会議を終えた足で、監督室のドアを叩く。サッカー部の出身者だから、との監督の一声で、新任早々に顧問を押し付けられて丸二年が経った。
顧問とはいえ、専門の指導者がいるのだ。部活動の内容に口を出すつもりは毛頭ない。試合の引率が主な仕事で、部活動にも仕事の合間に顔を出す。それで十分だと思っているのだが、監督が相談というかたちで話を持ってくることがあった。
技術面のことに口は出さなくとも、メンタルケアは教員の仕事だろうと言わんばかりだが、断れた試しはない。
「すみません、遅くなって」
部誌から顔を上げた監督が「あいかわらず忙しそうだな」と笑う。
「年度始めはどうしても。もうしばらくしたら落ち着くと思うんですが」
そうであってほしいとの希望的観測も混ざっているが。苦笑で応じて空席を引く。コーチたちは引き上げたのか、残っているのは監督だけだった。
「話ってなんでした? 佐倉ですか、時枝ですか」
随一の問題児と、振り回されて胃を痛めていそうな部長。思い当たる名前を挙げると、監督の応じる声に疲れが滲んだ。
「どちらもだな。時枝は佐倉を意識して煮詰まっとるし、佐倉は佐倉で部の練習に顔を出さんし」
「授業は出てるみたいですけどね、佐倉」
出てるよ、主に寝てるけど。苦い顔で笑っていた佐倉の担任の言葉を伝えると、渋面に拍車がかかった。
「佐倉は、いいものを持ってるんだがなぁ」
入ったばかりのころにも監督は同じようなことを言っていた。才能だけなら、かつての折原に引けを取らないものがある、と。
「時枝も部長として頑張ってくれているんだが。ちょっとプレッシャーをかけ過ぎたかもしれんと心配になっていてな」
「妙な力みはあるかもしれませんね、たしかに」
真面目な性分がさせるのだろうが、なにくれとなく佐倉の面倒を見てやっている。
「折を見てガス抜きさせるようにします。できるかはわかりませんけど」
頼みたかったのは部長のほうらしい。先手を打って請け負うと、「すまんな」と監督が弱った顔になる。
「おまえも仕事があるだろうに」
「たいしたことはできませんから、気にしないでください」
「そうやって気にかけてくれるだけで十分だ。おまえは昔からよく周囲を見てるから」
そんなことはなかったと思うが、わざわざ否定することでもない。「だといいんですけど」
「昔からと言えば……そうだな。佐野。もし、おまえたちが学生だったころにいたのが折原じゃなくて、佐倉だったらどうだった?」
「どう、とは」
「いや、どういうふうに接したかと思ってな。参考意見として聞いてみたいだけだ」
「佐倉だったら――……」
唐突な問いかけであったことを差し置いても、すぐに想像できなかった。折原が、いなかったら。ふっと意識が宙に浮く。
――今の俺は、いないんだろうな。
「そうですね。佐倉だったら、俺はもっと早くにやめさせていたかもしれません」
「はは、そりゃあいい」
「笑いごとでいいんですか、監督」
「時枝もおまえくらい胆が据わってたら、楽なんだろうけどな」
「俺、据わってますか?」
面倒を見る気のある時枝と違って、性格が悪かっただけだろう。首を傾げると、監督は部員を見つめるまなざしで頷いた。三年目になろうとも、生徒と変わらないのかもしれない。
「天才に壁をつくらずに、良くも悪くも普通に付き合っていただろう、おまえは」
「そんなことないですよ。嫉妬もしてましたし」
「誰だってするさ。重要なのは、それをしっかりと自覚して、特別視せずに向き合えるかどうかだ」
「そんなもんですかね」
「その証拠に、折原は佐野に一番懐いていたじゃないか」
「あー、……でしたかね」
あのころを知る人に評されると据わりが悪い。とはいえ、心を揺さぶられた激情も、この四年で鳴りを潜めた。ニュース映像で折原を見ても、息苦しさを覚えなくなった。
それが、流れた時間のすべてだ。
「そんな顔をしなくてもいいだろう。なんなら今度、本人に聞いてみたらいい」
「本人って。この数年、あいつのことはテレビでしか見てないですよ、俺」
移籍先のドイツでレギュラーを獲得したことも、日本代表にコンスタントに招集されていることも知っているが、それだけだ。
苦笑すると、今度は監督が首を傾げた。
「なんだ。折原のやつ、自分で言うから黙っておいてくれと言ったくせに。まだおまえに言ってなかったのか」
「え? なにが、ですか」
「あいつ、リハビリの関係で日本に戻ってきているだろう。その合間に深山に顔を出すと言ってくれていてな」
部員たちにもいい刺激になると思っているんだが。続いた監督の台詞は、ほとんど頭に入ってこなかった。
「折原が?」
「佐野がいると話したら驚いていたけどな。ぜひ行きますって。変わらないな、あいつは」
出国直前に折原が投下した爆弾は、世間を騒がせた。監督が知らないはずもない。けれど、そんなことはなにもなかった顔で、楽しみだと目を細めている。
「変わらないですか、あいつ」
普通を装った声は、震えていなかっただろうか。監督は、「そうだな」と静かに笑った。
「俺からすれば、おまえも折原も、まだまだ若いよ」
それはいつだったか、俺にも折原と同じようにたくさんの未来があると言ってくれた声と同じものだった。
もう、四年近く前の話だ。
深山をやめて、サッカーから離れて、折原からも離れて。それですべてを忘れられると思っていたころ。大学三年生の夏が始まるころ、プロの選手になっていた折原と思いがけないかたちで再会した。そして、この学園にふたりで来た。
在学生への激励を頼まれた折原に同行することになって、ここに来て。そして、好きだと言われた。
思い込みだと否定してやるはずだったのにできなくて、流されるがまま受け入れた。半年ほどのあいだだ。けれど、たしかにその期間、俺たちは「付き合って」いた。
――好きか嫌いか、それだけでいいって言ってるじゃないですか。ねぇ、なんで言ってくれないの。
苦しそうな声が、昨日聞いたかのような鮮明さでよみがえる。
――きらいになれたらよかった。
それが最後だった。感情を押し殺した声が告げる。そうしてほしいと心の底から思った。なにも生み出さない無駄な感情は捨てて、幸せになってほしいと願った。
――ゲイなんですよね、俺。
醒めた顔が笑う。俺は、そんな言葉を聞きたかったわけじゃなかった。
たくさんあった未来のなかから、そんな生きにくい道を選んでほしかったわけじゃなかった。
顧問とはいえ、専門の指導者がいるのだ。部活動の内容に口を出すつもりは毛頭ない。試合の引率が主な仕事で、部活動にも仕事の合間に顔を出す。それで十分だと思っているのだが、監督が相談というかたちで話を持ってくることがあった。
技術面のことに口は出さなくとも、メンタルケアは教員の仕事だろうと言わんばかりだが、断れた試しはない。
「すみません、遅くなって」
部誌から顔を上げた監督が「あいかわらず忙しそうだな」と笑う。
「年度始めはどうしても。もうしばらくしたら落ち着くと思うんですが」
そうであってほしいとの希望的観測も混ざっているが。苦笑で応じて空席を引く。コーチたちは引き上げたのか、残っているのは監督だけだった。
「話ってなんでした? 佐倉ですか、時枝ですか」
随一の問題児と、振り回されて胃を痛めていそうな部長。思い当たる名前を挙げると、監督の応じる声に疲れが滲んだ。
「どちらもだな。時枝は佐倉を意識して煮詰まっとるし、佐倉は佐倉で部の練習に顔を出さんし」
「授業は出てるみたいですけどね、佐倉」
出てるよ、主に寝てるけど。苦い顔で笑っていた佐倉の担任の言葉を伝えると、渋面に拍車がかかった。
「佐倉は、いいものを持ってるんだがなぁ」
入ったばかりのころにも監督は同じようなことを言っていた。才能だけなら、かつての折原に引けを取らないものがある、と。
「時枝も部長として頑張ってくれているんだが。ちょっとプレッシャーをかけ過ぎたかもしれんと心配になっていてな」
「妙な力みはあるかもしれませんね、たしかに」
真面目な性分がさせるのだろうが、なにくれとなく佐倉の面倒を見てやっている。
「折を見てガス抜きさせるようにします。できるかはわかりませんけど」
頼みたかったのは部長のほうらしい。先手を打って請け負うと、「すまんな」と監督が弱った顔になる。
「おまえも仕事があるだろうに」
「たいしたことはできませんから、気にしないでください」
「そうやって気にかけてくれるだけで十分だ。おまえは昔からよく周囲を見てるから」
そんなことはなかったと思うが、わざわざ否定することでもない。「だといいんですけど」
「昔からと言えば……そうだな。佐野。もし、おまえたちが学生だったころにいたのが折原じゃなくて、佐倉だったらどうだった?」
「どう、とは」
「いや、どういうふうに接したかと思ってな。参考意見として聞いてみたいだけだ」
「佐倉だったら――……」
唐突な問いかけであったことを差し置いても、すぐに想像できなかった。折原が、いなかったら。ふっと意識が宙に浮く。
――今の俺は、いないんだろうな。
「そうですね。佐倉だったら、俺はもっと早くにやめさせていたかもしれません」
「はは、そりゃあいい」
「笑いごとでいいんですか、監督」
「時枝もおまえくらい胆が据わってたら、楽なんだろうけどな」
「俺、据わってますか?」
面倒を見る気のある時枝と違って、性格が悪かっただけだろう。首を傾げると、監督は部員を見つめるまなざしで頷いた。三年目になろうとも、生徒と変わらないのかもしれない。
「天才に壁をつくらずに、良くも悪くも普通に付き合っていただろう、おまえは」
「そんなことないですよ。嫉妬もしてましたし」
「誰だってするさ。重要なのは、それをしっかりと自覚して、特別視せずに向き合えるかどうかだ」
「そんなもんですかね」
「その証拠に、折原は佐野に一番懐いていたじゃないか」
「あー、……でしたかね」
あのころを知る人に評されると据わりが悪い。とはいえ、心を揺さぶられた激情も、この四年で鳴りを潜めた。ニュース映像で折原を見ても、息苦しさを覚えなくなった。
それが、流れた時間のすべてだ。
「そんな顔をしなくてもいいだろう。なんなら今度、本人に聞いてみたらいい」
「本人って。この数年、あいつのことはテレビでしか見てないですよ、俺」
移籍先のドイツでレギュラーを獲得したことも、日本代表にコンスタントに招集されていることも知っているが、それだけだ。
苦笑すると、今度は監督が首を傾げた。
「なんだ。折原のやつ、自分で言うから黙っておいてくれと言ったくせに。まだおまえに言ってなかったのか」
「え? なにが、ですか」
「あいつ、リハビリの関係で日本に戻ってきているだろう。その合間に深山に顔を出すと言ってくれていてな」
部員たちにもいい刺激になると思っているんだが。続いた監督の台詞は、ほとんど頭に入ってこなかった。
「折原が?」
「佐野がいると話したら驚いていたけどな。ぜひ行きますって。変わらないな、あいつは」
出国直前に折原が投下した爆弾は、世間を騒がせた。監督が知らないはずもない。けれど、そんなことはなにもなかった顔で、楽しみだと目を細めている。
「変わらないですか、あいつ」
普通を装った声は、震えていなかっただろうか。監督は、「そうだな」と静かに笑った。
「俺からすれば、おまえも折原も、まだまだ若いよ」
それはいつだったか、俺にも折原と同じようにたくさんの未来があると言ってくれた声と同じものだった。
もう、四年近く前の話だ。
深山をやめて、サッカーから離れて、折原からも離れて。それですべてを忘れられると思っていたころ。大学三年生の夏が始まるころ、プロの選手になっていた折原と思いがけないかたちで再会した。そして、この学園にふたりで来た。
在学生への激励を頼まれた折原に同行することになって、ここに来て。そして、好きだと言われた。
思い込みだと否定してやるはずだったのにできなくて、流されるがまま受け入れた。半年ほどのあいだだ。けれど、たしかにその期間、俺たちは「付き合って」いた。
――好きか嫌いか、それだけでいいって言ってるじゃないですか。ねぇ、なんで言ってくれないの。
苦しそうな声が、昨日聞いたかのような鮮明さでよみがえる。
――きらいになれたらよかった。
それが最後だった。感情を押し殺した声が告げる。そうしてほしいと心の底から思った。なにも生み出さない無駄な感情は捨てて、幸せになってほしいと願った。
――ゲイなんですよね、俺。
醒めた顔が笑う。俺は、そんな言葉を聞きたかったわけじゃなかった。
たくさんあった未来のなかから、そんな生きにくい道を選んでほしかったわけじゃなかった。



