う、うそ!?
驚きのあまり立ち上がってしまい、その拍子に椅子が後ろへ倒れた。
「あ……ごめんなさい」
慌てて椅子を元に戻し、そっと腰を下ろす。
あの時見られていたなんて。遅い時間だったし、私たち以外は誰もいないと思っていたのに。
ど、どうしよう。大変なことになった。
朝からずっと突き刺すような視線を感じていた。
彼女たちの目つきを思い出すだけで、背中がひやりとする。
耳に入ってきたあの言葉の数々。胸の奥でばらばらだったものが静かにつながっていく。
さっき転ばされたのも……たぶん、そういうことなんだ。
「う、噂になってるんだ……どうしよう」
冷や汗がじわりと滲む。鼓動が早まり、指先がかすかに震えた。
女性の嫉妬は怖い。これ以上ひどいことをされたら。
「大丈夫だよ。今はまだ、軽い噂みたいだし。
でも……さっきのことを思うと、心配になるよね」
土岐くんは眉を寄せ、真剣な表情で考え込む。
「もし、それが本当だって広まったら……
今よりもっと危険が及ぶかもしれない」
心配そうな瞳がまっすぐこちらを捉えた。
私は、小さく頷くことしかできない。
そうだ。噂の段階であんな目に遭うんだ。
本当に付き合っていると知られたら――どうなるか、想像するだけで怖くなる。
桐生さんと両思いになれた嬉しさで、すっかり浮かれていた。こうなるリスクもわかっていたはずなのに。
舞い上がっていた私は、その現実から目を背けていたのかもしれない。
どうしていいかわからず、ぎゅっと目を閉じた。
「会社では、彼と付き合っていることを隠した方がいいかもしれない」
低く落ち着いた声で土岐くんがぽつりと告げる。
顔を上げると、彼は本気で心配している様子だった。
目が合うとふわりと微笑んでくれて、張りつめていた気持ちが少しだけ緩んだ。
「うん……そうだね。そうするよ」
これ以上、火に油を注ぐようなことは避けた方がいい。
「もし何かあったら相談して。
僕でよければ、いつでも力になるから」
にこりと笑うその顔に、また胸が小さく鳴った。
なぜだろう、彼といると不思議と落ち着く。大丈夫だって思えてしまう。
私がふっと笑うと、彼も嬉しそうに目を細めた。
そして昼休み。
私はさっそく行動に移すことにした。
桐生さんに仕事を頼むふりをして、そっとメモを渡す。机の影に身を寄せ、周囲の視界に入らないよう気を配りながら。
彼は、ほんの一瞬だけ眉を上げた。
けれどすぐにすまし顔に戻り、自然な動作でそれを受け取る。
さすがポーカーフェイス。
こういうところ、本当に抜かりがない。
彼は何気ない足取りで、その場を離れていった。
メモには、短く一言。
『帰りに会社の裏手へ』とだけ、書いておいた。
そして終業後。
部署を出るとき、ちらりと桐生さんを見る。
彼もこちらに目を向け微笑んだ……ように見えた。
「わかっているよ」そう言われた気がして、胸が少しだけ弾んだ。
私はそのまま一階へ降り、会社の裏手へと回った。
角を曲がると、表通りの賑わいがすっと遠のいていく。
相変わらず、ここはひっそりしていて人影もない。正面の大通りとは大違いだ。あちらは明るく人通りも多いのに、こちらは外灯が静かに舗道を照らすだけ。
でも……私は案外こういう場所が好きだった。
落ち着くんだよね。
まあ、女ひとりだと危ないのかもしれないけど。
「早く来ないかなあ」
彼の顔を思い浮かべたら、つい口元が緩んだ。
けれど、すぐにはっとする。
これから言うことを考えると、浮かれてばかりもいられない。
彼はどんな反応をするだろう。
やることもなくて空を見上げる。
わずかに星の光がにじんでいて、その静けさに胸が少しだけあたたかくなった。
しばらくして、桐生さんがやってきた。
「ごめん、待った?」
申し訳なさそうにぺこりと頭を下げる。
気づけば二十分ほど経っていた。
でも、待つことには慣れている。私にとっては、たいしたことじゃない。
「いいえ、大丈夫です」
にこっと笑うと、彼はほっとしたように微笑んだ。
「もっと早く来たかったんだけど、ちょっと捕まってて。
本当にごめん」
今度は、深々と頭を下げられる。
「そんな、全然平気ですよ」
そう口にすると、彼は顔を上げて首をかしげた。
「待つことに慣れてる、って?」
「はい」
軽く頷くと、彼は困ったように笑う。
「……君らしいな」
どこか嬉しそうでいて、やわらかな笑みだった。
私らしいってどういう意味?と思いつつ、今は追及しなかった。話が逸れてしまいそうだったから。
「あの、それで……お願いがあるんですけど」
彼は、真面目な表情で頷いた。
「うん」
まっすぐ見つめてくる。
こういう真摯なところも好きだな、と思う。
「えっと、とても言いづらいのですが」
緊張で、唾をごくりと呑み込む。これから口にする言葉はきっと失礼にあたる。
少し沈黙が落ちる。
それでも彼は、急かすことなくただ待ってくれた。
「……私たちが付き合っていること、会社では内緒にしてくれませんか?」
驚きのあまり立ち上がってしまい、その拍子に椅子が後ろへ倒れた。
「あ……ごめんなさい」
慌てて椅子を元に戻し、そっと腰を下ろす。
あの時見られていたなんて。遅い時間だったし、私たち以外は誰もいないと思っていたのに。
ど、どうしよう。大変なことになった。
朝からずっと突き刺すような視線を感じていた。
彼女たちの目つきを思い出すだけで、背中がひやりとする。
耳に入ってきたあの言葉の数々。胸の奥でばらばらだったものが静かにつながっていく。
さっき転ばされたのも……たぶん、そういうことなんだ。
「う、噂になってるんだ……どうしよう」
冷や汗がじわりと滲む。鼓動が早まり、指先がかすかに震えた。
女性の嫉妬は怖い。これ以上ひどいことをされたら。
「大丈夫だよ。今はまだ、軽い噂みたいだし。
でも……さっきのことを思うと、心配になるよね」
土岐くんは眉を寄せ、真剣な表情で考え込む。
「もし、それが本当だって広まったら……
今よりもっと危険が及ぶかもしれない」
心配そうな瞳がまっすぐこちらを捉えた。
私は、小さく頷くことしかできない。
そうだ。噂の段階であんな目に遭うんだ。
本当に付き合っていると知られたら――どうなるか、想像するだけで怖くなる。
桐生さんと両思いになれた嬉しさで、すっかり浮かれていた。こうなるリスクもわかっていたはずなのに。
舞い上がっていた私は、その現実から目を背けていたのかもしれない。
どうしていいかわからず、ぎゅっと目を閉じた。
「会社では、彼と付き合っていることを隠した方がいいかもしれない」
低く落ち着いた声で土岐くんがぽつりと告げる。
顔を上げると、彼は本気で心配している様子だった。
目が合うとふわりと微笑んでくれて、張りつめていた気持ちが少しだけ緩んだ。
「うん……そうだね。そうするよ」
これ以上、火に油を注ぐようなことは避けた方がいい。
「もし何かあったら相談して。
僕でよければ、いつでも力になるから」
にこりと笑うその顔に、また胸が小さく鳴った。
なぜだろう、彼といると不思議と落ち着く。大丈夫だって思えてしまう。
私がふっと笑うと、彼も嬉しそうに目を細めた。
そして昼休み。
私はさっそく行動に移すことにした。
桐生さんに仕事を頼むふりをして、そっとメモを渡す。机の影に身を寄せ、周囲の視界に入らないよう気を配りながら。
彼は、ほんの一瞬だけ眉を上げた。
けれどすぐにすまし顔に戻り、自然な動作でそれを受け取る。
さすがポーカーフェイス。
こういうところ、本当に抜かりがない。
彼は何気ない足取りで、その場を離れていった。
メモには、短く一言。
『帰りに会社の裏手へ』とだけ、書いておいた。
そして終業後。
部署を出るとき、ちらりと桐生さんを見る。
彼もこちらに目を向け微笑んだ……ように見えた。
「わかっているよ」そう言われた気がして、胸が少しだけ弾んだ。
私はそのまま一階へ降り、会社の裏手へと回った。
角を曲がると、表通りの賑わいがすっと遠のいていく。
相変わらず、ここはひっそりしていて人影もない。正面の大通りとは大違いだ。あちらは明るく人通りも多いのに、こちらは外灯が静かに舗道を照らすだけ。
でも……私は案外こういう場所が好きだった。
落ち着くんだよね。
まあ、女ひとりだと危ないのかもしれないけど。
「早く来ないかなあ」
彼の顔を思い浮かべたら、つい口元が緩んだ。
けれど、すぐにはっとする。
これから言うことを考えると、浮かれてばかりもいられない。
彼はどんな反応をするだろう。
やることもなくて空を見上げる。
わずかに星の光がにじんでいて、その静けさに胸が少しだけあたたかくなった。
しばらくして、桐生さんがやってきた。
「ごめん、待った?」
申し訳なさそうにぺこりと頭を下げる。
気づけば二十分ほど経っていた。
でも、待つことには慣れている。私にとっては、たいしたことじゃない。
「いいえ、大丈夫です」
にこっと笑うと、彼はほっとしたように微笑んだ。
「もっと早く来たかったんだけど、ちょっと捕まってて。
本当にごめん」
今度は、深々と頭を下げられる。
「そんな、全然平気ですよ」
そう口にすると、彼は顔を上げて首をかしげた。
「待つことに慣れてる、って?」
「はい」
軽く頷くと、彼は困ったように笑う。
「……君らしいな」
どこか嬉しそうでいて、やわらかな笑みだった。
私らしいってどういう意味?と思いつつ、今は追及しなかった。話が逸れてしまいそうだったから。
「あの、それで……お願いがあるんですけど」
彼は、真面目な表情で頷いた。
「うん」
まっすぐ見つめてくる。
こういう真摯なところも好きだな、と思う。
「えっと、とても言いづらいのですが」
緊張で、唾をごくりと呑み込む。これから口にする言葉はきっと失礼にあたる。
少し沈黙が落ちる。
それでも彼は、急かすことなくただ待ってくれた。
「……私たちが付き合っていること、会社では内緒にしてくれませんか?」
