「終わったぁ……っ!」
思わず両手を天井に向かって突き上げた。全身の力が一気に抜けて、そのまま机に突っ伏してしまう。
ようやく顔を上げて窓の外を見れば、空はすっかりオレンジ色に染まっていた。部室に残っている生徒もまばらで、さっきまで隣で練習していた先輩たちの姿もない。
「お前、本当に暗記が苦手なんだな」
向かいに座っている那須くんが、呆れたような、感心したような顔でオレを見ている。
「テスト範囲の漢字を覚えるだけでこんなに時間かかるとは思わなかった」
「はじめに言ったでしょ、オレはかなりバカだよって」
「いや、確かに聞いたが……ここまでとは」
つくづく失礼な言い方だ。
むっとして机に再び突っ伏すと、那須くんがオレの肩をポンポンと軽く叩いた。
「まあでも、よく頑張ったな。今回の範囲さえ覚えておけば、国語の赤点は免れるだろ」
声がさっきまでと全然違ってずいぶん優しい。不意打ちだ。くそう、嬉しい。
「フヒヒッ」
あ。また変な笑いがでちゃった。那須くんの手が、それを聞いてぴたっと止まる。
「お前……さっきも思ったけど、なんか変な笑い方するな。というか今のタイミングでなんで笑った?」
「え、だって那須くんが褒めてくれたから、嬉しくて」
「褒めてもらうのが嬉しい?」
「うん。だってオレ、バカで誰かに褒めてもらう機会なんてめったになかったからさ。褒められるとめっちゃ嬉しいし、だいぶやる気も出る」
「……ふうん。そういうものか」
それきり那須くんは黙ってしまった。あまりの単純思考に呆れたのかもしれない。褒められたらすぐ喜んじゃうの、なんか犬みたいだもんな。
気まずくなる前に撤収しよう。オレはそそくさと筆記用具やノートを鞄に詰め込んだ。
全部しまい終えたところで、改めて那須くんの方を向く。
「なんだよ」
「あの、那須くん。今日は勉強教えてくれて、本当にありがとう」
その瞬間、那須くんはなぜかぽかんとしたような顔になった。
「お前、本当に変わった奴だな。勉強が始まる前もしている間もずっと嫌がってたじゃないか。そんなこと強要してた俺に、腹が立ってないのか?」
「確かに那須くんは厳しいし、ちょっと怖かったけど」
怖かった、のところで那須くんの眉がぴくっと動いた。あ、今の正直に言いすぎたかも。
「でも、オレのために時間割いて教えてくれたのは確かだし。ちゃんとお礼しないとだろ」
那須くんは口元に手をやって、少しのあいだ何か考え込んでいた。そして、ごく小さな声で呟く。
「お前、なんか可愛いな」
「え、かわいい?」
「いや、なんでもない」
被せるように否定された。速い。
那須くんはそれ以降、ぱったり黙ってしまった。なんだか奇妙な沈黙が降りてきて、オレは焦った。何か話さないと。
えーと、えーと──あ、そうだ。ずっと気になっていたこと。
「そういえば那須くん、どうしてオレが団体戦の選手の候補に選ばれたのか知ってる? オレ、前にも言ったけど百人一首、半分ぐらいしか暗記できてないのに……」
「え、だってお前、すげぇ才能あるじゃん」
「オレに、才能がある……?」
予想外のこと言われて慌てるオレを見て、那須くんはなぜか深いため息をついた。
そして次の瞬間、那須くんはおもむろに近くの棚から百人一首の箱を取り出した。蓋を開けて、取り札をマットの上にバラバラと並べていく。ざっと三十枚ぐらいだろうか。
そこまで並べ終わると、那須くんはオレに向かって顎をしゃくった。
座れってことかな?
言われるまま札の前に正座すると、那須くんは何の前触れもなく上の句を詠み始めた。
「せをはやみ いはにせかるる 滝川の──」
考えるより先に手が伸びて、三十枚の中から一枚の札を弾き出す。
「しのぶれど 色に出でにけり わが恋は──」
あ、これはばあちゃんが好きだって言ってた句だ。──あった。払う。
こんなやり取りを数回繰り返した後で、札を読んでいた那須くんは再びはーっと息を吐いた。本日二度目の深い溜息である。
「お前さ……いま、自分のやったことが凄いことだってわかってないのか?」
「なんで? 今のはたぶん、那須くんがわざとオレの知ってる句ばかり読んでくれたんでしょ。じゃなきゃオレ、知らない句は下の句読まれるまでわかんないよ?」
那須くんはオレの言葉を聞いて、ずい、と顔を近づけてきた。
「あのさ、改めて言うけど。いまお前がやったこと、かなり異常な才能だからな」
「え、いまの? どこが?」
那須くんは顔を引いて、三度目のため息を吐いた。そしてばらまかれたかるたの札を指さす。
「さすがのお前も知ってると思うけど、競技かるたってのは試合前に十五分間、札の配置を暗記する時間がある。だからこそ選手たちは上の句を詠まれた瞬間に札が取れるんだ」
「う、うん」
正直、まだ那須くんの言いたいことがよくわからない。とりあえず相槌を打っておく。
「でも今、お前。暗記時間なかったのに、かなり早い段階で札を払ってたよな」
「う、うん……だって、それはオレの知ってる句だったから……」
「バカ言え。いくら下の句を暗記してる札でも、急に三十枚ある中からそれを見つけ出すのは競技かるたの選手でも難しい。どうしても探す時間がいるんだよ」
「え、でも……これぐらいなら、見ればわかる、よね?」
那須くんがオレの真ん前でガクッ、と肩を落とした。
四度目の溜息──は、かろうじて出てこなかったけれど、オレの発言が何かまずかったことだけは、その項垂れた背中からはっきり伝わってきた。
……え、なに。オレ、なんか変なこと言った?
思わず両手を天井に向かって突き上げた。全身の力が一気に抜けて、そのまま机に突っ伏してしまう。
ようやく顔を上げて窓の外を見れば、空はすっかりオレンジ色に染まっていた。部室に残っている生徒もまばらで、さっきまで隣で練習していた先輩たちの姿もない。
「お前、本当に暗記が苦手なんだな」
向かいに座っている那須くんが、呆れたような、感心したような顔でオレを見ている。
「テスト範囲の漢字を覚えるだけでこんなに時間かかるとは思わなかった」
「はじめに言ったでしょ、オレはかなりバカだよって」
「いや、確かに聞いたが……ここまでとは」
つくづく失礼な言い方だ。
むっとして机に再び突っ伏すと、那須くんがオレの肩をポンポンと軽く叩いた。
「まあでも、よく頑張ったな。今回の範囲さえ覚えておけば、国語の赤点は免れるだろ」
声がさっきまでと全然違ってずいぶん優しい。不意打ちだ。くそう、嬉しい。
「フヒヒッ」
あ。また変な笑いがでちゃった。那須くんの手が、それを聞いてぴたっと止まる。
「お前……さっきも思ったけど、なんか変な笑い方するな。というか今のタイミングでなんで笑った?」
「え、だって那須くんが褒めてくれたから、嬉しくて」
「褒めてもらうのが嬉しい?」
「うん。だってオレ、バカで誰かに褒めてもらう機会なんてめったになかったからさ。褒められるとめっちゃ嬉しいし、だいぶやる気も出る」
「……ふうん。そういうものか」
それきり那須くんは黙ってしまった。あまりの単純思考に呆れたのかもしれない。褒められたらすぐ喜んじゃうの、なんか犬みたいだもんな。
気まずくなる前に撤収しよう。オレはそそくさと筆記用具やノートを鞄に詰め込んだ。
全部しまい終えたところで、改めて那須くんの方を向く。
「なんだよ」
「あの、那須くん。今日は勉強教えてくれて、本当にありがとう」
その瞬間、那須くんはなぜかぽかんとしたような顔になった。
「お前、本当に変わった奴だな。勉強が始まる前もしている間もずっと嫌がってたじゃないか。そんなこと強要してた俺に、腹が立ってないのか?」
「確かに那須くんは厳しいし、ちょっと怖かったけど」
怖かった、のところで那須くんの眉がぴくっと動いた。あ、今の正直に言いすぎたかも。
「でも、オレのために時間割いて教えてくれたのは確かだし。ちゃんとお礼しないとだろ」
那須くんは口元に手をやって、少しのあいだ何か考え込んでいた。そして、ごく小さな声で呟く。
「お前、なんか可愛いな」
「え、かわいい?」
「いや、なんでもない」
被せるように否定された。速い。
那須くんはそれ以降、ぱったり黙ってしまった。なんだか奇妙な沈黙が降りてきて、オレは焦った。何か話さないと。
えーと、えーと──あ、そうだ。ずっと気になっていたこと。
「そういえば那須くん、どうしてオレが団体戦の選手の候補に選ばれたのか知ってる? オレ、前にも言ったけど百人一首、半分ぐらいしか暗記できてないのに……」
「え、だってお前、すげぇ才能あるじゃん」
「オレに、才能がある……?」
予想外のこと言われて慌てるオレを見て、那須くんはなぜか深いため息をついた。
そして次の瞬間、那須くんはおもむろに近くの棚から百人一首の箱を取り出した。蓋を開けて、取り札をマットの上にバラバラと並べていく。ざっと三十枚ぐらいだろうか。
そこまで並べ終わると、那須くんはオレに向かって顎をしゃくった。
座れってことかな?
言われるまま札の前に正座すると、那須くんは何の前触れもなく上の句を詠み始めた。
「せをはやみ いはにせかるる 滝川の──」
考えるより先に手が伸びて、三十枚の中から一枚の札を弾き出す。
「しのぶれど 色に出でにけり わが恋は──」
あ、これはばあちゃんが好きだって言ってた句だ。──あった。払う。
こんなやり取りを数回繰り返した後で、札を読んでいた那須くんは再びはーっと息を吐いた。本日二度目の深い溜息である。
「お前さ……いま、自分のやったことが凄いことだってわかってないのか?」
「なんで? 今のはたぶん、那須くんがわざとオレの知ってる句ばかり読んでくれたんでしょ。じゃなきゃオレ、知らない句は下の句読まれるまでわかんないよ?」
那須くんはオレの言葉を聞いて、ずい、と顔を近づけてきた。
「あのさ、改めて言うけど。いまお前がやったこと、かなり異常な才能だからな」
「え、いまの? どこが?」
那須くんは顔を引いて、三度目のため息を吐いた。そしてばらまかれたかるたの札を指さす。
「さすがのお前も知ってると思うけど、競技かるたってのは試合前に十五分間、札の配置を暗記する時間がある。だからこそ選手たちは上の句を詠まれた瞬間に札が取れるんだ」
「う、うん」
正直、まだ那須くんの言いたいことがよくわからない。とりあえず相槌を打っておく。
「でも今、お前。暗記時間なかったのに、かなり早い段階で札を払ってたよな」
「う、うん……だって、それはオレの知ってる句だったから……」
「バカ言え。いくら下の句を暗記してる札でも、急に三十枚ある中からそれを見つけ出すのは競技かるたの選手でも難しい。どうしても探す時間がいるんだよ」
「え、でも……これぐらいなら、見ればわかる、よね?」
那須くんがオレの真ん前でガクッ、と肩を落とした。
四度目の溜息──は、かろうじて出てこなかったけれど、オレの発言が何かまずかったことだけは、その項垂れた背中からはっきり伝わってきた。
……え、なに。オレ、なんか変なこと言った?

