夢の続きの話をしよう(下)【期間限定再録】

「時枝が言ってたぞ。佐倉は見つけてほしいときは、わかりやすい場所にいるって」
 そのわかりやすい場所にいた問題児が、部室のドアを開けたこちらを一瞥する。けれどすぐに視線は手元の雑誌に戻っていった。
「先生ってさ、けっこう素直だよね」
 読んでいるのかいないのか。ページを繰る指先は、いかにも手持ち無沙汰な風情だ。壁にもたれたまま黙っていると、ふっと笑う。
「見つけなきゃよかったって顔してる」
「悪かったな、来たのが時枝じゃなくて」
「誰もそんなこと言ってないし。っつか、暇なの? そのうちやめるだろうって思ってたのに、あいかわらず寮にも来るし」
「……そんなわけないだろうが」
 家に帰ってもすることはないと監督には言ったが、することがなかろうが、待っていてくれる相手がいなかろうが、帰れるものなら早く帰りたいに決まっている。
「そもそもな。おまえが真面目に授業やらなんやら受けてれば、こっちも面倒なことは言わないし、おまえも言われないですむんだよ」
 偽らざる本心だったのだが、気のない相槌しか返ってこなかった。積極的に部活に出ろと言う気にはならないが、見なかったふりで外にも出れない。
「佐倉、その調子で峰元先生泣かしたんだって?」
 妥協案で持ち出した説教に、「あぁ」と小さく肩が揺れる。
「人聞きの悪い。質問しただけなのに」
「質問?」
「クソつまんねぇ古典の文章読まされて、この男はどんな気持ちだったでしょうかって、またクソつまんねぇこと聞かれて」
「そりゃ、おまえ、古典なんだからしかたないだろ」 
 つまるもつまらないも、そういう科目だ。俺も好きではなかったが、そういう問題ではない。
「先生は彼女いるの? そういうとき、どういう気持ち? 俺、この文章読んでもぜんぜん愛とか恋とか想像できないって」
「小学生か」
「その小学生みたいな質問で顔真っ赤にして言葉に詰まるんだから、先生に問題があるでしょ」
「真面目なんだよ、あの人は」
 想像していたよりもはるかに馬鹿馬鹿しかった原因に、声が呆れた。佐倉に問題がないとは言わないが、その倍は向こうに問題がある。叱る気がないとわかったのか、佐倉が笑い声を立てた。
「だいたい、あの人、俺にビビってんのがまるわかりでおもしろいんだよね。いじめたくなるっていうか」
「ビビるわけないだろ。教師が生徒に」
「そうかなぁ。あの人、いつもめちゃくちゃ腰が引けてるけど、俺に対して」
 なんとなく想像ができてしまった。相性が悪いんだろうと投げやりに評していたのは、この問題児の担任だったが。吐くまいと思っていた溜息が零れ落ちる。
「峰元先生にも多少の問題はあるとしても、おまえの素行不良が原因の大部分だからな。部活も出ないし、寮も抜け出すし。――最近はさすがにしてないだろうな?」
 言葉にするとにわかに不安になって問いただす。もう少しでインターハイの地区予選が始まるのだ。その時期になにかあれば洒落にならない。
「ばれなきゃしてないのと一緒でしょ」
「佐倉、おまえなぁ」
 今も暑いなか、練習している部員の不憫さに反応が尖る。
「じゃあ、先生が相手してくれる?」
「は?」
「俺が抜け出すのも、部活に出ないのも困るんでしょ」
「出るも出ないも最終的にはおまえの勝手だ。今みたいに中途半端だと、監督もチームメイトも困るとは思うけどな」
 ようやく顔が上がったと思ったら、なにを言っているのか。諭しはしたが、うんざりとした調子が滲んでいたかもしれない。
「先生がそうやって、あんまり俺を部活に行かせる気がないのって」
「なんだ」
「あれが来てるから?」
「だから」
「俺が先生の言うところの敬意のない真似っていうの? それを本人の前でしたら、先生がいや?」
 あれとかそういう言い方をするんじゃないと、注意しようとした声が途切れた。
「その顔、図星でしょ」
 おもしろそうに笑って、佐倉が続ける。
「聞いたことあったんだよね。くだらない噂だなって思ってたんだけど。実際に見て、案外、本当だったのかなって」
 噂という単語に思い浮かんだのは、いつかの昼休みだった。そのくらい好きに言っていればいいと思ったのも事実だ。
「このあいだも、なんか睨まれたし」
「おまえの態度が目に余ったんだろ」
 あの後輩がさしてかかわりのない在校生を睨むとも思えないので、誇張されている気はするが。
「あぁ、まぁ、目に余ったのかもね」
 あっさりと頷いて、佐倉が雑誌を持ち上げた。ずっと部室にあったからか、いやに黄ばんだ表紙だった。
「知ってる? 先生。こういうところって古い雑誌とかも置きっぱなしだからおもしろいよね」
 ぱらぱらと捲りながら、佐倉は笑っていた。
「ほら、これ。いつのだ。あぁ、もう八年前なのか。ちょっと角ぼろくなってるけど、ぜんぜん読める。インターハイベスト四に、選手権優勝? すごいね。さすが最強世代」
「……佐倉」
「なかよしだったんだ、佐野先輩は」
「佐倉」
「そういうこと言わないのは、やましいから? それとも、妬んでるから?」
 挑発したくてたまらないという雰囲気に、静かに息を吐く。
「逆に聞くけど。なんで俺本人の実績でもないものを、生徒に自慢しなきゃならねぇんだ」
 羨んでいたとか、妬んでいたとか。そんな感情は、もうずっと昔に捨てた。佐倉くらいの年のころは燻ぶらせていたかもしれないが、今となってはどうとも思わない。
「なんの意味もないだろ」
「じゃあ、あの噂は? 本当だった?」
 佐倉の言う「噂」は、水倉たちの軽口とは違うのかもしれない。疑念は湧いたが、問い詰めようとは思わなかった。
 自分たちを知る人間が、あの報道を見たときになにを考えたかは知るよしもない。けれど、おもしろ半分に想像されてもおかしくはなかった。幸いというべきか、富原を筆頭に親しくしていた同期たちは、なにも言わなかったし、態度も変えなかった。
 だから、それでよかった。そもそもとして自分がなにかを言われることが恐ろしかったわけではない。
「そんなわけないだろ。もし仮にそうだったとしても、おまえには関係のない話だ」
「関係はまったくないけど、ちょっと興味はあって」
「興味?」
「どうやって先生みたいな普通の男が、あれをその気にさせたのかなって」
 予想の斜め上を突き抜けたそれに、無言になる。最近の若い人間の考えることは、本当に意味がわからない。
「時枝も懐いてるし。俺にはそのよさがわからないから、なんでなのかなって」
「時枝、時枝って。おまえ、それだけあいつのことが気になるなら、もうちょっとあいつの言うこと聞いてやれよ」
 勝手に当て馬にされているようで、頭が痛くなってきた。
「まぁ、べつになんでもいいけど。というか、おまえ、部活も行かないなら寮に戻って勉強しろよ。赤点出すな」
 馬鹿らしくなってきて、おざなりに話を切り上げる。もう十分に、連れ出す努力をするという義理は果たした。
「あと、その雑誌の束も。いつまでも置きっぱなしにしてないで、どっかのタイミングで廃棄しろよ」
 なんでまだ残っているんだとは思うが、捨てづらかったのかもしれない。先輩が載っている雑誌ほどゴミに出しづらいものもないだろう。
 あのころから折原は、さまざまなメディアに取り上げられていた。いちいちどんなことを言っていたのかなんて覚えていないし、見てもいない。
 本人が、言ったことは書かれないし、言っていないことばかりが書かれると、ぼやいていたのだ。ろくなものではないのだから、捨ててなんの問題もない。
 はいはいと、かわいくない返事ひとつで佐倉が立ち上がった。ロッカーの上に積まれた雑誌の山のなかに器用に戻して、向かってくる。
 たしかにでかいはでかいなとどうでもいいことを思う。小柄な峰元先生が怖がるのもわからなくはない。共感はできないが。
「おい」
「なに?」
「なに、じゃねぇよ。なんで人の目の前に突っ立ってんだ。寮に戻るなら戻れ、部活に行くなら行け。言っただろ」
 ドアを開けて出て行けばいいものを、なぜか至近距離で立ち止まった問題児を見上げる。やっぱり意味がわからない。
「だって、俺も言ったじゃん」
「は?」
「相手してって」
 意味がわからないの上限を今度こそ突き抜けた。人を食った笑みを浮かべる佐倉に、低く繰り返す。
「相手して?」
「そう。相手。いいでしょ? べつに。先生は俺のこと怖くないんだよね。それとも、昔もここでそういうことしてた?」
 そういうことというものがなにを指しているのか。じわじわと思考が追いついていく。次に沸いたのは怒りに近かった。
「おまえは俺をそんなに怒らせたいのか」
「どうだろ。怒るのって図星だから? だったらちょっと聞いてみたいかも」
 意に介さない態度で嘲って、佐倉が顔のすぐ横に手をついた。
「どうやってしてたの?」
 馬鹿にした囁きに、苛立ちを呑み込んで瞬く。誰にも言うはずのなかった領域に、土足で踏み込まれた嫌悪感が渦巻いていた。
「いいな。寮のなかで発散させてくれる相手がいた人は」
「おまえ、ふざけるのも大概にしろよ」
 そんな関係じゃなかったとは、口が裂けても言えない。けれど、なにも知らない子どもに非難されるものでもない。
 御し切れなかった腹立ちのままに押し返そうとして、動かない胸板に愕然とした。折原だったら簡単に離れる。それは、あいつが無理強いをしないからだ。いつも俺を優先するからだ。知っていたつもりで、いつしか当たり前になっていた。
 ここにいたころも、あいつがプロになって再会してからも、ずっと。俺がなにをしても言っても、折原は変わらなかった。
 ――先輩って、俺がひどいことをするわけがないって高を括ってるでしょう。
 そう静かに笑っていた顔は、四年前の記憶のなかのものだ。別れを押し付けたときの記憶。
 ――でも、そうですよ。好きだから大切にしたいし、ひどいこともしたくないし、言いたくないんです。
 なんで、このタイミングで思い出すのだろう。やるせなくほほえんだ横顔も、最後の最後に気遣っていつもどおりを演じようとした顔も。
「そんな本気にならなくてもいいじゃん。これで俺が満足して真面目になったら、先生も楽になるよ?」
「なにを学生の当たり前を取引材料にしようとしてるんだ、おまえは」
 あんまりと言えばあんまりな内容に、つい憮然とつっこんでしまった。無言で見下ろしていた佐倉が首を傾げる。
「そういうとこ?」
「は? なにが?」
「だから、そういう鈍いところがいいの? それとも気の強いとこがいいの?」
「なんの話だ、それは」
「だから、いいところ探しの話だったんだけど。うーん、やっぱりよくわかんないな」
「……わかんなくてけっこうだから、退け」
 脱力しそうになりながら、もう一度目の前の身体を押す。上背はあっても、まだ高校生の薄さの残るそれだ。ふいに記憶の底を刺激されそうになって、「退け」と繰り返す。ここで触れ合ったことのあるぬくもりは、もっと優しいものだった。
 佐倉がいかにも面倒そうな溜息を吐いた。かわいげのかけらもない態度だが、これで厄介ごとから解放される。気を抜いた瞬間に、押し返していた手をとられた。なんだと思っているうちに、壁に押し付けられる。
「おい、なんなんだ。おまえは本当に」
「え、でも、だって、女の子にしたらまた面倒なことになるし」
「でもだってじゃねぇよ、教師にしても面倒なことになるに決まってるだろうが」
「泣きつくの? 先生が? 誰に」
 さも意外そうに問われて、言葉に詰まる。
「監督? まぁ、監督、先生のことかわいがってるもんね。成果の出てたころの教え子だから。それとも、あれ?」
「だから!」
 あれじゃないって言ってるだろうがと、声を荒らげかけたタイミングでドアが開いた。
「なにしてるんですか?」
 冷め切った声に、ぎこちなく視線を動かす。声音どおりの冷たい面持ちの後輩が、ドアを背に立っていた。
「声、思い切り外まで聞こえてましたけど」
「……折原」
「なにをやってるのか、聞いてもいいですか。先輩」
 ――怒ってる。
 なにがとはわからない上に声を荒らげているわけでもないが、地雷を踏んだことだけは理解した。
 昔から折原はあまり怒らない。腹の立つことがあっても、表に出さないだけかもしれないが。少なくとも俺は、折原が怒ったところをほとんど見たことがない。四年前のあのときさえ、折原は怒りの感情を発露させなかった。
「さすがに校内暴力は、監督も甘い顔しないと思うけど」
 答えない俺から的を変えて、いかにもOBらしいことを言っているが、その声は疑いようもなく怒っている。
 ――そういえば、こいつが明確に切れてたのって……。
 よみがえりそうになった古い記憶に、焦って佐倉を押しやった。余計なことを言う前に追い出さないと、また面倒なことになる。
「おまえ、もう行け」
「えー」
「えー、じゃねぇよ。部活でも寮でもどっちでもいいから、もう帰れ」
 ふてぶてしい態度をあらためようともしない問題児の背を押して、折原の脇をすり抜けさせる。なにも言わなかった折原に、ほっとできたのも一瞬だけだった。数歩進んだところで佐倉が振り返る。
「ねぇ、先生とどういう関係?」
 その顔に浮かんでいたのは、いつもどおりの人を小馬鹿にした笑みだった。咎めるより先に、不機嫌そうな声が答えた。
「先輩」
 その回答に、思わず折原を見上げていた。視線は合わないまま、声だけが続く。
「俺の」
 自分で聞いたくせに反応しない佐倉に、その声がゆっくり畳みかける。
「お世話になった俺の先輩だけど。それがどうかした?」
「もう、おまえ帰れ」
 となりから急かすのが精一杯だった。それ以外になにをどう言えばいいのかわからなかった。無言のまま肩をすくめた佐倉がくるりと背を向けて歩き出す。その背が見えなくなったところで、ドアに手をかけた。
「まさか先輩まで、そのままどこかに消えたりしませんよね」
 あわよくばを見越した声かけに、無言でドアを閉じる。逃げたかったわけではないが、気詰まりであることは事実だ。どうしていいかわからないまま、となりをあおぎ見る。
「それで? なにやってたんですか、先輩」
 呆れ切った顔と声で再度問われて、声を呑む。なにをやっていたのだろうとの自覚があるだけに、なんとも言いがたい。
「本当に先輩の声って、よく響きますよね。まぁ、結局それも俺が気にしてるからなんでしょうけど」
「その、べつに」
「先輩」
 あからさまに吐かれた溜息に、言い訳が途切れる。
「世のなかの人間みんながみんな、俺みたいにあんたの言うこと聞くわけじゃないんですから」
 まさしく少し前に思っていたことだった。言いあてられるときまりが悪い。けれど同時に、おまえに責められることでもないと思った。
「おまえだって、俺の言うことぜんぶ聞くわけじゃないだろ」
「主張したい部分がそことか。本当に馬鹿ですよね。馬鹿というか……いや、馬鹿ですね。馬鹿だ」
「悪かったな、馬鹿で」
「そうですね、馬鹿でも実害がないならどうでもいいですけど。そうじゃないならどうかと思いますよ」
「実害って」
「ありませんか、実害」
 淡々と詰められていく感覚が息苦しくて、逃げ出したくなる。
「あったように見えましたけどね、俺は」
「……そもそも、なんで、おまえがこんなところにいるんだよ」
 矛先を逸らすように口にすると、折原が眉を上げた。
「来たら悪かったですか?」
「誰もそうは言ってないだろ」
 そうは言わないが、部室になんて用事がなければ来ないだろうし、折原が足を運ぶ用事なんてないだろう。
「癖みたいなもんですよ」
「癖?」
「昔から、あんたが近くにいると目が追うんです。そう言うと気持ち悪いかもしれませんけど、目が行くんだからしかたないじゃないですか。それで、一向に戻ってこないから気になったんです。それだけ」
「……」
「べつに無理に反応してくれなくていいですけど。なにをやってたのか説明できない状況を許すのはどうかと思いますよ、俺」
 不機嫌そうな声をわずかに和らげて、折原が続ける。
「先生としても、そうじゃないんですか。それこそ俺が言うようなことでもないと思いますけど」
「それは、まぁ」
 わかっていると口のなかで呟く。なにがどうしてああなったのかはわからないが、自分の対応に問題があったのだろうとも。
「でも、問題はないというか。大丈夫だから」
「大丈夫、ですか」
 トーンの下がった声に、気に障ることを言ったらしいとはわかったが、原因はやはりわからなかった。
「本当に変わらないですよね、先輩は」
 苛立った口調に思い出したのは、この学園で再会してすぐのことだった。あのときも、そのあとの車中でも、変わってないと折原は言った。
「変わらないですよね、昔からずっと。そう思い知るたびに勝手にどこかでほっとして、同じくらい苛々します」
「折原、あのな」
「それも俺の勝手と言えば勝手ですけど」
 呼びかけを遮って、折原が笑った。自嘲を含んだそれに、言おうとしていた言葉が消える。
「でも、今日は最初に会ったときから、俺にしては腹を立てていたのも事実です。先輩が気づいていたかは知りませんが」
「そうじゃないかとは思ってたけど」
「そうですか」
「正直、理由は心当たりが多すぎてわからない」
 言い切ると、折原がまた小さく笑った。
「なんでそうやって、変なところだけ正直なんですか。だからいやだ」
 俺が折原に対して正直だったことなんてあっただろうか。いつも嘘ばかりで、矛盾ばかりで。自分を守ってばかりだった。
「まぁ、いいですけど」
 それ以上を追及せずに、折原が切り上げる。何度も繰り返してきたことを、またしていると思った。
 俺が黙って、折原は諦める以外の選択肢を失う。そんな発展性のないことを、ずっと続けていた。
「ここでするような話でもないですから」
「折原、おまえも……」
「言われなくても戻りますよ。でも」
 嘆息して、折原がドアを開けた。入り込んできた光がいやに眩しい。
「とりあえず、監督には話しますからね、俺は」
「ちょっと待て、折原。それは」
「ちょっと待ってほしいような事態になってるから、そう言ってるつもりなんですが」
 振り返った顔は笑っていたが、目は笑っていなかった。
 引く気がないことは十二分に伝わってきて、説得するつもりだった言葉を換える。
「俺が説明するから」
「そうですか。どちらにせよ俺は同席しますから。適当なこと言ってお茶を濁さないでくださいよ」
 さも当然と折原が続けて、ドアを閉める。
「まさかそんなこと先輩はしないとは思いますけど。俺を置いて逃げて帰ったりしないでくださいね」
 ひとり取り残されるかたちになった部室で、たまらず頭を抱えてしまった。なんでこうなっているのかと悩みたい反面、変わっていないからだろうかと思ってしまう。
 俺が学生としてここにいたころと、変わらないから。年ばかり重ねたところで、内面はなにも成長していないから。
 溜息を押し殺して、外に出る。部活動が終わるまでにすますつもりだった事務仕事は終わらせてしまおうと決めて。外は変わらない晴天で、グラウンドからは元気のいい声が響いていた。
 あの当時の自分はなにを考えていたのだろう。なにを考えて、深みに手を伸ばそうとしていたのだろう。
 最初に間違いのラインを踏み越えようとしたのは俺だ。
 まだなにも知らなかった後輩を唆して、引きずり込んだ。
 自分にはない才能が羨ましかったのかもしれない。自分に向けられるまっすぐな瞳が眩しかったのかもしれない。
 理由なんていくらでも思いつく。けれど、どう取り繕っても無意味だ。あれは、ただの衝動だった。
 気になって、もっと知りたくて、自分だけでいっぱいにしたくて、手を伸ばした。
 同時に恐ろしさを思い知った。これは駄目だと悟りもした。今まで積み上げてきたすべてをぶち壊す、そんな激情だと気がついた。
 だから、蓋をすることを選んだのだ。零れ落ちないように。ギリギリのバランスで保たれていた現状を崩してしまわないように。
 俺は、それが間違っていたとはどうしても思いたくない。