いつもの帰宅時間より早いと言っても、外に出るともう夜は深かった。
部活動に励んでいたころも、グラウンドを離れるのはいつも暗い時間だった。その当時によくとなりを歩いていたのも折原だったが、流れる沈黙は心地のいいものだった。今の落ち着かないものとは違う。
その沈黙を破ったのは、あのころよりも幾分かトーンの低い静かな声だった。
「いつももっと遅いんですか」
「今年に入ってから余分に面倒見てる分、もう少し遅いな。なにもなくてもこのくらいになることもあるけど」
世間話の調子で、俺も応じた。妙な感じだった。サッカー部のグラウンドの脇を通って、寮の前を通り過ぎる。かつて何度も一緒に歩いた道だ。
「大変なんですね、先生も。俺はそんなに先輩に面倒見てもらった記憶はありませんけど」
「富原みたいなこと言うなよ。それに、生徒と後輩は違うだろ」
それでも、あのころの俺が一番よく面倒を見ていたのは折原だったと思うけれど。それもそうですねと折原が小さく笑った。
「でも」
「なに」
「生徒と後輩が違うなら、もっと明確に線を引いてほしいくらいですけど」
「折原」
ちくちくと刺さり続ける棘に、足が止まる。
「おまえな、言いたいことがあるなら、言え。ここで」
おまえにそんなことを言われる必要はないと思いたかった。はるか昔の記憶があふれそうになる。
あの日。最初に俺が手を伸ばした、あの日。折原は似たことを言っていた。その意味も理解しないままに、腹が立ったと子どものようなことを。
それを否定してほしかった。あのときとは違うと知りたかった。
何度も歩いた道だ。同じ時間を刻んだ場所だ。けれど、違う。戻りたいと願うはずもなければ、できるわけもない。
「いいんですか。俺が言って」
あのころとは違う大人の顔で折原が笑った。当たり前だ。ここにいたころから、もう五年以上の月日が流れている。はじめて顔を合わせたときからで言えば、十年だ。
十年。言葉にすると途方もない長さだった。
その長さにか、自分からはなにも選ばない卑劣さへの罪悪感からか。言葉にできないものがざわりと胸を撫でていく。
「困るのは、先輩だと思いますけど」
おまえはいつになったら引導を渡してやれるんだ。富原の声が背を押すように頭に響いた。
引導。俺がずっと言葉にできなかったもの。折原はそれを待っていたのだろうか。言わなかった俺を疎んでいたのだろうか。
いつも俺は、なにも言わずに逃げていた。折原が突き放してくれることだけを望んで。
まさに今もそうだ。
「送る」
前言を撤回して、息を吐く。十年という月日の長さに眩暈がしそうだった。俺はその十年のあいだ、なにをしていたのだろう。
「ちょっとでいい。時間くれ」
区切りはつけなければならない。今度こそ、俺自身の言葉で。やっと心の底から思うことができた。
この決心をするのに、これだけの時間がかかるのか。それだけ捨てたくなかったのか。騒ぐなにかを無視して、努めて静かに口にする。今度の沈黙は短かった。
「もちろん、いいですよ」
暗がりのなかで、折原が笑った。
「俺が先輩のお願いを聞かなかったことなんて、本当に数えるほどしかなかったでしょう」
おまえが譲りたくないこと以外だったら、だろう。
昔の思考で反射のように思い浮かんだ。けれど、違ったのかもしれない。折原が俺を優先しなかったことなんて、なかったのかもしれない。
それが当たり前になりすぎて、気づいていなかっただけで。見えていないといい。そう思いながら視線を外して頷く。
「そうかもな」
あの夜も、身勝手な俺の言い分を、最終的に折原は通した。
折原の言葉を聞こうとしなかったのは俺だ。考えて決めたはずの最善を覆されたくなかったから。それが折原にとっても一番いいのだと信じて疑おうともしなかった。
車中は、ほとんどお互い喋らなかった。昔から俺は口数が多いほうではない。折原も気を使って喋っているときを除けば、そう多くはなかった。
ただとなりにいるだけで満足だと思えていたのは、もうずっと昔の話だ。社会も将来も漠然としか見えていなかった、子どもだからという理由だけで成り立つ世界にいたころの話。
「そういえば」
本当にふと思い出したように折原が言った。淡々とした声。
「俺、先輩に合鍵返してませんでしたよね。退去するとき怒られませんでした?」
顔は見えない。
「あぁ」
前方を見据えたまま応える。本当に、そういえば、だ。そんなこともあった。
「鍵の付け替えで五千円払った」
なんだと一拍置いて折原が小さく笑った。
「そんなもんですか」
「そんなもんだ」
そんなもの。その言葉を心のなかで繰り返す。浮かびそうになったのは、なんの変哲もない鍵を受け取って、うれしそうにしていた顔だった。残像を打ち消す。
もう、終わったことだ。それもこれも、ぜんぶ。
「来客者用の駐車場あるんで、そこ使ってください」
目的地が近づいてきたところで、折原の説明に頷いてウインカーを出す。このあたりに来たのは、折原を送った日以来、二度目だった。
駐車スペースにとめたところで、折原が問いかける。
「先輩も降りるんで、よかったんですよね」
「……おまえがいいなら」
わずかの間のあと、折原がまた笑った。呆れたように。
「あいかわらず、ずるい言い方しますね。先輩」
四年前にも言われたなと思った。今と同じように車中だった。
――なんでなんだろうな、本当に。
俺がそういう人間だとわかっているくせに、いまだに先輩と慕うように呼ぶ。それが体育会系の上下関係の成れの果てだったとしても。
「話がしたいって言ったのは、先輩じゃないですか」
部活動に励んでいたころも、グラウンドを離れるのはいつも暗い時間だった。その当時によくとなりを歩いていたのも折原だったが、流れる沈黙は心地のいいものだった。今の落ち着かないものとは違う。
その沈黙を破ったのは、あのころよりも幾分かトーンの低い静かな声だった。
「いつももっと遅いんですか」
「今年に入ってから余分に面倒見てる分、もう少し遅いな。なにもなくてもこのくらいになることもあるけど」
世間話の調子で、俺も応じた。妙な感じだった。サッカー部のグラウンドの脇を通って、寮の前を通り過ぎる。かつて何度も一緒に歩いた道だ。
「大変なんですね、先生も。俺はそんなに先輩に面倒見てもらった記憶はありませんけど」
「富原みたいなこと言うなよ。それに、生徒と後輩は違うだろ」
それでも、あのころの俺が一番よく面倒を見ていたのは折原だったと思うけれど。それもそうですねと折原が小さく笑った。
「でも」
「なに」
「生徒と後輩が違うなら、もっと明確に線を引いてほしいくらいですけど」
「折原」
ちくちくと刺さり続ける棘に、足が止まる。
「おまえな、言いたいことがあるなら、言え。ここで」
おまえにそんなことを言われる必要はないと思いたかった。はるか昔の記憶があふれそうになる。
あの日。最初に俺が手を伸ばした、あの日。折原は似たことを言っていた。その意味も理解しないままに、腹が立ったと子どものようなことを。
それを否定してほしかった。あのときとは違うと知りたかった。
何度も歩いた道だ。同じ時間を刻んだ場所だ。けれど、違う。戻りたいと願うはずもなければ、できるわけもない。
「いいんですか。俺が言って」
あのころとは違う大人の顔で折原が笑った。当たり前だ。ここにいたころから、もう五年以上の月日が流れている。はじめて顔を合わせたときからで言えば、十年だ。
十年。言葉にすると途方もない長さだった。
その長さにか、自分からはなにも選ばない卑劣さへの罪悪感からか。言葉にできないものがざわりと胸を撫でていく。
「困るのは、先輩だと思いますけど」
おまえはいつになったら引導を渡してやれるんだ。富原の声が背を押すように頭に響いた。
引導。俺がずっと言葉にできなかったもの。折原はそれを待っていたのだろうか。言わなかった俺を疎んでいたのだろうか。
いつも俺は、なにも言わずに逃げていた。折原が突き放してくれることだけを望んで。
まさに今もそうだ。
「送る」
前言を撤回して、息を吐く。十年という月日の長さに眩暈がしそうだった。俺はその十年のあいだ、なにをしていたのだろう。
「ちょっとでいい。時間くれ」
区切りはつけなければならない。今度こそ、俺自身の言葉で。やっと心の底から思うことができた。
この決心をするのに、これだけの時間がかかるのか。それだけ捨てたくなかったのか。騒ぐなにかを無視して、努めて静かに口にする。今度の沈黙は短かった。
「もちろん、いいですよ」
暗がりのなかで、折原が笑った。
「俺が先輩のお願いを聞かなかったことなんて、本当に数えるほどしかなかったでしょう」
おまえが譲りたくないこと以外だったら、だろう。
昔の思考で反射のように思い浮かんだ。けれど、違ったのかもしれない。折原が俺を優先しなかったことなんて、なかったのかもしれない。
それが当たり前になりすぎて、気づいていなかっただけで。見えていないといい。そう思いながら視線を外して頷く。
「そうかもな」
あの夜も、身勝手な俺の言い分を、最終的に折原は通した。
折原の言葉を聞こうとしなかったのは俺だ。考えて決めたはずの最善を覆されたくなかったから。それが折原にとっても一番いいのだと信じて疑おうともしなかった。
車中は、ほとんどお互い喋らなかった。昔から俺は口数が多いほうではない。折原も気を使って喋っているときを除けば、そう多くはなかった。
ただとなりにいるだけで満足だと思えていたのは、もうずっと昔の話だ。社会も将来も漠然としか見えていなかった、子どもだからという理由だけで成り立つ世界にいたころの話。
「そういえば」
本当にふと思い出したように折原が言った。淡々とした声。
「俺、先輩に合鍵返してませんでしたよね。退去するとき怒られませんでした?」
顔は見えない。
「あぁ」
前方を見据えたまま応える。本当に、そういえば、だ。そんなこともあった。
「鍵の付け替えで五千円払った」
なんだと一拍置いて折原が小さく笑った。
「そんなもんですか」
「そんなもんだ」
そんなもの。その言葉を心のなかで繰り返す。浮かびそうになったのは、なんの変哲もない鍵を受け取って、うれしそうにしていた顔だった。残像を打ち消す。
もう、終わったことだ。それもこれも、ぜんぶ。
「来客者用の駐車場あるんで、そこ使ってください」
目的地が近づいてきたところで、折原の説明に頷いてウインカーを出す。このあたりに来たのは、折原を送った日以来、二度目だった。
駐車スペースにとめたところで、折原が問いかける。
「先輩も降りるんで、よかったんですよね」
「……おまえがいいなら」
わずかの間のあと、折原がまた笑った。呆れたように。
「あいかわらず、ずるい言い方しますね。先輩」
四年前にも言われたなと思った。今と同じように車中だった。
――なんでなんだろうな、本当に。
俺がそういう人間だとわかっているくせに、いまだに先輩と慕うように呼ぶ。それが体育会系の上下関係の成れの果てだったとしても。
「話がしたいって言ったのは、先輩じゃないですか」



