「あんまり使ってないんですよね、ここ」
なにもない部屋だと思っていたのがばれたのか、世間話の調子で折原が言った。
「たまに妹が掃除やらなんやらしてくれてるみたいなんですけど。あれは半分以上、ここを使いたいだけですね。合鍵も寄こせって言うから渡したんですけど、なにに使われてることやら」
後輩ではない兄の顔だった。こんなことがなければ見ることもなかった顔。
カウンターキッチンに立つその横顔を眺めながら、妙な感じだなと思った。
四年前に「付き合って」いたときも、こんなふうに時間を過ごしたことはない。折原は、あの合鍵を一度も使わなかった。
「間違いなく俺よりここで生活してますよ、あいつのほうが」
だから、この珈琲もべつに古くないですよ。笑って、ふたりがけのソファーに腰を下ろした。
半身分ほど空けられた距離は気にしないふりで、問いかける。本題を引き延ばすように。
「いくつだっけ」
「え? あぁ、二十一かな。大学生です。楽しい盛りみたいですよ。そんなに連絡も取ってないですけど」
「たまに見に来てたよな、試合」
「覚えてたんですか?」
「覚えてるよ」
昔の記憶だが、覚えている。観客席で熱の入った応援をしていた小さな女の子。その子がもう大学生だと言うのだから、流れた時間は推して知るべきだ。
「ちなみに、先輩はさほど興味のない話かもしれませんが。俺は、べつに親との関係も悪くないですよ。……物理的に距離が離れているからかもしれませんけど」
わずかに言い淀んだあとで、折原が選んだのはそんな言葉だった。膝の上で組んだ手を見つめたまま、息を吐く。
「昔から……、まぁ、深山に入った時点で家も出ていましたし。そのあともクラブの寮で、そのまま海外だったんで。適度な距離感というか。腫れ物扱いというか」
それはうまくいっているうちに入るのか。疑念しか湧かなかったが、俺に言えることはなかった。
折原の父親の顔は覚えていないが、母親の顔はうっすらと覚えている。幼い娘と観戦に来ていた優しそうなまなざし。
俺の勝手だとわかっている。けれど、俺は家族の輪のなかで普通の生活を送ってほしかった。
「まぁ、そんな感じで。俺がゲイだろうがバイだろうが、関係は変わってません。少なくとも表面上は。迷惑はかけたでしょうけど」
「……かもな」
「知ってます? あることないこと記事になってたの。受けません? 俺はちょっと笑いましたけど。ネットで見て」
言葉どおり小さく笑って、「まぁ、でも」と続ける。
「先輩は笑えないか」
手元に落ちていた折原の視線が上がって、目が合った。
「飛び火するんじゃないかって冷や冷やしてましたか? それとも」
怒っているふうでも、呆れているふうでもない。いたって静かな調子だった。
「あまり考えなかったな、それは」
「そうですか」
どこか安心したように響いた相槌に、もう一度繰り返す。
「考えなかった」
そんなふうに思わなかったことは事実だ。自分の心配をする余裕もなかった。この年になって生徒におもしろ半分でネタにされるとは思わなかったが、それもどうでもよかった。
本来であれば、おまえが受けるはずのなかった風評だとは思ったが、それだけだ。
「先輩」
呼び声に、外れかけていた視線を戻す。四年前のことを思い出していた。もうそんなふうに呼ばれることはないと覚悟した。昔からずっと先輩と呼び慕ってきた声が消える。それを寂しいと思ってはならない。
そう言い聞かせて、今日まで来た。すべてを失うつもりだったあの場所で、捨て切れなかった感情を押し込めて、なかったことにして。
だから捨てにきたのだと内心で繰り返す。それだけのことだ。つい一月ほど前の状態に戻るだけだ。もう会わない。そうすれば、日常に忙殺されているうちに忘れていける。忘れられなくても薄らいでいく。
わかっているのに一言目が発せなかった。続いた沈黙に、折原が口元で笑った。
「先輩が話さないなら、俺の話をしましょうか」
「おまえの?」
「そう、俺の」
言葉を切ったあと、はっきりと折原が言った。
「先輩は、俺が先輩の顔を見たくないと思ってるって、そう思ってたんですか」
のぞき込んでくる瞳の色に、一瞬、息が詰まった。
「……富原か」
「あの人、先輩にも甘いけど俺にも甘いから」
具体的な否定も肯定もせず、問い重ねてくる。
「ねぇ、先輩。本当に、そう思ったの」
その声に顔を背けたくなった。
「本当に、先輩は、俺が先輩を嫌いになるって、そう思うの」
――嫌いになりたいって言ったのは、おまえだろうが。
そして、嫌ってくれたらいいと願っていたのは俺だ。自分ではどうにもならないから、おまえに捨ててほしかった。
「悪かったと思ってる」
「それって、富原さんにそう言ったこと? それとも四年前のこと?」
「おまえに、ぜんぶ言わせた」
自分はなにも言わないままに、なかったことにさせようとした。最後の最後で自分を優先して、けじめをつけることができなかった。
そのせいでしこりを残したのなら悪かったと、本当に思っている。
「べつに、そのことについては、俺、怒ってないですよ」
拍子抜けするほどあっさりとした答えだった。
「どちらかというと前者かな。聞いたでしょ? 俺がなんで怒ってるのかわかりますかって」
心当たりが多すぎてわからないと答えたときも、似たような顔をしていた。あまり見たことのない表情だった。そんなふうにして怒るのかとも知った。
四年前のあの夜は、一度もそんな顔を見せなかったくせに。
「そもそもとして、先輩がどう思ってるかは知らないですけど。俺はわざわざ会いたくない人の顔を見に戻ってくるほど悪趣味じゃありません」
「おまえのことをそう思ってたわけじゃ」
「だったら、いいかげん先輩のフィルター越しの俺じゃなくて、俺を見て判断してくださいよ。俺は、先輩に会いたくて戻ってきたんです」
言い切ってから、取り繕うように折原が声のトーンを和らげた。
「もちろんそれだけが理由ではないですけど、いい機会だと思ったのは本当です。俺としては、それなりに覚悟を決めて戻ってきたつもりだったんですけど」
ふっと折原が笑った。
「何年経っても先輩はあいかわらずだし、おまけに斜め上な解釈で卑屈になってるし、そうやって俺のこと考えてるようで考えてないし、挙句にあんな子どもに好き放題させてるし」
「……」
「俺が怒ってる理由、わかりましたか」
まだ言い足りないですけど、とりあえずそのくらいですと言って、折原は口を閉ざした。
俺の答えを待っているのはわかる。けれど、言葉にできるものは少なかった。
「好き放題させてたわけじゃなくて」
すぐに否定できるものは、それしかなかった。決定的な返事を先延ばしに弁明する。
「問題の多いやつではあるんだけど、そこまで馬鹿でもないし、暴力沙汰を起こすわけが」
「そうですか。俺は特に問題のない生徒だったと思いますが、暴力沙汰は起こしましたが」
「……そういえば、そうだったな」
そういえば、どころか、折原が部室に入ってきたときに頭に浮かんだ。そんなことを言えるわけもない。さまよった視線は、自分の膝の上に落ちた。
「そういえば。まぁ、そうですね。そういえばレベルの昔の話ですか」
棘の生えた声に、溜息を呑み込む。答えを間違えたことは悟ったが、なにかはわからなかった。昔から、俺に関することで折原が機嫌を損ねるタイミングがつかめない。
富原はわかりやすくてかわいいだろうと笑っていたが、俺はわからないままだった。
「じゃあ、言い方を変えましょうか」
いやに近くで聞こえた声に、顔を上げる。
「あまりにも警戒心のないあんたに腹が立ちました」
「警戒心って」
「男が男に欲情しないとか、意味のない言い訳はやめてくださいよ。先輩には俺っていう前例があったんですから」
話の軸がずれているのはわかるのに、正し方がわからない。下手な返答をした瞬間に、記憶のなかに引きずり込まれそうだった。
折原の瞳のなかに大きく自分が映っていた。こんなに間近でこの瞳を見るのは、どのくらいぶりだろう。
まっすぐに前を見つめるその目が好ましかった。そのなかに自分がいることはうれしかった。同時に、自分以外が遮断される懸念を覚えると恐ろしくなった。
――だから、逃げたかったんだ、きっと。
逃げられなくなるとわかっていたから。吸い寄せられるように見つめているうちに、視界が反転した。
「それなのに、ほら。こんなふうに隙だらけじゃないですか」
からかう声がすぐ上から落ちてきて、押し倒されていると知った。
「ねぇ、先輩」
指先が輪郭をなぞるように頬に触れる。こんなふうに触れ合ったのは、再会してからはじめてだった。振り解こうと思えばできたはずなのに、動けなかった。
「先輩の言いそうなこと言ってあげましょうか」
「折原」
「かわいい生徒ですもんね。まさかそういう目で見られるとは思わなかったんでしょう。そのあとの言動もどうかとは思いましたけど。それもまぁ、この際いいですよ。腹は立ちますけどね。でも」
言葉を切って、折原が笑う。我慢を重ね過ぎて泣きそうになっていた幼い顔が、なぜか浮かんだ。
「その直後に、自分に好意を持っていると知っている男の家にひとりで来るのはどうなんですか」
「それとこれとは……」
話が違うはずだ。どう言えばいいのかはわからないが違うはずだった。言葉になり切る前に、追い打ちが降ってくる。
「それとも、俺はなにもしないと思ってます? あんたに忠実な後輩だから」
――違う。
反射的に言い返そうとして、できなかった。なにも違わない。俺がずっと甘えていたことは事実だ。認めたくなくて、気がつかないふりを続けていただけで。
「折原」
どうすべきなのかわからないまま、呼びかけていた。少し手を伸ばせば触れそうな距離で、瞳が揺れる。自嘲気味に。
「いやだったら、殴ってください。できますよね、それくらい。そうじゃないなら、合意だって俺がみなします」
ここまで言わせているのは俺だと思った。
好きだった。俺だけを一心に見つめる瞳が好きだった。それはひどい執着で、恋なんてきれいな感情ではないとも思っていた。
だから、捨てなければいけないのだと何度も言い聞かせてきた。
それが互いのためなのだと信じていた。
「先輩」
その声で呼ばれることが好きだった。たまらなく、好きだった。自分だけの特別だと自惚れてもいた。
俺から手を伸ばしたのは、これで二度目だ。ほんの少しだった。ほんの少し伸ばせば、届く。あの瞬間と同じ抗いがたい衝動。
終わらせるつもりだったんじゃないのかと、どこかで自分が叫んでいる。
強いて理由を挙げるなら、折原にこれ以上なにも言わせたくなかった。だから、これも衝動だ。それ以外に表す言葉を、俺は知らない。
指先が襟首を掴む。引き寄せたのは一瞬で、唇が重なったのも一瞬だった。見下ろす顔は、驚いても喜んでもいない。ただ、静かだった。
「知りませんよ、後悔しても」
後悔なら、もうずっとしている。あの日、車中で答えなかったことを。いや、それよりも、ずっと前。あの寮で言わせなかったことを。
あるいは、――あの日。まだなににも染まっていなかったおまえを、戯れに引きずり込もうとしたことを。
「もう、してる。ずっと」
その手を取らなかったことを、となりに立って苦難に立ち向かう選択を取らなかったことを。悔やまなかった日はない。
それが正しかったのだと信じて抑え込んでいただけで。見なかったふりを貫いていただけで。
「だったら」
折原がふっと笑った。あまり見たことがない顔だと思って、すべてを知ったつもりでいる自分に呆れた。
一緒にいなかった時間のほうが、ずっとずっと長いはずなのに。
「いまさらですよね、ぜんぶ」
だから、いいですよねと共犯者の笑みで。落ちていくと思った。
あのころとは違う、あるいは、あのころ望んでいたところへ。
引きずり込みたいとたしかに願った、地の果てまで。
なにもない部屋だと思っていたのがばれたのか、世間話の調子で折原が言った。
「たまに妹が掃除やらなんやらしてくれてるみたいなんですけど。あれは半分以上、ここを使いたいだけですね。合鍵も寄こせって言うから渡したんですけど、なにに使われてることやら」
後輩ではない兄の顔だった。こんなことがなければ見ることもなかった顔。
カウンターキッチンに立つその横顔を眺めながら、妙な感じだなと思った。
四年前に「付き合って」いたときも、こんなふうに時間を過ごしたことはない。折原は、あの合鍵を一度も使わなかった。
「間違いなく俺よりここで生活してますよ、あいつのほうが」
だから、この珈琲もべつに古くないですよ。笑って、ふたりがけのソファーに腰を下ろした。
半身分ほど空けられた距離は気にしないふりで、問いかける。本題を引き延ばすように。
「いくつだっけ」
「え? あぁ、二十一かな。大学生です。楽しい盛りみたいですよ。そんなに連絡も取ってないですけど」
「たまに見に来てたよな、試合」
「覚えてたんですか?」
「覚えてるよ」
昔の記憶だが、覚えている。観客席で熱の入った応援をしていた小さな女の子。その子がもう大学生だと言うのだから、流れた時間は推して知るべきだ。
「ちなみに、先輩はさほど興味のない話かもしれませんが。俺は、べつに親との関係も悪くないですよ。……物理的に距離が離れているからかもしれませんけど」
わずかに言い淀んだあとで、折原が選んだのはそんな言葉だった。膝の上で組んだ手を見つめたまま、息を吐く。
「昔から……、まぁ、深山に入った時点で家も出ていましたし。そのあともクラブの寮で、そのまま海外だったんで。適度な距離感というか。腫れ物扱いというか」
それはうまくいっているうちに入るのか。疑念しか湧かなかったが、俺に言えることはなかった。
折原の父親の顔は覚えていないが、母親の顔はうっすらと覚えている。幼い娘と観戦に来ていた優しそうなまなざし。
俺の勝手だとわかっている。けれど、俺は家族の輪のなかで普通の生活を送ってほしかった。
「まぁ、そんな感じで。俺がゲイだろうがバイだろうが、関係は変わってません。少なくとも表面上は。迷惑はかけたでしょうけど」
「……かもな」
「知ってます? あることないこと記事になってたの。受けません? 俺はちょっと笑いましたけど。ネットで見て」
言葉どおり小さく笑って、「まぁ、でも」と続ける。
「先輩は笑えないか」
手元に落ちていた折原の視線が上がって、目が合った。
「飛び火するんじゃないかって冷や冷やしてましたか? それとも」
怒っているふうでも、呆れているふうでもない。いたって静かな調子だった。
「あまり考えなかったな、それは」
「そうですか」
どこか安心したように響いた相槌に、もう一度繰り返す。
「考えなかった」
そんなふうに思わなかったことは事実だ。自分の心配をする余裕もなかった。この年になって生徒におもしろ半分でネタにされるとは思わなかったが、それもどうでもよかった。
本来であれば、おまえが受けるはずのなかった風評だとは思ったが、それだけだ。
「先輩」
呼び声に、外れかけていた視線を戻す。四年前のことを思い出していた。もうそんなふうに呼ばれることはないと覚悟した。昔からずっと先輩と呼び慕ってきた声が消える。それを寂しいと思ってはならない。
そう言い聞かせて、今日まで来た。すべてを失うつもりだったあの場所で、捨て切れなかった感情を押し込めて、なかったことにして。
だから捨てにきたのだと内心で繰り返す。それだけのことだ。つい一月ほど前の状態に戻るだけだ。もう会わない。そうすれば、日常に忙殺されているうちに忘れていける。忘れられなくても薄らいでいく。
わかっているのに一言目が発せなかった。続いた沈黙に、折原が口元で笑った。
「先輩が話さないなら、俺の話をしましょうか」
「おまえの?」
「そう、俺の」
言葉を切ったあと、はっきりと折原が言った。
「先輩は、俺が先輩の顔を見たくないと思ってるって、そう思ってたんですか」
のぞき込んでくる瞳の色に、一瞬、息が詰まった。
「……富原か」
「あの人、先輩にも甘いけど俺にも甘いから」
具体的な否定も肯定もせず、問い重ねてくる。
「ねぇ、先輩。本当に、そう思ったの」
その声に顔を背けたくなった。
「本当に、先輩は、俺が先輩を嫌いになるって、そう思うの」
――嫌いになりたいって言ったのは、おまえだろうが。
そして、嫌ってくれたらいいと願っていたのは俺だ。自分ではどうにもならないから、おまえに捨ててほしかった。
「悪かったと思ってる」
「それって、富原さんにそう言ったこと? それとも四年前のこと?」
「おまえに、ぜんぶ言わせた」
自分はなにも言わないままに、なかったことにさせようとした。最後の最後で自分を優先して、けじめをつけることができなかった。
そのせいでしこりを残したのなら悪かったと、本当に思っている。
「べつに、そのことについては、俺、怒ってないですよ」
拍子抜けするほどあっさりとした答えだった。
「どちらかというと前者かな。聞いたでしょ? 俺がなんで怒ってるのかわかりますかって」
心当たりが多すぎてわからないと答えたときも、似たような顔をしていた。あまり見たことのない表情だった。そんなふうにして怒るのかとも知った。
四年前のあの夜は、一度もそんな顔を見せなかったくせに。
「そもそもとして、先輩がどう思ってるかは知らないですけど。俺はわざわざ会いたくない人の顔を見に戻ってくるほど悪趣味じゃありません」
「おまえのことをそう思ってたわけじゃ」
「だったら、いいかげん先輩のフィルター越しの俺じゃなくて、俺を見て判断してくださいよ。俺は、先輩に会いたくて戻ってきたんです」
言い切ってから、取り繕うように折原が声のトーンを和らげた。
「もちろんそれだけが理由ではないですけど、いい機会だと思ったのは本当です。俺としては、それなりに覚悟を決めて戻ってきたつもりだったんですけど」
ふっと折原が笑った。
「何年経っても先輩はあいかわらずだし、おまけに斜め上な解釈で卑屈になってるし、そうやって俺のこと考えてるようで考えてないし、挙句にあんな子どもに好き放題させてるし」
「……」
「俺が怒ってる理由、わかりましたか」
まだ言い足りないですけど、とりあえずそのくらいですと言って、折原は口を閉ざした。
俺の答えを待っているのはわかる。けれど、言葉にできるものは少なかった。
「好き放題させてたわけじゃなくて」
すぐに否定できるものは、それしかなかった。決定的な返事を先延ばしに弁明する。
「問題の多いやつではあるんだけど、そこまで馬鹿でもないし、暴力沙汰を起こすわけが」
「そうですか。俺は特に問題のない生徒だったと思いますが、暴力沙汰は起こしましたが」
「……そういえば、そうだったな」
そういえば、どころか、折原が部室に入ってきたときに頭に浮かんだ。そんなことを言えるわけもない。さまよった視線は、自分の膝の上に落ちた。
「そういえば。まぁ、そうですね。そういえばレベルの昔の話ですか」
棘の生えた声に、溜息を呑み込む。答えを間違えたことは悟ったが、なにかはわからなかった。昔から、俺に関することで折原が機嫌を損ねるタイミングがつかめない。
富原はわかりやすくてかわいいだろうと笑っていたが、俺はわからないままだった。
「じゃあ、言い方を変えましょうか」
いやに近くで聞こえた声に、顔を上げる。
「あまりにも警戒心のないあんたに腹が立ちました」
「警戒心って」
「男が男に欲情しないとか、意味のない言い訳はやめてくださいよ。先輩には俺っていう前例があったんですから」
話の軸がずれているのはわかるのに、正し方がわからない。下手な返答をした瞬間に、記憶のなかに引きずり込まれそうだった。
折原の瞳のなかに大きく自分が映っていた。こんなに間近でこの瞳を見るのは、どのくらいぶりだろう。
まっすぐに前を見つめるその目が好ましかった。そのなかに自分がいることはうれしかった。同時に、自分以外が遮断される懸念を覚えると恐ろしくなった。
――だから、逃げたかったんだ、きっと。
逃げられなくなるとわかっていたから。吸い寄せられるように見つめているうちに、視界が反転した。
「それなのに、ほら。こんなふうに隙だらけじゃないですか」
からかう声がすぐ上から落ちてきて、押し倒されていると知った。
「ねぇ、先輩」
指先が輪郭をなぞるように頬に触れる。こんなふうに触れ合ったのは、再会してからはじめてだった。振り解こうと思えばできたはずなのに、動けなかった。
「先輩の言いそうなこと言ってあげましょうか」
「折原」
「かわいい生徒ですもんね。まさかそういう目で見られるとは思わなかったんでしょう。そのあとの言動もどうかとは思いましたけど。それもまぁ、この際いいですよ。腹は立ちますけどね。でも」
言葉を切って、折原が笑う。我慢を重ね過ぎて泣きそうになっていた幼い顔が、なぜか浮かんだ。
「その直後に、自分に好意を持っていると知っている男の家にひとりで来るのはどうなんですか」
「それとこれとは……」
話が違うはずだ。どう言えばいいのかはわからないが違うはずだった。言葉になり切る前に、追い打ちが降ってくる。
「それとも、俺はなにもしないと思ってます? あんたに忠実な後輩だから」
――違う。
反射的に言い返そうとして、できなかった。なにも違わない。俺がずっと甘えていたことは事実だ。認めたくなくて、気がつかないふりを続けていただけで。
「折原」
どうすべきなのかわからないまま、呼びかけていた。少し手を伸ばせば触れそうな距離で、瞳が揺れる。自嘲気味に。
「いやだったら、殴ってください。できますよね、それくらい。そうじゃないなら、合意だって俺がみなします」
ここまで言わせているのは俺だと思った。
好きだった。俺だけを一心に見つめる瞳が好きだった。それはひどい執着で、恋なんてきれいな感情ではないとも思っていた。
だから、捨てなければいけないのだと何度も言い聞かせてきた。
それが互いのためなのだと信じていた。
「先輩」
その声で呼ばれることが好きだった。たまらなく、好きだった。自分だけの特別だと自惚れてもいた。
俺から手を伸ばしたのは、これで二度目だ。ほんの少しだった。ほんの少し伸ばせば、届く。あの瞬間と同じ抗いがたい衝動。
終わらせるつもりだったんじゃないのかと、どこかで自分が叫んでいる。
強いて理由を挙げるなら、折原にこれ以上なにも言わせたくなかった。だから、これも衝動だ。それ以外に表す言葉を、俺は知らない。
指先が襟首を掴む。引き寄せたのは一瞬で、唇が重なったのも一瞬だった。見下ろす顔は、驚いても喜んでもいない。ただ、静かだった。
「知りませんよ、後悔しても」
後悔なら、もうずっとしている。あの日、車中で答えなかったことを。いや、それよりも、ずっと前。あの寮で言わせなかったことを。
あるいは、――あの日。まだなににも染まっていなかったおまえを、戯れに引きずり込もうとしたことを。
「もう、してる。ずっと」
その手を取らなかったことを、となりに立って苦難に立ち向かう選択を取らなかったことを。悔やまなかった日はない。
それが正しかったのだと信じて抑え込んでいただけで。見なかったふりを貫いていただけで。
「だったら」
折原がふっと笑った。あまり見たことがない顔だと思って、すべてを知ったつもりでいる自分に呆れた。
一緒にいなかった時間のほうが、ずっとずっと長いはずなのに。
「いまさらですよね、ぜんぶ」
だから、いいですよねと共犯者の笑みで。落ちていくと思った。
あのころとは違う、あるいは、あのころ望んでいたところへ。
引きずり込みたいとたしかに願った、地の果てまで。



