その日、私は珍しく残業をしていた。
いつもなら難なくこなせる業務も、最近は滞りがちだった。
原因はわかっている。彼だ。
桐生さんのことを考えると頭がうまく働かない。思考が止まり、手の動きも鈍ってしまう。
こんなことは初めてだ。
さらに今日は、あの女性社員たちからの仕打ちが追い打ちをかけた。
正直、少し疲れている。
「はぁー」
大きく息を吐き、手を止めて外を見る。
ガラス越しの景色はやけに綺麗だった。
夜の闇の中で街のネオンがきらきらと輝いている。まるで、夢の世界に迷い込んだみたい。
気づけば、時計は午後九時を指していた。
残っているのは私だけ。さっきまでもう一人いたけれど、先に帰っていった。
そろそろ切り上げるか。
そう思い、最後の仕上げに取り掛かろうとパソコンへ視線を戻した、そのとき。
「望月さん」
声がした。
え……この声は。心臓がトクンと跳ねる。
そっと振り返ると、そこにいたのは桐生さんだった。
驚いて目を丸くする私に彼は歩み寄り、目の前でふわりと微笑む。
そして、小さな袋を差し出した。
「これ、どうぞ」
「へ? は、はあ……」
なんだろう。
紙袋からふわっといい匂いがする。
そっと開けると、焼きたてのサンドイッチだった。
「えっ、これって……」
驚きと同時にはっと気づく。
紙袋に刻まれた店名は、会社の近くの有名店。いつも行列ができていて、簡単には買えない。
もしかしてわざわざ買ってきてくれたの?
桐生さんを見上げると、彼は少し照れたように笑った。
「残業、頑張ってるみたいだったから。差し入れと思ってさ。
お店が閉まる前でよかったよ」
爽やかに言いながら、隣の席の椅子を引いて腰を下ろす。
そして、もう一つの袋を机に置いた。そこから香ばしい匂いが漂ってくる。
「はい、コーヒー」
袋からカップを取り出し、私の方へ差し出す。
「あ、ありがとうございます……」
突然のことで頭が追いつかない。
なにげなく受け取ってしまったけれどこれでいいのだろうか。こんなことをされる理由が思い当たらない。
「あの! 困ります。なんでこんな――」
「いいじゃん。望月さん、いつも頑張ってるし。たまにはご褒美ってことで」
私の言葉を遮り、にこにこと笑う桐生さん。
そのままコーヒーを一口飲む。
「うん、うまい」
続けて、サンドイッチをぱくり。
「お! おいしい。さすがっ」
マイペースという言葉は、彼のためにあるのかもしれない。
サンドイッチを頬張りながら、桐生さんは私を見た。
「ほら、望月さんも食べな。冷めちゃうよ」
「え? あ、はい……そうですね」
それ以上、何も言えなかった。
私はすっかり彼のペースに乗せられてしまっていた。
結局、二人でサンドイッチを食べた。
コーヒーの最後の一口を飲み終え、ほっと息をつく。
そして、手元に残ったサンドイッチの包みをじっと見つめた。
なんだかんだで平らげてしまった。
だ、だっておいしかったんだもん。さすが名店。伊達じゃない。
「美味しかったね」
「は、はい。あの、ありがとうございました」
ぺこりと頭を下げると、桐生さんが表情を和らげた。
「どういたしまして」
にこりと笑うその顔から、目が離せなくなる。
なんて無邪気な笑顔。仕事のときの表情とは違って、どこか柔らかくて、少し幼く見えた。
やだ、なに考えてるのよ。こんなところ誰かに見られたら、また大変なことに。
「あの、もう帰ります」
そそくさとゴミを片付けようとすると、桐生さんが私の分までさっと手を伸ばした。
「いいよ。俺がやっておく」
袋の中へゴミをまとめると、またにこりと笑った。
「そ、そうですか。どうもありがとうございました。では、私はこれで」
これ以上一緒にいると心臓がもたない。
私はさっさと席を立った。
「待って」
腕を掴まれた。
「え……」
振り返ると、彼の真剣な眼差しがまっすぐに向けられていた。
「俺たち、付き合ってみない?」
その言葉が放たれた瞬間、頭が真っ白になり、体が固まったように動けなくなった。
な、ななな!
目をまん丸にして凝視すると、彼の瞳がかすかに揺れた。
「前にも言ったと思うけど。俺は君のことが好きだよ。
今は誰とも付き合ってないんだよね?
俺のこと、嫌い?」
桐生さんは立ち上がり、じりじりと距離を詰めてくる。
「え……な、なにを言ってるんですか? そ、そんな」
「いや?」
至近距離から見つめられ、息が詰まる。
何も考えられない。ただ、視線を逸らせずにいるだけ。
「かわいい」
ぽつりとこぼし、桐生さんはそっと私に口づけた。
いつもなら難なくこなせる業務も、最近は滞りがちだった。
原因はわかっている。彼だ。
桐生さんのことを考えると頭がうまく働かない。思考が止まり、手の動きも鈍ってしまう。
こんなことは初めてだ。
さらに今日は、あの女性社員たちからの仕打ちが追い打ちをかけた。
正直、少し疲れている。
「はぁー」
大きく息を吐き、手を止めて外を見る。
ガラス越しの景色はやけに綺麗だった。
夜の闇の中で街のネオンがきらきらと輝いている。まるで、夢の世界に迷い込んだみたい。
気づけば、時計は午後九時を指していた。
残っているのは私だけ。さっきまでもう一人いたけれど、先に帰っていった。
そろそろ切り上げるか。
そう思い、最後の仕上げに取り掛かろうとパソコンへ視線を戻した、そのとき。
「望月さん」
声がした。
え……この声は。心臓がトクンと跳ねる。
そっと振り返ると、そこにいたのは桐生さんだった。
驚いて目を丸くする私に彼は歩み寄り、目の前でふわりと微笑む。
そして、小さな袋を差し出した。
「これ、どうぞ」
「へ? は、はあ……」
なんだろう。
紙袋からふわっといい匂いがする。
そっと開けると、焼きたてのサンドイッチだった。
「えっ、これって……」
驚きと同時にはっと気づく。
紙袋に刻まれた店名は、会社の近くの有名店。いつも行列ができていて、簡単には買えない。
もしかしてわざわざ買ってきてくれたの?
桐生さんを見上げると、彼は少し照れたように笑った。
「残業、頑張ってるみたいだったから。差し入れと思ってさ。
お店が閉まる前でよかったよ」
爽やかに言いながら、隣の席の椅子を引いて腰を下ろす。
そして、もう一つの袋を机に置いた。そこから香ばしい匂いが漂ってくる。
「はい、コーヒー」
袋からカップを取り出し、私の方へ差し出す。
「あ、ありがとうございます……」
突然のことで頭が追いつかない。
なにげなく受け取ってしまったけれどこれでいいのだろうか。こんなことをされる理由が思い当たらない。
「あの! 困ります。なんでこんな――」
「いいじゃん。望月さん、いつも頑張ってるし。たまにはご褒美ってことで」
私の言葉を遮り、にこにこと笑う桐生さん。
そのままコーヒーを一口飲む。
「うん、うまい」
続けて、サンドイッチをぱくり。
「お! おいしい。さすがっ」
マイペースという言葉は、彼のためにあるのかもしれない。
サンドイッチを頬張りながら、桐生さんは私を見た。
「ほら、望月さんも食べな。冷めちゃうよ」
「え? あ、はい……そうですね」
それ以上、何も言えなかった。
私はすっかり彼のペースに乗せられてしまっていた。
結局、二人でサンドイッチを食べた。
コーヒーの最後の一口を飲み終え、ほっと息をつく。
そして、手元に残ったサンドイッチの包みをじっと見つめた。
なんだかんだで平らげてしまった。
だ、だっておいしかったんだもん。さすが名店。伊達じゃない。
「美味しかったね」
「は、はい。あの、ありがとうございました」
ぺこりと頭を下げると、桐生さんが表情を和らげた。
「どういたしまして」
にこりと笑うその顔から、目が離せなくなる。
なんて無邪気な笑顔。仕事のときの表情とは違って、どこか柔らかくて、少し幼く見えた。
やだ、なに考えてるのよ。こんなところ誰かに見られたら、また大変なことに。
「あの、もう帰ります」
そそくさとゴミを片付けようとすると、桐生さんが私の分までさっと手を伸ばした。
「いいよ。俺がやっておく」
袋の中へゴミをまとめると、またにこりと笑った。
「そ、そうですか。どうもありがとうございました。では、私はこれで」
これ以上一緒にいると心臓がもたない。
私はさっさと席を立った。
「待って」
腕を掴まれた。
「え……」
振り返ると、彼の真剣な眼差しがまっすぐに向けられていた。
「俺たち、付き合ってみない?」
その言葉が放たれた瞬間、頭が真っ白になり、体が固まったように動けなくなった。
な、ななな!
目をまん丸にして凝視すると、彼の瞳がかすかに揺れた。
「前にも言ったと思うけど。俺は君のことが好きだよ。
今は誰とも付き合ってないんだよね?
俺のこと、嫌い?」
桐生さんは立ち上がり、じりじりと距離を詰めてくる。
「え……な、なにを言ってるんですか? そ、そんな」
「いや?」
至近距離から見つめられ、息が詰まる。
何も考えられない。ただ、視線を逸らせずにいるだけ。
「かわいい」
ぽつりとこぼし、桐生さんはそっと私に口づけた。
