その日の夕食は、那須くんのお母さんの手作りだった。そしてご飯のあとはお風呂を借りて、那須くんの部屋に移動した。
外はすっかり暗くなっていて、薄く開けた窓からそよぐ夜風が気持ちいい。六月の夜の風は昼間の暑さが嘘みたいに涼しくて、カーテンをゆるく揺らしている。
さすがに夜なので試合の練習はせずに、オレはかるたの札の暗記。ローテーブルに暗記カードを並べてひたすら覚えていく。
那須くんはベッドの横の学習机で、何やらパソコンに向かっていた。覗き見たら、今日の試合の動画からオレの札の配置や取り方の得意不得意をデータ化しているらしい。試合をデータにするなんてオレには思いつきもしない発想で、本当にすごい人だなと改めて感心する。
だけど、パソコンに向かう那須くんの背中を見ていると、どうしても思い出してしまう。夕方、縁側で彼が言った、あの言葉を。
──俺が、お前と競技かるたが、やりたかったんだ。
あのときは、ちょうど那須くんがお母さんに呼ばれてしまって、続きを聞くことができなかった。だから、あれからずっと気になっている。
どうして那須くんは、オレなんかとかるたがやりたいって、思ったんだろう。
しばらく見ていると、ふいにキーボードを叩く音が止んだ。那須くんが、その場でぐーんと背伸びをする。そして、ぐるりと振り返った。
「じっと見てるの、気づいてるからな。何か言いたいことがあるなら、言えよ」
そう言いながら、那須くんは椅子から下りて、オレのほうへ近寄ってくる。
オレは、意を決して尋ねてみることにした。
「どうして那須くんは、オレとかるたやりたいって、思ってくれたの?」
「やっぱり、その話、気になってたのか」
「まあ、そりゃあ気になるよ。だってオレと那須くん、確かに部活は同じだけど……勉強会するまで、ほとんど話したことなかったし。クラスだって別だし」
そうなのだ。
那須くんとは、つい最近まで、ほとんど話したこともなかった。なのにどうして、彼はオレをそこまで気にかけてくれたんだろう。
那須くんは、オレの隣にあぐらをかいて座ると、肩をすくめた。
「お前、気づいてなかっただろうけど、けっこうあの部活で目立ってたからな」
「え、嘘っ、なんで?」
「なんでって、お前いつも部室にいるし、いつだって楽しそうに誰かとかるたしてたから」
「そ、それは部員だったら誰でもそうじゃない?」
「いや、競技かるたの選手じゃない部員は、お前ほど熱心に毎日部活に来てなかっただろ」
那須くんは、少し声をやわらげて続ける。
「お前さ、競技かるたには興味なさそうなのに、それでも毎日部室に来て、にこにこ楽しそうに誰かと対戦しててさ。それ見てて、ああ、楽しそうだなって……いつも思ってた」
那須くんにそんなふうに見られていたなんて、なんだか恥ずかしい。
けど、それと同時に、彼の言葉にふとひっかかりを覚えた。
「……あれ。那須くんは、かるた、楽しいって思ってないの?」
そう尋ねると、那須くんは、ふっと視線を外して、窓の外を見た。
すっかり暗くなった外は、もうほとんど何も見えない。なのに那須くんは、その暗闇の向こうの、もっと遠くを見つめるような目をしていた。
「どうだろう。昔は楽しいって思ってたけど……今は、ちょっと、よく分からなくなってる」
那須くんの言葉が、少しだけ暗く沈んでいる。
きっと、何かあったんだ。
尋ねていいものかオレが少し迷っていると、那須くんがこっちを見て、静かに笑った。
「お前、確かかるたを始めたきっかけは、おばあさんが褒めてくれたから……だったよな」
オレは、こくんとうなずく。
「那須くんは?」
尋ね返すと、那須くんは少し間を置いてから、ゆっくりと答えた。
「俺は……小学生のとき、仲のよかった親友がいて。そいつがかるた教室に通ってたから、俺も一緒に習い始めたのが、きっかけだった」
「そっか。那須くんは友達の影響でかるたを始めたんだ」
ならますます不思議だ。友達と一緒に始めたのなら、楽しかったはずなのに。なんで今は楽しいと思えないんだろう。
「そいつとかるたやってる時は、確かに楽しかった。でも、ちょうど五年生になった時に、ちょっとした事件が起きたんだ」
「事件?」
「かるた教室に来ていた上級生の一部が、俺の実家のこと──祖父が元ヤクザだって噂を、かるた教室のメンバーに言いふらして回ったんだ」
「え……」
思ってもみなかった答えに、オレは思わず言葉を失ってしまった。対する那須くんは、視線を自分の手元に戻し、淡々と続ける。
「そのせいで、俺はかるた教室で、ちょっとした腫れ物扱いになった。……とはいえ、そのときはまだ、あんまり気にしてなかったんだ。俺には親友がいたから。そいつさえいれば、他の奴らに何を言われたって、別にいいって思ってた」
でも、と。そこまで言って、那須くんの声が、すっと沈んだ。
「ある日、かるた教室に行ったら──その親友が、俺のことを、完全に無視するようになってたんだ」
「えっ……なんで……?」
「たぶん、その上級生たちに何か言われたんだろうな。それから、親友だと思ってたそいつは、学校でも俺のことを無視するようになった」
オレは何も言えなくなった。
友達だと思ってた人に、ある日突然無視される。自分のせいじゃないことで。那須くんは、そのときどれだけ辛かっただろう。そのことを思うと、胸の奥がぎゅうっと締め付けられるように苦しくなる。
でも、那須くんはそのあと、なぜか自嘲するような顔でこう続けた。
「だから──俺は、そいつに復讐することに決めたんだ」
外はすっかり暗くなっていて、薄く開けた窓からそよぐ夜風が気持ちいい。六月の夜の風は昼間の暑さが嘘みたいに涼しくて、カーテンをゆるく揺らしている。
さすがに夜なので試合の練習はせずに、オレはかるたの札の暗記。ローテーブルに暗記カードを並べてひたすら覚えていく。
那須くんはベッドの横の学習机で、何やらパソコンに向かっていた。覗き見たら、今日の試合の動画からオレの札の配置や取り方の得意不得意をデータ化しているらしい。試合をデータにするなんてオレには思いつきもしない発想で、本当にすごい人だなと改めて感心する。
だけど、パソコンに向かう那須くんの背中を見ていると、どうしても思い出してしまう。夕方、縁側で彼が言った、あの言葉を。
──俺が、お前と競技かるたが、やりたかったんだ。
あのときは、ちょうど那須くんがお母さんに呼ばれてしまって、続きを聞くことができなかった。だから、あれからずっと気になっている。
どうして那須くんは、オレなんかとかるたがやりたいって、思ったんだろう。
しばらく見ていると、ふいにキーボードを叩く音が止んだ。那須くんが、その場でぐーんと背伸びをする。そして、ぐるりと振り返った。
「じっと見てるの、気づいてるからな。何か言いたいことがあるなら、言えよ」
そう言いながら、那須くんは椅子から下りて、オレのほうへ近寄ってくる。
オレは、意を決して尋ねてみることにした。
「どうして那須くんは、オレとかるたやりたいって、思ってくれたの?」
「やっぱり、その話、気になってたのか」
「まあ、そりゃあ気になるよ。だってオレと那須くん、確かに部活は同じだけど……勉強会するまで、ほとんど話したことなかったし。クラスだって別だし」
そうなのだ。
那須くんとは、つい最近まで、ほとんど話したこともなかった。なのにどうして、彼はオレをそこまで気にかけてくれたんだろう。
那須くんは、オレの隣にあぐらをかいて座ると、肩をすくめた。
「お前、気づいてなかっただろうけど、けっこうあの部活で目立ってたからな」
「え、嘘っ、なんで?」
「なんでって、お前いつも部室にいるし、いつだって楽しそうに誰かとかるたしてたから」
「そ、それは部員だったら誰でもそうじゃない?」
「いや、競技かるたの選手じゃない部員は、お前ほど熱心に毎日部活に来てなかっただろ」
那須くんは、少し声をやわらげて続ける。
「お前さ、競技かるたには興味なさそうなのに、それでも毎日部室に来て、にこにこ楽しそうに誰かと対戦しててさ。それ見てて、ああ、楽しそうだなって……いつも思ってた」
那須くんにそんなふうに見られていたなんて、なんだか恥ずかしい。
けど、それと同時に、彼の言葉にふとひっかかりを覚えた。
「……あれ。那須くんは、かるた、楽しいって思ってないの?」
そう尋ねると、那須くんは、ふっと視線を外して、窓の外を見た。
すっかり暗くなった外は、もうほとんど何も見えない。なのに那須くんは、その暗闇の向こうの、もっと遠くを見つめるような目をしていた。
「どうだろう。昔は楽しいって思ってたけど……今は、ちょっと、よく分からなくなってる」
那須くんの言葉が、少しだけ暗く沈んでいる。
きっと、何かあったんだ。
尋ねていいものかオレが少し迷っていると、那須くんがこっちを見て、静かに笑った。
「お前、確かかるたを始めたきっかけは、おばあさんが褒めてくれたから……だったよな」
オレは、こくんとうなずく。
「那須くんは?」
尋ね返すと、那須くんは少し間を置いてから、ゆっくりと答えた。
「俺は……小学生のとき、仲のよかった親友がいて。そいつがかるた教室に通ってたから、俺も一緒に習い始めたのが、きっかけだった」
「そっか。那須くんは友達の影響でかるたを始めたんだ」
ならますます不思議だ。友達と一緒に始めたのなら、楽しかったはずなのに。なんで今は楽しいと思えないんだろう。
「そいつとかるたやってる時は、確かに楽しかった。でも、ちょうど五年生になった時に、ちょっとした事件が起きたんだ」
「事件?」
「かるた教室に来ていた上級生の一部が、俺の実家のこと──祖父が元ヤクザだって噂を、かるた教室のメンバーに言いふらして回ったんだ」
「え……」
思ってもみなかった答えに、オレは思わず言葉を失ってしまった。対する那須くんは、視線を自分の手元に戻し、淡々と続ける。
「そのせいで、俺はかるた教室で、ちょっとした腫れ物扱いになった。……とはいえ、そのときはまだ、あんまり気にしてなかったんだ。俺には親友がいたから。そいつさえいれば、他の奴らに何を言われたって、別にいいって思ってた」
でも、と。そこまで言って、那須くんの声が、すっと沈んだ。
「ある日、かるた教室に行ったら──その親友が、俺のことを、完全に無視するようになってたんだ」
「えっ……なんで……?」
「たぶん、その上級生たちに何か言われたんだろうな。それから、親友だと思ってたそいつは、学校でも俺のことを無視するようになった」
オレは何も言えなくなった。
友達だと思ってた人に、ある日突然無視される。自分のせいじゃないことで。那須くんは、そのときどれだけ辛かっただろう。そのことを思うと、胸の奥がぎゅうっと締め付けられるように苦しくなる。
でも、那須くんはそのあと、なぜか自嘲するような顔でこう続けた。
「だから──俺は、そいつに復讐することに決めたんだ」

