあった。俺が許さなければ、なにも起こりようがなかったのだ。そのことを自覚することができたのも、転学して、しばらくしてからではあったけれど。