夢の続きの話をしよう(下)【期間限定再録】

 サッカー部専用グラウンドからは、練習に励む生徒たちの声が響いていた。
 通り過ぎるつもりだった足が、フェンスの脇で止まる。あの当時からグラウンドはほとんど変わっていない。昔からある桜の木はとうに葉桜になっていて、午後の日差しを受けて新緑にきらめいていた。
 学生時代を過ごした深山学園の高等部で教鞭をとるようになって、三度目の春だった。
 一軍の部員が紅白戦を行っているグラウンドのとなりでは、新一年生がストレッチに取り組んでいる。監督から渡された仮入部届は百枚近くあったが、一ヶ月後の本入部の際には半分も残っていないのだろう。四月の恒例行事みたいなものだ。
 全盛期と比べて弱体化したと評されるサッカー部だが、門徒を叩く生徒はまだ多い。
 フェンス越しに練習を見つめているうちに紅白戦終了の笛が鳴る。今日は誰も休んでいないだろうか。休憩に散る生徒を確認していると、ひとりと目が合った。
「先生、来てたんだ」
 愛想よく時枝が近づいてくる。今の部長だ。
「ん、お疲れ」
「今日は練習は入らないの?」
「今から職員会議。部活が終わるまでに戻れないから無理って言っただろ、朝に」
「そうだったね、そういえば」
 穏やかな物言いと人当たりのいい雰囲気が、なんとはなしにかつてのチームメイトを連想させる。監督の部長選びの基準が変わっていないのかもしれない。あるいは、同じゴールキーパーだから、余計にそう思うのかもしれないが。
 今では富原も、日本を代表する選手のひとりだ。
「時枝。あいつは?」
「なんだ。会議までの合間に見に来てくれたと思ったら、そっち?」
「おまえら全員の様子を見に来てんだよ。足りなかったから聞いただけだ」
 時枝が小さく肩をすくめる。
「佐倉なら無断欠席だけど、今日も」
「またか、あいつ」
「だから『また』なんですって。なにが不満なんだか」
「……」
「天才様の考えることは俺にはさっぱり。頼むから出場停止になるような問題は起こさないでほしいんだけどなー……って、げっ。噂をすれば」
 嫌そうに顔をしかめた時枝の視線を追って振り返る。校舎から件の人物が出てきたところだった。着崩された制服姿からは、練習に参加する意思は感じられない。
「うまいから監督も大目に見るし。俺にあれだけ才能があったら、もっと打ち込むけどな。本当にあいつもったいないよなぁ」
 時枝の愚痴は部員の総意に違いない。グラウンドを一瞥もせず正門へ消えた後姿に、溜息を呑み込む。才能だけは一級品。協調性にやや難あり。
 それが二年前に入学したときの佐倉の前評判だった。時枝のような中等部からの持ち上がり組とは違う、外部入学組。
「才能があるやつからすると、必死に練習してるこっちが馬鹿に見えんのかな」
「時枝」
「でも先生も思わなかった? 先生ってうちのOBでしょ。しかも全盛期の一軍メンバー。いたでしょ、天才」
 その台詞に否応なく思い浮かんだのは、ひとりの後輩だった。深山の歴史のなかでも、間違いなく一番か二番に名前が挙がるだろう名選手。
 ――折原、藍。
「いたは、いたな。まぁ、でも結局、努力できるやつのほうが強いと思うけど」
 本当に怖いのは、努力を積み重ねることのできる不屈の天才だ。それこそ、あの当時の折原のような。
 だから大丈夫と続けると、わずかながら安心した顔になる。さした根拠のない教師の励ましでも、ないよりはマシらしい。部員の輪に戻る長身を見送って、グラウンドに背を向ける。学生だったころは想像すらしていなかったが、教師という仕事は案外と忙しい。
 日中の業務が終わったあとも、授業の準備や雑務で時間を奪われる。部活動の顧問までやっていれば、なおさらだ。
 おまけに聞き分けのいい生徒ばかりではないから、余計な心労も発生する。その筆頭が、サッカー部の問題児だ。
 つまらなさそうな横顔を思い出せば、呑み込んだはずの溜息が漏れそうになる。ライバルになるような、あるいは理解者になる選手がいれば、また違ったのだろうか。
 ――同じ天才型のフォワードでも違うもんだな。
 引き合いに選んだ記憶のなかの後輩は、いつも笑顔で人当たりも抜群だった。そしてなによりもサッカーを好いていた。校舎に入る前にグラウンドを振り返ったのは、習性に近かった。
 風に乗って若い声が届く。あのころと変わらないようでいて、同じではない。
 ――俺は、佐野先輩がいなかったら、サッカーが嫌いになっていたかもしれない。
 いつだったか折原が言っていたことだ。その声がふいによみがえった。ひさしぶりに思い出してしまったからかもしれない。
 当時はそんなわけはないと一蹴したし、今もそう思っている。俺がいようがいまいが関係ない。あのサッカーに愛されていた後輩が、プロの選手として大成しないわけがない。
 今、海外で目覚ましい活躍をみせているように。