「先輩って、あんまり肌、焼けないですよね」
部誌を書くペンの音だけが響いていた部室に、静かな声が混ざる。折原だ。いつもの馬鹿みたいに明るい声とはまた違うそれ。
無理をして普段をつくっているわけでもないのだろうが、案外こちらが素なのかもしれない。
――まぁ、どっちでもいいけど。大変だよな、『天才』も。
「おまえみたいに黒くなって終わらないんだよ。すぐ赤くなるし、水ぶくれにもなるし」
「色が白いのも大変なんですね。でも、先輩、肌きれいですもんね。いいじゃないですか」
「うれしくねぇ。というか、べつによくもねぇだろ、女でもあるまいし」
とうに部活は終わっていて、部室には俺たち以外は誰も残っていなかった。頭上ではむき出しの蛍光灯が光っていて、羽虫がぶつかる音が響いていた。
喧嘩沙汰で生じていた折原の謹慎も無事に解けて、しばらくのころ。中学生最後の夏が始まろうとしていた時期だった。
「だって、ほら」
部誌を広げている俺のとなりで、なにをするでもなくパイプ椅子に座っていた折原が手を伸ばす。
健康的に焼けた肌が部誌に影をつくる。のぞき込んできた瞳がにこりと笑った。
「ぜんぜん、色が違う」
暇ならとっとと寮に戻ればいいのに。思っても言わないのは、言い飽きたからだ。そして聞かないと知っているからだ。
――富原が書いてるときは、しつこく居残っていないくせに。
まぁ、べつにいいんだけど。半ば己に言い聞かせながら、触れそうになっていた腕をそっとずらして、部誌を繰る。
部誌を書くのは部長である富原の仕事だが、不在時は俺が代行していた。そうなったとき、高確率で折原はこうしてそばにいた。
「本当になにもいいことねぇよ、これ。いろいろ手間だし、そのくせ、入学したてのころは絡まれたし」
「絡まれた?」
「日焼け止めばっかり塗って、なにを一丁前にかっこつけてんだっていいがかり」
「はは、ありそう」
心配するでもなく折原が笑う。こいつだったらうまくやったんだろう。対して俺は要領もさしてよくなければ、態度も愛想もよくはない。一年生だったころは、因縁めいたものをつけられることもあった。
――あぁ、でも、そういえば、まだあったんだっけ。
あのころとは違う。今だったらなんとでもできるのに。それを勝手に、――あろうことか俺を庇うかたちで暴力沙汰を起こした、要領のいいはずの後輩。
聞き取りに赴いたときの衝動的な行動まで脳裏によぎって、慌てて打ち消す。
誤魔化すように、ペンを部誌に走らせた。今日の練習メニューに、部員の調子。富原は部長というだけあってよく見ている。あいつの埋めたページを見返すたびに感心する。代理として、その半分くらいは書かないといけないと思っているのだけれど。
「それで、どうしたんですか?」
黙ったまま俺の手元を見つめていた折原が、ふいにまた口を開いた。
「その先輩」
「あぁ」
話の途中だったなと回想する。あの瞬間に折原がいなかったのだと思うと少し不思議だった。けれど、当たり前だ。やたらとそばにいるから同じ時間を過ごしてきたように思うだけで、折原は後輩だ。もう半年もすれば、俺は先にここを出る。
「富原が体質の問題なんだからしかたないでしょうって。監督とかコーチがいる前でぶちまけて、それで終わり」
良くも悪くも、富原は折原と同じように一目置かれる存在だった。才能という一点に置いて。
「富原さんが?」
深山に入学するより前から地区選抜やユース代表で一緒だったことがあるらしい折原は、富原のことを「先輩」でも「部長」でもなくそう呼称する。その呼び方が齟齬を生むのではないか。折原が入学してすぐのころに気を揉んだ覚えがある。けれど、結局ただの杞憂だった。俺がなにをしなくとも、いつのまにか受け入れられていた。
俺が気を揉む必要なんてなかったのだ。折原は、なんでもうまくやる。
「なんか意外。富原さんって、あからさまに先輩を庇わないじゃないですか。影からはいろいろしたとしても」
「影からは、ってなんだ。影からはって」
「そのままの意味ですけど」
曖昧に笑った気配に、紙面から顔を上げる。後輩は、あまり見たことがない表情を浮かべていた。困ったような、あるいは嫉妬をはらんだような。
知らず、ペンを持つ指先に力が入った。なにを言うべきかわからなかった。俺の内心なんてお構いなしに折原が続ける。どこか、甘い声で。
「ねぇ、先輩。先輩は、富原さんにも、ああいうこと、してみせるの?」
力を入れ過ぎたペン先からインクが滲んで、部誌に黒い染みができる。耳の奥で虫の羽音がずっと鳴っていて気に障った。そのせいだと思いたかった。
あの日。折原を引きずり降ろしてやりたいと、俺のなかの醜さが片鱗を表した、あの瞬間。俺が開けたのは、パンドラの箱だったのかもしれない。
部誌を書くペンの音だけが響いていた部室に、静かな声が混ざる。折原だ。いつもの馬鹿みたいに明るい声とはまた違うそれ。
無理をして普段をつくっているわけでもないのだろうが、案外こちらが素なのかもしれない。
――まぁ、どっちでもいいけど。大変だよな、『天才』も。
「おまえみたいに黒くなって終わらないんだよ。すぐ赤くなるし、水ぶくれにもなるし」
「色が白いのも大変なんですね。でも、先輩、肌きれいですもんね。いいじゃないですか」
「うれしくねぇ。というか、べつによくもねぇだろ、女でもあるまいし」
とうに部活は終わっていて、部室には俺たち以外は誰も残っていなかった。頭上ではむき出しの蛍光灯が光っていて、羽虫がぶつかる音が響いていた。
喧嘩沙汰で生じていた折原の謹慎も無事に解けて、しばらくのころ。中学生最後の夏が始まろうとしていた時期だった。
「だって、ほら」
部誌を広げている俺のとなりで、なにをするでもなくパイプ椅子に座っていた折原が手を伸ばす。
健康的に焼けた肌が部誌に影をつくる。のぞき込んできた瞳がにこりと笑った。
「ぜんぜん、色が違う」
暇ならとっとと寮に戻ればいいのに。思っても言わないのは、言い飽きたからだ。そして聞かないと知っているからだ。
――富原が書いてるときは、しつこく居残っていないくせに。
まぁ、べつにいいんだけど。半ば己に言い聞かせながら、触れそうになっていた腕をそっとずらして、部誌を繰る。
部誌を書くのは部長である富原の仕事だが、不在時は俺が代行していた。そうなったとき、高確率で折原はこうしてそばにいた。
「本当になにもいいことねぇよ、これ。いろいろ手間だし、そのくせ、入学したてのころは絡まれたし」
「絡まれた?」
「日焼け止めばっかり塗って、なにを一丁前にかっこつけてんだっていいがかり」
「はは、ありそう」
心配するでもなく折原が笑う。こいつだったらうまくやったんだろう。対して俺は要領もさしてよくなければ、態度も愛想もよくはない。一年生だったころは、因縁めいたものをつけられることもあった。
――あぁ、でも、そういえば、まだあったんだっけ。
あのころとは違う。今だったらなんとでもできるのに。それを勝手に、――あろうことか俺を庇うかたちで暴力沙汰を起こした、要領のいいはずの後輩。
聞き取りに赴いたときの衝動的な行動まで脳裏によぎって、慌てて打ち消す。
誤魔化すように、ペンを部誌に走らせた。今日の練習メニューに、部員の調子。富原は部長というだけあってよく見ている。あいつの埋めたページを見返すたびに感心する。代理として、その半分くらいは書かないといけないと思っているのだけれど。
「それで、どうしたんですか?」
黙ったまま俺の手元を見つめていた折原が、ふいにまた口を開いた。
「その先輩」
「あぁ」
話の途中だったなと回想する。あの瞬間に折原がいなかったのだと思うと少し不思議だった。けれど、当たり前だ。やたらとそばにいるから同じ時間を過ごしてきたように思うだけで、折原は後輩だ。もう半年もすれば、俺は先にここを出る。
「富原が体質の問題なんだからしかたないでしょうって。監督とかコーチがいる前でぶちまけて、それで終わり」
良くも悪くも、富原は折原と同じように一目置かれる存在だった。才能という一点に置いて。
「富原さんが?」
深山に入学するより前から地区選抜やユース代表で一緒だったことがあるらしい折原は、富原のことを「先輩」でも「部長」でもなくそう呼称する。その呼び方が齟齬を生むのではないか。折原が入学してすぐのころに気を揉んだ覚えがある。けれど、結局ただの杞憂だった。俺がなにをしなくとも、いつのまにか受け入れられていた。
俺が気を揉む必要なんてなかったのだ。折原は、なんでもうまくやる。
「なんか意外。富原さんって、あからさまに先輩を庇わないじゃないですか。影からはいろいろしたとしても」
「影からは、ってなんだ。影からはって」
「そのままの意味ですけど」
曖昧に笑った気配に、紙面から顔を上げる。後輩は、あまり見たことがない表情を浮かべていた。困ったような、あるいは嫉妬をはらんだような。
知らず、ペンを持つ指先に力が入った。なにを言うべきかわからなかった。俺の内心なんてお構いなしに折原が続ける。どこか、甘い声で。
「ねぇ、先輩。先輩は、富原さんにも、ああいうこと、してみせるの?」
力を入れ過ぎたペン先からインクが滲んで、部誌に黒い染みができる。耳の奥で虫の羽音がずっと鳴っていて気に障った。そのせいだと思いたかった。
あの日。折原を引きずり降ろしてやりたいと、俺のなかの醜さが片鱗を表した、あの瞬間。俺が開けたのは、パンドラの箱だったのかもしれない。



