朝が来た。いつもと同じ……はずなのにどこか違う。
ぼんやりしたまま天井を見つめる。
昨日のあれは夢だったのだろうか。そう思いかけて、すぐに首を振った。
ちがう。細かいところまではっきり覚えている。
勢いよく起き上がり、唇にそっと手をあてた。
触れた指先にかすかな熱が残っている気がする。
キス、されたよね。二度目の。
信じられない。私はついこの間まで恋をしたことすらなかった。
誰かに告白されたこともないし、自分から想いを伝えたことももちろんない。
……胸を張ることじゃないけど。
ましてや、この私が誰かとお付き合いするなんて。
そんな未来、想像したこともなかった。
それに、キスだって。人生で一度もなかったのに。
漫画やドラマの中の、きらきらした世界の出来事だと思っていた。
夢のまた夢だと決めつけていた。
なのに、もう二回も。しかもあんなスパダリと。
思考に疲れて、もう一度ベッドに身を投げた。
そのままごろごろと転がり、芋虫みたいに身悶えしながら、抱き枕をぎゅっと抱きしめる。
両想い……なんだよね。
私と桐生さんが。本当に? マジで?
今さらになってその事実が実感に変わり、胸いっぱいに広がっていく。
人生初の恋。そして、彼氏。
心臓がうるさい。さっきから全然落ち着かない。
こんなふうにときめいたことが今まであっただろうか。人生って、本当に何が起こるかわからない。
ふと時計に目をやって息をのんだ。
もう十分も経っている。
まずい。このままじゃ遅刻だ。
名残惜しさを振り切るようにベッドを出て、慌てて準備に取りかかった。
通勤中、目に入る景色が、これまでとはまったく違って見えた。
青い空はやけにまぶしく、小鳥の声まで愛おしい。
行き交う人たちも、なんだか幸せそう。
不思議だ。歩くだけで心が弾む。
恋って、こんなに世界を変えるものなの?
ふと彼の顔が頭に浮かび、胸がきゅっと跳ねた。
きゃー私ったら、朝から何を考えてるのよ。
慌てて両腕をぶんぶんと振る。
はっとして周囲を見ると、何人かの視線がこちらに向いていた気がして、頬が熱くなる。
恥ずかしくなって身体をすくめた。
しまった、はしゃぎ過ぎたか。ペロッと小さく舌を出した。
そのまま何事もなかったふりをして歩き出す。
それでも胸のうきうきは隠しきれなかった。
はじめての甘酸っぱい恋に、私はすっかり浮かれていた。
しかし、すぐに打ちのめされることになる。
出社した私は浮かれ気分のまま自分の席に腰を下ろした。
その瞬間、胸がざわついた。
理由はわからない。ただなにか嫌な気配が漂っている。
ふと視線を向けると、同じ部署の女性社員がいた。
こちらを射抜くような鋭い目。
目が合った途端、彼女はすぐに顔を逸らした。
……あからさまに怒ってる、よね。なんで?
今度は別の方向から視線を感じる。そちらを向けば、別の女性と目が合ってぎろりと睨まれた。
いったいこれは。
呆然としていると、低い声が耳に届いた。
「いんらん女」
通りすがりの女性がぼそりとつぶやく。はっと振り返りその背中を目で追った。
い、いんらんって――淫乱だよね?
頭が真っ白になる。そんな言葉を向けられたのは初めてだった。
すると、ガンっと机が音を立てる。
誰かが私の机を蹴った……いや、当たっただけ?
視線を上げればそこには鈴木さんがいて、険しい表情でじっと睨みつけてくる。
「……サイテー」
それだけ言い残し彼女は去っていった。
な、なに? なにが起こってるの?
状況が飲み込めないまま視線をさまよわせていると、
「おはよう、望月さん」
爽やかな声とともに桐生さんが近づいてきた。
「お、おはようございます」
緊張で声が上ずる。
昨日の今日でどう接すればいいのかわからない。
彼はにこりと笑い、自然な仕草で私の耳元へ顔を寄せた。
「今日も可愛いね」
「な……」
顔が一気に熱くなる。言葉が出てこなくて、口を開いたまま固まった。
桐生さんは余裕のある笑みを浮かべ、そのまま自分のデスクへ向かっていく。
その背中を見送ったあと、また不穏な空気が肌にまとわりついた。
振り向けば、女性社員たちが揃ってこちらを睨んでいる。
理由はわからないのに、悪寒が走った。
* * *
なにかがおかしい。
先ほど手渡された大量の資料を抱え、私はひとり廊下を歩いていた。
腕にずしりと重みがかかり、歩みが鈍る。
今日はなぜか女性社員たちからの圧が強い。
それに頼まれる仕事の量がやけに多い。いつもより明らかに。
よくあることと言えば、そうなのかもしれない。でも、これはさすがに多すぎる。
手元の資料の束に目を落とし、ため息がこぼれた。
ひとりでさばけるかなあ。
断れない性格のせいで、結局すべて引き受けてしまった。
……私、なにかしたのかな。
女性から嫌われるようなこと……?
はっとした、その直後。
足元で、何かに引っかかる感触があった。
資料を抱えたまま前のめりに倒れ、紙の束が床に散らばる。
くすくすと笑い声がした。
顔を上げると、二人の女性社員がこちらを見下ろしている。その口元に浮かぶ笑みは、明らかに好意的なものじゃない。
「いい気味」
吐き捨てるように言って、彼女たちは去っていった。
……これは、確実に嫌がらせだよね。
肩を落としながら立ち上がろうとして。
「いたっ」
膝に、ひりっとした痛みが走った。すりむいてしまったらしい。
「はは……踏んだり蹴ったり」
小さく息をついた、そのとき。
そっと、手が差し出された。
「だいじょうぶ?」
驚いて顔を上げると、土岐くんがそこにいた。
ぼんやりしたまま天井を見つめる。
昨日のあれは夢だったのだろうか。そう思いかけて、すぐに首を振った。
ちがう。細かいところまではっきり覚えている。
勢いよく起き上がり、唇にそっと手をあてた。
触れた指先にかすかな熱が残っている気がする。
キス、されたよね。二度目の。
信じられない。私はついこの間まで恋をしたことすらなかった。
誰かに告白されたこともないし、自分から想いを伝えたことももちろんない。
……胸を張ることじゃないけど。
ましてや、この私が誰かとお付き合いするなんて。
そんな未来、想像したこともなかった。
それに、キスだって。人生で一度もなかったのに。
漫画やドラマの中の、きらきらした世界の出来事だと思っていた。
夢のまた夢だと決めつけていた。
なのに、もう二回も。しかもあんなスパダリと。
思考に疲れて、もう一度ベッドに身を投げた。
そのままごろごろと転がり、芋虫みたいに身悶えしながら、抱き枕をぎゅっと抱きしめる。
両想い……なんだよね。
私と桐生さんが。本当に? マジで?
今さらになってその事実が実感に変わり、胸いっぱいに広がっていく。
人生初の恋。そして、彼氏。
心臓がうるさい。さっきから全然落ち着かない。
こんなふうにときめいたことが今まであっただろうか。人生って、本当に何が起こるかわからない。
ふと時計に目をやって息をのんだ。
もう十分も経っている。
まずい。このままじゃ遅刻だ。
名残惜しさを振り切るようにベッドを出て、慌てて準備に取りかかった。
通勤中、目に入る景色が、これまでとはまったく違って見えた。
青い空はやけにまぶしく、小鳥の声まで愛おしい。
行き交う人たちも、なんだか幸せそう。
不思議だ。歩くだけで心が弾む。
恋って、こんなに世界を変えるものなの?
ふと彼の顔が頭に浮かび、胸がきゅっと跳ねた。
きゃー私ったら、朝から何を考えてるのよ。
慌てて両腕をぶんぶんと振る。
はっとして周囲を見ると、何人かの視線がこちらに向いていた気がして、頬が熱くなる。
恥ずかしくなって身体をすくめた。
しまった、はしゃぎ過ぎたか。ペロッと小さく舌を出した。
そのまま何事もなかったふりをして歩き出す。
それでも胸のうきうきは隠しきれなかった。
はじめての甘酸っぱい恋に、私はすっかり浮かれていた。
しかし、すぐに打ちのめされることになる。
出社した私は浮かれ気分のまま自分の席に腰を下ろした。
その瞬間、胸がざわついた。
理由はわからない。ただなにか嫌な気配が漂っている。
ふと視線を向けると、同じ部署の女性社員がいた。
こちらを射抜くような鋭い目。
目が合った途端、彼女はすぐに顔を逸らした。
……あからさまに怒ってる、よね。なんで?
今度は別の方向から視線を感じる。そちらを向けば、別の女性と目が合ってぎろりと睨まれた。
いったいこれは。
呆然としていると、低い声が耳に届いた。
「いんらん女」
通りすがりの女性がぼそりとつぶやく。はっと振り返りその背中を目で追った。
い、いんらんって――淫乱だよね?
頭が真っ白になる。そんな言葉を向けられたのは初めてだった。
すると、ガンっと机が音を立てる。
誰かが私の机を蹴った……いや、当たっただけ?
視線を上げればそこには鈴木さんがいて、険しい表情でじっと睨みつけてくる。
「……サイテー」
それだけ言い残し彼女は去っていった。
な、なに? なにが起こってるの?
状況が飲み込めないまま視線をさまよわせていると、
「おはよう、望月さん」
爽やかな声とともに桐生さんが近づいてきた。
「お、おはようございます」
緊張で声が上ずる。
昨日の今日でどう接すればいいのかわからない。
彼はにこりと笑い、自然な仕草で私の耳元へ顔を寄せた。
「今日も可愛いね」
「な……」
顔が一気に熱くなる。言葉が出てこなくて、口を開いたまま固まった。
桐生さんは余裕のある笑みを浮かべ、そのまま自分のデスクへ向かっていく。
その背中を見送ったあと、また不穏な空気が肌にまとわりついた。
振り向けば、女性社員たちが揃ってこちらを睨んでいる。
理由はわからないのに、悪寒が走った。
* * *
なにかがおかしい。
先ほど手渡された大量の資料を抱え、私はひとり廊下を歩いていた。
腕にずしりと重みがかかり、歩みが鈍る。
今日はなぜか女性社員たちからの圧が強い。
それに頼まれる仕事の量がやけに多い。いつもより明らかに。
よくあることと言えば、そうなのかもしれない。でも、これはさすがに多すぎる。
手元の資料の束に目を落とし、ため息がこぼれた。
ひとりでさばけるかなあ。
断れない性格のせいで、結局すべて引き受けてしまった。
……私、なにかしたのかな。
女性から嫌われるようなこと……?
はっとした、その直後。
足元で、何かに引っかかる感触があった。
資料を抱えたまま前のめりに倒れ、紙の束が床に散らばる。
くすくすと笑い声がした。
顔を上げると、二人の女性社員がこちらを見下ろしている。その口元に浮かぶ笑みは、明らかに好意的なものじゃない。
「いい気味」
吐き捨てるように言って、彼女たちは去っていった。
……これは、確実に嫌がらせだよね。
肩を落としながら立ち上がろうとして。
「いたっ」
膝に、ひりっとした痛みが走った。すりむいてしまったらしい。
「はは……踏んだり蹴ったり」
小さく息をついた、そのとき。
そっと、手が差し出された。
「だいじょうぶ?」
驚いて顔を上げると、土岐くんがそこにいた。
