「なぁ、佐野」
通話を終える直前に、どこか笑いを含んだ声で富原が言った。
「耳が痛いとは思うが、まぁ聞け。俺はな、ある意味でおまえのことをすごいと思ってるんだ」
聞きたくはなかった。けれどさすがに電話を切ることはできなくて、続きを待つ。比喩ではなく判決を待つ気分だった。
「おまえ、折原に嫌われているようなことを言っていたが、そうじゃないだろう」
そんなことはないと否定するより先に、確信した声が続く。
「なにがあってもあいつは自分のことを好きだと、ずっとおまえのことを特別に思っていると。そう思い込んでいるだろう」
ブラインドの隙間から差し込む光が、横縞の影を問題集につくりだしている。古典に英文法。それぞれの教科担当から拝借したものだ。やつの担任から事情を聞き及んでいたのか、大変ねぇとの生ぬるい笑みもセットだった。
赤点を回避させてくれたらいいからと、定期テストの範囲も教授されたが、問題は本人にやる気が生じるかの一点に尽きている。
――今日も練習に出るのかあやしいしな。いや、もう出ないなら出ないでいいんだけど。
せっかくの好天だとか。思い切り一日を使える土曜日だとか。そういった好条件の前に、今日は。
今日、か。
浮かんだ名前を頭から追いやって、ページを繰る。誰もいないのをいいことに、頬杖をついたまま、欠伸を噛み殺した。
なにをやっているんだろうと思うのは自分に対してだ。監督でもなければコーチでもない。こんなふうに休日の朝から学校に出てくる必要はない。
それなのに、こうしてひとり準備室にこもって、受け持ちでもない生徒の面倒を見るために時間を割いている。そんな手厚い対応を好む「いい教師」になりたかったわけでもない。なんとなく職種のひとつとして選んだ道だった。
深山を受けたのも、ちょうどタイミングよく専任の募集があって、出身者だから有利だろうと踏んだだけ。
ずっとそう思おうとしていた。けれど、心の奥底で戻ってきたいと願っていたのだろうか。
仲間たちと過ごした、記憶のなかの場所に。
――四年前のあのときも、おまえは同じようなことを言っていたぞ。もし繰り返すつもりなら、さすがにやめろと、俺はそう言う。
――俺はおまえとは同期だし、おまけに寮の部屋も一緒だったし。そういう意味では、あの時期のほとんどをおまえと一緒に過ごしたわけで。
――仲間意識は当然として、兄弟に近いというか、いらないお節介を焼きたくなるというか。折原もかわいい後輩だが、それでもずっと、おまえ寄りの立場で見てきたつもりだったが。
――その俺からしても、あいつに同情したくなるし。なんならかわりに謝りたいぐらいだぞ、俺は。
数日前に富原に言われた台詞が、ふとした折にこうして勝手に再生される。そしてそのたびに頭を抱えたくなる。
わかってるよ、ぜんぶ。おまえに延々と諭されなくても。俺が悪いってことくらい。わかっているから、合わせる顔もないと思っていたし、できることなら会いたくないとも思って――。
「――先輩?」
頭上から落ちてきた声に、肘がずるりと滑った。顔面を打ち付けはしなかったが、派手な音を立てて問題集が二冊とも机の下に滑り落ちていく。
拾うという行為すら思いつかないまま、ぎこちなくふりあおぐ。かつての後輩が、目を瞬かせて立っていた。
「うわ、さすがに傷つきますよ。その反応」
「いや……」
そりゃ誰だって、予想外の人間がいきなり現れたらびっくりするだろう。続けようとした言い訳を、うやむやに呑み込む。
「誰もこんなところでなにもしませんって」
さらりと反応に困ることを言いながら、折原が後方のドアを視線で示す。
「というか、一応、声かけましたからね、俺。無言でノックもなしに入ってきてないですよ」
「そこを疑ってはないけど」
ゆっくりと呼吸を整えて、頷く。佐倉が例外なだけで、深山の寮生は良くも悪くも体育会系の人間らしく育つ。あの当時の寮の部屋ならいざ知らず、今ここでそんなことはしないだろう。
「でも、なんで」
「ちょっと早く着き過ぎちゃって。そうしたら監督が、もう先輩は来てるって言うもので。断るのもおかしいじゃないですか。あの人、高校のころの俺と先輩を知ってるんだから。そんなわけで、許可証もらって懐かしい校内を歩いてきたんです」
つっこむ余地のひとつもない理由だった。言葉の節々に棘を感じた気もするが、言えた義理はない。
首から提げた許可証を提示した折原から視線を外して、足元に手を伸ばす。
「寮は改装があったって聞きましたけど、校内は変わらないですね。まぁ、俺らがいたころから設備よかったですもんね。これ以上、金のかけようもないか」
「改装ってなったら、折原のところに寄付金の依頼がいくだろ」
「それもそうか。いいですけどね、ぜんぜん。使うあても残す先もないし」
伸ばしかけた指先がとまった。見えていなかっただろうに、折原が笑う。
「あ。今、先輩、俺の寂しい老後、想像したでしょ」
おまえは本当に後悔しないんだなと。念押した富原の声が、耳の奥で響いた。
「安心してください。俺は寂しくないんで」
「……そうか」
もし、あいつが違う誰かの手を取ったとしても、同じことを言えるんだな。
おしはかるように、あのころを知る旧友は言った。
折原が女性と結婚して、子どもをもうけて。それが幸せだと、おまえは古風なことを言っていたが、あいつはそれを選ばないぞ。おまえとどうにかならなかったとしても。
あいつ自身が言っていただろう。そういった意味で好きになるのは同性だけだと。
言い聞かせる調子で続いた言葉に、宙に浮いていたなにかの質量が急激に増した。
あいつがおまえを見限って、ほかの男を選んでもいいと。そういうことなんだな。
あぁ、そうかと思った。
なんで俺は、その未来を想像しようとしなかったのだろう。俺さえいなければ「普通」に戻ると傲慢に思い込んでいた。
「俺が口出すような話じゃなかったな」
悪いと一言付け足したのは、ほとんど無意識だった。あ、やばい。折れてる。開いた状態で落ちた問題集は、数ページにまたがって被害が発生していた。なにに対してかわからない溜息を漏らしたときだった。
「折原?」
手元のページにかかる影が濃くなって、顔を上げる。先ほどよりもずっと距離が近い。机の縁と肘掛けに手をついた折原と目が合った。
「古典? 英語? なんですか、これ」
その声に、強張りかけた肩から力が抜ける。のぞき込んでいるのは参考書だ。そうだ。昔から折原は、誰に対しても距離が近かった。
「あぁ、今、教えてて」
「先輩、数学じゃなかったでしたっけ。古典とか現文とか面倒くさいから嫌いだって言ってませんでした?」
「よく覚えてるな、そんなこと」
他愛ない昔話に小さく笑って、紙面に視線を落とす。純粋に懐かしいと感じるものも自分のなかに残っていたらしい。
「俺にもたまに教えてくれたじゃないですか。気が向いたときだけだったんでしょうけど。勉強」
「今も、まぁそれだな。覚えてるかどうかわかんねぇけど、練習態度に問題あるのがいただろ。そいつが卒業も危ういらしくて」
「さすがに覚えてますよ。なかなかのインパクトでしたから」
憮然とした声に、昔はいなかっただろうなと内心で苦笑する。今日もいたとしても、似たような態度だろうが。
「でも、それって」
「ん?」
「わざわざ先輩がしないといけないんですか?」
「まぁ、……一応、顧問だしな」
わざわざしないといけないことでは絶対にない。その自覚が口調を鈍らせた。
「顧問、ですか」
「そんな顔しなくてもいいだろ。悪かったな、似合わないことやってて」
「べつに、そうは言ってないですけど」
納得がいかないというか、不満そうというか。俺の言うところの「そんな顔」を器用にひっこめて折原が笑う。
「そうやってジャージだと、あんまり生徒と変わらないですね」
「悪かったな」
監督にも着任してすぐに散々笑われた。気にしているわけではないが、教師の威厳とやらは、三年目になっても生まれてこない。
「悪くはないですけど。当たり前の話で、筋肉は落ちますしね。そういう意味ではあのころより細くなったし」
あいつは。あのころという単語に触発されたように、富原の言葉がまた浮かんだ。
あいつはどんなかたちであれ、おまえの返事が欲しいと思っているだけなんじゃないのか。
それのどこが悪いのか、俺にはそれこそわからないな。
「あいかわらず、あんまり焼けてないんですね」
そんなどうでもいいような話も覚えているのか。そう思ってしまった。尖っていると感じていた声音まで、懐かしさを帯びると柔らかく耳に響く。
これが違う誰かに向く日がくるのだろうか。それとも、もうすでにそうなっているのだろうか。それを嫌だと願った矛盾は、かつて捨てたはずだったのに。
「折原」
ほとんど衝動だった。その証拠に、続く言葉が出てこない。折原はなにも言わなかった。続きを待つように注がれる視線に、より一層言葉に詰まる。
あのころとは違う。十分に思い知ったつもりだった。それなのに、その瞳だけは昔から少しも変わらない。認識した瞬間に思考が停止した気がした。そして、じわじわと理解が追いついていく。正しかったのだ。
富原の言うことが正しい。折原はいつまでも俺を好きなのだと、どこかで信じていた。俺のことなんて嫌いになっているだろうと思う心の奥底で、そんな馬鹿みたいなことを。
言わなければならないと思うのに、言葉がなにも出ない。沈黙を破ったのは、控えめなノックの音だった。
「折原」
呪縛から解けたように呼びかけが喉を突いた。少し離れろ。続けようとしたのとほぼ同時にドアが開く。
入ってきた時枝と、折原の背中越しに目が合った。
「失礼しま……、失礼しました」
ぽかんとしていた顔が驚きに染まったと思ったら、ドアを閉めようとする。
「閉めなくていい」
このあいだは、そういう勘違いも妙な噂も失礼だって言ってただろうが。うんざりと呼び戻すと、またドアが開いた。落ち着かない様子の時枝に、溜息ひとつで折原の肩を押す。なにをしていたわけでもない。
あっさりと距離を取って、折原が声をかける。
「サッカー部の子?」
「そう、今の部長。時枝、どうした?」
入り口にたたずんでいるのを手招くと、時枝がぺこりと頭を下げた。
「部長の子か。たしかに富原さんにちょっと似てるかも」
「富原さんって、富原選手ですか?」
「そうそう、その富原さん。俺の一期上で先輩の同期なんだけどね、監督がそんなふうなことを言ってたから。あの人もずっと部長だったからなぁ」
「そうなんですか」
「先輩から聞かないの? そういう話」
「あ、先生、あんまりそういう話、しないんで」
気遣われているような居た堪れなさに、口をはさむ。
「同期って言っても何年も前の話だからな。べつに特別に親しくしてたわけでもないし」
「またそうやって必要もない嘘を吐く。隠すようなことでもないのに」
否定したそばから否定されて、閉口する。そのあいだにも愛想のいい声は、教え子に好き放題に過去を教えていた。
「特別になかよしだったよ、先輩と富原さん。この前も、富原さん俺と飲んでたのに、いきなりこの人に電話してたし。おかげで三十分くらい放置されたからね、俺」
「マジっすか」
「マジ、マジ。どんな話してたのかは知らないけど」
あの夜の話なのだろうか、それは。含みのある言い方は、俺に向けられているに違いなかった。溜息まじりに話を切り上げにかかる。
「時枝は時枝だよ。ポジションも同じだし、性格的にもいかにも部長ってタイプだから似てる部分はあるけど。べつの人間だからな」
それはそうだけどと素直に応じた時枝とは対照的に、もうひとつの視線はやっぱりなんだか棘がある。
「……なんだよ?」
「いえ、なんでも」
にこりとほほえんだ顔にも含みがあるように見えるのは、罪悪感のなせる業なのか。
富原が折原にあの話を聞かせたとは思えないが、昔からこの後輩は耳聡く勘がいい。察しがついていても、なんら不思議はなかった。
持ったままになっていた問題集を閉じて、机上に重ねる。もう十五分ほどで部活の始まる時間だ。
「時枝」
「そういえば知ってる?」
おまえ、折原を呼びに来たんじゃなかったのかと続けるつもりだった台詞が、折原の声と重なる。
「なんですか?」
大先輩を相手にしているわりには力の抜けた楽しそうな声だった。あいかわらず人の懐に入るのがうまい。
――まぁ、いいか。少しくらい。たまにはこういう時間があっても。
「この先生の現役時代のあだ名」
「おい」
「あだ名?」
「そう、あだ名。深山の女王様ってやつ。主に他校からですけどね、言われてたの。ねぇ、先輩」
「おい、折原」
前言撤回。なにもよくはなかった。嘘だろと言わんばかりの時枝の視線は無視して、声のトーンを落とす。俺だって好きで言われていたわけじゃない。
「会場で指差されてたの見たときは、ちょっと笑ったけど」
「原因はおまえだろうが。おまえが雑誌のインタビューで適当なことばっかり言うから、他校のやつらがおもしろがったんだ」
「はは、よく覚えてますね、先輩。ね、事実だったでしょ」
折原ともう一度呼ぶと、ようやく視線が合った。その瞳がかすかに笑う。
「そうやって偉そうにしてるほうが、まだ先輩らしくていいですよ。変に気を使われても困るんで、俺も」
「……」
「この人ね、案外と建前とかばっかり気にするから、有名選手になった後輩が凱旋してくると、どう対応したらいいか悩むらしいよ。過去のことは棚に上げて」
あてつけとしか思えないそれに、小さく息を吐く。
「時枝」
「はい?」
「佐倉は今日、出てる?」
「え、いや、……捕まえ損ねましたけど。学内にはいるっぽいんですけど、出る気ないんじゃないですかね。出る気があったら、わりと見つけやすいところにいるから」
「なにそれ、小学生みたい。佐倉くんって、あれでしょ。あの怖いもの知らずな感じの」
「たぶん、そいつです。やっぱり目立ちますか、あいつ」
「うん、まぁ。俺もここにいたころはギャラリーの声がうるさいって思うことはあったけど。さすがに教師に向かってボールを蹴り飛ばそうっていう発想は持たなかったなって」
「べつに俺に向かって蹴ったわけじゃないだろ」
時枝が尋ねた意味合いから、あえて外した回答をしてやっただけかもしれないが、そう評されると据わりが悪い。
「時枝。佐倉は俺が探してから行くから、監督にも言っといて」
「先生が?」
「探すだけだけどな。だから、これも一緒に連れていって」
「あ、ひどい。四年ぶりに会った後輩をこれとか言う」
「おまえが昔みたいな扱いがいいって言ったんだろうが」
高校生だったころの自分がどんなふうだったかなんて、もはやよくわからない。それでも折原が望むなら、近づけてやりたいとは思う。せめて、そのくらいは。
どうせ、少しのあいだなんだ。そう言い聞かせる。こうして日本にいるのがイレギュラーなだけで、また元の世界に帰っていく。俺が選ぶものなど、なにもない。
「そうでしたね。先輩はそうでないと落ち着かなくて。妙にしおらしい顔されると、もう本当に違和感がすごくて」
「……悪かったな」
早く行けと視線で告げると、時枝が苦笑いでドアを引いた。
ドアが閉まる音に一息つきかけた途端に、また開く。言い忘れでもあったのかと視線を向けると、いたのは生徒ではなかった。どうしたと声をかけるより先に、折原がほほえむ。
「ちなみに、先輩」
「なんだ」
「これ、嫌味ですよ?」
言われなくてもわかってるに決まってるだろうが。言葉を呑み込んで、小さく手を振る。追いやるように。
「とっとと行け。あんまり監督を待たせるなよ、有名選手様」
そうしますとの笑いを含んだ声を最後に、気配が遠のいていく。
ようやくひとりになった空間で、ふっと息を吐いた。なにも考えたくないのが本音だが、探すと言った手前、動かざるを得ない。
校舎から一歩外に出ると、眩しい太陽の光が降り注いだ。初夏には早いというのに、肌を射る日差しはきつい。
――昔はこのくらい、ぜんぜん平気だと思ってたのにな。
練習は始まっているらしく、グラウンドでは部員たちがボールを追って走っていた。その脇には監督と話している折原の姿がある。
変わらないなと思った。変わっているはずなのに。あのころとはなにもかもが。
運動をしなくなれば筋力が落ちるのもあっというまだったけれど、同時に体力も落ちていく。そうして徐々に徐々に、身体はサッカーから離れていった。
なのに、感情のほうはそうはいかなかった。
張り付きそうになる視線を外して、部室棟に足を向ける。
あいつ、案外、部室にいること多いんですよね。練習が始まると誰もいなくなるから。それを見計らって入り込んでるみたいで。
内外から佐倉を連れ戻す担当と認識されている苦労性が、いつだったか言っていたことだ。さきほどの言葉とあわせれば、答えは出る。
――待ってるんだろうな、結局。時枝が自分を優先して迎えにくるのを。
あるいは、部活に出る口実を待っているのかもしれない。面倒くさい子どもだと呆れたくなるのを押し止める。
俺がここに学生としていたころ、そんな面倒なチームメイトはいなかった。仮にいたとしても、時枝のように面倒は見なかったはずだ。
少し前に監督に問われた。もし俺たちの時代に佐倉がいたら、どういうふうに接していたかと。答えたとおりで、俺はなにもしなかったと思う。理由は簡単だ。佐倉は、折原ではない。
面倒見なんてよくはない。公平でもなんでもない。俺は相手が折原だったから、自分の意思で手を伸ばしていた。見る必要のない面倒を見ていた。それだけのことだった。
通話を終える直前に、どこか笑いを含んだ声で富原が言った。
「耳が痛いとは思うが、まぁ聞け。俺はな、ある意味でおまえのことをすごいと思ってるんだ」
聞きたくはなかった。けれどさすがに電話を切ることはできなくて、続きを待つ。比喩ではなく判決を待つ気分だった。
「おまえ、折原に嫌われているようなことを言っていたが、そうじゃないだろう」
そんなことはないと否定するより先に、確信した声が続く。
「なにがあってもあいつは自分のことを好きだと、ずっとおまえのことを特別に思っていると。そう思い込んでいるだろう」
ブラインドの隙間から差し込む光が、横縞の影を問題集につくりだしている。古典に英文法。それぞれの教科担当から拝借したものだ。やつの担任から事情を聞き及んでいたのか、大変ねぇとの生ぬるい笑みもセットだった。
赤点を回避させてくれたらいいからと、定期テストの範囲も教授されたが、問題は本人にやる気が生じるかの一点に尽きている。
――今日も練習に出るのかあやしいしな。いや、もう出ないなら出ないでいいんだけど。
せっかくの好天だとか。思い切り一日を使える土曜日だとか。そういった好条件の前に、今日は。
今日、か。
浮かんだ名前を頭から追いやって、ページを繰る。誰もいないのをいいことに、頬杖をついたまま、欠伸を噛み殺した。
なにをやっているんだろうと思うのは自分に対してだ。監督でもなければコーチでもない。こんなふうに休日の朝から学校に出てくる必要はない。
それなのに、こうしてひとり準備室にこもって、受け持ちでもない生徒の面倒を見るために時間を割いている。そんな手厚い対応を好む「いい教師」になりたかったわけでもない。なんとなく職種のひとつとして選んだ道だった。
深山を受けたのも、ちょうどタイミングよく専任の募集があって、出身者だから有利だろうと踏んだだけ。
ずっとそう思おうとしていた。けれど、心の奥底で戻ってきたいと願っていたのだろうか。
仲間たちと過ごした、記憶のなかの場所に。
――四年前のあのときも、おまえは同じようなことを言っていたぞ。もし繰り返すつもりなら、さすがにやめろと、俺はそう言う。
――俺はおまえとは同期だし、おまけに寮の部屋も一緒だったし。そういう意味では、あの時期のほとんどをおまえと一緒に過ごしたわけで。
――仲間意識は当然として、兄弟に近いというか、いらないお節介を焼きたくなるというか。折原もかわいい後輩だが、それでもずっと、おまえ寄りの立場で見てきたつもりだったが。
――その俺からしても、あいつに同情したくなるし。なんならかわりに謝りたいぐらいだぞ、俺は。
数日前に富原に言われた台詞が、ふとした折にこうして勝手に再生される。そしてそのたびに頭を抱えたくなる。
わかってるよ、ぜんぶ。おまえに延々と諭されなくても。俺が悪いってことくらい。わかっているから、合わせる顔もないと思っていたし、できることなら会いたくないとも思って――。
「――先輩?」
頭上から落ちてきた声に、肘がずるりと滑った。顔面を打ち付けはしなかったが、派手な音を立てて問題集が二冊とも机の下に滑り落ちていく。
拾うという行為すら思いつかないまま、ぎこちなくふりあおぐ。かつての後輩が、目を瞬かせて立っていた。
「うわ、さすがに傷つきますよ。その反応」
「いや……」
そりゃ誰だって、予想外の人間がいきなり現れたらびっくりするだろう。続けようとした言い訳を、うやむやに呑み込む。
「誰もこんなところでなにもしませんって」
さらりと反応に困ることを言いながら、折原が後方のドアを視線で示す。
「というか、一応、声かけましたからね、俺。無言でノックもなしに入ってきてないですよ」
「そこを疑ってはないけど」
ゆっくりと呼吸を整えて、頷く。佐倉が例外なだけで、深山の寮生は良くも悪くも体育会系の人間らしく育つ。あの当時の寮の部屋ならいざ知らず、今ここでそんなことはしないだろう。
「でも、なんで」
「ちょっと早く着き過ぎちゃって。そうしたら監督が、もう先輩は来てるって言うもので。断るのもおかしいじゃないですか。あの人、高校のころの俺と先輩を知ってるんだから。そんなわけで、許可証もらって懐かしい校内を歩いてきたんです」
つっこむ余地のひとつもない理由だった。言葉の節々に棘を感じた気もするが、言えた義理はない。
首から提げた許可証を提示した折原から視線を外して、足元に手を伸ばす。
「寮は改装があったって聞きましたけど、校内は変わらないですね。まぁ、俺らがいたころから設備よかったですもんね。これ以上、金のかけようもないか」
「改装ってなったら、折原のところに寄付金の依頼がいくだろ」
「それもそうか。いいですけどね、ぜんぜん。使うあても残す先もないし」
伸ばしかけた指先がとまった。見えていなかっただろうに、折原が笑う。
「あ。今、先輩、俺の寂しい老後、想像したでしょ」
おまえは本当に後悔しないんだなと。念押した富原の声が、耳の奥で響いた。
「安心してください。俺は寂しくないんで」
「……そうか」
もし、あいつが違う誰かの手を取ったとしても、同じことを言えるんだな。
おしはかるように、あのころを知る旧友は言った。
折原が女性と結婚して、子どもをもうけて。それが幸せだと、おまえは古風なことを言っていたが、あいつはそれを選ばないぞ。おまえとどうにかならなかったとしても。
あいつ自身が言っていただろう。そういった意味で好きになるのは同性だけだと。
言い聞かせる調子で続いた言葉に、宙に浮いていたなにかの質量が急激に増した。
あいつがおまえを見限って、ほかの男を選んでもいいと。そういうことなんだな。
あぁ、そうかと思った。
なんで俺は、その未来を想像しようとしなかったのだろう。俺さえいなければ「普通」に戻ると傲慢に思い込んでいた。
「俺が口出すような話じゃなかったな」
悪いと一言付け足したのは、ほとんど無意識だった。あ、やばい。折れてる。開いた状態で落ちた問題集は、数ページにまたがって被害が発生していた。なにに対してかわからない溜息を漏らしたときだった。
「折原?」
手元のページにかかる影が濃くなって、顔を上げる。先ほどよりもずっと距離が近い。机の縁と肘掛けに手をついた折原と目が合った。
「古典? 英語? なんですか、これ」
その声に、強張りかけた肩から力が抜ける。のぞき込んでいるのは参考書だ。そうだ。昔から折原は、誰に対しても距離が近かった。
「あぁ、今、教えてて」
「先輩、数学じゃなかったでしたっけ。古典とか現文とか面倒くさいから嫌いだって言ってませんでした?」
「よく覚えてるな、そんなこと」
他愛ない昔話に小さく笑って、紙面に視線を落とす。純粋に懐かしいと感じるものも自分のなかに残っていたらしい。
「俺にもたまに教えてくれたじゃないですか。気が向いたときだけだったんでしょうけど。勉強」
「今も、まぁそれだな。覚えてるかどうかわかんねぇけど、練習態度に問題あるのがいただろ。そいつが卒業も危ういらしくて」
「さすがに覚えてますよ。なかなかのインパクトでしたから」
憮然とした声に、昔はいなかっただろうなと内心で苦笑する。今日もいたとしても、似たような態度だろうが。
「でも、それって」
「ん?」
「わざわざ先輩がしないといけないんですか?」
「まぁ、……一応、顧問だしな」
わざわざしないといけないことでは絶対にない。その自覚が口調を鈍らせた。
「顧問、ですか」
「そんな顔しなくてもいいだろ。悪かったな、似合わないことやってて」
「べつに、そうは言ってないですけど」
納得がいかないというか、不満そうというか。俺の言うところの「そんな顔」を器用にひっこめて折原が笑う。
「そうやってジャージだと、あんまり生徒と変わらないですね」
「悪かったな」
監督にも着任してすぐに散々笑われた。気にしているわけではないが、教師の威厳とやらは、三年目になっても生まれてこない。
「悪くはないですけど。当たり前の話で、筋肉は落ちますしね。そういう意味ではあのころより細くなったし」
あいつは。あのころという単語に触発されたように、富原の言葉がまた浮かんだ。
あいつはどんなかたちであれ、おまえの返事が欲しいと思っているだけなんじゃないのか。
それのどこが悪いのか、俺にはそれこそわからないな。
「あいかわらず、あんまり焼けてないんですね」
そんなどうでもいいような話も覚えているのか。そう思ってしまった。尖っていると感じていた声音まで、懐かしさを帯びると柔らかく耳に響く。
これが違う誰かに向く日がくるのだろうか。それとも、もうすでにそうなっているのだろうか。それを嫌だと願った矛盾は、かつて捨てたはずだったのに。
「折原」
ほとんど衝動だった。その証拠に、続く言葉が出てこない。折原はなにも言わなかった。続きを待つように注がれる視線に、より一層言葉に詰まる。
あのころとは違う。十分に思い知ったつもりだった。それなのに、その瞳だけは昔から少しも変わらない。認識した瞬間に思考が停止した気がした。そして、じわじわと理解が追いついていく。正しかったのだ。
富原の言うことが正しい。折原はいつまでも俺を好きなのだと、どこかで信じていた。俺のことなんて嫌いになっているだろうと思う心の奥底で、そんな馬鹿みたいなことを。
言わなければならないと思うのに、言葉がなにも出ない。沈黙を破ったのは、控えめなノックの音だった。
「折原」
呪縛から解けたように呼びかけが喉を突いた。少し離れろ。続けようとしたのとほぼ同時にドアが開く。
入ってきた時枝と、折原の背中越しに目が合った。
「失礼しま……、失礼しました」
ぽかんとしていた顔が驚きに染まったと思ったら、ドアを閉めようとする。
「閉めなくていい」
このあいだは、そういう勘違いも妙な噂も失礼だって言ってただろうが。うんざりと呼び戻すと、またドアが開いた。落ち着かない様子の時枝に、溜息ひとつで折原の肩を押す。なにをしていたわけでもない。
あっさりと距離を取って、折原が声をかける。
「サッカー部の子?」
「そう、今の部長。時枝、どうした?」
入り口にたたずんでいるのを手招くと、時枝がぺこりと頭を下げた。
「部長の子か。たしかに富原さんにちょっと似てるかも」
「富原さんって、富原選手ですか?」
「そうそう、その富原さん。俺の一期上で先輩の同期なんだけどね、監督がそんなふうなことを言ってたから。あの人もずっと部長だったからなぁ」
「そうなんですか」
「先輩から聞かないの? そういう話」
「あ、先生、あんまりそういう話、しないんで」
気遣われているような居た堪れなさに、口をはさむ。
「同期って言っても何年も前の話だからな。べつに特別に親しくしてたわけでもないし」
「またそうやって必要もない嘘を吐く。隠すようなことでもないのに」
否定したそばから否定されて、閉口する。そのあいだにも愛想のいい声は、教え子に好き放題に過去を教えていた。
「特別になかよしだったよ、先輩と富原さん。この前も、富原さん俺と飲んでたのに、いきなりこの人に電話してたし。おかげで三十分くらい放置されたからね、俺」
「マジっすか」
「マジ、マジ。どんな話してたのかは知らないけど」
あの夜の話なのだろうか、それは。含みのある言い方は、俺に向けられているに違いなかった。溜息まじりに話を切り上げにかかる。
「時枝は時枝だよ。ポジションも同じだし、性格的にもいかにも部長ってタイプだから似てる部分はあるけど。べつの人間だからな」
それはそうだけどと素直に応じた時枝とは対照的に、もうひとつの視線はやっぱりなんだか棘がある。
「……なんだよ?」
「いえ、なんでも」
にこりとほほえんだ顔にも含みがあるように見えるのは、罪悪感のなせる業なのか。
富原が折原にあの話を聞かせたとは思えないが、昔からこの後輩は耳聡く勘がいい。察しがついていても、なんら不思議はなかった。
持ったままになっていた問題集を閉じて、机上に重ねる。もう十五分ほどで部活の始まる時間だ。
「時枝」
「そういえば知ってる?」
おまえ、折原を呼びに来たんじゃなかったのかと続けるつもりだった台詞が、折原の声と重なる。
「なんですか?」
大先輩を相手にしているわりには力の抜けた楽しそうな声だった。あいかわらず人の懐に入るのがうまい。
――まぁ、いいか。少しくらい。たまにはこういう時間があっても。
「この先生の現役時代のあだ名」
「おい」
「あだ名?」
「そう、あだ名。深山の女王様ってやつ。主に他校からですけどね、言われてたの。ねぇ、先輩」
「おい、折原」
前言撤回。なにもよくはなかった。嘘だろと言わんばかりの時枝の視線は無視して、声のトーンを落とす。俺だって好きで言われていたわけじゃない。
「会場で指差されてたの見たときは、ちょっと笑ったけど」
「原因はおまえだろうが。おまえが雑誌のインタビューで適当なことばっかり言うから、他校のやつらがおもしろがったんだ」
「はは、よく覚えてますね、先輩。ね、事実だったでしょ」
折原ともう一度呼ぶと、ようやく視線が合った。その瞳がかすかに笑う。
「そうやって偉そうにしてるほうが、まだ先輩らしくていいですよ。変に気を使われても困るんで、俺も」
「……」
「この人ね、案外と建前とかばっかり気にするから、有名選手になった後輩が凱旋してくると、どう対応したらいいか悩むらしいよ。過去のことは棚に上げて」
あてつけとしか思えないそれに、小さく息を吐く。
「時枝」
「はい?」
「佐倉は今日、出てる?」
「え、いや、……捕まえ損ねましたけど。学内にはいるっぽいんですけど、出る気ないんじゃないですかね。出る気があったら、わりと見つけやすいところにいるから」
「なにそれ、小学生みたい。佐倉くんって、あれでしょ。あの怖いもの知らずな感じの」
「たぶん、そいつです。やっぱり目立ちますか、あいつ」
「うん、まぁ。俺もここにいたころはギャラリーの声がうるさいって思うことはあったけど。さすがに教師に向かってボールを蹴り飛ばそうっていう発想は持たなかったなって」
「べつに俺に向かって蹴ったわけじゃないだろ」
時枝が尋ねた意味合いから、あえて外した回答をしてやっただけかもしれないが、そう評されると据わりが悪い。
「時枝。佐倉は俺が探してから行くから、監督にも言っといて」
「先生が?」
「探すだけだけどな。だから、これも一緒に連れていって」
「あ、ひどい。四年ぶりに会った後輩をこれとか言う」
「おまえが昔みたいな扱いがいいって言ったんだろうが」
高校生だったころの自分がどんなふうだったかなんて、もはやよくわからない。それでも折原が望むなら、近づけてやりたいとは思う。せめて、そのくらいは。
どうせ、少しのあいだなんだ。そう言い聞かせる。こうして日本にいるのがイレギュラーなだけで、また元の世界に帰っていく。俺が選ぶものなど、なにもない。
「そうでしたね。先輩はそうでないと落ち着かなくて。妙にしおらしい顔されると、もう本当に違和感がすごくて」
「……悪かったな」
早く行けと視線で告げると、時枝が苦笑いでドアを引いた。
ドアが閉まる音に一息つきかけた途端に、また開く。言い忘れでもあったのかと視線を向けると、いたのは生徒ではなかった。どうしたと声をかけるより先に、折原がほほえむ。
「ちなみに、先輩」
「なんだ」
「これ、嫌味ですよ?」
言われなくてもわかってるに決まってるだろうが。言葉を呑み込んで、小さく手を振る。追いやるように。
「とっとと行け。あんまり監督を待たせるなよ、有名選手様」
そうしますとの笑いを含んだ声を最後に、気配が遠のいていく。
ようやくひとりになった空間で、ふっと息を吐いた。なにも考えたくないのが本音だが、探すと言った手前、動かざるを得ない。
校舎から一歩外に出ると、眩しい太陽の光が降り注いだ。初夏には早いというのに、肌を射る日差しはきつい。
――昔はこのくらい、ぜんぜん平気だと思ってたのにな。
練習は始まっているらしく、グラウンドでは部員たちがボールを追って走っていた。その脇には監督と話している折原の姿がある。
変わらないなと思った。変わっているはずなのに。あのころとはなにもかもが。
運動をしなくなれば筋力が落ちるのもあっというまだったけれど、同時に体力も落ちていく。そうして徐々に徐々に、身体はサッカーから離れていった。
なのに、感情のほうはそうはいかなかった。
張り付きそうになる視線を外して、部室棟に足を向ける。
あいつ、案外、部室にいること多いんですよね。練習が始まると誰もいなくなるから。それを見計らって入り込んでるみたいで。
内外から佐倉を連れ戻す担当と認識されている苦労性が、いつだったか言っていたことだ。さきほどの言葉とあわせれば、答えは出る。
――待ってるんだろうな、結局。時枝が自分を優先して迎えにくるのを。
あるいは、部活に出る口実を待っているのかもしれない。面倒くさい子どもだと呆れたくなるのを押し止める。
俺がここに学生としていたころ、そんな面倒なチームメイトはいなかった。仮にいたとしても、時枝のように面倒は見なかったはずだ。
少し前に監督に問われた。もし俺たちの時代に佐倉がいたら、どういうふうに接していたかと。答えたとおりで、俺はなにもしなかったと思う。理由は簡単だ。佐倉は、折原ではない。
面倒見なんてよくはない。公平でもなんでもない。俺は相手が折原だったから、自分の意思で手を伸ばしていた。見る必要のない面倒を見ていた。それだけのことだった。



