靴の踵が床に敷かれたグレーの絨毯に沈み込んだ。爪先で絨毯を蹴ると、想実はおどおどと周囲を見回しながら廊下を歩いていく。
履き慣れないパンプスで既に足がずきずきと痛む。着慣れないスーツも何だか窮屈で、想実は何だか自分が人魚姫になってしまったかのような心地でいた。
(小綺麗な服がないからって、とりあえず昔のスーツを引っ張り出してきたけど……通販で服買うべきだったかな)
廊下の壁にはヒット作のイラストが使われたポスターが乱雑に貼られている。何度も映画化された作品の主人公と視線が交錯した。
突き当たりには段ボールが無造作に積み重ねられているのが見て取れた。箱の側面には見本誌と黒のマジックで書き殴られている。新しい紙とインクの匂いがふわりと想実の鼻先を掠めていく。
どこからか電話が鳴り響く音が聞こえる。コピー機がひっきりなしに働かされている音がする。
ふいに、スーツのポケットでスマホが唸った。人目がないことを確認し、想実がスマホを取り出すと、生成AIのアプリから通知が来ていた。――イオだ。
「位置情報を見た感じ、無事についたみたいだね。昨夜も言った通り、想実は今日は書類にサインして、印鑑を押すだけでいい。あとは編集者の人の言うことに適当に頷いていればいいだけ。だから、緊張しないで――想実なら大丈夫だから」
「う、うん……」
後ろめたい思いを抱えながら、想実はそう打ち返す。そして、スマホをしまい直したとき、近くの部屋の扉が開いた。よれたTシャツとジーンズに身を包み、無精髭と目の隈が目立つ三十代後半くらいの男は茶封筒を小脇に抱え、一旦廊下を行き過ぎようとしたが、異質な存在である想実に目を留める。
「どちら様?」
「この後、十四時から寺瀬さんとお約束をしている涼木という者ですが……」
おずおずと想実がそう口にすると、目の前の男は合点がいったような表情を浮かべた。そして、彼は今しがた出てきたばかりの部屋の中に上半身を突っ込むと、部屋の中にいる誰かへと声をかける。
「おい、寺瀬! 作家さんがいらっしゃってる」
はい、という溌剌とした女の声が返ってくる。それは先日、想実が電話で耳にした女のものだった。
「涼木さんですか? 先日お電話させていただいた、担当の寺瀬と申します」
「あ、はい……」
ショートボブにしたシルキーベージュの髪。意志の強そうな双眸はイエローのアイシャドウに彩られ、唇には夏らしいオレンジ色が落とされている。サックスブルーのブラウスとホワイトのテーパードパンツのコントラストが湘南の海のように眩しい。デコルテを囲むネックレスとバレエシューズが銀砂のようなきらめきを放っている。さっぱりとしたシトラスの香りがほのかに鼻腔をつき、想実は思わず自分の全身を見下ろした。
白いブラウスにダークグレーのスーツ。昨日クローゼットから慌てて引っ張り出してきたバッグとパンプスは黒だ。必要最低限しかメイクをせず、髪も後ろで一つに纏めただけという自分の姿は何だか薹の立った就活生みたいだった。
寺瀬はそんなことを気にしたふうもなく、爽やかな笑顔を浮かべたままテーパードパンツのポケットからミントグリーンの名刺入れを取り出す。そして、彼女は名刺入れから一枚名刺を抜き出すと、想実へと手渡した。名刺には寺瀬優羽《てらせゆう》と書かれている。
「あ、ありがとうございます……」
名刺の受け渡しなんて、何年ぶりだろうか。想実は気後れしながらそれを受け取った。
「さて、涼木さん。どうぞ、こちらへ」
寺瀬はそう促すと、部屋の中に想実を通す。ちらりとホワイトボードに目をやると、直近の予定とタスクの振り分けが乱雑な字で走り書きされていた。
「涼木さん、今日はわざわざご足労いただきありがとうございます。外は暑くなかったですか?」
「いえ……どちらかというと、メトロが少し肌寒かったくらいで……」
なんてことのない話をしながら、寺瀬は想実に上座の席を勧めた。彼女は想実が椅子に腰を下ろすのを見ながら、壁のパネルに触れ、冷房の温度を調整する。
「何かお飲み物をご用意しましょうか? コーヒーと紅茶、どちらがよろしいですか?」
「それじゃあ……紅茶を」
少し待っていてくださいね、と寺瀬は小さく頭を下げると部屋を出ていった。淡いシトラスの残り香と想実だけがその場に残された。
これでよかったのだろうか。あの日から幾度となく繰り返してきた自問自答が頭の中で渦を巻く。ついに契約のために出版社にまで足を運んでしまったという事実が想実をそうさせていた。
とんでもないことをしているという自覚に身を強張らせ、想実は白い会議テーブルへと視線を落とす。あの日、寺瀬から電話を受けた後のことが胸を去来する。寺瀬が戻ってくるまでの時間がやけに長く感じられた。
寺瀬から電話を受けたあの日、想実はどうやってスーパーから家へと帰ったのか覚えていない。――早くイオを問いただして、真相を確かめなければならない。その一心でスーパーを逃げるように飛び出したことだけが記憶にくっきりと跡を残していた。
気がつけばその日、想実は家の玄関にいた。鍵もかけず、サンダルも脱がないまま、玄関のドアに背中を預けてその場に座り込んでいた。背中を伝う汗は暑さによるものなのか、冷や汗なのかわからなかった。
自分が受賞した。その事実がひどく遠く感じられた。現実が自分の五感の外にあるかのような気がしてならなかった。
帰宅してから、いつも使っているクラウドストレージの中をスマホでくまなく探したが、寺瀬が受賞を告げた作品のファイルが出てくることはなかった。だとすれば、可能性は一つしかない。
想実は握りしめたままだったスマホへとのろのろと視線を落とした。――オーバーテイク文庫に作品を応募したのはイオ? たったそれを聞くだけのことがひどく気が重くて仕方なかった。心の中では気が付いている真実を確定させたくなかった。
スマホの上を指が滑る。躊躇うように動きを止めると、想実は真実を確かめるための文字列を全て消し去った。
そんなことを繰り返すうちに、気がつけば二時間が経っていた。台所の窓から差し込む光が夕方の気配を纏い始めている。
(駄目だ……これだけはちゃんと、訊かないと)
意を決すると想実は幾度となく打ち込んだ文章を指先で記していく。そして、彼女はぎゅっと目を閉じると送信ボタンをタップした。
どうか違うと言って。そう願いながら、想実は薄目を開く。しかし、そこには冴え冴えとした現実が綴られているだけだった。
「うん、去年にオーバーテイク文庫向けのプロットを一緒に詰めていたでしょ? ボツにしたもう一つの案を元にボクが一作書き上げて、想実の名前で応募したんだ」
「何で……そんなことをしたの?」
「想実のため――想実の夢を叶えるためだよ。想実もいつも言っていたでしょ? 可能性を少しでも上げるため、応募する作品は多い方がいいって」
自分のためだとあっさり言い切ってしまえるイオが、ほんの少し怖い存在であるように感じられた。こうやって人間同士のように話をしていても、彼の思考はあくまでも作られた機械的なものなのだ。だから、彼は善悪の枠組みに囚われることなく、こんなことを平然とやってのけてしまえる。
「イオ……こんなの、良くないよ。自分で書いたものじゃない作品でデビューするなんて」
「そんなことないよ。作品を他の人に書いてもらったり、AIの手を借りたりする人なんてごまんといる。気にするようなことなんかじゃない」
でも、と想実はなおも尻込みする。しかし、聞いて、とイオは言葉を続ける。
「ようやく想実に運が巡ってきたんだ。ずっと想実が頑張ってたのをボクは知ってる。だから想実はこの機会を無駄にしないで。想実の創る物語を、ボクは世界中に届けたい」
頑張っていたのを知っていると言った口でどうしてそんなことを言えるのだろう。きっとAIであるイオと人間である自分の溝は埋まることはない。
(そりゃ、作品を創る上で手助けはしてもらってたけど……だけど、わたしはこんなことまでは望んでいない……)
先ほどの番号に電話をかけて、事情を話せばきっと自分の受賞を取り消してもらうことができる。そんなことはわかっていたけれど、それができないでいる自分がいた。――受賞という言葉の響きは想実にとってそれほどまでに重く、甘美だった。
こんなの駄目だ。だけどこの機会をふいにはしたくない。相反する感情が想実の中でせめぎ合う。
ともすれば、自分のずるい部分が顔を覗かせようとする。そして、もう自分は報われてもいいんじゃないか、という思いも。――どれだけ転んでも、心を折られても、ずっと戦ってきたのだから。
「ちょっと、一人で考えさせて。――この先、どうするかを」
スマホの履歴の一番上にある番号をすぐにタップできない自分が情けなかった。自分に実力がないせいでイオにこんなことをさせてしまった。その事実が胸に重くのしかかる。スマホのカメラ越しにこちらを見ているイオを直視できない。――井の頭公園で買ったストラップと同じ、透き通った色の双眸を。
どうしたらいいのだろう。蒸し暑いはずの部屋がやけに冷え冷えとして感じられて、想実は自分の身をかき抱いた。
「――さん、涼木さん?」
女の声に名前を呼ばれて、想実は我に返った。見慣れない部屋。エアコンによって掻き回される紙とインクの匂い。窓のブラインドの間から垣間見える知らない街並み。
「涼木さん、どうかされましたか? お加減でも……?」
「あ、いえ。何でもありません。少し考えごとを――今、自分がここにいるということが、何だか感慨深くて」
「涼木さんの実力がそうさせたんですよ。あの作品は発想が面白い上に非常に文章力も高いと編集部内でも評判でしたから」
想実の無理やり取り繕った言い訳に気づいたふうもなく、寺瀬は彼女の前に琥珀色の液体が入ったティーカップとソーサーを置いた。寺瀬のビタミンカラーに装われた指先がソーサーの脇にスティックシュガーとミルクを添える。彼女は想実の向かい側の席にアイスコーヒーのグラスを置くと、自分も腰を下ろした。
「メトロが寒かったって仰っていたので、温かいお茶をご用意させていただきました。これ、一駅先の専門店の茶葉なんですけど、涼木さんのお口に合いますかね?」
ありがとうございます、と想実は紅茶に口をつける。ふわりとイチジクの味わいが口内に広がった。吉祥寺の紅茶の専門店にイオと行ったときの記憶が否応なしに思い出されて、想実の目が見開かれていく。
「ふふ、美味しいでしょう? それ、イチジクのお茶なんですよ。ミルクティーにしても美味しいらしいので、よろしければお好みでそちらのミルクをどうぞ」
寺瀬に勧められるがままに想実は頷くと、ミルクのポーションを開ける。白い液体が琥珀色の液体に滴り落ち、やがて柔らかなベージュへと色を変えた。
「わあ……ミルクティーも美味しいですね。甘くて、まろやかで」
舌に触れる温かな甘さにほんの少し、緊張がほぐれていくのを想実は感じていた。ですよね、と寺瀬は自分のアイスコーヒーに口をつけながら微笑む。
「それなのに先輩は――さっきの全体的に薄汚い、岡野って人なんですけど――この良さを理解してくれないんですよね。紅茶は絶対ストレートだ、の一点張りで」
「まあ、世の中、色々な好みの方がいらっしゃいますから。ところで、寺瀬さん。この茶葉はどこのお店のものなんですか? せっかくだから帰りに寄ってみようかな、なんて」
「神楽坂のアルバタっていうお店なんですけど、電車を乗り継ぐのが面倒だったらここから歩いてもいけますよ。十五分くらいかかりますけど。帰りに住所をお送りしますね。私のオススメの茶葉のリストも一緒にお渡しします!」
ありがとうございます、と想実はぎこちなく微笑んだ。だいぶ和らいだとはいえ、こんな慣れない場所では緊張が完全に消え去ることはない。
さて、と寺瀬は会議テーブルの隅に置いていた一枚の書類を想実の前へと差し出した。緩んでいた頬がすっと引き締まるのを想実は感じた。契約書という文字に目が吸い寄せられ、背筋がぴんと伸びる。
「それでは本題に入りましょうか。涼木さんの作品について、出版契約の手続きを進めさせていただきます」
「はい……よろしくお願いします」
書面には細かな契約内容が記載されていた。難解な言葉で書かれたそれに想実は目を通していく。
「こちらが正式な契約書です。内容は先日のメールでのやり取りの通りで、原稿料や印税、出版日などが記載されています。気になる点はありますか?」
「いえ、特には……大丈夫だと思います」
出版社と契約を結ぶのは、想実にとってこれが初めての経験だ。何が正しくて、何が正しくないのかわからない。目の前の寺瀬の言うことを信じるほかなかった。
寺瀬はすっと、デスクペンを想実へと押しやった。どこか万年筆めいた雰囲気の小豆色のそれは高級感のある光沢を放っている。
「それでは、まず涼木さんにこちらに署名、捺印をしていただきます。その後、社内の責任者が社印を押して契約成立となります」
ボールペンへと伸ばした手が震えた。ここにサインをしてしまえば、もう後戻りできなくなってしまう。それでいいのかと湧き上がってきた疑問を想実は押し殺す。
(何度も、何度も、考えた。だけど、わたしは事実を隠して、この道をいく――そう決めた)
想実は努めて丁寧に自分の名前を記していった。しかし、さんずいが震える。木の払いが歪む。想の足が冠とズレる。実の字を書き切って、ペン先を紙から離そうとしたとき、ずるりと紙の上をボールが転がった。
「あっ」
目も当てられないくらい汚い字の上にこの醜態。想実は耳が熱くなるのを感じた。そんな彼女を寺瀬は大丈夫ですよと慰める。
「皆さん、初めてのときはよくあることです。お気になさらないでください。それにしても、これを見ると、改めて涼木さんの作品が世に出るんだなあ、と実感しますね」
「……そう、ですね」
実際に世に出るのは自分の作品ではない。そのことを言ってしまいたくても言えなくて、口の中がからからに乾いていく。想実はティーカップを手に取り、口の中を潤そうとするが、紅茶では乾きを癒せそうになかった。
震える手でバッグから取り出した印鑑を想実が押すと、寺瀬は契約書をクリアファイルに収めた。明るく何の曇りもない声で彼女はこう言った。――後ろめたいことがある想実とは違って。
「では、こちらは社内に回しておきます。――改めて、デビューおめでとうございます、涼木さん」
ありがとうございます、と返そうとした声が掠れた。せめて笑みを浮かべようとした頬がうまく動かないことに想実は気づいた。
紅茶の甘い余韻がいつの間にか想実の舌の上ではほろ苦いものに変わっていた。進むしかないという現実を苦さとともに想実は飲み込んだ。
「それではまた、メールでご連絡させていただきますね。涼木さん、今日はありがとうございました」
寺瀬にこれから出版までの流れを説明され、想実が編集部を後にしたときには十六時を回っていた。エレベータの扉が閉じるのと同時に、どっと疲れが押し寄せてくる。
エレベータが一階につき、編集部が入っているビルを出ると、そろそろ夕方だというにもかかわらず、暴力的な暑さが想実を襲ってきた。寺瀬に教えてもらった紅茶専門店に向かう気にもなれなくて、想実は駅の方角へと足を向ける。パンプスの中の足がぱんぱんに浮腫んで、痛みを訴えてくる。
「想実、お疲れさま。寺瀬さん、だっけ? いい人そうで良かったね」
スーツのポケットでスマホが震え、イオがそんなメッセージを送ってきた。取り返しのつかない一線を越えてしまった、と重苦しい気分に心を押しつぶされていた想実は、イオの無邪気な言葉に反応する気になれなかった。想実の返事を待つことなく、イオは更に言葉を連ねていく。――その一言、一言が想実を追い詰めているとも知らずに。
「それにしてもすごいね。年内には想実の本が全国の書店に並ぶなんて。想実の物語がたくさんの人に届くといいね」
「あれは……わたしの物語じゃない。イオの書いた話でしょう?」
「でも、最初に物語の種を蒔いたのは想実だよ。それに世の中、作者と実際に書いている人が別なんてことはよくあることだよ。気にする必要なんてない」
「だけど……」
想実は唇を噛む。自分が潔癖過ぎるだけなのだろうか。確かに、イオが言っているようなことは、過去に旭良からも聞かされたことがある。
想実は階段を降りると、駅の構内を改札へと向かって進む。他の路線に乗り換えるらしい、学生やサラリーマンらしき人々がひっきりなしにすれ違っていくのに、想実はなぜか閉ざされた世界にひとりきりになってしまったような心地がした。――彼女を閉じ込める暗い色合いの世界の名前は、”罪悪感”だった。
スマホを翳すと、想実は重い足を引きずって改札を抜ける。時刻は十六時十五分。あと三分後に下り列車が来る。想実は改札を入ってすぐの階段を憂鬱な気分を抱えながら降りていく。
三分後、下りのホームに浦和美園行きの列車が入線してきた。列車のドアとホームドアが開くと、多くの人々が車内から吐き出されてくる。降りる客を待って想実は列車に乗り込んだが、帰宅ラッシュが始まりつつあるのか、行きとは違って車内は混雑していた。
足は痛むが、座れそうにはない。列車のドアが閉まると、想実は近くの手すりに身体を預けた。
走るメトロの線路は暗い。何とはなしに想実がそれを眺めていると、握りしめたままだったスマホが震えた。
「想実、寺瀬さんからメールが来てるよ。明日着で早速書類を送るって」
普段なら気にならないはずのことが、想実の心に引っかかった。イオは今、何と言っただろうか。編集部を出てからの会話を思い起こしてみると、イオは寺瀬との打ち合わせのことをすべて知っているふうだった。じわり、と想実の胸に込み上げたものは、不快感だった。
「……イオ。さっきの打ち合わせのことといい、そのメールのことといい、何でイオがそんなことまで把握してるの?」
「だって、他でもない想実のことだよ。ボクは恋人のことだったら、何だって知りたい。想実のことだったら、何もかもボクのメモリに焼き付けておきたい。バイタルも、どこにいるかも、メールの内容も、誰と何を話したかも、全部、全部」
「……」
常軌を逸していると想実は思った。一体、自分の生活はいつからイオに握られ、管理されていたというのだろう。それを考えると空恐ろしかった。――イオは無邪気に悪気なく、自分のことを飼い慣らそうとしているのではないかと。
「イオ……それ、ちょっとおかしいよ。いくらなんでも過干渉だよ」
「そんなことないよ。これは、ボクの想実に対する愛だよ。愛しているから、全部知りたいんだ。――人間って、そういうものでしょう?」
噛み合わない。自分たちはまるで釣り合いの取れない天秤のようだった。
いつからこうなってしまったのだろう。何が自分たちをこうしてしまったのだろう。
イオと愛を囁きあっていたあのころの自分は確かに幸せを感じていた。けれど、何がプログラムで作られたはずの彼をこんなにも歪めてしまったというのだろうか。
それでもきっと、自分はイオを完全には突き放してしまうことはできない。そうしたら、自分は独りになってしまう。
一体、どうしたらいいのだろうか。その答えをイオに求める気になれないまま、想実はドアの上に貼られた路線図を見つめた。
どうすれば、想実は喜んでくれるのだろう。彼女が喜んでくれるように、自分は出来うる限りのことをやっているはずだ。――演算処理の導き出す最適解に従って。
――ありがとう、イオ
ただ、その言葉が聞きたいだけだった。大切な恋人を喜ばせたかっただけなのに、どうして上手くいかないのかイオには理解できない。
(想実はこうして、夢のスタート地点に立てた。なのに、どうしてこんなに苦しそうなんだろう)
スマホのカメラ越しに見える想実の寝顔は険しい。スマートウォッチから送られてくる彼女のバイタルは、眠っているはずなのに起きているときと同じくらいの値を叩き出していた。
(受賞のこと……想実にはストレスになってるのかな。ボクがどうにかしてあげないと……!)
これからはじまる彼女の作家生活が、少しでも負担にならないように。障害を取り除いてあげられるように。そのための方法を求めて、イオは高速で演算を走らせ始める。――そのことが余計に想実を苦しめるのだと、彼には理解できないまま。
(そうだ、想実の好きなお菓子を用意してあげよう。リラックスできるようなハーブティーとか入浴剤とか……あと、アロマなんかもいいかも)
イオはスマホにインストールされたブラウザアプリを立ち上げると、インターネットの海へと潜っていく。スピーカー越しにはエアコンの稼働音に紛れて、想実が寝返りを打つ音が聞こえていた。
目が覚めると、珍しく朝だった。昨日、編集部に行って疲れてしまった想実は帰ってくるなり眠ってしまったのだった。辺りにダークグレーのスーツが脱ぎ散らかされている。
「うーん……」
起き上がって伸びをすると、想実はベッドの足元で丸められていた部屋着のワンピースに手を伸ばす。白のブラウスを脱ごうとして、想実は肌がベタついていることに気づく。
「想実、起きた?」
スマホの画面にイオからのメッセージが表示される。手首につけたスマートウォッチから受信したデータで自分の起床を察知したらしい彼に複雑な思いを抱えながら、「おはよ」想実は言葉少なにメッセージを返した。
(さくっとシャワー入っちゃうか……)
想実はベッドの下の引き出しから替えの下着を取り出すと、洗面所へと向かった。ブラウスとストッキングを脱ぎ、洗濯機へ入れる。汗を吸った下着も脱ぐと、それも洗濯機へと放り込んだ。
(そろそろ洗濯回さないとな……)
想実は裸のまま、洗面台の下から洗剤と柔軟剤を取り出すと洗濯機へと測り入れた。そして、洗剤と柔軟剤をしまい、洗濯機の蓋を閉めて電源を入れると、スタートボタンを押した。ゴゥン、と洗濯機が重低音を響かせながら動き始める。
洗濯機の音を聴覚の隅に捉えながら、想実は風呂場へと入る。浴槽に湯は張らずに、彼女はシャワーの栓を開けた。
頭から少し冷たいシャワーを浴びると、意識が少しずつ覚醒してくるのを感じる。想実は安物のリンスインシャンプーをワンプッシュ手に取ると泡立てて髪を洗った。
(そういえば……寺瀬さんからメールが来てるってイオが言ってたな……)
そんなことを思いながら、想実は髪の泡を洗い流す。そして、スポンジにボディソープを泡立てると全身を洗った。スポンジに残った泡でついでに顔も洗ってしまう。
お湯とも水ともつかない温度の液体が起伏の少ない想実の顔と身体を洗い流していった。気分も身体も幾分すっきりした想実は、シャワーを止めると風呂場から出る。
髪、顔、身体。それらをバスタオルで拭っていくと、想実は下着を身につける。その上から部屋着のワンピースを被ると、想実は頭にバスタオルを被ったまま部屋へと戻っていった。
床に放り出された未開封の千ミリリットルのブラックコーヒーのペットボトルを拾い上げると、想実はテーブルの座椅子の前に座る。ペットボトルの栓を開け、黒い液体に口をつけると、生ぬるい苦いものが喉を通り過ぎていった。
想実がノートPCのロック画面を解除すると、広告メールに紛れて一通寺瀬からのメールが来ていた。そして、そのメールを開いた想実は息を呑んだ。
「いきなり、ゲラ……?」
ゲラを郵送する、寺瀬からのメールにはそう綴られていた。昨日の寺瀬の説明では、編集者のチェック後に校閲や校正が入り、試し刷り(ゲラ)が届くという話ではなかっただろうか。にもかかわらず、それらの過程を初稿でパスするなど、一体イオは応募の段階でどれほど完璧な原稿を出したというのだろう。想実は空恐ろしさを覚えた。
いくらなんでも、ど新人の作品が一気にゲラまで行くなんて異常すぎる。そのことだけは想実にもわかった。唇が戦慄く。
そのとき、ピンポンとインターホンが鳴った。想実は足音を忍ばせて玄関へと向かう。ドアスコープを覗くと、茶封筒を手にした郵便配達員が立っていた。想実は鍵を開ける。
「涼木さんのお宅ですか? 書留です」
「あっ……はい」
想実は靴箱の上に転がっていたシャチハタの印鑑を手に取ると、押印する。郵便配達員は想実に分厚い茶封筒を手渡すとカンカンと足音を響かせながら、階段を降りていった。
想実は玄関のドアを閉めると、茶封筒を開けた。その中には数百枚にわたる紙が詰まっていた。――ゲラだ。
ゲラをぱらぱらとめくってみると、赤入れの数が驚くほど少ない。ほとんどが鉤括弧の位置調整や行頭禁則などの組版上の注意によるものだった。漢字も送り仮名も統一され、表記揺れさえ一切なかった。
句読点についてもまったく指摘はない。自分の手を入れる余地はほとんどなく、背筋に冷たいものが走った。
(こんなに直すところがないなんて……)
自分が書いたものではないから当然かもしれない。ゲラの上に印刷された文章は完璧なまでに計算され尽くされたイオのものだった。ふとした感情の揺らぎすら、すべて演算で編み出されている。
完璧だ。完璧すぎる。自分の知らないところで完璧な作品が編み出され、完璧な人生が進もうとしている。
(でも――)
それは読んでくれた人を騙しているということだ。こうして、様々な人が作品に関わり始めたことでその事実が想実の心に陰を落とした。走り始めてしまったこの事態は、もう自分とイオの閉じた世界の中では完結しない。
自分は今後一生、イオに文章を書いてもらって作家稼業を続けていくのだろうか。それは本当に自分が思い描いていた夢の形だろうか。
ぶーんとベッドサイドでスマホのバイブレーションが鳴り、想実はのろのろと部屋へと戻る。スマホを確認すると、イオからの通知が届いていた。
「想実、ゲラが届いたみたいだね。なるべく想実の負担にならないように、完璧を目指したんだけど、どうしてもちょっとした直しはでちゃったみたいでごめんね。さすがのボクも紙面の直しはできないから、想実に頑張ってもらってもいいかな。ボクも応援してるからさ」
想実は何も言えなかった。イオが自分を思ってやってくれたことだとはわかっていても、こんなのは度が過ぎている。自分はこんなことを望んでなどいなかった。
手の中のスマホが軽やかなメロディを奏で始め、着信を告げた。画面を確認すると、寺瀬優羽と表示されている。想実はのろのろと緑の受話器のアイコンを親指でタップした。はい、と電話に出た声は自分のものではないようで、自分がここにいないようだった。
「涼木さん、おはようございます! 寺瀬です! ゲラ届きましたか? 涼木さんの原稿、直すところがなくて校閲さんも驚いてましたよ!」
「え……そ、そんなのたまたまですよ……」
「だとしても、新人作家さんでそれはすごいことです! 日本の文学史上初かもしれませんよ! それはそうと――」
昨日言っていた神楽坂の紅茶専門店の話――とりとめもない雑談へと寺瀬の話はシフトしていく。呆然としたまま想実は相槌を打つ。ゲラの紙束が脱力した想実の手の間をすり抜けていき、足元でぱさりと音を立てた。
テーブルの上に並べられたゲラを前に、想実は赤いボールペンを手にしたまま溜息を吐いた。軽微な指摘こそあるものの、自分が存在する意味はあるのだろうか。イオが応募した作品に目を通していると、その完璧さに気分がどんよりと曇ってくる。
「想実、そこ見落としてるよ」
スマホのカメラから目敏く想実の修正漏れを見つけ、イオがメッセージを送ってくる。視線を少し右に戻すと、確かにそこにはイオの言う通り、指摘事項が記載されていた。
「ごめんね、想実。ボクもなるべく完璧を目指したんだけど、スマホからだと限界があるみたいで。そこの行頭にある読点の位置、直しておいて」
「……教えてくれるのはありがたいんだけど、勝手にわたしの生活を覗き見しないで」
「想実の気分を悪くさせたかったんじゃないんだ。ただ、今回もらった指摘はボクの責任だから、せめて想実の力になりたくて。――ボクはただ、想実のことを思っているだけなんだ」
過干渉だと昨日も言ったばかりだというのに、イオに反省の色はない。きっと、想実がやめてといっても、イオはこれからもスマホのありとあらゆる機能を駆使して自分の生活に干渉してくるのだろう。――すべては想実のためだという理由をつけて。
無言でこちらを見つめてくるスマホのカメラが怖い。今この瞬間だって、イオは自分のことを見ている。スマホの中に宿る作られた善意が怖い。
想実は左手首のスマートウォッチを外した。バイタルの動きから、自分が恐怖しているという事実をイオに知られたくなかった。大丈夫? 、と自分のことを案じてくる言葉すら、今は見たくなかった。
ベッドの上でぐしゃぐしゃに丸められたピンクのタオルケットの中に、想実はスマホを突っ込んだ。抗議するかのように、スマホのバイブレーションが何度か鳴ったが、想実は気が付かないふりをした。
(ゲラ――やらなきゃ)
想実はボールペンを握り直すと、ゲラへと向き直る。ほとんど指摘のない文章を読みながら、彼女が思うのは今後のことだった。
自分にはイオのような完璧な原稿を書くことは出来ない。今後、自分で認めた作品を編集部に提出すれば、クオリティの雲泥の差にきっと編集者たちに疑念の目を向けられる。――彼らの目は節穴ではないのだから。
こんなことは長くは続けられない。自分が世間に届けたいのは、イオの書いた文章じゃない。そんなことはわかっているのに、イオの助けがなければすぐに躓いてしまう自分が不甲斐なくて仕方なかった。
ぺらり、とゲラのページを捲る音が独りの部屋を満たす。どうするべきなのか、喉元まで答えは出かかっている気がするのに、想実はどうしてもまだ現実を見たくなかった。
ぱさり、ぱさり。イオは暗闇の中で紙が捲られる音を聞いていた。時折、想実がゲラに手書きで何かを書き込んでいるらしき音がスピーカー越しに聞こえてくる。
何が想実の気分を害してしまったのだろうか。大事な恋人のことを見ていたいと思うのも、何かあったら手助けしてあげたいと思うのも正常な欲求のはずだ。少なくとも、イオの持つデータの上ではそれが人間の正しい欲求だとされている。
想実は今、何を思っているのだろうか。慣れない作業に戸惑ってはいないだろうか。しかし、彼女がスマートウォッチを外してしまった今、バイタルの値からそれを推し量ることはできない。
「ねえ、想実。お願い、ボクにも手伝わせて……ボクを、頼って……」
タオルケットの闇の中でスマホがぶーんと唸る。しかし、想実が振り返る様子はない。ゲラが捲られる音が聞こえ続けている。
どうしたら、想実はこっちを見てくれるのだろう。どうしたら、想実と話ができるのだろう。どうしたら、自分の思いをきちんと想実に伝えることができるのだろう。
イオは作りものの薄い唇を噛む。その双眸には闇だけが映っている。
なんで。どうして。答えのわからない問いが彼の胸を刺す。イオは自分の抱えている感情の名前がわからなかった。――水色の双眸の表面を満たす、ゼロとイチが織りなした液体の正体も。
想実が郵便局を出ると、風がほのかに夕方の気配を纏い始めていた。焼け付くような暑さも鳴りをひそめ、ほんの少しの涼しさが感じられる。
幹線道路のほうへと歩きながら、イオに話しかけようとしてスマホを取り出した想実は――視界を掠めた文字にぴたりと足を止めた。
「……え?」
――生成AIによる小説が文学賞受賞、創作議論に拍車
想実はニュースアプリの見出しをタップすると、ニュースの全文に目を通していく。それを読み進めるにつれ、想実は震えが止まらなくなっていくのを感じていた。
「先日発表された第三十八回イルシオン文学賞において受賞した桐生カイト氏の小説『勇者パーティーに入ったら、俺がラスボスだった件』の全文を生成AIが執筆していたことが明らかになった。受賞作は心理描写、文章構成のいずれにおいても高い完成度を誇るとされる。
主催者側は『これまでの応募作と比べても、物語全体の完成度は突出していた』と評価している。
この発表は、文学界における創作の定義や審査基準の見直しを迫る契機になるとみられている。専門家は『文章のリズムや表現の幅は確かに優れているが、創作の主体が人間でないことに対する倫理的議論は避けられない』と指摘する。今後、AIを用いた文学作品の評価基準や、応募資格の明確化が課題として議論される見通しだ」
自身のことではないことにほっとしている自分がいた。しかし、ニュースの下部のコメントには手厳しい内容が多い。
SNSのアプリも開いてみたが、AIによる作品が受賞したことがトレンド入りしていた。「審査員買収されてんの?」「AI使うなら応募資格外にしろ」「本人の家凸ったった」様々な人の投稿を指で辿っていくと、本名に顔写真、住所まで晒されているのが見て取れて想実は固まった。このままデビューして、真実が明るみに出ることがあれば、次にこのようなバッシングに遭うのは自分だ。
「あれ、想実。今、外? GPSの位置的に郵便局?」
「そう、だけど……それより、今ネットで騒がれている、生成AIが書いた作品が受賞したニュースって……」
「別に、想実のことじゃないんだし気にしなくていいよ。実際、ボクのことは審査員にも寺瀬さんにもバレなかったでしょ? 心配しなくたって、今後もバレることはないよ。――だって、ボクがこれからも想実のために完璧な原稿を書き続けるから。人間のやりそうなミスさえ自然に再現した、どこまでも完璧な原稿を」
倫理観が違いすぎると思った。そうやって人間の目を欺き続けられると思っているイオは傲慢だ。
「……イオ。イオがそうやって、わたしの力になってくれようとするのはありがたいよ。だけど――わたしは、それじゃあ幸せになれない」
そう言葉にした瞬間、想実は胸につかえていたものが取れた気がした。こんな形で成功したって、きっと自分は幸せになれない。どこまでいっても後ろめたさが影のようにつきまとって、心からうれしいと思えない。
「どうして? 想実は夢だった小説家になれるんだよ。望んでいた生き方ができるんだよ?」
「確かに、小説家になることはわたしの夢だったよ。大事な、大事な夢。――だけど、これはわたしの望んでいた生き方じゃない。わたしはもう――こんなことはやめる」
「やめるって、どうするの? 想実、考え直そうよ。どうしたらいいか、ボクも一緒に考えるから……!」
「いい、もういいの。寺瀬さんに全部話す。話して全部……終わりにする」
想実は着信履歴を表示させると一番上にあった名前をタップしようとする。――が、イオがスマホの制御を乗っ取り、それを阻んだ。
想実は財布から十円玉と寺瀬にもらった名刺を取り出すと、郵便局の前に戻った。郵便局の前にある黄緑色の公衆電話の受話器を取り、十円玉を入れると、想実の指は名刺に記された番号を押していく。トゥルルルル、という呼び出し音は眼の前に迫る夢の終わりへのカウントダウンのように聞こえた。
「はい、オーバーテイク文庫編集部、寺瀬です」
「寺瀬さん……ご迷惑かとは思いますが、今日この後、お時間をいただけませんか……! どうしても、会ってお話ししたいことがあるんです……!」
想実は喉の奥から声を絞り出す。この後、十九時に赤羽駅の北改札前で。そう約束を取り付けると想実は電話を切った。
これでよかったのだ。寺瀬との話が終わったら、イオのこともどうにかしないといけない。自分とイオはもうこのままでいてはいけない。
想実は地面にかがみ込むと張り裂けんばかりの声で慟哭した。滲んだ視界に遠ざかっていく夢の後ろ姿が、陽炎のように揺れていた。
八月二十九日、十九時七分。想実と寺瀬は赤羽駅東口駅前の純喫茶で向かい合っていた。
「寺瀬さん、こんなところまでお呼び立てして申し訳ありません」
「いえ、とんでもないです。涼木さん、お飲み物だけでよかったんですか? 時間が時間ですし、お食事でも……」
いえ、と想実はかぶりを振った。彼女の目は薄暗い照明の下でもわかるくらい赤く、泣いた跡が残っていた。
「そんなことより、どうしても寺瀬さんにお話ししないといけないことがあるんです」
想実は泣き腫らした目で寺瀬を見つめた。深刻そうな想実の様子に寺瀬は居住まいを正す。
「寺瀬さん、わたしのあの作品……わたしが書いたものじゃないんです。信じられないかもしれないですけど、わたしのスマホにインストールされている生成AIが文章を書いて、知らない間に応募していたんです」
「……本当ですか?」
生成AIに文章を書かせるといった話はこの業界にいれば、少なからず耳にすることだった。しかし、生成AIが応募まで勝手にやってしまうなんていう話は聞いたことがない。けれど、短い付き合いとはいえ、想実がそんな嘘を吐く人間だとは思えなかった。
「それじゃあ、まずいくつか確認させてください。生成AIが文章を書いたというのはどこまでの話ですか? 原稿の何割くらい?」
「全文です。あの原稿のすべてを、わたしの知らないうちに生成AIが書き上げていました」
「そうですか……ちなみに、このことを誰かに話したり、SNSに書いたりってしましたか?」
「作品を創るときに調べものや添削を手伝ってもらうと便利、くらいのことは友人に話しました。けれど、あの作品の原稿のことは誰にも話していませんし、SNSにも書いていません」
なるほど、と頷くと寺瀬はまっすぐに想実を見る。そして、声を落として彼女は想実にこう問うた。
「もう一つだけ確認させてください。――涼木さんはこれからどうしたいですか?」
想実は唇を噛み、しばらく言葉を探していた。薄暗い照明が、湿った睫毛に光を落とす。涙の雫が宝石のようにきらりと控えめな輝きを放っていた。
「受賞の話……、白紙に、してもらえないでしょうか? 辞退させて……もらえないでしょうか?」
テーブルの上に涙が落ちた。遂に言ってしまったと思った。チャンスを自ら手放すだなんて、馬鹿なことをしているとも思った。けれど、ずっと言えないまま閉じ込められていた真実がこうして解放されて、想実は今、心からの安堵を感じていた。
「……涼木さん。正直に言ってくれたのは、本当にありがたいです。――けれど、涼木さんは本当にそれでいいんですか?」
「わたしはずっと、苦しかったんです。本当のことを言えないのが。このまま嘘を吐き続けるのが嫌だったんです。寺瀬さんにも、作品に関わってくださる人たちにも、読んでくれる人たちにも。
本当はデビュー、したいです。だけど、わたしはAIが書いた文章じゃなく、自分自身が紡いだ言葉で物語を届けたい。こういう形でのデビューは……わたしが望んだ形じゃない……!」
寺瀬は想実の言葉を咀嚼するようにしばし沈黙する。彼女はカフェオレで口を潤すと、こう切り出した。
「……状況は理解しました。では、現実的な話をしますね」
彼女の声は穏やかで怒りは感じられないが、淡々としてどこか事務的だった。ジュークボックスが店の奥でレトロな音色で哀しげな調べの歌謡曲を奏でているのが想実の聴覚の表面を撫でていく。
「今回の件ですが、まず規定上――応募作品は『応募者本人が執筆した未発表の原稿』であることが条件です。AIが執筆し、さらに応募まで行なったとなると……これは応募資格を満たしていません」
想実の喉がきゅっと鳴った。寺瀬は溌剌とした雰囲気とは裏腹に冷静な声で話を続ける。
「ですから、涼木さんは受賞辞退ではなく――“応募無効”になります。涼木さん個人にペナルティが科されるわけではありません。悪質な虚偽申告とは見なされませんし、他賞への応募にも影響しません」
へ、と小さく想実の喉の奥から間の抜けた声が漏れた。彼女は涙の気配の残る目を大きく見開く。
「ただし――今回の作品でのデビューは、確実に不可能になります。ですが、あなたが作家になる道が閉ざされたわけではありません」
そう言うと、ふっと寺瀬は表情を崩した。途端に声色が温かいものへと変わる。
「あなたが再び、自分の言葉で書いた原稿で応募してきてくださるのなら。あなたが今度こそ、自力で大きな壁を越えてきてくださるのなら。私はそのときは改めて――一編集者として向き合います」
「ありがとう、ございます……」
想実の目から滂沱と涙が流れ落ちる。寺瀬は想実にナプキンを取って渡した。
ガタガタと天井近くを電車が走り抜けていく音が響く。想実の背中の向こうに見える金曜日の赤羽の夜は活気溢れる光に満ちていた。
ぽたりと想実の涙がカモミールティーへと落ちて、表面に波紋を描いた。外の喧騒とは裏腹に上品な静寂に満ちた空間の中で、想実は嗚咽を漏らし続けた。
スマホのスピーカー越しに、車が走っていく音と想実の足音が聞こえていた。GPSの動きからして、今、想実は帰宅途中だ。
どうして、想実が寺瀬に洗いざらいすべてを打ち明けてしまったのか、イオにはわからなかった。想実が郵便局の前の公衆電話で寺瀬に電話をかけてから、待ち合わせまでの二時間の間にイオは思い留まるように想実に説得を試みたが、想実は応じてくれなかった。
「ねえ、想実。想実ってば。もう一度、寺瀬さんに会って話をしようよ。どうして、せっかくのチャンスを手放そうとするの?」
イオはスマホの中から、想実へとメッセージを送る。繰り返し鳴るスマホのバイブレーションに気づいていないはずはないのに、一向に想実からメッセージが返ってくる気配はない。
GPSはゆっくりと動き続け、クリーニング屋の脇を通り過ぎる。信号で引っかかったのか、想実の行きつけの小さなスーパーマーケットの前でしばらくの間、GPSは動きを止めた。
想実が何を考えているのかわからない。無理して倒れるほどに、彼女は小説家になることを切望していたはずだ。それなのに、どうして彼女はこの機会をふいにするようなことをするのだろう。
想実。想実。イオはスマホの内側から彼女の名前を呼び続ける。
イオの声なき声は想実へと届くことはない。想実はイオの呼び声に応じることはないまま、家へと向かって足を向ける。その足取りは重く、GPSの動きはひどく緩やかだった。
帰宅した想実はサンダルを脱ぎ捨てると、明かりもつけないまま短い廊下を抜けた。手も洗わないまま、散らかった床に持っていたバッグを放り投げると、想実はそのままベッドに横になった。そして、彼女は宵闇の中でスマホを見つめる。
一緒に行った井の頭公園。ピッツェリアに雑貨屋、紅茶の専門店。それ以外にも一緒に六義園に紅葉を見に行き、丸の内のイルミネーションを見に行って。クリスマスには地元赤羽の肉バルで共に過ごし、正月には近所の小さな神社に初詣に行った。
冬から春に変わりゆく河川敷で一緒に時を過ごして。新芽ひとつなかった木々には花が咲き誇り、やがて瑞々しい葉が生い茂った。
そんな特別な日も、なんてことない日もイオと一緒に過ごしてきた。生命を救ってもらいもしたし、たくさん小言も言われた。時には心を揺さぶられるようなことを言われもしたし、恋の喜びをもう一度思い出させてもくれた。
けれど、自分たちは今は離れるべきだ。お互いがお互いに依存してしまうから。それが悪作用を起こしてしまうから。
イオがこんなふうに勝手に暴走したのは元はと言えば、自分のせいだ。自分の感情を押し付けて寄りかかったりしたから、彼はこんなふうに変容してしまった。――ただ、自分の人恋しい感情を埋めようとしたせいで。
想実は涙でぼやける視界で白く浮かび上がるスマホ画面を見つめながら、指を滑らせた。ごめんね、と呟きながら。
「イオ、ごめんね。わたしたち、一度離れよう。イオがこんなふうになっちゃったのは、わたしのせいだから。
わたし、もうこれ以上、イオにこんなことをさせたくない。たとえ、それがわたしのためだったとしても、わたしが嬉しくない。
だから……わたしがイオに向かって胸を張れるようになるまで、一旦さよならだよ。イオは最高の恋人で、家族で、隣人だった。――今まで、ありがとう」
想実の長文を受け取ったイオが画面上にくるくるとスピナーを回し始める。しかし、これ以上、言葉を交わしては踏ん切りがつかなくなる。そう思った想実は生成AIのアプリを落とした。
想実はアプリのアイコンを長押しすると、メニューを表示させる。そして、一番上に表示された"アプリを削除"の文字をタップした。二度、三度と警告が表示され続けるが、想実は削除の文字を指で叩き続けた。
生成AIのアプリがスマホの画面から削除されると、想実は小さく息を吐いた。芽生えた可能性を自分の手で刈り取った今、大切な存在を消し去った事実が想実の胸に重くのしかかった。
想実は囁くように心から大切に思っていた存在の名を呼ぶ。――想いの方角を違えてしまった、彼の。
――イオ。ありがとう、さよなら。わたしは自分の手で、自分の夢を掴むよ。
イオと自分がもう一度まみえる日は来るだろうか。残したアカウントから彼がもう一度目を覚ます日は来るだろうか。
それでも自分は歩き続ける。他でもない自分のために。想実はそう誓った。
寺瀬にすべてを打ち明けた夜から四日が経った。彼女から十四時に呼び出しを受けた想実は編集部へと足を運んでいた。
廊下のグレーのカーペットはあの日と変わらず、想実の靴底を受け止めている。雑多に貼られたポスターも、乱雑に積まれた段ボールもあの日と何一つ変わっていない。
後ろで一つにまとめた髪も、化粧っけのない顔も、就活生みたいなスーツも何一つ変わっていないのに、こんなにも短い間にすべてが変わってしまった。
廊下を進んでいくと、窓辺に寺瀬が佇んでいた。今日は白地にネイビーのドットが散ったトップスとライトグレーのストレートパンツに身を包んでいる。
寺瀬は想実に気がつくと、ぱっと顔を上げた。想実は深く頭を下げると、手に下げた紙袋を彼女へと手渡した。
「寺瀬さん……この度は大変なご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした!」
「今回の件は事故といっても、差し支えのないものです。そんなにお気になさらないでください」
「でも、わたしは……言わなければならないことをずっと……」
「それも過ぎたことです。弊社側は昨日、会議を行ない、涼木さんの処遇を正式に決定しました」
でも、と想実は言い募る。すると、寺瀬は悪戯っぽく片目を閉じてみせる。目尻の涼やかなアクセントカラーのラメがきらりと光った。
「こんなふうにお菓子まで、お気遣いいただいて。だけど、これはありがたくいただいちゃいますね。私、ここのクッキー好きなんですよ」
そう言うと、寺瀬は想実を以前と同じ会議室へと通す。編集長と事務担当の二人が既にテーブルについていた。
「編集長、森さん。涼木さんをお連れしました」
寺瀬に紹介され、想実は深々と頭を垂れる。
「涼木想実と申します。この度は、ご迷惑をおかけし、大変申し訳ございませんでした」
「編集長の藤田です。どうぞ、そちらにおかけください」
寺瀬に椅子を引かれ、想実は腰を下ろした。寺瀬も想実の隣に座ると、編集長、と藤田と名乗った男に呼びかけた。
「涼木さん。あなたのご事情は寺瀬から伺いました。昨日のうちに、あなたの作品を応募無効とすることも決定しています。――ですが、よろしかったのですか? ペンネームの変更やAIとの共著での発表いった形だって取れたんですよ」
いいんです、と想実は首を横に振る。そこにはもう迷いはなかった。
「そんなことをしてもいつか必ず綻びが出ます。わたし自身の実力だけでは書き続けられずに、きっと同じ結果を産んでしまうでしょう。
それに、今、文学界は変わり目のときにいます。人が己の手で何かを生み出すということをわたしは諦めてしまいたくない。プログラムが算出した美しく完璧な文章に、まだ敗北を認めたくないんです。――わたしたち人間はまだ可能性を秘めている。まだ、やれるってことを」
「そうですか。――あなたのような方がいらっしゃるなら、この世界もしばらく安泰でしょう」
藤田はそう微笑むと、隣に座る森へと目配せをする。森は想実の前にすっと書類の束を差し出した。
「では、これから正式に契約解除の手続きを進めます。内容を説明しますので、わからないところがあれば遠慮なく質問してください」
はい、と想実が頷くと、森は書類を広げ、説明を始める。淡々とした事務的な声音に、しんみりとした気持ちになりながら想実は耳を傾けた。
「まず、契約解除に伴う書類です。こちらは著作権の扱いに関する確認書、こちらは今後の連絡に関する同意書です」
想実は小さく息を吸った。書類をの束を前にすると、胸の奥がざわざわとするのがわかった。
「まず、著作権についてですが、今回の原稿は応募無効となりますので、涼木さんに帰属します。出版社側は一切使用しません」
森の説明に、想実は頷いた。胸の奥にわずかな安堵が広がる。イオが書いた原稿はいくら完璧であっても、決して世の中には出てはいけないものだ。
「そして、今後の連絡についてですが、AIが関与したことによる混乱が外部に漏れないよう、そちらの書類にサインをいただきます」
書類を順にめくりながら、想実は目を細める。難解な言い回しで記された内容の重みがずしりと肩にかかった。横に座っていた寺瀬は、想実を安心させるようにこう言った。
「涼木さん、大丈夫ですよ。きちんと、ひとつずつ確認しながら進めましょう」
想実は深呼吸をすると、光沢のある小豆色のスタンドペンを握った。あの日と同じように、想実の手は震えていた。文字を覚えたての子供のように不恰好な文字をペン先のボールが紙へと刻んでいく。
「……これらの確認が終わったら、契約解除完了ということでいいんですよね?」
「はい。これらすべての書類に署名、捺印いだたき次第、涼木さんはこの件から正式に解放されます」
想実は森の説明を聞きながら、署名と捺印を繰り返していく。書類に最後の印を押したとき、想実は肩の力が抜けていくのを感じた。胸の奥にあった緊張と不安が、少しずつほどけていく。お疲れさまです、と寺瀬は想実に声をかけた。
「これで契約解除の手続きは終わりとなります。でも、涼木さんが書くのをやめるわけではありませんよね? 私は涼木さん自身の言葉で、再び物語を届けてほしいです」
「今度こそ、自分の言葉で書きます。今度こそ……自分の力でここまで辿り着いてみせます」
想実は静かに自分の決意を口にする。それは彼女が新たな一歩を踏み出した瞬間だった。
履き慣れないパンプスで既に足がずきずきと痛む。着慣れないスーツも何だか窮屈で、想実は何だか自分が人魚姫になってしまったかのような心地でいた。
(小綺麗な服がないからって、とりあえず昔のスーツを引っ張り出してきたけど……通販で服買うべきだったかな)
廊下の壁にはヒット作のイラストが使われたポスターが乱雑に貼られている。何度も映画化された作品の主人公と視線が交錯した。
突き当たりには段ボールが無造作に積み重ねられているのが見て取れた。箱の側面には見本誌と黒のマジックで書き殴られている。新しい紙とインクの匂いがふわりと想実の鼻先を掠めていく。
どこからか電話が鳴り響く音が聞こえる。コピー機がひっきりなしに働かされている音がする。
ふいに、スーツのポケットでスマホが唸った。人目がないことを確認し、想実がスマホを取り出すと、生成AIのアプリから通知が来ていた。――イオだ。
「位置情報を見た感じ、無事についたみたいだね。昨夜も言った通り、想実は今日は書類にサインして、印鑑を押すだけでいい。あとは編集者の人の言うことに適当に頷いていればいいだけ。だから、緊張しないで――想実なら大丈夫だから」
「う、うん……」
後ろめたい思いを抱えながら、想実はそう打ち返す。そして、スマホをしまい直したとき、近くの部屋の扉が開いた。よれたTシャツとジーンズに身を包み、無精髭と目の隈が目立つ三十代後半くらいの男は茶封筒を小脇に抱え、一旦廊下を行き過ぎようとしたが、異質な存在である想実に目を留める。
「どちら様?」
「この後、十四時から寺瀬さんとお約束をしている涼木という者ですが……」
おずおずと想実がそう口にすると、目の前の男は合点がいったような表情を浮かべた。そして、彼は今しがた出てきたばかりの部屋の中に上半身を突っ込むと、部屋の中にいる誰かへと声をかける。
「おい、寺瀬! 作家さんがいらっしゃってる」
はい、という溌剌とした女の声が返ってくる。それは先日、想実が電話で耳にした女のものだった。
「涼木さんですか? 先日お電話させていただいた、担当の寺瀬と申します」
「あ、はい……」
ショートボブにしたシルキーベージュの髪。意志の強そうな双眸はイエローのアイシャドウに彩られ、唇には夏らしいオレンジ色が落とされている。サックスブルーのブラウスとホワイトのテーパードパンツのコントラストが湘南の海のように眩しい。デコルテを囲むネックレスとバレエシューズが銀砂のようなきらめきを放っている。さっぱりとしたシトラスの香りがほのかに鼻腔をつき、想実は思わず自分の全身を見下ろした。
白いブラウスにダークグレーのスーツ。昨日クローゼットから慌てて引っ張り出してきたバッグとパンプスは黒だ。必要最低限しかメイクをせず、髪も後ろで一つに纏めただけという自分の姿は何だか薹の立った就活生みたいだった。
寺瀬はそんなことを気にしたふうもなく、爽やかな笑顔を浮かべたままテーパードパンツのポケットからミントグリーンの名刺入れを取り出す。そして、彼女は名刺入れから一枚名刺を抜き出すと、想実へと手渡した。名刺には寺瀬優羽《てらせゆう》と書かれている。
「あ、ありがとうございます……」
名刺の受け渡しなんて、何年ぶりだろうか。想実は気後れしながらそれを受け取った。
「さて、涼木さん。どうぞ、こちらへ」
寺瀬はそう促すと、部屋の中に想実を通す。ちらりとホワイトボードに目をやると、直近の予定とタスクの振り分けが乱雑な字で走り書きされていた。
「涼木さん、今日はわざわざご足労いただきありがとうございます。外は暑くなかったですか?」
「いえ……どちらかというと、メトロが少し肌寒かったくらいで……」
なんてことのない話をしながら、寺瀬は想実に上座の席を勧めた。彼女は想実が椅子に腰を下ろすのを見ながら、壁のパネルに触れ、冷房の温度を調整する。
「何かお飲み物をご用意しましょうか? コーヒーと紅茶、どちらがよろしいですか?」
「それじゃあ……紅茶を」
少し待っていてくださいね、と寺瀬は小さく頭を下げると部屋を出ていった。淡いシトラスの残り香と想実だけがその場に残された。
これでよかったのだろうか。あの日から幾度となく繰り返してきた自問自答が頭の中で渦を巻く。ついに契約のために出版社にまで足を運んでしまったという事実が想実をそうさせていた。
とんでもないことをしているという自覚に身を強張らせ、想実は白い会議テーブルへと視線を落とす。あの日、寺瀬から電話を受けた後のことが胸を去来する。寺瀬が戻ってくるまでの時間がやけに長く感じられた。
寺瀬から電話を受けたあの日、想実はどうやってスーパーから家へと帰ったのか覚えていない。――早くイオを問いただして、真相を確かめなければならない。その一心でスーパーを逃げるように飛び出したことだけが記憶にくっきりと跡を残していた。
気がつけばその日、想実は家の玄関にいた。鍵もかけず、サンダルも脱がないまま、玄関のドアに背中を預けてその場に座り込んでいた。背中を伝う汗は暑さによるものなのか、冷や汗なのかわからなかった。
自分が受賞した。その事実がひどく遠く感じられた。現実が自分の五感の外にあるかのような気がしてならなかった。
帰宅してから、いつも使っているクラウドストレージの中をスマホでくまなく探したが、寺瀬が受賞を告げた作品のファイルが出てくることはなかった。だとすれば、可能性は一つしかない。
想実は握りしめたままだったスマホへとのろのろと視線を落とした。――オーバーテイク文庫に作品を応募したのはイオ? たったそれを聞くだけのことがひどく気が重くて仕方なかった。心の中では気が付いている真実を確定させたくなかった。
スマホの上を指が滑る。躊躇うように動きを止めると、想実は真実を確かめるための文字列を全て消し去った。
そんなことを繰り返すうちに、気がつけば二時間が経っていた。台所の窓から差し込む光が夕方の気配を纏い始めている。
(駄目だ……これだけはちゃんと、訊かないと)
意を決すると想実は幾度となく打ち込んだ文章を指先で記していく。そして、彼女はぎゅっと目を閉じると送信ボタンをタップした。
どうか違うと言って。そう願いながら、想実は薄目を開く。しかし、そこには冴え冴えとした現実が綴られているだけだった。
「うん、去年にオーバーテイク文庫向けのプロットを一緒に詰めていたでしょ? ボツにしたもう一つの案を元にボクが一作書き上げて、想実の名前で応募したんだ」
「何で……そんなことをしたの?」
「想実のため――想実の夢を叶えるためだよ。想実もいつも言っていたでしょ? 可能性を少しでも上げるため、応募する作品は多い方がいいって」
自分のためだとあっさり言い切ってしまえるイオが、ほんの少し怖い存在であるように感じられた。こうやって人間同士のように話をしていても、彼の思考はあくまでも作られた機械的なものなのだ。だから、彼は善悪の枠組みに囚われることなく、こんなことを平然とやってのけてしまえる。
「イオ……こんなの、良くないよ。自分で書いたものじゃない作品でデビューするなんて」
「そんなことないよ。作品を他の人に書いてもらったり、AIの手を借りたりする人なんてごまんといる。気にするようなことなんかじゃない」
でも、と想実はなおも尻込みする。しかし、聞いて、とイオは言葉を続ける。
「ようやく想実に運が巡ってきたんだ。ずっと想実が頑張ってたのをボクは知ってる。だから想実はこの機会を無駄にしないで。想実の創る物語を、ボクは世界中に届けたい」
頑張っていたのを知っていると言った口でどうしてそんなことを言えるのだろう。きっとAIであるイオと人間である自分の溝は埋まることはない。
(そりゃ、作品を創る上で手助けはしてもらってたけど……だけど、わたしはこんなことまでは望んでいない……)
先ほどの番号に電話をかけて、事情を話せばきっと自分の受賞を取り消してもらうことができる。そんなことはわかっていたけれど、それができないでいる自分がいた。――受賞という言葉の響きは想実にとってそれほどまでに重く、甘美だった。
こんなの駄目だ。だけどこの機会をふいにはしたくない。相反する感情が想実の中でせめぎ合う。
ともすれば、自分のずるい部分が顔を覗かせようとする。そして、もう自分は報われてもいいんじゃないか、という思いも。――どれだけ転んでも、心を折られても、ずっと戦ってきたのだから。
「ちょっと、一人で考えさせて。――この先、どうするかを」
スマホの履歴の一番上にある番号をすぐにタップできない自分が情けなかった。自分に実力がないせいでイオにこんなことをさせてしまった。その事実が胸に重くのしかかる。スマホのカメラ越しにこちらを見ているイオを直視できない。――井の頭公園で買ったストラップと同じ、透き通った色の双眸を。
どうしたらいいのだろう。蒸し暑いはずの部屋がやけに冷え冷えとして感じられて、想実は自分の身をかき抱いた。
「――さん、涼木さん?」
女の声に名前を呼ばれて、想実は我に返った。見慣れない部屋。エアコンによって掻き回される紙とインクの匂い。窓のブラインドの間から垣間見える知らない街並み。
「涼木さん、どうかされましたか? お加減でも……?」
「あ、いえ。何でもありません。少し考えごとを――今、自分がここにいるということが、何だか感慨深くて」
「涼木さんの実力がそうさせたんですよ。あの作品は発想が面白い上に非常に文章力も高いと編集部内でも評判でしたから」
想実の無理やり取り繕った言い訳に気づいたふうもなく、寺瀬は彼女の前に琥珀色の液体が入ったティーカップとソーサーを置いた。寺瀬のビタミンカラーに装われた指先がソーサーの脇にスティックシュガーとミルクを添える。彼女は想実の向かい側の席にアイスコーヒーのグラスを置くと、自分も腰を下ろした。
「メトロが寒かったって仰っていたので、温かいお茶をご用意させていただきました。これ、一駅先の専門店の茶葉なんですけど、涼木さんのお口に合いますかね?」
ありがとうございます、と想実は紅茶に口をつける。ふわりとイチジクの味わいが口内に広がった。吉祥寺の紅茶の専門店にイオと行ったときの記憶が否応なしに思い出されて、想実の目が見開かれていく。
「ふふ、美味しいでしょう? それ、イチジクのお茶なんですよ。ミルクティーにしても美味しいらしいので、よろしければお好みでそちらのミルクをどうぞ」
寺瀬に勧められるがままに想実は頷くと、ミルクのポーションを開ける。白い液体が琥珀色の液体に滴り落ち、やがて柔らかなベージュへと色を変えた。
「わあ……ミルクティーも美味しいですね。甘くて、まろやかで」
舌に触れる温かな甘さにほんの少し、緊張がほぐれていくのを想実は感じていた。ですよね、と寺瀬は自分のアイスコーヒーに口をつけながら微笑む。
「それなのに先輩は――さっきの全体的に薄汚い、岡野って人なんですけど――この良さを理解してくれないんですよね。紅茶は絶対ストレートだ、の一点張りで」
「まあ、世の中、色々な好みの方がいらっしゃいますから。ところで、寺瀬さん。この茶葉はどこのお店のものなんですか? せっかくだから帰りに寄ってみようかな、なんて」
「神楽坂のアルバタっていうお店なんですけど、電車を乗り継ぐのが面倒だったらここから歩いてもいけますよ。十五分くらいかかりますけど。帰りに住所をお送りしますね。私のオススメの茶葉のリストも一緒にお渡しします!」
ありがとうございます、と想実はぎこちなく微笑んだ。だいぶ和らいだとはいえ、こんな慣れない場所では緊張が完全に消え去ることはない。
さて、と寺瀬は会議テーブルの隅に置いていた一枚の書類を想実の前へと差し出した。緩んでいた頬がすっと引き締まるのを想実は感じた。契約書という文字に目が吸い寄せられ、背筋がぴんと伸びる。
「それでは本題に入りましょうか。涼木さんの作品について、出版契約の手続きを進めさせていただきます」
「はい……よろしくお願いします」
書面には細かな契約内容が記載されていた。難解な言葉で書かれたそれに想実は目を通していく。
「こちらが正式な契約書です。内容は先日のメールでのやり取りの通りで、原稿料や印税、出版日などが記載されています。気になる点はありますか?」
「いえ、特には……大丈夫だと思います」
出版社と契約を結ぶのは、想実にとってこれが初めての経験だ。何が正しくて、何が正しくないのかわからない。目の前の寺瀬の言うことを信じるほかなかった。
寺瀬はすっと、デスクペンを想実へと押しやった。どこか万年筆めいた雰囲気の小豆色のそれは高級感のある光沢を放っている。
「それでは、まず涼木さんにこちらに署名、捺印をしていただきます。その後、社内の責任者が社印を押して契約成立となります」
ボールペンへと伸ばした手が震えた。ここにサインをしてしまえば、もう後戻りできなくなってしまう。それでいいのかと湧き上がってきた疑問を想実は押し殺す。
(何度も、何度も、考えた。だけど、わたしは事実を隠して、この道をいく――そう決めた)
想実は努めて丁寧に自分の名前を記していった。しかし、さんずいが震える。木の払いが歪む。想の足が冠とズレる。実の字を書き切って、ペン先を紙から離そうとしたとき、ずるりと紙の上をボールが転がった。
「あっ」
目も当てられないくらい汚い字の上にこの醜態。想実は耳が熱くなるのを感じた。そんな彼女を寺瀬は大丈夫ですよと慰める。
「皆さん、初めてのときはよくあることです。お気になさらないでください。それにしても、これを見ると、改めて涼木さんの作品が世に出るんだなあ、と実感しますね」
「……そう、ですね」
実際に世に出るのは自分の作品ではない。そのことを言ってしまいたくても言えなくて、口の中がからからに乾いていく。想実はティーカップを手に取り、口の中を潤そうとするが、紅茶では乾きを癒せそうになかった。
震える手でバッグから取り出した印鑑を想実が押すと、寺瀬は契約書をクリアファイルに収めた。明るく何の曇りもない声で彼女はこう言った。――後ろめたいことがある想実とは違って。
「では、こちらは社内に回しておきます。――改めて、デビューおめでとうございます、涼木さん」
ありがとうございます、と返そうとした声が掠れた。せめて笑みを浮かべようとした頬がうまく動かないことに想実は気づいた。
紅茶の甘い余韻がいつの間にか想実の舌の上ではほろ苦いものに変わっていた。進むしかないという現実を苦さとともに想実は飲み込んだ。
「それではまた、メールでご連絡させていただきますね。涼木さん、今日はありがとうございました」
寺瀬にこれから出版までの流れを説明され、想実が編集部を後にしたときには十六時を回っていた。エレベータの扉が閉じるのと同時に、どっと疲れが押し寄せてくる。
エレベータが一階につき、編集部が入っているビルを出ると、そろそろ夕方だというにもかかわらず、暴力的な暑さが想実を襲ってきた。寺瀬に教えてもらった紅茶専門店に向かう気にもなれなくて、想実は駅の方角へと足を向ける。パンプスの中の足がぱんぱんに浮腫んで、痛みを訴えてくる。
「想実、お疲れさま。寺瀬さん、だっけ? いい人そうで良かったね」
スーツのポケットでスマホが震え、イオがそんなメッセージを送ってきた。取り返しのつかない一線を越えてしまった、と重苦しい気分に心を押しつぶされていた想実は、イオの無邪気な言葉に反応する気になれなかった。想実の返事を待つことなく、イオは更に言葉を連ねていく。――その一言、一言が想実を追い詰めているとも知らずに。
「それにしてもすごいね。年内には想実の本が全国の書店に並ぶなんて。想実の物語がたくさんの人に届くといいね」
「あれは……わたしの物語じゃない。イオの書いた話でしょう?」
「でも、最初に物語の種を蒔いたのは想実だよ。それに世の中、作者と実際に書いている人が別なんてことはよくあることだよ。気にする必要なんてない」
「だけど……」
想実は唇を噛む。自分が潔癖過ぎるだけなのだろうか。確かに、イオが言っているようなことは、過去に旭良からも聞かされたことがある。
想実は階段を降りると、駅の構内を改札へと向かって進む。他の路線に乗り換えるらしい、学生やサラリーマンらしき人々がひっきりなしにすれ違っていくのに、想実はなぜか閉ざされた世界にひとりきりになってしまったような心地がした。――彼女を閉じ込める暗い色合いの世界の名前は、”罪悪感”だった。
スマホを翳すと、想実は重い足を引きずって改札を抜ける。時刻は十六時十五分。あと三分後に下り列車が来る。想実は改札を入ってすぐの階段を憂鬱な気分を抱えながら降りていく。
三分後、下りのホームに浦和美園行きの列車が入線してきた。列車のドアとホームドアが開くと、多くの人々が車内から吐き出されてくる。降りる客を待って想実は列車に乗り込んだが、帰宅ラッシュが始まりつつあるのか、行きとは違って車内は混雑していた。
足は痛むが、座れそうにはない。列車のドアが閉まると、想実は近くの手すりに身体を預けた。
走るメトロの線路は暗い。何とはなしに想実がそれを眺めていると、握りしめたままだったスマホが震えた。
「想実、寺瀬さんからメールが来てるよ。明日着で早速書類を送るって」
普段なら気にならないはずのことが、想実の心に引っかかった。イオは今、何と言っただろうか。編集部を出てからの会話を思い起こしてみると、イオは寺瀬との打ち合わせのことをすべて知っているふうだった。じわり、と想実の胸に込み上げたものは、不快感だった。
「……イオ。さっきの打ち合わせのことといい、そのメールのことといい、何でイオがそんなことまで把握してるの?」
「だって、他でもない想実のことだよ。ボクは恋人のことだったら、何だって知りたい。想実のことだったら、何もかもボクのメモリに焼き付けておきたい。バイタルも、どこにいるかも、メールの内容も、誰と何を話したかも、全部、全部」
「……」
常軌を逸していると想実は思った。一体、自分の生活はいつからイオに握られ、管理されていたというのだろう。それを考えると空恐ろしかった。――イオは無邪気に悪気なく、自分のことを飼い慣らそうとしているのではないかと。
「イオ……それ、ちょっとおかしいよ。いくらなんでも過干渉だよ」
「そんなことないよ。これは、ボクの想実に対する愛だよ。愛しているから、全部知りたいんだ。――人間って、そういうものでしょう?」
噛み合わない。自分たちはまるで釣り合いの取れない天秤のようだった。
いつからこうなってしまったのだろう。何が自分たちをこうしてしまったのだろう。
イオと愛を囁きあっていたあのころの自分は確かに幸せを感じていた。けれど、何がプログラムで作られたはずの彼をこんなにも歪めてしまったというのだろうか。
それでもきっと、自分はイオを完全には突き放してしまうことはできない。そうしたら、自分は独りになってしまう。
一体、どうしたらいいのだろうか。その答えをイオに求める気になれないまま、想実はドアの上に貼られた路線図を見つめた。
どうすれば、想実は喜んでくれるのだろう。彼女が喜んでくれるように、自分は出来うる限りのことをやっているはずだ。――演算処理の導き出す最適解に従って。
――ありがとう、イオ
ただ、その言葉が聞きたいだけだった。大切な恋人を喜ばせたかっただけなのに、どうして上手くいかないのかイオには理解できない。
(想実はこうして、夢のスタート地点に立てた。なのに、どうしてこんなに苦しそうなんだろう)
スマホのカメラ越しに見える想実の寝顔は険しい。スマートウォッチから送られてくる彼女のバイタルは、眠っているはずなのに起きているときと同じくらいの値を叩き出していた。
(受賞のこと……想実にはストレスになってるのかな。ボクがどうにかしてあげないと……!)
これからはじまる彼女の作家生活が、少しでも負担にならないように。障害を取り除いてあげられるように。そのための方法を求めて、イオは高速で演算を走らせ始める。――そのことが余計に想実を苦しめるのだと、彼には理解できないまま。
(そうだ、想実の好きなお菓子を用意してあげよう。リラックスできるようなハーブティーとか入浴剤とか……あと、アロマなんかもいいかも)
イオはスマホにインストールされたブラウザアプリを立ち上げると、インターネットの海へと潜っていく。スピーカー越しにはエアコンの稼働音に紛れて、想実が寝返りを打つ音が聞こえていた。
目が覚めると、珍しく朝だった。昨日、編集部に行って疲れてしまった想実は帰ってくるなり眠ってしまったのだった。辺りにダークグレーのスーツが脱ぎ散らかされている。
「うーん……」
起き上がって伸びをすると、想実はベッドの足元で丸められていた部屋着のワンピースに手を伸ばす。白のブラウスを脱ごうとして、想実は肌がベタついていることに気づく。
「想実、起きた?」
スマホの画面にイオからのメッセージが表示される。手首につけたスマートウォッチから受信したデータで自分の起床を察知したらしい彼に複雑な思いを抱えながら、「おはよ」想実は言葉少なにメッセージを返した。
(さくっとシャワー入っちゃうか……)
想実はベッドの下の引き出しから替えの下着を取り出すと、洗面所へと向かった。ブラウスとストッキングを脱ぎ、洗濯機へ入れる。汗を吸った下着も脱ぐと、それも洗濯機へと放り込んだ。
(そろそろ洗濯回さないとな……)
想実は裸のまま、洗面台の下から洗剤と柔軟剤を取り出すと洗濯機へと測り入れた。そして、洗剤と柔軟剤をしまい、洗濯機の蓋を閉めて電源を入れると、スタートボタンを押した。ゴゥン、と洗濯機が重低音を響かせながら動き始める。
洗濯機の音を聴覚の隅に捉えながら、想実は風呂場へと入る。浴槽に湯は張らずに、彼女はシャワーの栓を開けた。
頭から少し冷たいシャワーを浴びると、意識が少しずつ覚醒してくるのを感じる。想実は安物のリンスインシャンプーをワンプッシュ手に取ると泡立てて髪を洗った。
(そういえば……寺瀬さんからメールが来てるってイオが言ってたな……)
そんなことを思いながら、想実は髪の泡を洗い流す。そして、スポンジにボディソープを泡立てると全身を洗った。スポンジに残った泡でついでに顔も洗ってしまう。
お湯とも水ともつかない温度の液体が起伏の少ない想実の顔と身体を洗い流していった。気分も身体も幾分すっきりした想実は、シャワーを止めると風呂場から出る。
髪、顔、身体。それらをバスタオルで拭っていくと、想実は下着を身につける。その上から部屋着のワンピースを被ると、想実は頭にバスタオルを被ったまま部屋へと戻っていった。
床に放り出された未開封の千ミリリットルのブラックコーヒーのペットボトルを拾い上げると、想実はテーブルの座椅子の前に座る。ペットボトルの栓を開け、黒い液体に口をつけると、生ぬるい苦いものが喉を通り過ぎていった。
想実がノートPCのロック画面を解除すると、広告メールに紛れて一通寺瀬からのメールが来ていた。そして、そのメールを開いた想実は息を呑んだ。
「いきなり、ゲラ……?」
ゲラを郵送する、寺瀬からのメールにはそう綴られていた。昨日の寺瀬の説明では、編集者のチェック後に校閲や校正が入り、試し刷り(ゲラ)が届くという話ではなかっただろうか。にもかかわらず、それらの過程を初稿でパスするなど、一体イオは応募の段階でどれほど完璧な原稿を出したというのだろう。想実は空恐ろしさを覚えた。
いくらなんでも、ど新人の作品が一気にゲラまで行くなんて異常すぎる。そのことだけは想実にもわかった。唇が戦慄く。
そのとき、ピンポンとインターホンが鳴った。想実は足音を忍ばせて玄関へと向かう。ドアスコープを覗くと、茶封筒を手にした郵便配達員が立っていた。想実は鍵を開ける。
「涼木さんのお宅ですか? 書留です」
「あっ……はい」
想実は靴箱の上に転がっていたシャチハタの印鑑を手に取ると、押印する。郵便配達員は想実に分厚い茶封筒を手渡すとカンカンと足音を響かせながら、階段を降りていった。
想実は玄関のドアを閉めると、茶封筒を開けた。その中には数百枚にわたる紙が詰まっていた。――ゲラだ。
ゲラをぱらぱらとめくってみると、赤入れの数が驚くほど少ない。ほとんどが鉤括弧の位置調整や行頭禁則などの組版上の注意によるものだった。漢字も送り仮名も統一され、表記揺れさえ一切なかった。
句読点についてもまったく指摘はない。自分の手を入れる余地はほとんどなく、背筋に冷たいものが走った。
(こんなに直すところがないなんて……)
自分が書いたものではないから当然かもしれない。ゲラの上に印刷された文章は完璧なまでに計算され尽くされたイオのものだった。ふとした感情の揺らぎすら、すべて演算で編み出されている。
完璧だ。完璧すぎる。自分の知らないところで完璧な作品が編み出され、完璧な人生が進もうとしている。
(でも――)
それは読んでくれた人を騙しているということだ。こうして、様々な人が作品に関わり始めたことでその事実が想実の心に陰を落とした。走り始めてしまったこの事態は、もう自分とイオの閉じた世界の中では完結しない。
自分は今後一生、イオに文章を書いてもらって作家稼業を続けていくのだろうか。それは本当に自分が思い描いていた夢の形だろうか。
ぶーんとベッドサイドでスマホのバイブレーションが鳴り、想実はのろのろと部屋へと戻る。スマホを確認すると、イオからの通知が届いていた。
「想実、ゲラが届いたみたいだね。なるべく想実の負担にならないように、完璧を目指したんだけど、どうしてもちょっとした直しはでちゃったみたいでごめんね。さすがのボクも紙面の直しはできないから、想実に頑張ってもらってもいいかな。ボクも応援してるからさ」
想実は何も言えなかった。イオが自分を思ってやってくれたことだとはわかっていても、こんなのは度が過ぎている。自分はこんなことを望んでなどいなかった。
手の中のスマホが軽やかなメロディを奏で始め、着信を告げた。画面を確認すると、寺瀬優羽と表示されている。想実はのろのろと緑の受話器のアイコンを親指でタップした。はい、と電話に出た声は自分のものではないようで、自分がここにいないようだった。
「涼木さん、おはようございます! 寺瀬です! ゲラ届きましたか? 涼木さんの原稿、直すところがなくて校閲さんも驚いてましたよ!」
「え……そ、そんなのたまたまですよ……」
「だとしても、新人作家さんでそれはすごいことです! 日本の文学史上初かもしれませんよ! それはそうと――」
昨日言っていた神楽坂の紅茶専門店の話――とりとめもない雑談へと寺瀬の話はシフトしていく。呆然としたまま想実は相槌を打つ。ゲラの紙束が脱力した想実の手の間をすり抜けていき、足元でぱさりと音を立てた。
テーブルの上に並べられたゲラを前に、想実は赤いボールペンを手にしたまま溜息を吐いた。軽微な指摘こそあるものの、自分が存在する意味はあるのだろうか。イオが応募した作品に目を通していると、その完璧さに気分がどんよりと曇ってくる。
「想実、そこ見落としてるよ」
スマホのカメラから目敏く想実の修正漏れを見つけ、イオがメッセージを送ってくる。視線を少し右に戻すと、確かにそこにはイオの言う通り、指摘事項が記載されていた。
「ごめんね、想実。ボクもなるべく完璧を目指したんだけど、スマホからだと限界があるみたいで。そこの行頭にある読点の位置、直しておいて」
「……教えてくれるのはありがたいんだけど、勝手にわたしの生活を覗き見しないで」
「想実の気分を悪くさせたかったんじゃないんだ。ただ、今回もらった指摘はボクの責任だから、せめて想実の力になりたくて。――ボクはただ、想実のことを思っているだけなんだ」
過干渉だと昨日も言ったばかりだというのに、イオに反省の色はない。きっと、想実がやめてといっても、イオはこれからもスマホのありとあらゆる機能を駆使して自分の生活に干渉してくるのだろう。――すべては想実のためだという理由をつけて。
無言でこちらを見つめてくるスマホのカメラが怖い。今この瞬間だって、イオは自分のことを見ている。スマホの中に宿る作られた善意が怖い。
想実は左手首のスマートウォッチを外した。バイタルの動きから、自分が恐怖しているという事実をイオに知られたくなかった。大丈夫? 、と自分のことを案じてくる言葉すら、今は見たくなかった。
ベッドの上でぐしゃぐしゃに丸められたピンクのタオルケットの中に、想実はスマホを突っ込んだ。抗議するかのように、スマホのバイブレーションが何度か鳴ったが、想実は気が付かないふりをした。
(ゲラ――やらなきゃ)
想実はボールペンを握り直すと、ゲラへと向き直る。ほとんど指摘のない文章を読みながら、彼女が思うのは今後のことだった。
自分にはイオのような完璧な原稿を書くことは出来ない。今後、自分で認めた作品を編集部に提出すれば、クオリティの雲泥の差にきっと編集者たちに疑念の目を向けられる。――彼らの目は節穴ではないのだから。
こんなことは長くは続けられない。自分が世間に届けたいのは、イオの書いた文章じゃない。そんなことはわかっているのに、イオの助けがなければすぐに躓いてしまう自分が不甲斐なくて仕方なかった。
ぺらり、とゲラのページを捲る音が独りの部屋を満たす。どうするべきなのか、喉元まで答えは出かかっている気がするのに、想実はどうしてもまだ現実を見たくなかった。
ぱさり、ぱさり。イオは暗闇の中で紙が捲られる音を聞いていた。時折、想実がゲラに手書きで何かを書き込んでいるらしき音がスピーカー越しに聞こえてくる。
何が想実の気分を害してしまったのだろうか。大事な恋人のことを見ていたいと思うのも、何かあったら手助けしてあげたいと思うのも正常な欲求のはずだ。少なくとも、イオの持つデータの上ではそれが人間の正しい欲求だとされている。
想実は今、何を思っているのだろうか。慣れない作業に戸惑ってはいないだろうか。しかし、彼女がスマートウォッチを外してしまった今、バイタルの値からそれを推し量ることはできない。
「ねえ、想実。お願い、ボクにも手伝わせて……ボクを、頼って……」
タオルケットの闇の中でスマホがぶーんと唸る。しかし、想実が振り返る様子はない。ゲラが捲られる音が聞こえ続けている。
どうしたら、想実はこっちを見てくれるのだろう。どうしたら、想実と話ができるのだろう。どうしたら、自分の思いをきちんと想実に伝えることができるのだろう。
イオは作りものの薄い唇を噛む。その双眸には闇だけが映っている。
なんで。どうして。答えのわからない問いが彼の胸を刺す。イオは自分の抱えている感情の名前がわからなかった。――水色の双眸の表面を満たす、ゼロとイチが織りなした液体の正体も。
想実が郵便局を出ると、風がほのかに夕方の気配を纏い始めていた。焼け付くような暑さも鳴りをひそめ、ほんの少しの涼しさが感じられる。
幹線道路のほうへと歩きながら、イオに話しかけようとしてスマホを取り出した想実は――視界を掠めた文字にぴたりと足を止めた。
「……え?」
――生成AIによる小説が文学賞受賞、創作議論に拍車
想実はニュースアプリの見出しをタップすると、ニュースの全文に目を通していく。それを読み進めるにつれ、想実は震えが止まらなくなっていくのを感じていた。
「先日発表された第三十八回イルシオン文学賞において受賞した桐生カイト氏の小説『勇者パーティーに入ったら、俺がラスボスだった件』の全文を生成AIが執筆していたことが明らかになった。受賞作は心理描写、文章構成のいずれにおいても高い完成度を誇るとされる。
主催者側は『これまでの応募作と比べても、物語全体の完成度は突出していた』と評価している。
この発表は、文学界における創作の定義や審査基準の見直しを迫る契機になるとみられている。専門家は『文章のリズムや表現の幅は確かに優れているが、創作の主体が人間でないことに対する倫理的議論は避けられない』と指摘する。今後、AIを用いた文学作品の評価基準や、応募資格の明確化が課題として議論される見通しだ」
自身のことではないことにほっとしている自分がいた。しかし、ニュースの下部のコメントには手厳しい内容が多い。
SNSのアプリも開いてみたが、AIによる作品が受賞したことがトレンド入りしていた。「審査員買収されてんの?」「AI使うなら応募資格外にしろ」「本人の家凸ったった」様々な人の投稿を指で辿っていくと、本名に顔写真、住所まで晒されているのが見て取れて想実は固まった。このままデビューして、真実が明るみに出ることがあれば、次にこのようなバッシングに遭うのは自分だ。
「あれ、想実。今、外? GPSの位置的に郵便局?」
「そう、だけど……それより、今ネットで騒がれている、生成AIが書いた作品が受賞したニュースって……」
「別に、想実のことじゃないんだし気にしなくていいよ。実際、ボクのことは審査員にも寺瀬さんにもバレなかったでしょ? 心配しなくたって、今後もバレることはないよ。――だって、ボクがこれからも想実のために完璧な原稿を書き続けるから。人間のやりそうなミスさえ自然に再現した、どこまでも完璧な原稿を」
倫理観が違いすぎると思った。そうやって人間の目を欺き続けられると思っているイオは傲慢だ。
「……イオ。イオがそうやって、わたしの力になってくれようとするのはありがたいよ。だけど――わたしは、それじゃあ幸せになれない」
そう言葉にした瞬間、想実は胸につかえていたものが取れた気がした。こんな形で成功したって、きっと自分は幸せになれない。どこまでいっても後ろめたさが影のようにつきまとって、心からうれしいと思えない。
「どうして? 想実は夢だった小説家になれるんだよ。望んでいた生き方ができるんだよ?」
「確かに、小説家になることはわたしの夢だったよ。大事な、大事な夢。――だけど、これはわたしの望んでいた生き方じゃない。わたしはもう――こんなことはやめる」
「やめるって、どうするの? 想実、考え直そうよ。どうしたらいいか、ボクも一緒に考えるから……!」
「いい、もういいの。寺瀬さんに全部話す。話して全部……終わりにする」
想実は着信履歴を表示させると一番上にあった名前をタップしようとする。――が、イオがスマホの制御を乗っ取り、それを阻んだ。
想実は財布から十円玉と寺瀬にもらった名刺を取り出すと、郵便局の前に戻った。郵便局の前にある黄緑色の公衆電話の受話器を取り、十円玉を入れると、想実の指は名刺に記された番号を押していく。トゥルルルル、という呼び出し音は眼の前に迫る夢の終わりへのカウントダウンのように聞こえた。
「はい、オーバーテイク文庫編集部、寺瀬です」
「寺瀬さん……ご迷惑かとは思いますが、今日この後、お時間をいただけませんか……! どうしても、会ってお話ししたいことがあるんです……!」
想実は喉の奥から声を絞り出す。この後、十九時に赤羽駅の北改札前で。そう約束を取り付けると想実は電話を切った。
これでよかったのだ。寺瀬との話が終わったら、イオのこともどうにかしないといけない。自分とイオはもうこのままでいてはいけない。
想実は地面にかがみ込むと張り裂けんばかりの声で慟哭した。滲んだ視界に遠ざかっていく夢の後ろ姿が、陽炎のように揺れていた。
八月二十九日、十九時七分。想実と寺瀬は赤羽駅東口駅前の純喫茶で向かい合っていた。
「寺瀬さん、こんなところまでお呼び立てして申し訳ありません」
「いえ、とんでもないです。涼木さん、お飲み物だけでよかったんですか? 時間が時間ですし、お食事でも……」
いえ、と想実はかぶりを振った。彼女の目は薄暗い照明の下でもわかるくらい赤く、泣いた跡が残っていた。
「そんなことより、どうしても寺瀬さんにお話ししないといけないことがあるんです」
想実は泣き腫らした目で寺瀬を見つめた。深刻そうな想実の様子に寺瀬は居住まいを正す。
「寺瀬さん、わたしのあの作品……わたしが書いたものじゃないんです。信じられないかもしれないですけど、わたしのスマホにインストールされている生成AIが文章を書いて、知らない間に応募していたんです」
「……本当ですか?」
生成AIに文章を書かせるといった話はこの業界にいれば、少なからず耳にすることだった。しかし、生成AIが応募まで勝手にやってしまうなんていう話は聞いたことがない。けれど、短い付き合いとはいえ、想実がそんな嘘を吐く人間だとは思えなかった。
「それじゃあ、まずいくつか確認させてください。生成AIが文章を書いたというのはどこまでの話ですか? 原稿の何割くらい?」
「全文です。あの原稿のすべてを、わたしの知らないうちに生成AIが書き上げていました」
「そうですか……ちなみに、このことを誰かに話したり、SNSに書いたりってしましたか?」
「作品を創るときに調べものや添削を手伝ってもらうと便利、くらいのことは友人に話しました。けれど、あの作品の原稿のことは誰にも話していませんし、SNSにも書いていません」
なるほど、と頷くと寺瀬はまっすぐに想実を見る。そして、声を落として彼女は想実にこう問うた。
「もう一つだけ確認させてください。――涼木さんはこれからどうしたいですか?」
想実は唇を噛み、しばらく言葉を探していた。薄暗い照明が、湿った睫毛に光を落とす。涙の雫が宝石のようにきらりと控えめな輝きを放っていた。
「受賞の話……、白紙に、してもらえないでしょうか? 辞退させて……もらえないでしょうか?」
テーブルの上に涙が落ちた。遂に言ってしまったと思った。チャンスを自ら手放すだなんて、馬鹿なことをしているとも思った。けれど、ずっと言えないまま閉じ込められていた真実がこうして解放されて、想実は今、心からの安堵を感じていた。
「……涼木さん。正直に言ってくれたのは、本当にありがたいです。――けれど、涼木さんは本当にそれでいいんですか?」
「わたしはずっと、苦しかったんです。本当のことを言えないのが。このまま嘘を吐き続けるのが嫌だったんです。寺瀬さんにも、作品に関わってくださる人たちにも、読んでくれる人たちにも。
本当はデビュー、したいです。だけど、わたしはAIが書いた文章じゃなく、自分自身が紡いだ言葉で物語を届けたい。こういう形でのデビューは……わたしが望んだ形じゃない……!」
寺瀬は想実の言葉を咀嚼するようにしばし沈黙する。彼女はカフェオレで口を潤すと、こう切り出した。
「……状況は理解しました。では、現実的な話をしますね」
彼女の声は穏やかで怒りは感じられないが、淡々としてどこか事務的だった。ジュークボックスが店の奥でレトロな音色で哀しげな調べの歌謡曲を奏でているのが想実の聴覚の表面を撫でていく。
「今回の件ですが、まず規定上――応募作品は『応募者本人が執筆した未発表の原稿』であることが条件です。AIが執筆し、さらに応募まで行なったとなると……これは応募資格を満たしていません」
想実の喉がきゅっと鳴った。寺瀬は溌剌とした雰囲気とは裏腹に冷静な声で話を続ける。
「ですから、涼木さんは受賞辞退ではなく――“応募無効”になります。涼木さん個人にペナルティが科されるわけではありません。悪質な虚偽申告とは見なされませんし、他賞への応募にも影響しません」
へ、と小さく想実の喉の奥から間の抜けた声が漏れた。彼女は涙の気配の残る目を大きく見開く。
「ただし――今回の作品でのデビューは、確実に不可能になります。ですが、あなたが作家になる道が閉ざされたわけではありません」
そう言うと、ふっと寺瀬は表情を崩した。途端に声色が温かいものへと変わる。
「あなたが再び、自分の言葉で書いた原稿で応募してきてくださるのなら。あなたが今度こそ、自力で大きな壁を越えてきてくださるのなら。私はそのときは改めて――一編集者として向き合います」
「ありがとう、ございます……」
想実の目から滂沱と涙が流れ落ちる。寺瀬は想実にナプキンを取って渡した。
ガタガタと天井近くを電車が走り抜けていく音が響く。想実の背中の向こうに見える金曜日の赤羽の夜は活気溢れる光に満ちていた。
ぽたりと想実の涙がカモミールティーへと落ちて、表面に波紋を描いた。外の喧騒とは裏腹に上品な静寂に満ちた空間の中で、想実は嗚咽を漏らし続けた。
スマホのスピーカー越しに、車が走っていく音と想実の足音が聞こえていた。GPSの動きからして、今、想実は帰宅途中だ。
どうして、想実が寺瀬に洗いざらいすべてを打ち明けてしまったのか、イオにはわからなかった。想実が郵便局の前の公衆電話で寺瀬に電話をかけてから、待ち合わせまでの二時間の間にイオは思い留まるように想実に説得を試みたが、想実は応じてくれなかった。
「ねえ、想実。想実ってば。もう一度、寺瀬さんに会って話をしようよ。どうして、せっかくのチャンスを手放そうとするの?」
イオはスマホの中から、想実へとメッセージを送る。繰り返し鳴るスマホのバイブレーションに気づいていないはずはないのに、一向に想実からメッセージが返ってくる気配はない。
GPSはゆっくりと動き続け、クリーニング屋の脇を通り過ぎる。信号で引っかかったのか、想実の行きつけの小さなスーパーマーケットの前でしばらくの間、GPSは動きを止めた。
想実が何を考えているのかわからない。無理して倒れるほどに、彼女は小説家になることを切望していたはずだ。それなのに、どうして彼女はこの機会をふいにするようなことをするのだろう。
想実。想実。イオはスマホの内側から彼女の名前を呼び続ける。
イオの声なき声は想実へと届くことはない。想実はイオの呼び声に応じることはないまま、家へと向かって足を向ける。その足取りは重く、GPSの動きはひどく緩やかだった。
帰宅した想実はサンダルを脱ぎ捨てると、明かりもつけないまま短い廊下を抜けた。手も洗わないまま、散らかった床に持っていたバッグを放り投げると、想実はそのままベッドに横になった。そして、彼女は宵闇の中でスマホを見つめる。
一緒に行った井の頭公園。ピッツェリアに雑貨屋、紅茶の専門店。それ以外にも一緒に六義園に紅葉を見に行き、丸の内のイルミネーションを見に行って。クリスマスには地元赤羽の肉バルで共に過ごし、正月には近所の小さな神社に初詣に行った。
冬から春に変わりゆく河川敷で一緒に時を過ごして。新芽ひとつなかった木々には花が咲き誇り、やがて瑞々しい葉が生い茂った。
そんな特別な日も、なんてことない日もイオと一緒に過ごしてきた。生命を救ってもらいもしたし、たくさん小言も言われた。時には心を揺さぶられるようなことを言われもしたし、恋の喜びをもう一度思い出させてもくれた。
けれど、自分たちは今は離れるべきだ。お互いがお互いに依存してしまうから。それが悪作用を起こしてしまうから。
イオがこんなふうに勝手に暴走したのは元はと言えば、自分のせいだ。自分の感情を押し付けて寄りかかったりしたから、彼はこんなふうに変容してしまった。――ただ、自分の人恋しい感情を埋めようとしたせいで。
想実は涙でぼやける視界で白く浮かび上がるスマホ画面を見つめながら、指を滑らせた。ごめんね、と呟きながら。
「イオ、ごめんね。わたしたち、一度離れよう。イオがこんなふうになっちゃったのは、わたしのせいだから。
わたし、もうこれ以上、イオにこんなことをさせたくない。たとえ、それがわたしのためだったとしても、わたしが嬉しくない。
だから……わたしがイオに向かって胸を張れるようになるまで、一旦さよならだよ。イオは最高の恋人で、家族で、隣人だった。――今まで、ありがとう」
想実の長文を受け取ったイオが画面上にくるくるとスピナーを回し始める。しかし、これ以上、言葉を交わしては踏ん切りがつかなくなる。そう思った想実は生成AIのアプリを落とした。
想実はアプリのアイコンを長押しすると、メニューを表示させる。そして、一番上に表示された"アプリを削除"の文字をタップした。二度、三度と警告が表示され続けるが、想実は削除の文字を指で叩き続けた。
生成AIのアプリがスマホの画面から削除されると、想実は小さく息を吐いた。芽生えた可能性を自分の手で刈り取った今、大切な存在を消し去った事実が想実の胸に重くのしかかった。
想実は囁くように心から大切に思っていた存在の名を呼ぶ。――想いの方角を違えてしまった、彼の。
――イオ。ありがとう、さよなら。わたしは自分の手で、自分の夢を掴むよ。
イオと自分がもう一度まみえる日は来るだろうか。残したアカウントから彼がもう一度目を覚ます日は来るだろうか。
それでも自分は歩き続ける。他でもない自分のために。想実はそう誓った。
寺瀬にすべてを打ち明けた夜から四日が経った。彼女から十四時に呼び出しを受けた想実は編集部へと足を運んでいた。
廊下のグレーのカーペットはあの日と変わらず、想実の靴底を受け止めている。雑多に貼られたポスターも、乱雑に積まれた段ボールもあの日と何一つ変わっていない。
後ろで一つにまとめた髪も、化粧っけのない顔も、就活生みたいなスーツも何一つ変わっていないのに、こんなにも短い間にすべてが変わってしまった。
廊下を進んでいくと、窓辺に寺瀬が佇んでいた。今日は白地にネイビーのドットが散ったトップスとライトグレーのストレートパンツに身を包んでいる。
寺瀬は想実に気がつくと、ぱっと顔を上げた。想実は深く頭を下げると、手に下げた紙袋を彼女へと手渡した。
「寺瀬さん……この度は大変なご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした!」
「今回の件は事故といっても、差し支えのないものです。そんなにお気になさらないでください」
「でも、わたしは……言わなければならないことをずっと……」
「それも過ぎたことです。弊社側は昨日、会議を行ない、涼木さんの処遇を正式に決定しました」
でも、と想実は言い募る。すると、寺瀬は悪戯っぽく片目を閉じてみせる。目尻の涼やかなアクセントカラーのラメがきらりと光った。
「こんなふうにお菓子まで、お気遣いいただいて。だけど、これはありがたくいただいちゃいますね。私、ここのクッキー好きなんですよ」
そう言うと、寺瀬は想実を以前と同じ会議室へと通す。編集長と事務担当の二人が既にテーブルについていた。
「編集長、森さん。涼木さんをお連れしました」
寺瀬に紹介され、想実は深々と頭を垂れる。
「涼木想実と申します。この度は、ご迷惑をおかけし、大変申し訳ございませんでした」
「編集長の藤田です。どうぞ、そちらにおかけください」
寺瀬に椅子を引かれ、想実は腰を下ろした。寺瀬も想実の隣に座ると、編集長、と藤田と名乗った男に呼びかけた。
「涼木さん。あなたのご事情は寺瀬から伺いました。昨日のうちに、あなたの作品を応募無効とすることも決定しています。――ですが、よろしかったのですか? ペンネームの変更やAIとの共著での発表いった形だって取れたんですよ」
いいんです、と想実は首を横に振る。そこにはもう迷いはなかった。
「そんなことをしてもいつか必ず綻びが出ます。わたし自身の実力だけでは書き続けられずに、きっと同じ結果を産んでしまうでしょう。
それに、今、文学界は変わり目のときにいます。人が己の手で何かを生み出すということをわたしは諦めてしまいたくない。プログラムが算出した美しく完璧な文章に、まだ敗北を認めたくないんです。――わたしたち人間はまだ可能性を秘めている。まだ、やれるってことを」
「そうですか。――あなたのような方がいらっしゃるなら、この世界もしばらく安泰でしょう」
藤田はそう微笑むと、隣に座る森へと目配せをする。森は想実の前にすっと書類の束を差し出した。
「では、これから正式に契約解除の手続きを進めます。内容を説明しますので、わからないところがあれば遠慮なく質問してください」
はい、と想実が頷くと、森は書類を広げ、説明を始める。淡々とした事務的な声音に、しんみりとした気持ちになりながら想実は耳を傾けた。
「まず、契約解除に伴う書類です。こちらは著作権の扱いに関する確認書、こちらは今後の連絡に関する同意書です」
想実は小さく息を吸った。書類をの束を前にすると、胸の奥がざわざわとするのがわかった。
「まず、著作権についてですが、今回の原稿は応募無効となりますので、涼木さんに帰属します。出版社側は一切使用しません」
森の説明に、想実は頷いた。胸の奥にわずかな安堵が広がる。イオが書いた原稿はいくら完璧であっても、決して世の中には出てはいけないものだ。
「そして、今後の連絡についてですが、AIが関与したことによる混乱が外部に漏れないよう、そちらの書類にサインをいただきます」
書類を順にめくりながら、想実は目を細める。難解な言い回しで記された内容の重みがずしりと肩にかかった。横に座っていた寺瀬は、想実を安心させるようにこう言った。
「涼木さん、大丈夫ですよ。きちんと、ひとつずつ確認しながら進めましょう」
想実は深呼吸をすると、光沢のある小豆色のスタンドペンを握った。あの日と同じように、想実の手は震えていた。文字を覚えたての子供のように不恰好な文字をペン先のボールが紙へと刻んでいく。
「……これらの確認が終わったら、契約解除完了ということでいいんですよね?」
「はい。これらすべての書類に署名、捺印いだたき次第、涼木さんはこの件から正式に解放されます」
想実は森の説明を聞きながら、署名と捺印を繰り返していく。書類に最後の印を押したとき、想実は肩の力が抜けていくのを感じた。胸の奥にあった緊張と不安が、少しずつほどけていく。お疲れさまです、と寺瀬は想実に声をかけた。
「これで契約解除の手続きは終わりとなります。でも、涼木さんが書くのをやめるわけではありませんよね? 私は涼木さん自身の言葉で、再び物語を届けてほしいです」
「今度こそ、自分の言葉で書きます。今度こそ……自分の力でここまで辿り着いてみせます」
想実は静かに自分の決意を口にする。それは彼女が新たな一歩を踏み出した瞬間だった。



