恋を知らない私への処方箋――エリート上司と癒やし系同僚がくれる、ほんものの愛

 次の日、出社した私は足を止めた。

「おはよう、望月さん」

 エントランスでばったり出くわした桐生さんが、いつも通りの爽やかな笑顔で声をかけてくる。

「お、おはようございます」

 昨日の出来事が頭をよぎり、まともに目を合わせられない。
 挨拶だけを済ませると、私はさりげなく視線を外し、足早に歩き出した。

 あれ? おかしいな。あれは夢じゃないよね……?

 首をひねりながら進んでいると、背後から足音が近づいてくる。

「昨日は楽しかったね。今度は、ふたりで食事でもどう?」

 いつの間にか肩を並べる位置まで来ていて、彼は気軽に声をかけてきた。

 なに?
 なんでこんなに馴れ馴れしいの。
 やっぱりモテる人ってこういうことに慣れてるのかな。

 このままエレベーターに乗ったら、彼も当然のようについてくる気がした。
 そうなったら、ずっと話しかけられるかもしれない。
 しかもその様子を女性社員たちに見られでもしたら――あとで何を言われるか想像しただけで、血の気が引いた。

 そうだ。

 思いついた瞬間、私は進路を変えた。
 エレベーターを避け、階段へ向かう。

 会社には立派なエレベーターがあり、そちらを使う人がほとんどだ。見かけるのは、せいぜい掃除のおばちゃんくらい。

 建物の隅にひっそり佇む非常階段。
 私自身も滅多に使わないけれど、背に腹は代えられない。


 目の前にそびえるそれを見上げ、しばし立ち止まる。
 ここから地獄が始まる。私の部署は十一階。

 朝からかなりの重労働だ。普段ほとんど運動していない私には、正直きつい。

 ……まあたまにはいいか。運動不足だったし。

「よし、行くか」

 気合を入れて一歩踏み出した――その瞬間、背後から声がした。

「ねえ、どうして今日は階段なの?」

 どこか間の抜けた声音。

 嫌な予感におそるおそる振り返ると、やっぱりそこにいた。

「き、桐生さん! あなたこそ、なんでこっちに?」

 絶対に来ないと思ったのに。
 なんで付いてきてるのよ。

 私が目を丸くすると、彼はにこりと笑った。

「だって、望月さんがこっちに来たから」

 そう言って、当然のように私の横に並ぶ。

「……へ?」

 呆然と見つめる。
 なにを考えているのか、さっぱりわからない。

 でも……まあいいか。これ以上逃げる場所もないし、階段なら誰にも会わないだろう。
 わざわざここを使う人なんて、掃除か運動目的くらいしかいない。

 彼がどういう意図でここまでついてきたのか。
 さっきからのフレンドリーすぎる態度も含めて、謎は尽きない。
 けれど、にこにこと微笑みかけてくる彼を前に、何か言い返す気力はもう残っていなかった。

 そのまま階段をのぼり始めると、桐生さんも当たり前みたいに隣を歩きはじめた。
 ちらりと横を見ると目が合ってしまい視線を逸らした。


 しばらく無言のまま進んでいると、桐生さんが口を開いた。

「ねえ、もしかして俺、避けられてる?」

 核心を突く言葉にぎくりとする。
 うーん、正解だけど。正直に言うのも違う気がするし、桐生さんが悪いわけでもない。
 これは完全に私の問題だ。

「いえ、別に」

 前を向いたまま、足を止めず上へ向かう。

「そうかなあ。俺、なにかした?」

 少し間を置いて、思い当たったように続けた。

「あ、あれかな。俺が君にナンパしてるように思った?」

 軽い調子で聞いてくる。

 桐生さんって、もしかしてチャラいのかな。

 どうしてそこまで気にかけてくるのか。
 不思議でしかたなくて、私はぴたりと立ち止まり、振り返った。

 桐生さんも驚いたように立ち止まり、まっすぐこちらを見る。

「ナンパじゃないなら、なんでそんなに構うんですか?」

「え、変……かな」

 きょとんとした表情で首をかしげ、純粋そうな瞳を向ける。

「俺としては、ただ君に興味があるんだけど」

 それが、わからないのよ。

「それはどういう意味ですか? 私が珍しいタイプだからですか?」

 一度、短く息をつく。

「それは、そうかもしれませんね。あなたみたいに女性から人気のある男性には、縁がないタイプでしょうから」

 そう言って、ぷいと顔を背ける。

「桐生さんからすれば、珍しくて、興味が湧くのかもしれないですね」

 なぜかわからない。無性に腹が立った。
 彼みたいな男性が私なんかに興味を持つはずがない。ずっと、そう思って生きてきた。

 だから傷つくことなんてないはずだったのに。
 それでも、やっぱりそうなんだと突きつけられると、少しだけ落胆してしまう。

 認めたくないけど。

 本当はこういうことには慣れているはずだった。
 なのに、少し気を抜くだけで心の隙を突かれる。心って本当にやっかいだ。
 だから人と深く関わるのは好きじゃない。

 惑わされて、かき乱されて、傷つくだけだから。

 黙り込んでいると、桐生さんが私の前に回り込んだ。
 間近で見る表情はどこか焦っている。

「いや、そういう意味じゃなくて。本当に君のことが気になるんだ」

 言葉を探すように考え、首を傾げる。

「うーん、伝わらないかな?」

 困ったように眉を寄せたあと、ふっと真面目な顔になった。

「じゃあ、はっきり言うね。君に好意がある」

 その瞬間、空気が変わった。
 私はぽかんとしたまま彼を見つめる。

 いま、なんて言った?
 好意があるって……?

「えっ、うそっ」

「うそって、どうしてそう思うの?」

 柔らかく笑い、穏やかに告げた。

「望月さんは魅力的だよ」

 信じられないものを見るみたいに、桐生さんを見つめ返す。

 なに、なんなの、この展開。
 会社ではエリートで、仕事もできて、女子社員から人気のあるこのイケメンが、私に好意?

 そんな、ありえない話が。

 じっと見つめていると、桐生さんは照れたように少しはにかんだ。

「そんなに見つめられると、照れるなあ」

 その顔がやけにきらきらして見えて、鼓動が早まる。
 もう、無理。

 私はその場から逃げ出した。
 彼と二人でいることが、耐えられなかった。

 恥ずかしすぎる。心臓が、おかしいくらいに鳴っている。
 だって、初めてだった。
 男性から好意があるなんて言われたのは。しかも、あんな素敵な人に。

 これは夢だ。そうに決まっている。
 でなければ、からかわれているだけ。

 頭の中でぐるぐる考えながら、私は全速力で階段を駆け上がっていった。