恋を知らない私への処方箋――エリート上司と癒やし系同僚がくれる、ほんものの愛

「はあ~」

 大きく息を吐き出す。
 ふらつく体を支えるように、廊下の壁へそっと寄りかかった。

 もう何度目だろう。同じように立ち止まり、ため息をつくのは。

 また昨日の出来事が脳裏に浮かぶ。

「ひぃー!」

 頭を抱え、その場で身を縮めた。

 なんで。どうする? どうなった!?
 どうしてこんなことに。

 桐生さんとのキス――。

 あのあと、私は完全に放心してしまって、そこからの記憶がない。
 気づけばベッドの上で朝を迎えていた。

 キスのことだけは覚えている。
 やわらかな唇の感触も、近くに感じた彼の体温も、耳に残る吐息も。
 はっきりと思い出せてしまう。いや、思い出したくないけど。

 それなのに、その後がきれいに抜け落ちている。

 どうやって帰ったのか。……どうやって。
 いや、それよりも問題なのは桐生さんだ。
 彼はなぜあんなことを? あの後どうなった?
 私は何を言って、どんな行動を取ったのよ。

 わからないことばかりで、気持ちがざわつき落ち着かない。

 だからといって彼に直接確かめる勇気なんてない。

 初キスだったのよ。
 キスした相手と、これからどう接すればいいの?

 しかも、その後の自分の言動がはっきりしない。そんな状態で、平然と彼と向き合えっていうの?

 ずーんと気分が沈んでいく。

 しかし、いつまでも避け続けるわけにはいかない。

 今朝はたまたま桐生さんに会わずに済んだ。
 その後も、できるだけ彼の視界に入らないよう動いたおかげで、まだ顔を合わせずにいられる。

 ふふーん。
 我ながら、気配を消すのは得意だった。
 昔からひっそり生きてきたのが、こんなところで役に立つなんて。

 ……って、全然自慢にならない。

 それより、このままずっとこんな生活を続けるわけにもいかない。
 同じ会社の同じ部署で働いている以上、いつか必ず顔を合わせるし、話さないわけにもいかない。

 うーん、どうしよう。

 一歩踏み出した瞬間、視界がふっと揺れた。

 考えすぎて疲れていたのかもしれない。倒れると覚悟したそのとき。

「……っ大丈夫?」

 誰かの腕に体を支えられた。

 驚いて振り返ると、男の人が私を抱きとめていた。

「あ、すみません」

 慌てて体勢を立て直す。
 まだ少し足元は不安定だったけど、なんとか自力で立ち、男性のほうを向いた。

 ふと疑問が浮かぶ。

 ――あれ? この人、どこかで見たような。
 はっきり思い出せないのに妙な既視感だけが残る。

 思わずじっと見つめた。

「……あっ!」

 声を上げると、彼は照れたように笑った。
 眼鏡の奥の瞳がすっと細められる。

 可愛い……そんな言葉が自然と浮かぶ。どこかあどけない少年のような笑みだった。

 大人しそうで目立たない雰囲気。でも、よく見れば整った顔立ちをしている。

 この人。
 そうだ、あの人だ。

 あのとき助けてくれた人――。

 ぼうっと見つめていると、声をかけられた。

「あの、大丈夫ですか?」

 その一言で、はっと我に返る。

「は、はい。助けていただいて、ありがとうございます。
 あと……あの時も」

 探るように視線を向けると、男性はにこりと笑った。

「気づかれましたか」

「ええ。あの時の方ですよね?」

 彼は静かに頷く。

「はい。見るに堪えない光景だったので。
 ひどいですよね、寄ってたかって……あんなふうに」

 その言葉に、あの時の光景が鮮明に浮かぶ。
 桐生さんのことで女性社員三人に囲まれ、問い詰められていた場面。
 あの場で、助け舟を出してくれた男性がいた。

 ……それが、この人だったんだ。

 彼は鈴木さんに「桐生さんが呼んでる」と言ってくれた。
 たぶん、あれはとっさの嘘。私を逃がすために思いついたのだろう。

 少し距離があったから顔はうろ覚えだったけど、出来事が強烈で、彼の存在だけははっきり覚えていた。

 よかった、もう一度会えて。お礼を言いたかったから。
 まさか、また助けてもらうことになるなんて思ってもいなかったけど……なんだか情けないところばかり見られてる気がする。

 あの時は冴えない印象だったのに、目の前にいる彼は、少し違って見えた。

「困っていたので、声をかけていただいて嬉しかったです。
 お礼を言いたかったのですが、すぐにいなくなってしまって。
 でも、ここで会えてよかったです。あの時は、本当にありがとうございました」

 改めて深く頭を下げる。

「いえ、そんな。お礼なんて」

 彼は慌てたように首を振ったあと、何か思い出したように口を開いた。

「でも、そうだ。もしよろしければ僕に力を貸してもらえませんか?」

「へ?」

 思いがけない言葉に、顔を上げる。

「えっと、僕には妹がいるんです。もうすぐ誕生日なんですけど、何をあげればいいのかわからなくて」

 視線を泳がせながら、少し照れたようにたどたどしく話す。

「それで、もしよければ……お礼の代わりに、僕に付き合ってもらえませんか?」

 彼が一歩、こちらへ踏み出す。
 ふわりとやさしい香りが鼻先をかすめた。

 トクン、と心臓が小さく跳ねる。

 澄んだ瞳がまっすぐに私を捉え、息が詰まった。……綺麗な瞳。

 ほんの数秒、見惚れてしまってから慌てて我に返る。

「え? つ、付き合う?」

「買い物に付き合ってほしいんです」

「ああ、妹さんのプレゼント」

「はい!」

 なぜか、彼はぐいっと距離を詰めてくる。
 な、なんだか……すごく必死。そんなに困っているのかな。

「いいですよ。私でよければ」

 それくらいなら。それでお礼になるなら安いものだ。
 この人、優しそうだし……。

「いいんですか?」

 彼の表情が一気に華やぐ。満面の笑みになって、こちらまで嬉しくなってしまう。
 私もつられて微笑んでいた。

 妹さんのことが大好きで大切なんだ。きっと、いいお兄ちゃんなんだろうな。

 ぽっと、胸の奥があたたかくなった。

 彼は何かを思い出したように背筋を伸ばし、佇まいを整えると、まっすぐに私を見た。

「ごめんなさい、自己紹介がまだでしたね。
 僕は、土岐(とき)(さく)と申します。この会社の営業部に所属しています、よろしくお願いします」

 にこりと可愛らしく笑い、彼は手を差し出してくる。
 私は、その手をそっと握り返した。

「望月花音です。企画開発部に所属しています。よろしくお願いします」