夢の続きの話をしよう(下)【期間限定再録】

 ――怒んなよ。
 そんな一声目を庄司が発したのは、顔合わせの不安を散々にぶちまけてからだった。
 俺が怒るような話なのかと問えば、なんとも言えない顔で首を捻る。
 ――いや、うーん、怒りそう。どっちに対してかはわかんねぇけど。昔からおまえ、折原くんに関することの沸点低いんだもん。

 
 悪かったな。沸点が低くて。
 駐車場から校舎までの道のりを歩きながら、せんだってのやりとりを思い出す。思い当たる節がないことはないが、これでも愛想がないわりに沸点は高いと評判だったのだ。
 富原に副部長を押し付けられたときに、だからやれと熱弁された。口調がきついだけで、感情的に下級生を怒鳴りつけたりはしないだろう。だからそれでいい。適当なことを言って押し付けられただけの気もしてきたが、まぁべつにいい。
 朝早くに出勤する癖が抜け切らず、朝練も始まっていない時間に着いてしまった。専用グラウンドにもさすがに人影はない。
 成美との試合途中で離脱した問題児は、監督の読みどおり終了時刻には戻ってきた。そのあとのミーティングにも参加して、監督たちと話もしていた。次の日からの練習にも表面上は真面目に参加している。けれど、それだけだ。
「あ」
 思わず出たと言わんばかりの気まずそうな声に、振り返る。そこにいた時枝の顔を、ぽかんと見上げてしまった。バツが悪そうに眉が下がったが、見逃してやれるレベルではない。
「おまえ、どうしたんだ。それ」
「転びました」
 取り繕う気があるのかわからない回答に、溜息を呑んでその顔を観察する。右の唇の端が切れて、周辺が腫れている。そういう傷を、昔にも見たことがあった。
 自分がなにを言われても笑い飛ばすくせに、人のためにだったら喧嘩をするような馬鹿。
「人間な、転ぶときはよっぽどじゃなきゃ手をつくぞ」
 とりあえずそう言うと、拗ねた顔になる。
「なんで先生こんなに来るの早いの、いつものことだけど」
「時枝と一緒で癖になってるんだろうな」
「癖?」
「昔から朝は早かったし。グラウンドに来るのも好きだったし」
 気がついたらふたりになっていたこともあったけれど、それはそれだ。昼間は学校で、夜は寮でと。ずっと集団で生活していると、息苦しくなる瞬間がふいに湧く。ストレスを抱え込まないようにひとりになれる場所を探す人間も多かった。
 時枝もそのタイプだろう。人目があるところでは部長として振る舞ってしまうだろうから、余計に。
 朝一番に見つけたのは、果たしてよかったのだろうか。殴られましたという顔のわりにどんよりとした空気は感じられない。一方的なものではなく、対等な喧嘩だったのかもしれない。
「今はひとり部屋っていっても、壁越しに気配はあるだろうし。ひとりになれる場所がないと、気疲れするしな」
「……普段はそこまで思わないんだけど」
 諦めた溜息に、そりゃ普段はコントロールできてるんだろと苦笑する。感情を自制できる性格は美点だが、適度に吐き出さないと己の首を絞める。今回のもので多少の発散ができたのなら、大目に見てやりたいけれど。
「余裕があるときならできるんだろうけどな、悪かった」
「え?」
「おまえのストレスが溜まってたことは知ってた」
 俺だけではなく、監督もコーチも、担任も。いい子は見過ごされるの典型例だなと自戒して、手招く。
「おまえはしっかりしてるからって甘えて、なにもしてやらなかったからな。そのかわりだ」
 どこに行くのかと身構える時枝に保健室だと行き先を明かす。
 手当なんかしたら目立つと嫌がられたが、どっちにしろ目立つぞと見たままを告げれば諦めてついてきた。一目で露見した事実に思い至ったらしい。
 十中八九、相手は佐倉だろうけれど。そちらは朝練に顔を出せば、監督なりコーチなりが対処するだろう。
「積極的に聞きたいわけじゃないんだけど」
 職員室で鍵を借りた保健室の椅子に座らせて、戸棚を物色しながら問いかける。人の気配のない校舎は静かだった。あと三十分もすれば教師は姿を現し始めるだろうが、生徒が登校するにはまだ早い。
「見えてないところにも青あざがあるとか言わないよな?」
「ない、ない。本当にないです、大丈夫。ちょっとお互い、顔に一発ずつ入っただけ」
「もっと目立たないところに入れろよ、おまえら」
 そうやって隠すのが暴力の常とう手段じゃないのか。思ったが、そういった計算がないところが救いなのかもしれない。なんというか、悪ぶってみたところで慣れていないというか。
 ――うちの一軍にいるようなのは、良くも悪くもサッカーしかない人間ばっかりか。
 だから拗れることもあるのだろうけれど。
 頭によぎった庄司の話にうんざりとしながら、軽く消毒してテープを貼ってやる。痛いと声を上げていたが、怪我をして痛くないほうがおかしい。
「手は?」
「え? 手は大丈夫だけど」
「ならいいけど」
「あぁ。いや、さすがにそこまでの力で殴ったりしませんって」
 問いかけの意味を察して、時枝が首を振る。それならそれに越したことはないし、ほんの少しでも屈託が解けたのなら構わないとも思う。教師として褒めることはできないが。ただ。
「おまえのその手は、ゴールを守る大事な手だろう。粗末に扱うな」
「先生」
「傷ついてなかろうがなんだろうが、殴ると痛いだろ」
 問題はどう誤魔化すかだなと、傷テープを一瞥する。目立たないわけがない。
 プレー中に接触したとするのは無理があるかもしれないが、学校側には押し通すしかない。部のほうの処罰は、監督が話を聞いて決めるだろう。
 もう朝練は休めばと言おうとしたところで、おもむろに時枝が姿勢を正した。
「先生」
「ん?」
「すみません、迷惑かけました」
 そうやって律儀にするから、ストレスが溜まるんだろう。富原と似ているという話が監督からあったが、富原のほうが何倍もうまく受け流していた。
「火種に着火する前に消してやるのも仕事のうちだ。それができてなくてこうなったんだ。教師の怠慢ってことにしとけ」
「怠慢って。その、……結局、ただの喧嘩だし。俺と佐倉の」
「ちゃんと喧嘩になったのか」
 あの、なにを言われてもへらへらと聞き流して挑発するだけの、コミュニケーションを放棄している問題児と。言わなかった後半部分も伝わったのか、時枝が苦笑とは違う笑みを浮かべて頷いた。
「まぁ。ちょっとすっきりした」
「なら、よかったな」
 穏当な解決策はなかったのかとは思う。ただあと半年あるのだ。わだかまり少なく共闘できるようになるのなら、それが一番だ。
 ――その子さぁ、もともとは折原くんに憧れてたらしいよ? そんな意外そうな顔しなくても、ありえる話だろ。いいロールモデルじゃん。
 憧れてたと言ってもなんの不思議もないだろと、庄司は笑っていた。
 ――いろいろ真似してたらしいよ。プレースタイルとか含めて。そう聞くとかわいく見えてこない? 中学生だと、まだまだ幼くてかわいいよね。
 中学生だったころは自分を幼いなんて思っていなかったが、こうして大人になるとわかる気がする。
 ――今を知ってるなら想像できると思うんだけど、気性の激しい子なんだろ? 決定的な原因があったわけじゃなくて、些細なことの積み重ねだったらしいんだけど。部内で仲違いしちゃったみたいでね。
 ちょうど、それがあの時期だったらしいんだよねと。庄司が反応を窺うように笑った。
 思い出したのは、春先に「被った損害」と言っていた佐倉の顔だった。
 ――そのことでおもしろおかしくからかわれて、切れちゃったらしくて。あとはご察し。だるま式に膨れ上がって、拗れに拗れて、どうにもならなくなって。高校は誘いのあった深山に行った。こっちの子たちに言わせると、「レベルの低いチームに逃げた」ってことみたい。
 ――おまえの話と総合すると、チームメイトと仲良しこよしでするサッカーにうんざりしたのかもね。かわいいと言えば、かわいいけど。
「このあいだの成美の試合、あいつがあんまりにも私情むき出しだったから」
「あぁ」
「それをいいように使って勝つならともかく、悪いほうに流れまくってたから、腹立って」
「まぁ、なぁ」
「だって、もう何年こっちにいるんだよって話じゃん」
 なんだ、そっちなのか。予想外の帰着に小さく笑ってしまった。
「って、なんで笑うの、先生」
「いや、幸せ者だなと思って」
「誰が」
「佐倉が」
 答えた瞬間に、認めたくない顔で時枝が黙り込む。傷テープとあいまって、子どものように見えた。
「こっちが気を揉まなくても、どうとでもなるもんだなとも思って」
 監督が二度も折原を呼び寄せた理由も、ようやくわかった。けれど、結局、切り開いていくのは仲間の存在であったらしい。
「……ストレス溜めるなって言ったくせに」
「それはそれ。佐倉はガキだけど」
「本当にガキだよ、あいつ。俺がどれだけ迷惑かけられたか」
「でも、時枝もガキでいいんだぞ」
 自分が高三だったころを思い返しても、時枝はしっかりしている。持って生まれた性格もあるだろうし、部長として意識してつくったものもあるだろう。
「無理して大人ぶらなくても、自由にしたらいい」
 だからこそ、たまには気を抜いて好きにしても許されるはずだ。優等生だからと放置していたこちらの言える台詞ではないが。
「富原だって、あんなふうだけど。俺の前ではけっこう好き放題してたからな。こういうこと言うと、そんなことはないって言うと思うけど」
 興味を持ちそうな名前を出すと、その目が素直に輝いた。隠すようなことではないが、わざわざ言うことでもない。そう思っていたが、役に立つのなら話してやればよかったかもしれない。
 いまさらになって、そんなことを思う。
「たいがいのやつが手放しにいいやつだって褒めるし。俺も否定するつもりはないけど、けっこうせこいし、保護者面で面倒ごとに首つっこんでくるし、貧乏くじばっかり引くし。なんだかんだで人に面倒ごとも押し付けるからな」
 自分の顔が人畜無害に見えることを理解して、悲しそうな顔をしてみせるのだから性質が悪い。そして、たいていの人間がそのことに気がつかないのだ。あの富原がそこまで言うんだ。引き受けてやれよという視線を感じたことも一度や二度ではない。
「折原も、人間できてるふうな顔してるけど、べつにそんなことはないからな。昔から年より大人びてはいたけど、あいつが無理してつくってたところもあったから」
「先生の前では、そういうのが抜けてた、みたいな話?」
「……まぁ、そうかもな。だから、おまえも適当にやったほうがいい」
 水倉でも誰でもいるだろう。そう続けると、時枝が照れくさそうに口元を歪めた。六年もの時間をともにするのだ。気の置けない友人もひとりくらいはできる。
「先生がここで生徒だったころは、うち強かったんだよね」
「そうだな。成績だけで評価すれば強かったな」
「そのなかでも、実力の違う人っていたでしょ」
「まぁ、なぁ。持って生まれたもんは違うからな」
「いやにならなかった?」
 四月にも聞かれたことを思い出した。生徒の話が唐突に変わることは往々にしてある。そのときに本音が紛れこむことがあることも、この何年かで知っていた。
「それがそいつのぜんぶってわけでもないし。一応、後輩だったからな。それなりにはかわいかったよ。年々かわいくなくなってるけど」
「後輩ってかわいいものなの?」
「おまえだって、二年とか一年はかわいいだろ。まぁ、程度の差はあるだろうけど」
 自分を慕う人間はかわいいし、相性もある。部長として平等に接するべきだということとは別次元の話だ。
 後輩というだけで無条件にかわいいものなのか。そう問われているとわかったが、うまく答えるのは難しかった。自分とあの後輩の関係は普通ではなかっただろうから、なおさら。
 最初のうちは、恋なんてきれいな感情ではないと思っていた。どちらかといえば時枝の言うものに近かった。
 自分にはないものをいくつも持っている後輩への嫉妬だとか、羨望だとか、憧憬だとか。どうとも言葉にしづらい感情が、自分の内側でせめぎ合っていた。
 それなのに、葛藤を知ろうともしない顔で「先輩」と笑いかけてくるから。まっすぐに呼ぶから。
「時枝もわかると思うけど、持って生まれたものだけでは生きていけないし、成長もできないから。そういう意味では才能を磨く努力を近くで見てきてたからな。嫌いにはなれなかった」
「……ふぅん、そうか」
「俺はそうだったって話で、時枝がどうしろって話じゃないけど。まぁ、でも、なんだかんだでかわいかったよ、ずっと」
 中等部から数えて、深山にいた時間は五年だ。そのうちのあいつと一緒に過ごした時間は、三年ほどでしかない。それなのに、そのどれをも鮮明に覚えている。忘れようとしても、忘れることはできなかった。
「特別に仲がよかったの?」
「そういう話は、教師と生徒じゃできないんだよ」
 教室で噂していたチームメイトに、失礼だろうと憤っていたのが懐かしい。
「知りたかったら、卒業して、また後輩の応援にでもやってこい」
「それ、ほとんど言えない関係って言ってるようなもんじゃ」
「呼ばれるような選手になって帰って来いって話」
 明言は避けたまま、そっと笑う。
「あいつみたいに」
 ちょうど今の彼らくらいのころだった。それまで生活のすべてと言っていいくらいだったサッカーを、もうできないと告げられた。閉じていた世界が開けると慰めた母親の言葉もわからなくはなかった。けれど、ひとつの世界が終わったと感じた。
 サッカーから離れる。深山から離れる。折原からも、離れる。そうしてそのすべてともう二度と巡り会うことはないと思っていた。
 それなのに、今、そのすべてと向き合い直している。あのころは、サッカーと関わって生きていく道はひとつしかないと思っていた。
 けれど、そうではないのだと知った。
「先生」
「ん? ――って、なんだ」
 バタバタと騒音に近い足音が近づいてくる気配に、廊下のほうに視線を向ける。朝っぱらから廊下を走るなよと呆れていると、勢いよくドアが開いた。肩で息をしていた水倉が室内をのぞき込んで、はぁっと息を吐く。
「どこに行ったのかと思っただろ、おまえ!」
 無駄な心配をさせたと気づいたが、謝るより先に恨みがましく睨まれた。
「先生も。監督かコーチに一言伝えといてくれたらよかったじゃん」
「あー、悪い」
「まったく悪いと思ってないし、絶対」
 ぶつくさと言いながらも水倉が入ってきた。ごめんと頭を下げた時枝に、「実は」とグラウンドの様子を嬉々として教え出す。
「おまえがいなくて焦ったんだけどさ。あの佐倉が、ぎょっとしてたのはおもしろかったな」
「はぁ? なんであいつが」
「だから、甘えてんだよ。おまえに」
 なんでわからないかなという水倉の声に、内心で同意する。椅子から立ち上がって、戸棚に拝借していたものを返す。学生だった時分から、ここもあまり変わっていない。
「佐倉もだけど、佐倉だけじゃなくてあの現場にいた一年と二年もちょっとビビってたから、結果的にはよかったかも」
 聞き流せなかった内容に背後を振り返ると、水倉が早口に弁明する。
「いや、暴力で押さえつけるのは駄目だと思うんだけどね。時枝、優しいから。舐めてたやつ多くてさ。一回くらい雷落としたらいいのにって個人的には思ってたから」
「喧嘩は雷じゃねぇぞ」
「わかってるって。監督にはちゃんと言うから」
 まさしく逃げるように連れ立っていく生徒に、ふと思い出して声をかける。
「時枝。さっきの続き、なんだった?」
「あぁ、……監督にはちゃんと言いますって言おうと思っただけ」
 だから大丈夫。請け負って外に向かっていく。その背中を見送って、保健室の鍵をかけた。廊下の窓からは、サッカー部のグラウンドは見えない。けれど、窓を開けると風に乗って声が届いた。太陽の上昇とともに熱をはらみだした、夏の風。
 楽しかったよ、深山。
 その台詞を折原の口から聞いたのは、春のことだった。嘘でないことは声音でわかった。覚えたのはうれしさよりも罪悪感だった。
 いい先輩にはなれなかった。あのころに考えていた正しい場所にも戻してやれなかった。けれどようやく独りよがりな視点からではなく、等身大の折原と向き合って、お互いの望む答えを見つめることができた。
 いい先輩ではいられなかった。陰りのない道を歩んでほしかった。この選択が絶対的に正しかったと言える自信もない。けれど、手を放すつもりもない。
 相反する感情の揺らぎも、その裏で見え隠れする罪悪感も。薄れていくことはあっても、完璧に消えることはきっとない。
 だから、決めることができたのは、覚悟だけだった。あわせて呑み込んで、生きていくという覚悟。それもまた、折原が言ってくれたことではあったのだけれど。
 俺がしてやれることはなんだろう。
 そんなことを、ずっと考えていた。そして、その答えを見つけるまでも遠かった。
 折原は、ただ俺がいればいいと馬鹿みたいなことを言う。
 そして馬鹿なことに、その言葉に嘘偽りがないことも知っている。
 あいつには数えきれないものを与えられているのに、なにも返せていない。それもずっと昔から感じていたことだった。
 だから、最後にできるせめてもの最善が、距離を置くことだと思っていた。
 けれど、その逃げ道をつくることも、もうできない。
 生きていく。そこがどんな道であろうとも、ふたりで。
 それが折原が望んでいる未来でもあるはずだった。
 ふいに携帯が振動した。始業までまだ時間はある。誰もいない廊下で携帯を開く。目に留まった名前に、口元がほころんだ。時差は八時間。サマータイムの今は、七時間だけこちらが進んだ世界にいる。向こうは、ちょうど日付が変わったころだ。いつのまにか、考えるまでもなくわかるようになった。
 添付されていたのは、満天の星だった。きれいだったから一緒に見たいなと思って。短い文面だ。あいかわらずなにを考えてるのかわからないやつだなと半分呆れながら、画面をなぞる。
 いつだったか、こんな星空を見たことがあった。この写真ほどではないが、深山の周辺も夜は明るくなかったから、星がよく見えた。
 おまえには、こんなふうな輝く未来があるだろうに、と。雄大な自然から目を逸らすことしかできなかった夜。
 なんとなく思い立って、窓から空に向かってシャッターを切った。かつて同じ空間を過ごした場所から見上げた空を送り返す。
 こっちはすげぇいい天気で、朝練日和。
 短いメッセージを打って、閉じる。何年経っても、関係が変わっても、サッカーのことばかりだ。
 朝と夜。七時間という世界線が遠いのか近いのかは、よくわからない。お互いにやるべきことがあって、それぞれの場所に立っている。けれど、こうして言葉でつながっている。それがすべてだ。