夢の続きの話をしよう(下)【期間限定再録】

 子どものように手をつないだまま、寝室に向かう。離しがたかっただけだ。電気はいらないと言うと、昔も言ってましたねと頷かれた。
 そうだっただろうかと考えたが、折原が言うのだからそうなのだろう。たまに驚くほど、折原は当時のことを覚えている。最大の理由は気恥ずかしさだったが、目はすぐに慣れる。背を押してもらう効果だけだとわかっていたけれど、それで十分だった。
 ベッドの上で啄むだけのキスをはさみながら、服を脱がし合う。床に落ちていったスウェットを見て、折原が笑った。
「昔は先輩のほうが大きかったのに」
「いつの話だよ」
 借りたはいいものの、サイズが合わなかった自覚はある。
「出会ったころの話」
 囁くように笑って、あらわになった胸元に触れる。
「高等部に入ったくらいで、やっと追いついた」
「まだ俺のほうが高かっただろ、そのころは」
「でも夏には変わらなかったですよ、ほとんど」
 なんの張り合いだと小さく肩を揺らす。あのころは、こんなふうではなかった。折原の身体つきも華奢さが残っていたし、俺もたぶんそうだった。
「おまえはでかくなったな」
 さらされた身体は、プロのスポーツ選手のものだ。努力の積み重ねがつくり上げたとわかるから、触りがたくさえ感じる。
「ドイツでさらに鍛えられた感はありますね。それなりに身体つくってから行ったつもりだったんですけど、もうぜんぜんで。当たり負けしてばっかり」
 他愛ないことを話しながら、いたるところに唇で触れてくる。愛情と優しさしかない触れ合いに愛おしさが湧く。なのに、言葉にできないたまらなさもあった。
「先輩」
 その揺らぎを読んだようなタイミングで、折原が尋ねる。
「怖い?」
 無言で首を横に振る。続く行為が怖いわけじゃない。この甘さに慣れ親しんだら、もう二度と戻れなくなる。そんな予感がしただけだ。
 そんなふうに考えることは、やめたはずだったのに。残っていた罪悪感が燻ぶる。打ち消すために言葉にした。「大丈夫」
「怖いなら怖いで、いいですよ。怒ってるとかじゃなくて、最後まですることだけがすべてじゃないですから」
 俺がいやだと言ったら、本当にやめるのだろうなとわかった。やっぱり馬鹿だとも思った。そうして人のことばかりを優先する男の優しさを、好きだとも思った。
「大丈夫だから」
「でも、はじめてでしょう? ――え、はじめてですよね?」
 トーンの下がった声に、驚いて否定する。
「男同士って意味なら、おまえ以外にあるわけがないだろ」
「いや、うん。そうですよね。先輩、基本ストレートだもんな」
「基本?」
「あぁ、基本は異性愛者でしょうってだけです。ただ、先輩の考えてること、たまによくわからないから。なんか変なことしてたらあれだなと思っただけで」
 言い訳めいた台詞を一気に言って、眉を下げる。
「すみません。ここで言う話でもなかったです」
「べつに」
 じわじわと這い上がる恥ずかしさを蹴り落として、続ける。
「おまえが聞きたいなら、この四年のことも、その前のことも聞いていいし、好きにしたらいい」
「でも、先輩」
「それで、これも。いやだったら俺は言うから、おまえがしたいように、好きにしたらいい」
 そのくらいしかできないが、そのくらいならできる。だから大丈夫と繰り返す。しばらくの間のあと、「本当に」と折原が小さく笑った。
「俺の言うこと、ちっとも聞かない」
 それでも好きなんだろうとはさすがに言えなかった。黙っていると、また唇が落ちてきた。額に、瞼に、口元に。あのころから、よくしたがっていた。本当に好きなんだなと、とりとめもなく思う。
 だって、キスってすごく好きって伝えてる感じがするじゃないですか。聞いたこちらが赤面することを言っていたのは、高校生だった折原だ。
 首筋に走った小さな痛みに、目の前に意識が戻る。
「おま、痕」
「駄目?」
「駄目じゃねぇけど、見えるところにつけるなよ」
「見えるところだからつけたいのに」
 拗ねたように言って、すぐそばにまた口づける。
「っ、折原」
「俺のものだって、主張したい気分」
 先輩、色素薄いから、簡単に痕つきますね。笑って、指先でできたばかりの痕をなぞる。月曜日には消えているだろうか。現実逃避のようなことを考えながら、呟く。
「……おまえのものだろ」
 おまえが俺のものだったことがあるのかはわからないけれど、俺はずっとおまえのものだった。
 認められなかっただけで、十年前から、きっと、ずっと。
「噛むなよ」
 先ほどよりも鋭い刺激に、眉を寄せる。
「先輩があんまりかわいいこと言うから、びっくりした」
「犬か」
 びっくりしたら噛むのかよ、おまえは。
「それ、よく山路先輩が言ってたなぁ」
 首筋に鼻先を埋めたまま、折原が笑う。骨を通じて身体の奥まで沁み込んでくる。
「でも、そうかも。俺、先輩の匂いも好きだったから」
「匂いって……」
 呆れまじりの文句も最後まで言葉にならなかった。再開された愛撫に息が詰まる。触れてくる唇の熱さが、大きな手のひらから与えられる柔らかな刺激が。そのすべてがじわりと快感を押し上げていくようだった。
 受け身でする行為がはじめてだからなのか。相手が折原だからなのか。
 慣れない感覚に戸惑っているあいだに愛撫は下へと降りていく。ゆるく反応しかけていたものに手が触れた。再び膨れ上がった羞恥心によじりかけた身体を、もう一方の手が押さえつける。無理強いをするではない、けれど強い力。
「先輩」
 その声に首を振る。嫌なわけでも、逃げたいわけでもない。ほっと見下ろす瞳が笑む。そして宥めるようなキスが唇に落ちてきた。最初のときのように性急なものではない、深い口づけ。
 なにもかもされるがままに、任せている。わかっていながら、目を閉じた。先走りをからめとる濡れた音が耳のなかに響いた。漏れそうになった声も、すべてキスに消えていく。
 徐々に追い上げられる感覚に、シーツを掴む手に力が入った。頭をよじると、唇が離れていく。手のひらが頬に触れた。酸欠と快感とでぼやけた視界に、優しい顔が映る。
 ――なんで。
 なんで、そんな顔ができるのか。向ける相手が俺で本当にいいのか。本当はもっといい相手がいるのではないか。そう思うのもたしかなのに、手放したくないとも思った。
 先輩と、表情と同じ優しさしかない声が呼ぶ。その声に急き立てられるようにして、手のひらのなかに熱を吐き出す。
「……っ」
 羞恥心と脱力感とで荒れた呼吸がおさまらないうちに、吐き出された精液に濡れた指が後ろに触れる。周辺をゆっくりと解すように撫でる動きに、びくりと身体が揺れた。
「いやだったら、そう言ってください」
 指をとめて、真面目な顔で折原が言う。
「そうじゃなかったら、やめれません」
「やめなくて、いい」
 考えるよりも先に声が出ていた。本当に無理だったら言う。だから好きにしたらいいと言ったのも本心だった。折原に無理や我慢を強いたくもなかった。
 大丈夫と繰り返すと、表情が和らいだ。
「優しくする」
 折原に限って、疑ったことは一度もなかったけれど。
「大事にする」
「……べつに、女じゃねぇんだから」
「そういうことじゃなくて」
 言い聞かせるように言葉が続く。
「先輩だから」
 理由になっているのかいないのかわからないことを、折原は昔からまっすぐに口にする。
「俺が先輩を好きで、受け入れてくれてうれしいから、大事にしたいだけ」
「……そうか」
「そうなんです。だから」
 口元に、そっと柔らかなキスが降ってくる。
「優しくさせて」
 ――おまえは、いつもそうだろうが。
 いっそ馬鹿かと言いたくなるほどに、俺のことばかりを気遣って。自分ではなく俺を優先して。
 そういうところが好きで、同じくらいにもどかしかった。その目を見つめたまま頷くと、うれしそうに顔がほころぶ。随分とひさしぶりにその顔を見た気がした。
 ローションのぬめりも借りて、指先がなかに入り込んでくる。傷つけまいとする意志を強く感じる慎重な動きが、じれったいほどにゆっくりと馴らしていく。
 途中で何度か、もういいと突っぱねたくなるのを、唇を噛んで耐えた。負担を減らそうと最大限にしてくれていることは、経験がなくても見ていればわかる。
「先輩」
 その声に、宙に浮きかけていた意識が戻っていく。瞳に光る欲望の片鱗に、ぞくりとした。はじめて見る顔だった。
「入れていい?」
 頷いて、態度でも示すように背に腕を回した。過去に触れたどの記憶よりも、ずっとしっかりとした背中だった。もう、子どもじゃない。そんな当たり前のことを、また知る。
 吐息にも似た笑みが耳元に落ちてきて、こめかみに唇が押し付けられる。そしてゆっくりとなかに入ってきた。痛みは少なかったが、圧迫感に小さな声が漏れる。
 そのたびに動きをとめて、呼吸が落ち着くまで待とうとする背に爪を立てた。苦し紛れに訴える。
「っ、も……いい、から、最後まで、……一気に、いけ、って」
 同じ男だ。中途半端にとめられるきつさは知っている。震えた空気に、折原が笑ったのがわかった。
「……いや、先輩だなぁと思って」
 意味を理解するより前に、身体のなかの圧迫感が増した。押し進んでくる質量を馴染ませるために、浅い呼吸を繰り返す。
 異物感を中和するように、萎えていた性器に折原の手が伸びる。やわやわと揉みしだかれると、今までとは違う温度の声が零れ落ちた。羞恥に染まる頬に、声が囁く。「好き」
「ねぇ、先輩。好き」
 すごく好きと子どもみたいに言って、キスで唇を塞ぐ。
「だから、受け入れて」
 その声と同時に、奥まで一息に貫かれた。衝撃に息が詰まる。そのあとにじわじわと充足感が沸き起こった。動きもせずに、折原はただこちらが慣れるのを待っている。落ち着いた呼吸を見計らって、折原が言った。
「ねぇ、今、入ってる」
「いちいち言うな……」
「でも、すごくうれしい」
 明快に告げた折原の手が腰に触れる。その動作に反射で身体が震えた。
「ねぇ、先輩。動いてもいい?」
 熱ぼったい声に覚えたのは、たしかなうれしさだった。
「だから、好きにしたらいいって言ってるだろ」
 気遣わないで好きにしたらいい。何度も言っているのに、律動は穏やかだった。おまえはそれで満足できるのかと頭の片隅で訝しむ。けれど、合間に落ちてくるキスには優しさしかなくて。甘さに疑念も溶かされていく。
 動くたびに再燃する異物感のほうが、快感よりもずっと大きい。それでも、つながっているという事実で心は満たされていく。折原もそうであればいいと思った。首を伸ばしてキスをする。なんだかそうしたかった。
 ふっと幸せそうにほほえんで、折原が応える。そして徐々に律動が激しくなっていく。内臓を突かれるような痛みのなかに、感じたことのなかった熱さが混ざり出す。
 経験したことのない感覚に、たまらず背中に縋りついた。交わすキスの隙間で「先輩」と変わらない呼び名が繰り返される。
 その声に逆らえないと思い知ったのは、もうずっと前のことだった。
 導かれるようにして、身体の奥から快感が引きずり出されていく。ふいに恐ろしくなったのは、その瞬間だった。
 踏み込むつもりのなかったところへ、もろともに落ちていこうとしている。その先に待ち構えるぽっかりとした黒い闇。
 必死に踏ん張っていたこの年月は、なんだったのだろう。そう、どこかで思った。
「っ、先輩」
 逃げようとする身体を押さえて奥を突かれると、苦痛だけではない声が漏れた。
「逃げないで」
 その言葉の意味を理解できないまま、肩口に縋りついた。きっとひどい顔をしている。怖い。恐ろしいのは、もう戻れなくなることなのだろうか。それとも、向こう側に折原を返してやれないと思うことなのだろうか。
 今まで知らなかった快感を覚えることは怖い。今までの関係が壊れることは怖い。最後のギリギリで立っていたところが、すべて崩れ落ちていきそうで恐ろしい。
 一緒に立ち向かうどころか、不幸をもたらすことしかできないのではないか。区切りをつけたはずのことを、本当にそれでよかったのかと身体が叫んでいるようだった。
「――先輩」
 どこまでも落ちていきそうだった思考がとまる。顔を隠したい欲求より、折原を見たい衝動が勝った。
 生理的な涙でぼやけた世界のまんなかに、こんな自分を好きなのだという男がいる。
 かつての後輩で、ずっと焦がれていた相手だった。手を伸ばしてはいけないとかたくなに信じていた相手だった。
 昔から変わらないあたたかい手のひらが頬に触れる。
 いつか。いつかもっと大きくなって、広い世界に飛び立っていくと。その未来に不要な障害はいらないと、そう思っていた。
 ――でも。
「好きです」
 熱をはらんだまっすぐな声に、ずくりとどこかが鈍く痛んだ。
 宥めすかすように唇が目尻に触れる。
「先輩がそばにいてくれたらそれでいいって」
 キスのなかに溶けていきそうな声だった。
「ずっと、そう思ってた」
 本当は、俺もそう思いたかった。呑み込んだのは罪悪感だ。
 縋る指先に力を込める。ふっと吐息が笑った。再開された律動に足が跳ねて、呼吸とも悲鳴ともつかないものが喉を突く。
 漏れそうになる声を噛んで、荒い息を繰り返す。暴れる快感の波の逃し方もわからないまま、背に爪を立てた。痕が残るかもしれないと頭の片隅に残存する理性が告げていた。それとも残したかったのだろうか。なんでもいいから、証のようなものを。
 わからなかった。自分のなかでは、抑え込むのに慣れ切ったはずの独占欲がとぐろを巻いていた。
 自分のものになんてなるわけがないのだから。ずっと一緒にいられるわけがないのだから。だから、手を伸ばすな。欲しがるな。そう言い含め続けていた。
 変わらない響きのままに、大人になった声が先輩と呼ぶ。それだけが命綱のようだった。
 ひとつになる。怯えながらも望んでいた。望みながらも、叶えてはいけないと思っていた。けれど、それでも。
 感情があふれかえるなかで、たったひとつを選ぶ。免罪符にしてはいけないと戒めていた言葉を。
「――好きだ」
 そうだ。ずっと、好きだった。忘れようと念じても、どうにもならないくらいに。それなのに、なんで言葉にすると苦しさも湧くのだろう。
 呼吸の狭間に落ちていきそうな声にしかならなかった。一瞬、身体に触れていた手に痛いくらいの力がこもって、届いたのだと知る。
 返事のかわりに落ちてきたのは、優しい口づけだった。かつて何度も好きだと告げるようにして、繰り返していた幼い秘密。
 それをこうしてまた抱いていることは幸せなのに、背徳感も消えることはなかった。