ひとりで考えれば、頭も少しは冷静になるだろうか。かすかに期待してみたものの、なにも変わりはしなかった。借りた服を着て、リビングのドアを開ける。同じところに折原はいた。となりに腰かけると、片膝をついたまま俯いていた視線が上がる。
「昔からずっと思ってたこと言っていいですか」
唐突な問いかけだった。
「なに」
「先輩って、危機管理能力ないですよね」
「部室のことだったら、それは」
「そのことじゃないです。俺に対してです」
遮った折原の口元に、また自嘲的な笑みが乗る。
「昔からそうですよ。その気がなくても平気で俺とふたりきりになるし、俺の車にも乗るし、部屋にも入れるし、合鍵も渡すし。挙句に回収もしてないのに特になんの対策もしてなかったんでしょ。それで、今もこうして簡単に俺のテリトリーに入る」
――そんなふうに、思ってたのか。
折原の言っているほとんどは四年前のことだ。あのとき俺は、折原が言うようなことを考えもしなかった。だって、折原だ。それだけが、理由にもなっていない理由のすべてだった。
「さっきも似たようなこと言いましたけど。先輩は、俺は先輩の言うことなら聞くって思ってますよね」
「折原」
「まぁ、八割方そのとおりで、そうありたいとも思ってるんですよ、本当に」
だからと折原がはっきりと口にした。
「今なら、やめます」
まともに目と目がぶつかり合って、胸がざわめく。
「聞くのもこれで最後にしますけど。ここから先に進むんだったら、ぜんぶがぜんぶ望むとおりにできるとは、さすがに言えません」
なんで俺じゃなくて、おまえが頭冷やしてんだよ。なんでいつもそうやって、おまえは、自分じゃなくて俺を優先するんだよ。
渦巻く言葉の吐き出し口を見つけるより先に、折原が続けた。
「べつにね、先輩は俺にぜんぶ言わせたって言ってましたけど。その腹いせみたいに、先輩にぜんぶを選んでほしいわけでもないんです」
「でも、それは」
「お互い様だと俺は思ってます、それは本当に。先輩だけが悪いなんて考えたこともない。そもそもふたりのことなのに、どちらか一方が悪いなんてこと、あるわけないでしょう」
いかにも折原らしい、まっすぐな正論だった。ひとりで決めないでください。これは俺たちふたりの問題ですよね。
四年前にも折原が言ったことで、俺が聞く耳を持たなかったことだ。
「苛立ってたのは事実で、ちょっとやってやろうかなとは思いましたけど。やっぱり苦手なんですよね、先輩の困った顔」
苦笑いとしか言いようのない笑い方だった。視線がそっと外れていく。
「困らせたいわけでも、無理させたいわけでもないですし、だから」
「折原」
遮って、呼びかける。
「俺は、自分で選んだ」
手を伸ばすまいとしていたところに、踏み込むと決めた。俺が選んだことだ。
「俺が、こうしたかった」
「先輩」
うっすらとした笑みを浮かべたまま、折原が言った。
「本当に、いいんですか」
「あぁ」
「戻れなくなりますよ。先輩の言う普通にも、正しい道にも」
「わかってる」
「俺はずっとそこにいますけど。先輩は来てくれるんですか、そこに」
正しい道にいることが折原のためだと思っていたかった。それが折原にとって幸せなのだと信じていたかった。
身勝手な感情だとも知っていた。富原には過保護な母親と変わらないと言われた。相手の本質を見ずに、自分の考えを優先させていることも本当はわかっていた。
頷く。続いた声が、なにを考えているのかはわからなかった。
「俺のため?」
折原のためなのだろうか、これは。わからなかった。踏みとどまるべきだったのだろうか。自分のためではなく、折原のために。
すっと視線が逸れていく。
「まぁ、いいか。なんでも」
手を伸ばしたのは、離れていく視線を引き留めたかったからだ。四年前、俺は伸ばさなかった。悔やんでいた。認めたくはなかったけれど。
そうして、今になって必死になっている。
「折原」
視線の距離がほぼゼロになる。触れたのが、どちらが先かはわからなかった。唇に触れるだけの軽いキス。
高校生だったころに、何度か交わした。一度、二度、三度。繰り返すうちに啄むだけだったキスが深くなっていく。その瞬間の、幸せそうな瞳を見るのが好きだった。
古い記憶だ。胸の奥に仕舞い込んでいたものがふわりと浮き上がる。その記憶をなぞることなく、あっさりと唇は離れていった。
あのころよりもずっと深い色を宿した瞳が、慣れたふうにほほえむ。
「俺もシャワー浴びて来ていいですか」
「そのままでいい」
言い縋ったのは反射だった。どこかに行ってほしくないと馬鹿なことを思った。それ以上に、大人にならないでほしかった。感情を押し込めないでほしかった。
過去の自分を棚上げにして、そう願っていた。大人の分別をつけた顔で、諦めたように笑わないでほしかった。
苦笑して、折原が小さく首を傾げた。
「先輩って、彼女さんとかとするときも、あんまりそういうの気にしなかったんですか」
ここでするような話でもないと思ったが、否定する。
「いない」
「え?」
「おまえと離れてから、ずっとつくる気がしなかった」
ひとりもつくらなかったとは言わない。けれど長続きはしなかった。
それももうやめようと思ったのは、大学を卒業する間際、真知ちゃんに疲れた声で告げられたときだった。
本気になる気がないなら付き合わないでよ。一番にする気がないなら受け入れないでよ。
そうやって、ずっと過去と生きていくつもりなんでしょう? 今、近くにいる人間よりそっちのほうが大事なんでしょう?
否定できなかったのだから、それがすべてだ。
「間が良いのか悪いのか、どっちなんでしょうね」
「なにが」
「人がせっかくクールダウンさせようと思ってるのに、そういうことばっかり言うから」
それをさせたくなかったんだとは言えなかった。
「困らせたいわけじゃないって言ってるのに、本当にちっとも俺の言うこと聞かない」
呆れたように笑って、折原がそっと息を吐いた。
「先輩」
その呼びかけは、やっぱり静かだった。
「俺、まだ聞いてない」
「……」
「先輩の返事を、ずっと聞いてない」
淡々と訴えてくる声に、じっと耳を傾ける。言葉が出なかった。
「言ったでしょ。俺は先輩に会いたかったって。だから戻ってきたって」
「……言ってたな」
「先輩は悪かったって言ったけど。俺が本当に先輩を嫌いになってたら、先輩はほっとした?」
そうではない。けれど、そのとおりだ。間違いなく、ほっとした。
「あぁ、これで捨てられるって」
「違う」
否定したくせに、声は頼りなかった。半分は当たっている。違うと言ったのは、罪悪感に押されただけだ。
「俺にはできなかったから、だから」
「先輩が俺を嫌いになれないから、っていう話ですか。それ」
あの日のような激情を秘めた瞳ではない、静かな瞳が確認する。否定しようとはさすがに思えなかった。
「あいかわらず受け身ですよね」
「そう、思う。……悪い」
「いいですよ、怒ってますから。いまさらです」
さらりと笑って、折原が続ける。
「そのかわり、今、ここで答えてください」
好きか嫌いか、それだけじゃないですか。それすら言ってくれないんですか。
そう言った折原の声が忘れられなかった。この四年のあいだ、ずっと。
「そうじゃないと、やりにくいじゃないですか」
嫌いだと言えなかったのは、俺の弱さでずるさだった。そのせいで、折原にいらない負担を与えた。だから伝えに来たはずだった。ちゃんと終わらせるつもりだった。
――それなのに。
「好きじゃないって言いたかった」
「そうですか」
「忘れたかった。なにもなかったことにしたかった」
「でも、できなかったんでしょう?」
確信に満ちた声に、頭を振る。できなかった。
「だったら、いいかげんに認めてくださいよ。先輩にとって、その二文字はそんなに重いんですか」
そんなに怖いですかと言われた気がした。
ゲイだと言われること。
折原の将来に影響を与えること。
いつか、離れていってしまうかもしれないこと。
その怖さのいくつを、折原はなくそうとしてくれただろう。
「……忘れられなかった」
「違うでしょ、そうじゃなくて」
「離れたくない」
「もっと、はっきり言って。先輩の声で」
認めたら最後だと思っていた。
「先輩」
昔から、ずっとだ。その声に呼ばれると、それだけでなんでもいいような心地になった。
けれど、そんなことは許されない。だから、引きずり込まれないように。落ちていかないように。必死で耐えていた。
それに、どれだけの意味があったのだろうか。
「好きだ」
言葉にすると、堰き止めていたすべてがあふれ出しそうだった。
普通に戻れなくなりますよと、折原が告げたときに覚えたものと同種の恐怖。自分がその手を掴むことで、折原が失うものはどれだけあるのだろう。そう考えたら、手を伸ばせるわけがない
それなのに、我慢がきかなかった。
今まで信じていた選択を覆す、悪手だったはずなのに。
「忘れたくて、忘れられなくて。……ずっとなにが正しいのかわからなくて、でも」
耐え切れずに視線がどんどんと下がっていく。手の甲を見つめたまま吐き出した。最善だと思っていたことを。
「おまえが幸せだったら、それでいいって。それがいいって、そう思ってた」
「先輩」
指先が頬に触れる。大きな手だった。その手が俯いていた顔を上向かせる。視界が折原だけに染まる感覚に息が詰まった。
キスをしていると気づいたのは、しばらくしてからだった。身じろぎかけた身体から、力を抜く。
角度を変えながら何度も繰り返されるキスのさなか、先輩と呼ぶ声が木霊する。それしか知らないように、何度も柔らかい声が紡ぐ。
その声に呼ばれてキスをしていたのは、ずっと昔の話だ。
それなのに、あっというまに記憶が流れ込んでくる。子ども同士の戯れの延長線だった軽いキスから始まって、不格好ながら深いものへと変わっていった。熱かった、唇の温度。
けれど、そのどれとも違う。
歯列を割って入り込む舌先に口内を弄られて、声が漏れた。耳のなかで響く水の音と混ざって、羞恥心が煽られる。押し止めようと伸ばしかけた指先を、すんでのところで握った。
あのころはどうしていたのか、わからなかった。お互いになにもかもがはじめてで、お互いしか知らなかった。比べるようなものはなにもなかった。
「おりは――っ、ちょ……、待って、て」
息継ぎの合間に必死で訴える。いつのまにか身体はまたソファーに押し付けられていて、覆いかぶさる顔を見上げた。
――なんで、おまえはそんなに慣れてるふうなんだよ。
この後輩がモテないと思ったことはなかったけれど、遊んでいないと勝手に思っていた。
酸欠になりそうな頭で、胸板を押す。その手を折原が掴んだ。
「……折原」
なにも言われていないのに、逃げないでと乞われた気がした。背筋をなにかが走り抜けていく。
逃げていたのは、俺自身からで、折原からだった。
握りしめていた指先をひらいて、その手と絡める。あまりのぎこちなさに笑いたいのに笑えなかった。手をつないだことも、はじめてだった。
十年。――十年だ。はじめて手を伸ばしたあの夜。こんな未来を想像も望みもしていなかった。
「四年前にも言ったと思うんですけど」
最後にひとつ触れるだけのキスを落として、折原が言った。
「先輩がいないと意味がないんです。俺に幸せになってほしいってそう願ってくれるなら、俺の目線に立ってください」
俺がいなくてもなんの問題もないだろう。何度も俺は言った。自分自身に言い聞かせるようにして。
実生活に問題はなかった。ただ、なにかが足らないと感じる隙間があっただけで。それも、こうして会いさえしなければ、見ないふりでやり過ごせる程度だと思っていた。
「べつに俺は、先輩と幸せしかない道を歩きたいと思ってるわけでもないし」
つないだ手に力がこもる。
「俺は、先輩がいたら、それでもう十分で。どんな道でも生きていけるから。それでも、あんたはそれじゃいやなんだって知ってて。でも」
四年前のあの日と同じような顔で一息に言って、小さく息を吐く。
「それでも俺を選んだなら、俺のとなりにいてくださいよ。俺がなにか言われたとしても、あんたのせいで被る不利益があったとしても。俺のとなりで一緒に戦ってくださいよ」
それは、俺がずっと目を背けていた未来だった。
「俺のためだけじゃなくて、先輩自身のためにも」
俺のためですかと、自嘲した顔がよみがえる。いまさらになってわかった。折原の見る世界には折原のとなりに俺がいるのに、俺の見る世界には折原しかいなかった。
「だから、それがいいんだって。一時の感情でも、俺に流されただけでもないって、そう言ってください。何度でも」
「折原」
「あんただって、怖い怖いって耳を塞ぐだけの子どもじゃないでしょう。ひとりで生きていける、いい大人じゃないですか」
深山にいたころ、この感情もいつか薄れゆくと思おうとしていた。けれど、何年経っても消えなかった。
「好きだ」
あのころよりずっと大人びた顔に向かって、はっきりと口にする。二度目だ。ざらりとした罪悪感が舌に残る。苦みに気がつかないふりで繰り返した。
「ちゃんと好きだ。好きだった。もう、ずっと」
だからと、続きを振り絞る。
「今だけなんて言わないから、おまえも言うな」
一方的に告げて、口づける。何度も繰り返して、深みにはまってしまいたい。どこかで、そう願っていた。
「昔からずっと思ってたこと言っていいですか」
唐突な問いかけだった。
「なに」
「先輩って、危機管理能力ないですよね」
「部室のことだったら、それは」
「そのことじゃないです。俺に対してです」
遮った折原の口元に、また自嘲的な笑みが乗る。
「昔からそうですよ。その気がなくても平気で俺とふたりきりになるし、俺の車にも乗るし、部屋にも入れるし、合鍵も渡すし。挙句に回収もしてないのに特になんの対策もしてなかったんでしょ。それで、今もこうして簡単に俺のテリトリーに入る」
――そんなふうに、思ってたのか。
折原の言っているほとんどは四年前のことだ。あのとき俺は、折原が言うようなことを考えもしなかった。だって、折原だ。それだけが、理由にもなっていない理由のすべてだった。
「さっきも似たようなこと言いましたけど。先輩は、俺は先輩の言うことなら聞くって思ってますよね」
「折原」
「まぁ、八割方そのとおりで、そうありたいとも思ってるんですよ、本当に」
だからと折原がはっきりと口にした。
「今なら、やめます」
まともに目と目がぶつかり合って、胸がざわめく。
「聞くのもこれで最後にしますけど。ここから先に進むんだったら、ぜんぶがぜんぶ望むとおりにできるとは、さすがに言えません」
なんで俺じゃなくて、おまえが頭冷やしてんだよ。なんでいつもそうやって、おまえは、自分じゃなくて俺を優先するんだよ。
渦巻く言葉の吐き出し口を見つけるより先に、折原が続けた。
「べつにね、先輩は俺にぜんぶ言わせたって言ってましたけど。その腹いせみたいに、先輩にぜんぶを選んでほしいわけでもないんです」
「でも、それは」
「お互い様だと俺は思ってます、それは本当に。先輩だけが悪いなんて考えたこともない。そもそもふたりのことなのに、どちらか一方が悪いなんてこと、あるわけないでしょう」
いかにも折原らしい、まっすぐな正論だった。ひとりで決めないでください。これは俺たちふたりの問題ですよね。
四年前にも折原が言ったことで、俺が聞く耳を持たなかったことだ。
「苛立ってたのは事実で、ちょっとやってやろうかなとは思いましたけど。やっぱり苦手なんですよね、先輩の困った顔」
苦笑いとしか言いようのない笑い方だった。視線がそっと外れていく。
「困らせたいわけでも、無理させたいわけでもないですし、だから」
「折原」
遮って、呼びかける。
「俺は、自分で選んだ」
手を伸ばすまいとしていたところに、踏み込むと決めた。俺が選んだことだ。
「俺が、こうしたかった」
「先輩」
うっすらとした笑みを浮かべたまま、折原が言った。
「本当に、いいんですか」
「あぁ」
「戻れなくなりますよ。先輩の言う普通にも、正しい道にも」
「わかってる」
「俺はずっとそこにいますけど。先輩は来てくれるんですか、そこに」
正しい道にいることが折原のためだと思っていたかった。それが折原にとって幸せなのだと信じていたかった。
身勝手な感情だとも知っていた。富原には過保護な母親と変わらないと言われた。相手の本質を見ずに、自分の考えを優先させていることも本当はわかっていた。
頷く。続いた声が、なにを考えているのかはわからなかった。
「俺のため?」
折原のためなのだろうか、これは。わからなかった。踏みとどまるべきだったのだろうか。自分のためではなく、折原のために。
すっと視線が逸れていく。
「まぁ、いいか。なんでも」
手を伸ばしたのは、離れていく視線を引き留めたかったからだ。四年前、俺は伸ばさなかった。悔やんでいた。認めたくはなかったけれど。
そうして、今になって必死になっている。
「折原」
視線の距離がほぼゼロになる。触れたのが、どちらが先かはわからなかった。唇に触れるだけの軽いキス。
高校生だったころに、何度か交わした。一度、二度、三度。繰り返すうちに啄むだけだったキスが深くなっていく。その瞬間の、幸せそうな瞳を見るのが好きだった。
古い記憶だ。胸の奥に仕舞い込んでいたものがふわりと浮き上がる。その記憶をなぞることなく、あっさりと唇は離れていった。
あのころよりもずっと深い色を宿した瞳が、慣れたふうにほほえむ。
「俺もシャワー浴びて来ていいですか」
「そのままでいい」
言い縋ったのは反射だった。どこかに行ってほしくないと馬鹿なことを思った。それ以上に、大人にならないでほしかった。感情を押し込めないでほしかった。
過去の自分を棚上げにして、そう願っていた。大人の分別をつけた顔で、諦めたように笑わないでほしかった。
苦笑して、折原が小さく首を傾げた。
「先輩って、彼女さんとかとするときも、あんまりそういうの気にしなかったんですか」
ここでするような話でもないと思ったが、否定する。
「いない」
「え?」
「おまえと離れてから、ずっとつくる気がしなかった」
ひとりもつくらなかったとは言わない。けれど長続きはしなかった。
それももうやめようと思ったのは、大学を卒業する間際、真知ちゃんに疲れた声で告げられたときだった。
本気になる気がないなら付き合わないでよ。一番にする気がないなら受け入れないでよ。
そうやって、ずっと過去と生きていくつもりなんでしょう? 今、近くにいる人間よりそっちのほうが大事なんでしょう?
否定できなかったのだから、それがすべてだ。
「間が良いのか悪いのか、どっちなんでしょうね」
「なにが」
「人がせっかくクールダウンさせようと思ってるのに、そういうことばっかり言うから」
それをさせたくなかったんだとは言えなかった。
「困らせたいわけじゃないって言ってるのに、本当にちっとも俺の言うこと聞かない」
呆れたように笑って、折原がそっと息を吐いた。
「先輩」
その呼びかけは、やっぱり静かだった。
「俺、まだ聞いてない」
「……」
「先輩の返事を、ずっと聞いてない」
淡々と訴えてくる声に、じっと耳を傾ける。言葉が出なかった。
「言ったでしょ。俺は先輩に会いたかったって。だから戻ってきたって」
「……言ってたな」
「先輩は悪かったって言ったけど。俺が本当に先輩を嫌いになってたら、先輩はほっとした?」
そうではない。けれど、そのとおりだ。間違いなく、ほっとした。
「あぁ、これで捨てられるって」
「違う」
否定したくせに、声は頼りなかった。半分は当たっている。違うと言ったのは、罪悪感に押されただけだ。
「俺にはできなかったから、だから」
「先輩が俺を嫌いになれないから、っていう話ですか。それ」
あの日のような激情を秘めた瞳ではない、静かな瞳が確認する。否定しようとはさすがに思えなかった。
「あいかわらず受け身ですよね」
「そう、思う。……悪い」
「いいですよ、怒ってますから。いまさらです」
さらりと笑って、折原が続ける。
「そのかわり、今、ここで答えてください」
好きか嫌いか、それだけじゃないですか。それすら言ってくれないんですか。
そう言った折原の声が忘れられなかった。この四年のあいだ、ずっと。
「そうじゃないと、やりにくいじゃないですか」
嫌いだと言えなかったのは、俺の弱さでずるさだった。そのせいで、折原にいらない負担を与えた。だから伝えに来たはずだった。ちゃんと終わらせるつもりだった。
――それなのに。
「好きじゃないって言いたかった」
「そうですか」
「忘れたかった。なにもなかったことにしたかった」
「でも、できなかったんでしょう?」
確信に満ちた声に、頭を振る。できなかった。
「だったら、いいかげんに認めてくださいよ。先輩にとって、その二文字はそんなに重いんですか」
そんなに怖いですかと言われた気がした。
ゲイだと言われること。
折原の将来に影響を与えること。
いつか、離れていってしまうかもしれないこと。
その怖さのいくつを、折原はなくそうとしてくれただろう。
「……忘れられなかった」
「違うでしょ、そうじゃなくて」
「離れたくない」
「もっと、はっきり言って。先輩の声で」
認めたら最後だと思っていた。
「先輩」
昔から、ずっとだ。その声に呼ばれると、それだけでなんでもいいような心地になった。
けれど、そんなことは許されない。だから、引きずり込まれないように。落ちていかないように。必死で耐えていた。
それに、どれだけの意味があったのだろうか。
「好きだ」
言葉にすると、堰き止めていたすべてがあふれ出しそうだった。
普通に戻れなくなりますよと、折原が告げたときに覚えたものと同種の恐怖。自分がその手を掴むことで、折原が失うものはどれだけあるのだろう。そう考えたら、手を伸ばせるわけがない
それなのに、我慢がきかなかった。
今まで信じていた選択を覆す、悪手だったはずなのに。
「忘れたくて、忘れられなくて。……ずっとなにが正しいのかわからなくて、でも」
耐え切れずに視線がどんどんと下がっていく。手の甲を見つめたまま吐き出した。最善だと思っていたことを。
「おまえが幸せだったら、それでいいって。それがいいって、そう思ってた」
「先輩」
指先が頬に触れる。大きな手だった。その手が俯いていた顔を上向かせる。視界が折原だけに染まる感覚に息が詰まった。
キスをしていると気づいたのは、しばらくしてからだった。身じろぎかけた身体から、力を抜く。
角度を変えながら何度も繰り返されるキスのさなか、先輩と呼ぶ声が木霊する。それしか知らないように、何度も柔らかい声が紡ぐ。
その声に呼ばれてキスをしていたのは、ずっと昔の話だ。
それなのに、あっというまに記憶が流れ込んでくる。子ども同士の戯れの延長線だった軽いキスから始まって、不格好ながら深いものへと変わっていった。熱かった、唇の温度。
けれど、そのどれとも違う。
歯列を割って入り込む舌先に口内を弄られて、声が漏れた。耳のなかで響く水の音と混ざって、羞恥心が煽られる。押し止めようと伸ばしかけた指先を、すんでのところで握った。
あのころはどうしていたのか、わからなかった。お互いになにもかもがはじめてで、お互いしか知らなかった。比べるようなものはなにもなかった。
「おりは――っ、ちょ……、待って、て」
息継ぎの合間に必死で訴える。いつのまにか身体はまたソファーに押し付けられていて、覆いかぶさる顔を見上げた。
――なんで、おまえはそんなに慣れてるふうなんだよ。
この後輩がモテないと思ったことはなかったけれど、遊んでいないと勝手に思っていた。
酸欠になりそうな頭で、胸板を押す。その手を折原が掴んだ。
「……折原」
なにも言われていないのに、逃げないでと乞われた気がした。背筋をなにかが走り抜けていく。
逃げていたのは、俺自身からで、折原からだった。
握りしめていた指先をひらいて、その手と絡める。あまりのぎこちなさに笑いたいのに笑えなかった。手をつないだことも、はじめてだった。
十年。――十年だ。はじめて手を伸ばしたあの夜。こんな未来を想像も望みもしていなかった。
「四年前にも言ったと思うんですけど」
最後にひとつ触れるだけのキスを落として、折原が言った。
「先輩がいないと意味がないんです。俺に幸せになってほしいってそう願ってくれるなら、俺の目線に立ってください」
俺がいなくてもなんの問題もないだろう。何度も俺は言った。自分自身に言い聞かせるようにして。
実生活に問題はなかった。ただ、なにかが足らないと感じる隙間があっただけで。それも、こうして会いさえしなければ、見ないふりでやり過ごせる程度だと思っていた。
「べつに俺は、先輩と幸せしかない道を歩きたいと思ってるわけでもないし」
つないだ手に力がこもる。
「俺は、先輩がいたら、それでもう十分で。どんな道でも生きていけるから。それでも、あんたはそれじゃいやなんだって知ってて。でも」
四年前のあの日と同じような顔で一息に言って、小さく息を吐く。
「それでも俺を選んだなら、俺のとなりにいてくださいよ。俺がなにか言われたとしても、あんたのせいで被る不利益があったとしても。俺のとなりで一緒に戦ってくださいよ」
それは、俺がずっと目を背けていた未来だった。
「俺のためだけじゃなくて、先輩自身のためにも」
俺のためですかと、自嘲した顔がよみがえる。いまさらになってわかった。折原の見る世界には折原のとなりに俺がいるのに、俺の見る世界には折原しかいなかった。
「だから、それがいいんだって。一時の感情でも、俺に流されただけでもないって、そう言ってください。何度でも」
「折原」
「あんただって、怖い怖いって耳を塞ぐだけの子どもじゃないでしょう。ひとりで生きていける、いい大人じゃないですか」
深山にいたころ、この感情もいつか薄れゆくと思おうとしていた。けれど、何年経っても消えなかった。
「好きだ」
あのころよりずっと大人びた顔に向かって、はっきりと口にする。二度目だ。ざらりとした罪悪感が舌に残る。苦みに気がつかないふりで繰り返した。
「ちゃんと好きだ。好きだった。もう、ずっと」
だからと、続きを振り絞る。
「今だけなんて言わないから、おまえも言うな」
一方的に告げて、口づける。何度も繰り返して、深みにはまってしまいたい。どこかで、そう願っていた。



