翌朝、出社するとさっそくエントランスで桐生さんと遭遇した。
気持ちがざわつく。なにか話さなきゃと思うのに、言葉が喉の奥で絡まったまま声にならない。
「あ、あの……」
「おはよう」
それだけ言って彼はすぐに背を向けた。
拒まれた気がして、胸がぎゅっと締めつけられる。
怒っている。昨日のことでやっぱり誤解しているんだ。
去っていく背中を目で追うけれど足は動かない。
呼び止める勇気もなく、彼はそのままエントランスを抜けていった。
じくじくと胸が痛む。こんな感覚は初めてだ。
好きな人に冷たくされるってこんなにも堪えるものなの。このまま続いたら心がもたないよ。
会社に行くの嫌になりそう。
ふと浮かんだ考えにすぐ苦笑した。
我ながら小学生みたいな発想で情けない。社会人として、これはダメだよね。
仕事が始まってからも、パソコンの画面に顔を向けながらそっと視線だけを横に滑らせる。
席は離れているけれど、ここから少しだけ彼の姿が見える。
真剣な表情で仕事をしている桐生さん。
相変わらず格好よくて、気づくと見惚れてしまっていた。
はっとして視線を戻す。
違う、そうじゃない。
ぼんやりしている場合じゃない。誤解を解かなきゃいけないのに、何をしてるんだろう。
しばらくして、彼が席を立った。
近くを通る瞬間に声をかけようとしたけど、結局何も言えないまま、通り過ぎていく背中を見送るだけだった。
そんな器用なこと、私にできるはずないじゃない。
こういう展開、ドラマでよく見る気がする。
彼女たちは、どうやって乗り切ってたっけ。思い出そうとしても肝心なところが浮かばない。
小さく息を吐いたそのとき、どこからかくすくすと笑い声が聞こえてきた。
振り返ると、後ろの席の女性たちが顔を寄せ合って話している。
向けられた視線がじわりとまとわりついた。
嫌な予感がする。あの目は悪意があるときの目だ。経験上、よく知っている。
私は視線をそらして前を向いた。
それでも気になって、耳だけが勝手に拾ってしまう。
「ね、見てよ、あれ」
「あの子、勘違いしちゃってさ」
「いい気味じゃない? 最近、調子乗ってたし」
「桐生さんがあんな子、相手にするわけないじゃん」
小さな笑いと一緒に投げられる言葉。
その矛先が私だと、すぐにわかった。
桐生さんが私を避けているのに気づいたんだろう。今まで親しくしていたことが、相当気に入らなかったらしい。
かっと身体が熱くなる。
なんでこんなこと言われなきゃいけないの。
わかってる。桐生さんと釣り合わないことくらい、自分が一番わかってる。
でも、あんなふうに迫られて甘い言葉を言われ続けたら……舞い上がってしまう。
そして、好きになっちゃうじゃない。
そうよ。私は桐生さんのことが好き。
気づいたばかりなのに、今度は彼のほうが距離を取るなんて。しかも、悪口のオンパレードときた。
なんなのよ、もう。
私は耳を塞ぐこともできず、意地悪な言葉にただ耐え続けるしかなかった。
お昼のチャイムが鳴ると同時に、私は桐生さんへ視線を向けた。
彼は立ち上がり、席を離れていく。
後を追いかけようかと一瞬迷ったけれど、やっぱり足は動かなかった。
話しかける勇気なんてないし、周りの目も気になる。今声をかけたらさらに噂が立ってしまうかもしれない。
そんな考えが頭を占めて、胸のあたりがきゅっと縮こまる。
怖い。これ以上傷つきたくない。
でも、このままじゃなにも変わらない。
そう思っているうちに、桐生さんの姿は人の流れに紛れて見えなくなってしまった。
「……はぁ」
机に突っ伏した、そのとき。
「あの、望月さん」
声に振り返ると、入口付近に土岐くんが立っていた。
「え! 土岐くん?」
思わず目を見張った。幸い私の席から入口までは近い。
そのまま立ち上がって、彼のほうへ歩み寄る。
「どうしたの?」
声をかけると、土岐くんはいつものようににこりと笑った。
気づけば私は食堂のテーブルに座っていた。
本当は、いつもどおり一人で食べるつもりだったのに、向かいには目を輝かせた土岐くんがいる。
「わぁ、おいしそうですね」
嬉しそうに微笑む彼の前には、ハンバーグ定食。
ちなみに、私の前にあるのはサバ定食だ。
さっき、彼にランチへ誘われた。
声をかけられた瞬間はなにか用事でもあるのかと思ったのに、まさかのランチのお誘い。
いつも一人で食べていたから、誰かに誘われること自体が珍しくて余計に驚いてしまった。
特に断る理由もなく、私は彼の誘いを受けた。
……いや、正直に言えば、嬉しかった。
だってランチに誘うためにわざわざ探してくれたってことでしょ。
それって、私のことを少しでも好意的に思ってくれているってことで。
「必要としてくれた」その事実が、心の奥深くに静かに響いた。
ふと顔を上げれば視線が合って彼がふわりと笑う。
ほんとに可愛い。
一緒にいると、自然と力が抜けて気持ちが落ち着くんだよね。
それにしても……。
彼が選んだハンバーグ定食に目を向ける。食堂に着くなり、迷いもなく注文していた。
好物なんだろうな。なんだか、すごく似合う。
それだけで、胸がふわっとあたたまった。
「望月さんはサバが好きなんですか?」
彼も気になったのか、私の頼んだサバ定食に目を向けていた。
「うん、まあ。お魚は好きだよ」
――あ、自然とため口になっちゃった。
そう思った瞬間、彼がやわらかく笑った。
「そうですね。そろそろお互い敬語はやめにしませんか。
僕も、そのほうが嬉しいです」
ほんのり赤くなった頬。その照れた表情に、思わず視線を逸らす。
「そ、そうだね。じゃあ……そうしよっか」
なんだか落ち着かない。胸のあたりがむずむずする。
甘酸っぱい名前のつかない空気が漂った。
ふと、二人の間に沈黙が落ちる。
「それじゃあ、いただきます」
土岐くんが、明るく声を上げた。
「いただきます」
私も手を合わせ、箸を取る。
食べながら、つい彼のほうを見てしまった。
それにしても見事な変身ぶりだ。
昨日の彼とはまるで別人。今はどこにでもいそうな地味な社員にしか見えない。
あのアイドルみたいな男の子はいったい……。
じっと見ていると、ふと彼が顔を上げた。
「なに?」
不思議そうに首を傾げる仕草がまた可愛くて、心の中で小さく悶える。
「ううん、なんでもない。それより……話ってなに?」
そう。これが本題だ。
さっき、彼は「話がある」と言っていた。
だからランチに誘われたんだ。危うく忘れるところだった。
気持ちがざわつく。なにか話さなきゃと思うのに、言葉が喉の奥で絡まったまま声にならない。
「あ、あの……」
「おはよう」
それだけ言って彼はすぐに背を向けた。
拒まれた気がして、胸がぎゅっと締めつけられる。
怒っている。昨日のことでやっぱり誤解しているんだ。
去っていく背中を目で追うけれど足は動かない。
呼び止める勇気もなく、彼はそのままエントランスを抜けていった。
じくじくと胸が痛む。こんな感覚は初めてだ。
好きな人に冷たくされるってこんなにも堪えるものなの。このまま続いたら心がもたないよ。
会社に行くの嫌になりそう。
ふと浮かんだ考えにすぐ苦笑した。
我ながら小学生みたいな発想で情けない。社会人として、これはダメだよね。
仕事が始まってからも、パソコンの画面に顔を向けながらそっと視線だけを横に滑らせる。
席は離れているけれど、ここから少しだけ彼の姿が見える。
真剣な表情で仕事をしている桐生さん。
相変わらず格好よくて、気づくと見惚れてしまっていた。
はっとして視線を戻す。
違う、そうじゃない。
ぼんやりしている場合じゃない。誤解を解かなきゃいけないのに、何をしてるんだろう。
しばらくして、彼が席を立った。
近くを通る瞬間に声をかけようとしたけど、結局何も言えないまま、通り過ぎていく背中を見送るだけだった。
そんな器用なこと、私にできるはずないじゃない。
こういう展開、ドラマでよく見る気がする。
彼女たちは、どうやって乗り切ってたっけ。思い出そうとしても肝心なところが浮かばない。
小さく息を吐いたそのとき、どこからかくすくすと笑い声が聞こえてきた。
振り返ると、後ろの席の女性たちが顔を寄せ合って話している。
向けられた視線がじわりとまとわりついた。
嫌な予感がする。あの目は悪意があるときの目だ。経験上、よく知っている。
私は視線をそらして前を向いた。
それでも気になって、耳だけが勝手に拾ってしまう。
「ね、見てよ、あれ」
「あの子、勘違いしちゃってさ」
「いい気味じゃない? 最近、調子乗ってたし」
「桐生さんがあんな子、相手にするわけないじゃん」
小さな笑いと一緒に投げられる言葉。
その矛先が私だと、すぐにわかった。
桐生さんが私を避けているのに気づいたんだろう。今まで親しくしていたことが、相当気に入らなかったらしい。
かっと身体が熱くなる。
なんでこんなこと言われなきゃいけないの。
わかってる。桐生さんと釣り合わないことくらい、自分が一番わかってる。
でも、あんなふうに迫られて甘い言葉を言われ続けたら……舞い上がってしまう。
そして、好きになっちゃうじゃない。
そうよ。私は桐生さんのことが好き。
気づいたばかりなのに、今度は彼のほうが距離を取るなんて。しかも、悪口のオンパレードときた。
なんなのよ、もう。
私は耳を塞ぐこともできず、意地悪な言葉にただ耐え続けるしかなかった。
お昼のチャイムが鳴ると同時に、私は桐生さんへ視線を向けた。
彼は立ち上がり、席を離れていく。
後を追いかけようかと一瞬迷ったけれど、やっぱり足は動かなかった。
話しかける勇気なんてないし、周りの目も気になる。今声をかけたらさらに噂が立ってしまうかもしれない。
そんな考えが頭を占めて、胸のあたりがきゅっと縮こまる。
怖い。これ以上傷つきたくない。
でも、このままじゃなにも変わらない。
そう思っているうちに、桐生さんの姿は人の流れに紛れて見えなくなってしまった。
「……はぁ」
机に突っ伏した、そのとき。
「あの、望月さん」
声に振り返ると、入口付近に土岐くんが立っていた。
「え! 土岐くん?」
思わず目を見張った。幸い私の席から入口までは近い。
そのまま立ち上がって、彼のほうへ歩み寄る。
「どうしたの?」
声をかけると、土岐くんはいつものようににこりと笑った。
気づけば私は食堂のテーブルに座っていた。
本当は、いつもどおり一人で食べるつもりだったのに、向かいには目を輝かせた土岐くんがいる。
「わぁ、おいしそうですね」
嬉しそうに微笑む彼の前には、ハンバーグ定食。
ちなみに、私の前にあるのはサバ定食だ。
さっき、彼にランチへ誘われた。
声をかけられた瞬間はなにか用事でもあるのかと思ったのに、まさかのランチのお誘い。
いつも一人で食べていたから、誰かに誘われること自体が珍しくて余計に驚いてしまった。
特に断る理由もなく、私は彼の誘いを受けた。
……いや、正直に言えば、嬉しかった。
だってランチに誘うためにわざわざ探してくれたってことでしょ。
それって、私のことを少しでも好意的に思ってくれているってことで。
「必要としてくれた」その事実が、心の奥深くに静かに響いた。
ふと顔を上げれば視線が合って彼がふわりと笑う。
ほんとに可愛い。
一緒にいると、自然と力が抜けて気持ちが落ち着くんだよね。
それにしても……。
彼が選んだハンバーグ定食に目を向ける。食堂に着くなり、迷いもなく注文していた。
好物なんだろうな。なんだか、すごく似合う。
それだけで、胸がふわっとあたたまった。
「望月さんはサバが好きなんですか?」
彼も気になったのか、私の頼んだサバ定食に目を向けていた。
「うん、まあ。お魚は好きだよ」
――あ、自然とため口になっちゃった。
そう思った瞬間、彼がやわらかく笑った。
「そうですね。そろそろお互い敬語はやめにしませんか。
僕も、そのほうが嬉しいです」
ほんのり赤くなった頬。その照れた表情に、思わず視線を逸らす。
「そ、そうだね。じゃあ……そうしよっか」
なんだか落ち着かない。胸のあたりがむずむずする。
甘酸っぱい名前のつかない空気が漂った。
ふと、二人の間に沈黙が落ちる。
「それじゃあ、いただきます」
土岐くんが、明るく声を上げた。
「いただきます」
私も手を合わせ、箸を取る。
食べながら、つい彼のほうを見てしまった。
それにしても見事な変身ぶりだ。
昨日の彼とはまるで別人。今はどこにでもいそうな地味な社員にしか見えない。
あのアイドルみたいな男の子はいったい……。
じっと見ていると、ふと彼が顔を上げた。
「なに?」
不思議そうに首を傾げる仕草がまた可愛くて、心の中で小さく悶える。
「ううん、なんでもない。それより……話ってなに?」
そう。これが本題だ。
さっき、彼は「話がある」と言っていた。
だからランチに誘われたんだ。危うく忘れるところだった。
