また未読の通知が溜まっている。そのことに気づいたのは、佐倉の補修を終えて自宅に戻ってからだった。
『佐野は飲み会どうする?』
いつのまにかできていた深山時代のメンバーのグループラインだ。動きが盛んになるのは盆や年始年末といった飲み会を開く時期だけではあるけれど。少し前に飲み会を開くというメッセージが入っていたことと、返信していなかったことを思い出した。
『悪い、忘れてた』
そういった特定の時期でないタイミングで声がかかるのは、近場にいない人間が戻ってきたときだ。だから、今回の誘いが誰のためのものかもわかっていた。
『新年度で仕事忙しくて。欠席します、ごめん』
新年度という時期は過ぎているかもしれないが、忙しいことは嘘ではない。
「……ん?」
グループラインではないほうに届いたメッセージに無意識に声が漏れる。珍しいとまでは言わないが、用事がなければ連絡してこない相手。
『仕事、大変なのか?』
『ちょっといろいろ立て込んでて』
時間なんてつくるものだと言われたらそれまでだ。行く気がないだけだろうと非難されているようで、返信が言い訳がましくなる。
『仕事があるのはわかるが、たまには先輩らしいことをしてやればいいだろう。せっかく戻ってきてるんだ』
そうだなと打つより先に続きがきた。
『おまえはもうすでに会っていると思うが』
『俺もあいつがクラブに顔を出したときに会ったが。あいかわらずみたいだな』
そのあいかわらずは、俺にかかっているに違いない。溜息まじりにさっと文字を打つ。確認もしないで送信すると、すぐに既読マークがついた。
『あいつもせっかくの飲み会の場で、俺の顔を見たくないだろ』
「うわ、……なんだよ。いきなり」
急に着信を伝えた携帯を取り落としそうになりながら、電話に出る。
「いや、まどろっこしくなってきてな。今、家か?」
「家だけど」
「そうか。ならいい。佐野、おまえ、折原と会ったんだよな?」
「まぁ、会ったというか、顔を見たというか」
たまたま俺がいた深山に顔を出しただけというか。ただの偶然だと言い繕うのを咎めるように、富原が続ける。
「話したんだよな」
「多少は、まぁ」
「それでいったい、なにをどうしたらさっきの話になるんだ」
「さっきのって」
「おまえの顔を見たくもないだろうという、あれだ」
その声に、せんないことを思い出した。いつも笑顔で優しいけど、怒ると部長は怖いよな。あの笑顔のままぐいぐいくるから。いっそのこと怒った顔をされるか、怒鳴られたほうがマシだって思うよ。かつて富原はそんなふうに評されていた。
きっと今もそんな顔をしているんだろう。
「いや……」
「おまえがあいつに恨まれていると思う言動をとったらしい事実はさておくとして」
呆れ切った溜息に、どこまで知られていたのだったかと現実逃避のように考える。付き合っているんじゃないのかと問われた。昔も今もと。俺は答えなかった。
逃げてやるなとも言われた。俺はそれにも応えていない。
「おまえは、あいつがそんなことを考えて、わざわざ戻ってくる男だと思っているのか」
そんなことを思っているわけではない、ただ。逡巡して言葉を選ぶ。
「悪いことをしたなと思ってるだけだ」
できることならば、テレビ越し以外でその顔を見たくないとも思っていたけれど。
「合わせる顔がないと思ったのも、事実ではあるか」
罪悪感を苦笑に変えて、なんでもない声を出す。
「それと、忙しいのも事実は事実。俺らのころにはいなかったタイプの部員がいて、練習のあとに寮で勉強見てるんだよ」
富原にだったら普通を取り繕えるのにと思った。気がつかれているだろうから、意味はないかもしれない。それでも俺でいることはできる。
あいつの前だとそれさえできない。なすすべもなく崩れていきそうになる。
「家に戻ったら連日この時間で。だから、飲み会はちょっと難しいかな。今の部長の子もそいつに振り回されてて、放っとくのもかわいそうだし」
「俺は学生時代、おまえに面倒を見てもらった覚えはないんだが」
「そりゃ、おまえは俺がそんなことしなくても問題なかったからだろ」
「折原もおまえがいなくても問題なかったと思うが、おまえはなにかと構っていただろう」
「じゃあ、それが間違いだったんだな」
言い切って、失笑する。ついで、なにかが切れたように言葉があふれた。
「俺さ、自分がこの年になってから、深山の後輩と関わるようになるとは思わなかったけど。俺みたいなやつがいたら、とめてやろうとは思うよ。取り返しのつかなくなる前に」
もし戻れるのなら、俺はそうする。そう思うことが、すべてだった。
俺の感情は、どの時点でも取り返しはつかないかもしれない。けれど、俺が手を伸ばしさえしなければ、折原はあんなふうにならなかった。取り返しはついた。
「ヤりたい盛りの若いうちに、あんな空間に詰め込むのはよくないな。勘違いが加速する。それでどうにもならなくなる。なんの意味もないのに」
「佐野」
「一応、俺は教師だから。建前上はなんとでも言うよ。LGBTだとか、……いわゆるところの性的少数者が、差別なく暮らせる世界が素晴らしいって。恥ずべきことでもなんでもないって」
倫理的に言うならば、そうあるべきだろうとも思う。
「でも、実際はそうじゃないだろ」
佐倉の反応は、ある意味では普通だ。それを表に出すかどうかが問題だと言うだけで。胃が痛くなる沈黙のあとで、富原の声が静かに響いた。
「おまえは、あいつが恥ずかしいと。そう言いたいのか」
「違う。そうじゃない。そうじゃない、けど」
「けど?」
「でも、些細なことでも、どんなものでも、ハードルも波風も立たないほうがいいだろ。あいつならうまく交わせるとか、なんとでもできるとか、そういう次元じゃなくて。そんなことわざわざ口にしなかったら。……それでしなくていい思いをするくらいなら」
あてつけだったのだろうかと考えたことは何度もある。俺だけのせいだとは自惚れていない。ただ、普通であるべきだと主張したのは俺だった。それが正しいと押し付けた。
折原は真っ向から否定した。俺の前でなく、カメラの前で。俺の望む普通なんて求めていないのだと、そう言った。
だから終わったと思ったのだ。あいつのなかで切り捨てられたと。
「いらない苦労なんてしてほしくないし、笑っていてほしい。明るい場所にいてほしい。幸せであってほしい」
それが、ずっと願っていたことだった。折原が捨てることができたのならよかったとも、本当に思っていた。そうして四年が経って、ようやく自分も過去にすることができたと安心していた。
「なぁ、富原」
それなのに、またこうしてあのころに引きずられている。俺がなにも終わらせることができなかったからなのか。最後の最後になって、言葉にすることさえも拒んだからなのか。
わからなかった。
「俺がそう思うのは、そんなに変か。間違ってるか」
「……」
「俺はそれがわからない」
「またわからないで通すつもりか」
黙って俺の言い分に耳を傾けていた富原が、呆れを隠さない声で言った。
「変わらないな、おまえは。高校生だったころからも、四年前からも」
わからなくなったと、俺は四年前も富原に言った。突き放して終わりにすべきなのに、わからなくなったと。
その終わらせ方だけがすべてではないと富原は諭すように言ったが、俺は選ばなかった。
「何年経っても、おまえがそこから、――過保護で独りよがりな母親の立ち位置から抜け出せないなら、それはそれでいい。結局それが正しいと思うなら、おまえのなかではそうなんだろう。だったら、そのかわり」
「……そのかわり?」
「ちゃんと、あいつにもわからせてやれ」
優しいとすら思える声で富原が続けた。突き放すように。
「それが、おまえの言うところの、おまえができる最後なんだろう?」
わかっていると応じるはずだった声が、喉につかえた。わかっていた。それが、もう何年も前、折原を引きずり落そうとした俺にできる最後なのだということは。
『佐野は飲み会どうする?』
いつのまにかできていた深山時代のメンバーのグループラインだ。動きが盛んになるのは盆や年始年末といった飲み会を開く時期だけではあるけれど。少し前に飲み会を開くというメッセージが入っていたことと、返信していなかったことを思い出した。
『悪い、忘れてた』
そういった特定の時期でないタイミングで声がかかるのは、近場にいない人間が戻ってきたときだ。だから、今回の誘いが誰のためのものかもわかっていた。
『新年度で仕事忙しくて。欠席します、ごめん』
新年度という時期は過ぎているかもしれないが、忙しいことは嘘ではない。
「……ん?」
グループラインではないほうに届いたメッセージに無意識に声が漏れる。珍しいとまでは言わないが、用事がなければ連絡してこない相手。
『仕事、大変なのか?』
『ちょっといろいろ立て込んでて』
時間なんてつくるものだと言われたらそれまでだ。行く気がないだけだろうと非難されているようで、返信が言い訳がましくなる。
『仕事があるのはわかるが、たまには先輩らしいことをしてやればいいだろう。せっかく戻ってきてるんだ』
そうだなと打つより先に続きがきた。
『おまえはもうすでに会っていると思うが』
『俺もあいつがクラブに顔を出したときに会ったが。あいかわらずみたいだな』
そのあいかわらずは、俺にかかっているに違いない。溜息まじりにさっと文字を打つ。確認もしないで送信すると、すぐに既読マークがついた。
『あいつもせっかくの飲み会の場で、俺の顔を見たくないだろ』
「うわ、……なんだよ。いきなり」
急に着信を伝えた携帯を取り落としそうになりながら、電話に出る。
「いや、まどろっこしくなってきてな。今、家か?」
「家だけど」
「そうか。ならいい。佐野、おまえ、折原と会ったんだよな?」
「まぁ、会ったというか、顔を見たというか」
たまたま俺がいた深山に顔を出しただけというか。ただの偶然だと言い繕うのを咎めるように、富原が続ける。
「話したんだよな」
「多少は、まぁ」
「それでいったい、なにをどうしたらさっきの話になるんだ」
「さっきのって」
「おまえの顔を見たくもないだろうという、あれだ」
その声に、せんないことを思い出した。いつも笑顔で優しいけど、怒ると部長は怖いよな。あの笑顔のままぐいぐいくるから。いっそのこと怒った顔をされるか、怒鳴られたほうがマシだって思うよ。かつて富原はそんなふうに評されていた。
きっと今もそんな顔をしているんだろう。
「いや……」
「おまえがあいつに恨まれていると思う言動をとったらしい事実はさておくとして」
呆れ切った溜息に、どこまで知られていたのだったかと現実逃避のように考える。付き合っているんじゃないのかと問われた。昔も今もと。俺は答えなかった。
逃げてやるなとも言われた。俺はそれにも応えていない。
「おまえは、あいつがそんなことを考えて、わざわざ戻ってくる男だと思っているのか」
そんなことを思っているわけではない、ただ。逡巡して言葉を選ぶ。
「悪いことをしたなと思ってるだけだ」
できることならば、テレビ越し以外でその顔を見たくないとも思っていたけれど。
「合わせる顔がないと思ったのも、事実ではあるか」
罪悪感を苦笑に変えて、なんでもない声を出す。
「それと、忙しいのも事実は事実。俺らのころにはいなかったタイプの部員がいて、練習のあとに寮で勉強見てるんだよ」
富原にだったら普通を取り繕えるのにと思った。気がつかれているだろうから、意味はないかもしれない。それでも俺でいることはできる。
あいつの前だとそれさえできない。なすすべもなく崩れていきそうになる。
「家に戻ったら連日この時間で。だから、飲み会はちょっと難しいかな。今の部長の子もそいつに振り回されてて、放っとくのもかわいそうだし」
「俺は学生時代、おまえに面倒を見てもらった覚えはないんだが」
「そりゃ、おまえは俺がそんなことしなくても問題なかったからだろ」
「折原もおまえがいなくても問題なかったと思うが、おまえはなにかと構っていただろう」
「じゃあ、それが間違いだったんだな」
言い切って、失笑する。ついで、なにかが切れたように言葉があふれた。
「俺さ、自分がこの年になってから、深山の後輩と関わるようになるとは思わなかったけど。俺みたいなやつがいたら、とめてやろうとは思うよ。取り返しのつかなくなる前に」
もし戻れるのなら、俺はそうする。そう思うことが、すべてだった。
俺の感情は、どの時点でも取り返しはつかないかもしれない。けれど、俺が手を伸ばしさえしなければ、折原はあんなふうにならなかった。取り返しはついた。
「ヤりたい盛りの若いうちに、あんな空間に詰め込むのはよくないな。勘違いが加速する。それでどうにもならなくなる。なんの意味もないのに」
「佐野」
「一応、俺は教師だから。建前上はなんとでも言うよ。LGBTだとか、……いわゆるところの性的少数者が、差別なく暮らせる世界が素晴らしいって。恥ずべきことでもなんでもないって」
倫理的に言うならば、そうあるべきだろうとも思う。
「でも、実際はそうじゃないだろ」
佐倉の反応は、ある意味では普通だ。それを表に出すかどうかが問題だと言うだけで。胃が痛くなる沈黙のあとで、富原の声が静かに響いた。
「おまえは、あいつが恥ずかしいと。そう言いたいのか」
「違う。そうじゃない。そうじゃない、けど」
「けど?」
「でも、些細なことでも、どんなものでも、ハードルも波風も立たないほうがいいだろ。あいつならうまく交わせるとか、なんとでもできるとか、そういう次元じゃなくて。そんなことわざわざ口にしなかったら。……それでしなくていい思いをするくらいなら」
あてつけだったのだろうかと考えたことは何度もある。俺だけのせいだとは自惚れていない。ただ、普通であるべきだと主張したのは俺だった。それが正しいと押し付けた。
折原は真っ向から否定した。俺の前でなく、カメラの前で。俺の望む普通なんて求めていないのだと、そう言った。
だから終わったと思ったのだ。あいつのなかで切り捨てられたと。
「いらない苦労なんてしてほしくないし、笑っていてほしい。明るい場所にいてほしい。幸せであってほしい」
それが、ずっと願っていたことだった。折原が捨てることができたのならよかったとも、本当に思っていた。そうして四年が経って、ようやく自分も過去にすることができたと安心していた。
「なぁ、富原」
それなのに、またこうしてあのころに引きずられている。俺がなにも終わらせることができなかったからなのか。最後の最後になって、言葉にすることさえも拒んだからなのか。
わからなかった。
「俺がそう思うのは、そんなに変か。間違ってるか」
「……」
「俺はそれがわからない」
「またわからないで通すつもりか」
黙って俺の言い分に耳を傾けていた富原が、呆れを隠さない声で言った。
「変わらないな、おまえは。高校生だったころからも、四年前からも」
わからなくなったと、俺は四年前も富原に言った。突き放して終わりにすべきなのに、わからなくなったと。
その終わらせ方だけがすべてではないと富原は諭すように言ったが、俺は選ばなかった。
「何年経っても、おまえがそこから、――過保護で独りよがりな母親の立ち位置から抜け出せないなら、それはそれでいい。結局それが正しいと思うなら、おまえのなかではそうなんだろう。だったら、そのかわり」
「……そのかわり?」
「ちゃんと、あいつにもわからせてやれ」
優しいとすら思える声で富原が続けた。突き放すように。
「それが、おまえの言うところの、おまえができる最後なんだろう?」
わかっていると応じるはずだった声が、喉につかえた。わかっていた。それが、もう何年も前、折原を引きずり落そうとした俺にできる最後なのだということは。



