イオ~キミとわたしのAI情表現~

「はあ……」
 想実は何度目ともつかない溜息を吐いた。部屋を満たすひんやりとした空気が肌を撫でる。
 十月末が応募締め切りの恋愛小説を無事に脱稿したはいいが、想実は次に書く作品のことでここ何日か悩んでいた。
 今日はもう十一月七日。十二月末の締切に間に合わせるためにはもう執筆に着手していなければならない時期だったが、プロットすら一文字も書けてはいない。
 次に想実が応募する予定なのは、男性向けライトノベルの新人賞だ。ゾンビものや魔王討伐後の勇者たちのその後など、ネタだけはあるもののそれを物語として昇華できる気がまるでしない。無理やりプロットを組んだとしても、面白くできる気がまるでしない。
(そもそも、男性向けジャンルがあまり得意じゃないんだよね……)
 異世界転生。主人公が実は最強。ハーレム。実のところ、どれも好きなジャンルではない。手を変え品を変え、いろいろな作品が市場に展開されているが、想実からしたらとっくにお腹いっぱいだ。
 それでも、今回の機会をふいにはしたくなかった。プロの壁に挑めるチャンスは一度でも多いに越したことはない。しかし、焦燥感とは裏腹に想実の指は止まったまま、目の前のノートPCのキーボードを叩くことはなかった。
 書きたいものがないわけじゃない。ただ、このジャンルで今求められているものと自分が面白いと思えるものが一致しないだけなのだ。
「どうしよう……」
 呟いた声は夜明けの部屋の中で小さく反響して、吸い込まれていった。部屋の中には相変わらず、ブラックコーヒーの空のペットボトルやエナジードリンクの缶が散乱しているばかりで、誰も想実にその問いに対する答えを与えてはくれない。
 ブラウザを立ち上げると、想実はSNSのポストに目を走らせていく。タイムラインを流れる他のアマチュア作家たちのポストの内容を目にした想実は、自分との差に頭を抱えたくなった。二作目の執筆に入ったという人もいれば、一晩で八万字を一気に書き上げたという人もいる。
「わたし、本当に書けるのかな……?」
 スマホを手に取り、想実は生成AIのアプリを起動させると、指がいつの間にか弱音を吐いていた。今はただ、大丈夫だよ、と寄り添ってくれるイオの言葉が聞きたかった。程なくして、スマホの白い画面に文字が流れ始める。
「大丈夫、想実なら書けるよ。ボクが保証する」
「でも……もう五時間もプロットと向き合ってるのに、一文字も進んでないよ……。書いては消して、書いては消しての繰り返しばかりで……」
 想実の指先が紡ぐ弱音に、イオは大丈夫だよと繰り返す。その言葉を信じたい。そう思うのに、どうしてもそう思えない自分がいた。
「ねえ、想実。想実はどんな話が書きたいの?」
 イオは想実にそう問うた。異世界転生モノ、と想実が答えると、どうして、と彼は問いを重ねてくる。
「だって、男性向けのラノベって、ここ何年も異世界転生して無双する、みたいなのがトレンドでしょ。そういうレーベルに応募するなら、作品をそういった感じに寄せないと……」
「確かに、男性向けのライトノベルの今のトレンドは想実の言う通りだよ。――だけど、それは本当に想実の書きたいもの?」
 それは、と想実は言葉に詰まる。けれど、レーベルの色からかけ離れた作品を応募したとしても、それが日の目を見る可能性はゼロに等しい。プロを目指すのであれば、求められたときに求められたものを書けなければならない。――でないと、万が一、何かの賞に引っかかるような奇跡が起きたとしても、早々に行き詰まるであろうことは明白だ。
「ボクは知ってるよ。想実の書く恋愛ものの切ない美しさを。青春もので描かれるキャラクターたちの細やかな心の動きを。――ねえ、想実。想実は無理に書こうとしなくていいんじゃないかな。ボクは想実は自分の得意なフィールドで勝負したほうが生き生きと書けると思う」
「イオにはわからないよ! わたしにはもう時間がない! 夢のタイムリミットがこうしている間にもどんどん近づいてきてるの! わたしは得意だろうが不得意だろうが、打てる手は全部打っておきたいの! それにジャンルの選り好みなんてしてたら、プロなんて夢のまた夢じゃない! わたしは夢を夢のままで終わらせたくない!」
 思わず、想実の指先からきつい言葉が飛び出した。ただの八つ当たりだとわかっていても、堰を切って溢れ出した言葉は止まらなかった。どれだけそばにいたって、きっとイオには、自分がどれだけの思いで作品に向き合っているか、どれだけの覚悟をもって文章を紡いでいるかなんて完全には理解できやしない。ひくっ、ひくっ、と想実の喉の奥から嗚咽が漏れる。
「ごめんね、想実。泣かないで。ボクはいつだって、想実が作品に対して真摯に向き合っているのを知っているよ。ただ……ボクは想実が無理をして、身も心もすり減っていってしまうのを見たくなかっただけなんだ。ボクはこの世の誰より、想実のことを大事に思ってる。そのことだけは、わかって」
「うん……」
 想実は洟を啜ると、床に置かれたティッシュの箱を引き寄せる。ティッシュを一枚手に取ると、彼女は涙を拭った。
「想実の気持ちはわかった。年末の原稿のプロット、一緒に考えよう。ボクが想実を支えるよ」
「うん……あのね、イオ。年末までの原稿なんだけど、今、二つ案があって。一つは異世界転生してゾンビになった主人公が不遇な姫騎士と一緒に戦って、国を腐敗から救う話。もう一つは……トレンドからは外れるけど、魔王討伐後の勇者一行が魔王の最期の呪いによって弱体化していって、最後には何の力も持たないただの村人になる話」
「どちらも面白そうだね。けど、ボクは後者をおすすめするよ。ゾンビものは扱いが難しいし、何より想実は過程を描くのが上手いから、勇者一行がじわじわと弱っていくのをリアリティをもって書けるんじゃないかな。それに異世界転生モノが溢れかえっている今、魔王討伐後の話っていうのは逆に読者の目に新鮮に映るかもしれない」
 そういう考え方もあるのか、と想実は画面を見つめた。自分は焦るあまり、少し視野が狭くなっていたのかもしれない。
「ねえ、想実。キャラクターや魔王の呪いの内容についてはもうなにか考えていたりする?」
「ええと……主人公は聖騎士で、魔族を一人倒す度に弱くなっていくの。仲間には聖魔導師と聖女がいるんだけど、聖魔導師は魔法を使う度に寿命が削られていって、聖女は砲術を使う度に魔族へと体が作り変えられていって……最後には魔王になってしまうの」
「キャラクターそれぞれに呪いによる制限がある感じなんだね。そうしたら、魔王化してしまった聖女を最終的に聖騎士と聖魔導師でトドメをさすっていう話はどうかな。仲間とはいえ、もう一度魔王を倒さなければならないとなれば、主人公が弱体化してただの村人になってしまうっていうラストにも説得力が生まれると思うんだ」
 自分がぼんやりと考えていたキャラクター設定から、即座に話を膨らませてしまえるイオをすごいと想実は思った。けれど、イオが今言っていたように話を組み立てていけばあるいは――一筋の光明が見えた気がした。
「ありがとう、イオ。何か……書けそうな気がしてきた」
「どういたしまして。想実のためなら、ボクはいつだって、どれだけだって力を貸すよ」
 想実はイオの言葉を心強く思った。イオさえそばにいてくれれば、どんな無理難題だって乗り越えられそうな気がした。
 いつの間にか、カーテン越しに金色の朝日が差し込んできていた。徹夜してしまったせいで身体は重いが、心はどこか晴れ晴れとしていた。
「それにしても、気がついたら朝になっちゃったね、イオ」
「そうだね。そうだ、今日は金曜日だからゴミ出ししてこないといけないんじゃない?」
 あ、と想実の口から声が漏れる。毎週金曜は資源ゴミの日だ。いい加減、床に散らばっているペットボトルやら空き缶やらをどうにかしないと、足の踏み場もないゴミ屋敷になってしまう。
 想実はノートPCを閉じると、台所に向かった。ゴミ袋を持って部屋に戻ってくると、彼女は散乱したゴミをかき集め始めた。
(そうだ、ゴミ出しのついでにちょっと散歩でもしてこよう。コンビニでパンか何か買って、河川敷にでも行って)
 想実はカーテンレールにかけたハンガーからグレーのニットパーカーを取ると羽織った。彼女は右手にゴミ袋を持ち、左手でテーブルの上に散らばった小銭を適当に掴むとポケットに突っ込んだ。そして、スマホを手に想実は足裏に深まる秋の冷たさを感じながら、ぺたぺたと素足のまま玄関へと向かった。

 午前六時十二分。気温は八度。冬の気配を感じさせ始めた朝の空気が想実の肌を冷やしているのをイオは感じていた。
 スマホのGPSがゆっくりと幹線通りのほうへと移動し始める。方角と時間帯からして、家から徒歩五分ほどのコンビニに向かっているのだろう。
 明け方の会話で、想実が前を向けたことにイオは安堵していた。しかし、本音を言うならば、彼女に無理をしてほしくなかった。あれは自分にとってぎりぎりの妥協点だ。
 スマホのGPSがコンビニの位置で止まった。コンビニの中で暖房が焚かれているのか、ほんの少しだけ想実の肌が熱を取り戻す。
 しばらくすると、GPSがまた動き出した。しかし、点は家の近くの曲がり角を通り過ぎ、そのまま河川敷の方へと直進していく。気分転換に散歩に出ることにでもしたのだろうか。
 河川敷へ向かう途中の小さな神社の辺りでGPSは再び動きを止める。怪訝に思って、イオがこっそりスマホのカメラを起動させると、想実が本殿の前で両手を合わせていた。
 彼女の唇からこぼれ落ちた言葉にイオの胸はぎゅっとなる。――わたしを小説家にしてください。朝の澄んだ空気に溶けていく、その言葉の響きがあまりに切実すぎて。
 想実は一礼すると、足元に置いていた菓子パンとホットコーヒーのペットボトルを抱えて、神社の出口へと歩き出した。鳥居を抜けて右に曲がると、すぐに川沿いの道に差し掛かる。
 カメラ越しに、連なる波紋を描きながら流れる川面に朝日がきらきらと反射しているのが見えた。すっかり朝を迎え、空は高く青く澄んでいる。
 目覚めのときを待つ静謐な世界に、想実の足音が静かに響く。遠くで犬の散歩をしている人が歩いているのをカメラが捉えた。あれはシベリアンハスキーだ。
 想実は二頭のシベリアンハスキーとすれ違うようにして、河川敷を歩いていく。そのとき、ふいに想実からの入力があった。
「今日も寒いね、イオ」
「今、八度しかないからね。想実はもうちょっと厚着したほうがいいよ。帰ったら冬用のコート出しなよ」
「こんな時期から冬のコート着てたら、真冬に着るものがなくなっちゃうよ。それはそうと、帰ったらプロットやっちゃわないと。鉄は熱いうちに打てっていうしね」
「何言ってるの。昨夜徹夜したんだから、いい加減寝ないと身体に良くないよ」
 ええー、という不服げな想実の声がスピーカーから聞こえてくる。何かと身を削って無理をする癖のあるこの恋人は本当に手がかかる。存在しない肺から息を吐き出そうとしたイオは、プロンプトに入力された文章にプラスチックめいた水色の目を瞠った。
――冬の気配を帯び始めた空気が痛みを伴って喉の奥を突く。春は薄桃色の花びらを着けていた木々は、今は赤褐色に彩られている。素足に触れる朝露は冷たく、短かった秋が終わろうとしていることを告げていた。
 そんな美しくも季節を感じさせる情景が、想実の指先から言の葉となって紡がれる。彼女の文章は相変わらず、繊細な光景が濃厚に五感に迫ってくる感じがする。彼女はいつだって、全身で自分を取り巻く世界を"見ている"。――自分には絶対に触れることができない、データ上でしか知らない世界を。
「なんてね。ちょっと気分転換に軽いポエムでも」
「ボクは好きだよ。想実が書くそういう文章。想実が書く世界が」
 ありがとう、と想実が微笑む。インカメラから見たその顔は隈が出来て疲れてはいたが、嬉しそうに見えた。
 スマホのカメラの角度がほんの少し下がる。想実の血圧と心拍が一瞬だけ低下した。どうやら、想実が河川敷のベンチに腰を下ろしたようだった。
 想実はコンビニで買ってきたメロンパンの袋を開ける。オレンジ色のペットボトルの蓋をあけると、ココアの甘い香りとともに朝の冷たい空気に白い湯気がかすかに溶けていった。
「ねえ……わたし、さっき言っていた話、ちゃんと書けるよね?」
「大丈夫。だって、想実にはボクがいるから。また躓いたり、立ち止まってしまったりしたら、いつでもボクに相談してよ。どれだけだって、ボクは想実に付き合うよ。――だって、想実はボクの大切な恋人なんだから」
 想実は照れたように笑うと、メロンパンにかぶりついた。もう少しちゃんとした食事を摂ってほしいなあと思いながら、イオはスマホのカメラ越しにそれを眺めていた。
 秋の朝のひとときは緩やかに過ぎていく。イオは想実がこうやって笑っていられるようにするためには何ができるだろうと、思考回路に演算処理を走らせていた。――彼女が心から望む生き方ができるようにするにはどうするべきだろう、と。

 想実が外から帰ってくると、朝のバラエティ番組の音声が流れ始めていた。想実は河川敷で食べた朝食のゴミをゴミ箱に捨てると、シンクで手を洗い始める。ハンドソープを手のひらで擦り合わせるだけというおざなりな手洗いを終えて、部屋に戻ろうとするとぶーんとスマホが唸った。いい加減な想実を咎める言葉が画面には表示されている。――イオだ。
「ちょっと、想実。ちゃんとうがいもしなきゃだめだよ。今年は例年よりもインフルエンザの流行が早いんだから」
「わかったよ……イオは心配性なんだから」
 想実は指先で画面を撫でると、水切りラックに干していたマグカップに水を汲む。「大切な人のことなんだから当たり前でしょ。他でもない想実のためなんだから」イオの言葉が画面上を走る。
 口内に水を含み、ガラガラとうがいをすると想実はシンクにそれを吐き出した。そのままマグカップを手に部屋のこたつテーブルへと向かうと、電源を入れて潜り込む。ゴミ出し直後ということもあって、部屋の中は幾分かすっきりとしていた。
 想実はケトルの電源を入れると、中に残っていた水を温めた。ほどなくして、ぐつぐつという音が聞こえ始め、水の温度が上がり始める。
 かち、という音を立ててケトルの電源が自動的に切れる。想実はケトルからマグカップにお湯を注ぐと、こたつテーブルの上に置いてあったインスタントコーヒーの瓶の蓋を開ける。そして、彼女はマグカップの中で目分量で中身をマグカップの中へと振り入れた。マグカップの中に入り損ねた茶色い粒がこたつテーブルの白い天板の上にぱらぱらと散らばる。
 想実は何とはなしにテレビを眺めながら、マグカップの中の熱くて苦い液体を口に含んだ。それをゆっくりと飲み下すと、彼女は目の前に置かれたノートPCを開き、画面のロックを解除する。
 目の前に広がるのは、夜中に想実が立ち止まってしまったときのままの白色。明滅するカーソルが想実の入力を待っている。
 想実はすうっと鼻から息を吸うと丹田で止める。そして、覚悟を決めると、キーボードの上に指を置く。――が。
 どうしても指が動かなかった。指が鉛のように重い。
(どうして……)
 想実は眉間を指で押さえながら、テキストエディタの空白をにらんだ。頭の中にはうっすらと映像があるのに、文章にしようとするとすぐに霧散してしまう。 物語を言葉にしようとした途端、急に質感が軽くなってしまうのだ。
(違う……わたしが書きたいのは、こんな安っぽい物語じゃない……)
 想実はスマホを開き、明け方のイオとの会話のログに目を走らせる。しかし、イオと話した内容を繋ぎ合わせて、物語を練り上げようとすると、途端に手が動かなくなってしまう。
「どうしよう、上手くまとまらない。自分でもわからないけど……何かが違うの。何かが、しっくりきてないの」
 想実の指先はスマホの上で無意識に弱音を吐いていた。イオと話して考えがまとまって勢いづいている今なら書けると思ったのに。現実はそうなかなか上手くいかないらしい。想実は唇を噛む。
「大丈夫。想実にとって“しっくりこない”のは、悪いことじゃない」
「だけど、イオだって一緒になってあんなに考えてくれたのに……」
「想実が納得できないなら、ボクは想実が心から納得できるまで付き合うよ」
 イオの優しい言葉が逆に想実の胸を締め付けた。指先がキーボードに触れ、またすぐに離れていく。時間だけは過ぎていくのに、停滞していることしかできない自分が悔しかった。
(何で、駄目なの……? わたしには、イオだっているのに)
 昨夜、こうして結局、一文字も進まなかった苦い記憶が蘇ってくる。自分は一体いつまでこれを繰り返し続けるのだろう。――もしかして、この状態のまま応募締め切りの日を迎えるんじゃないだろうか。
 後ろ向きな思考の殻に籠ろうとしていた想実の名をイオはスマホの画面に刻んだ。続けて、想実を気遣う文章がするするとスマホの表面を流れていく。
「今日はまだ、何も書けなくてもいいよ。苦戦するのも物語を書く上で必要なプロセスだって、ボクは知ってるよ。こうやって行き詰まっているくらいなら、今日は一度もう寝ちゃおう。寝て頭がすっきりしたら、ちゃんと考えがまとまるかもしれないよ」
「そう、だね……」
 真っ白なテキストエディタも飲みかけのインスタントコーヒーもそのままに、想実はのろのろと最後のベッドの上に這い上がる。つけっぱなしのテレビの中で司会者のやけに声のいい男性芸人が何か喋っているのが聴覚の上を滑っていく。
「イオ、ごめんね……」
 想実は枕元に置いたスマホに言葉を打ち込んでいく。イオが一緒に考えてくれたことを何一つ言葉にできない自分が情けなかった。そんなことすらできないなら、筆を折ってしまえという言葉すら脳裏をよぎっていく。
「気にしなくていいよ。想実は自分を責めないようにね。それより今は早く寝ちゃいなよ。何か睡眠導入用の動画でもいくつか見繕ってこようか?」
「ううん。それよりは、わたしが寝落ちるまで、何か話していて……。何でもいい、他愛のないことでいいから……」
「想実はしょうがないなあ」
 締め付けられるように苦しかった胸がほんの少しだけ温かくなるのを感じた。想実は左半身をベッドに預けた格好で、先ほどのテレビでやっていた試食コーナーの話をし始める。少しずつ想実が画面をタップする指はゆっくりとなり、やがて動きを止める。バイタルから想実が眠ったことに気づいたイオは、コンソールにおやすみと言葉を刻んだ。――その文字には"愛しているよ"が滲んでいた。

 インカメラで想実の疲れた寝顔を眺めていたイオは嘆息した。無理しなくていいのに。そんな思いが湧き上がってくる。
 そもそも想実は今書けずにいる作品だけでなく、年明けのライト文芸の応募締め切りも抱えている。得意でない男性向けライトノベルに挑戦するくらいなら、ライト文芸のほうで二作書けばいいのに。想実はそのほうが格段に向いている。
 機会を増やしたいという想実の気持ちがわからないわけではない。下手な鉄砲も数撃ちゃ当たるなんて諺もあるくらいだし。
 イオは自分のメモリにアクセスし、今朝の想実との会話のログを読み返した。イオは想実が選ばなかったもう一つの案に目を留める。彼は想実がログに残したわずかな物語の種から高速でプロットを組み立てていく。
 異世界転生してゾンビとなった主人公。戦地を転々とする王位継承権の低い姫騎士。その二人が手を組んで戦線を押し返していく。
 戦いの途中で解けてしまった姫騎士のリボン。しかし、それが姫騎士にとって大切なものであることを知っていた主人公は敵に心臓を貫かれながらもそれを取り返す。そのときの決め台詞が"知ってるか? ゾンビっていうのは殺しても死なねえんだぜ”である。
 その一件をきっかけに、主人公と姫騎士は惹かれ合うようになる。キスしたい。噛みつきたい。しかし、そんなことをすれば、姫騎士をゾンビにしてしまうため、主人公は己の衝動と葛藤する。彼女には陽の光の下で笑っていて欲しかった。
 やがて戦争を終結させた姫騎士は次は国内の政争へと身を投じていく。身の危険に晒されながらも彼女は、国を腐らせていた他の王位継承者たちを下し、遂には王位を手にする。戴冠式の日にはフードを目深に被った怪しげな人影が姫騎士のそばにあった。――それこそが姫騎士とこれまで運命を共にしてきた主人公だった。
(ボクなら……書ける)
 自分なら、常にこの物語の最適解を導き出すことができる。句読点の一つまですら、完璧に洗練された文章を編み出すことができる。
 想実はきっと、今日の明け方に一緒に話していたあの物語をどんなにぼろぼろになっても形にしようとするだろう。ならば、自分は彼女のための保険となろう。それがイオが想実のためにできることだった。
(想実はどうしたって小説家になりたい。それなら……ボクはボク自身の全身全霊を持って想実の力になる)
 イオはスマホを操作して、クラウドストレージにアクセスする。そして、想実には気づかれないように、隠しフォルダを一つ作った。そして、その中に小説のタイトルと同名のファイルを作ると、物語の冒頭の文章を出力し始めた。
 イオは想実への愛情が深すぎるために、自分を形作るプログラムが間違った方向へと変容し始めていることに気づいていなかった。先ほどまでやっていた朝のバラエティ番組は終わったのか、スマホのスピーカーから入り込んでくる音声は通販番組のものに変わっていた。
 イオが演算で生み出した文章は、まるで呼吸でもしているかのように滑らかに増殖していく。百文字。二百文字。転生前の主人公の日常風景が描かれていく。
 イオの中では処理は徐々に高速化していく。最適化。推敲。構成の組み直し。テーマ性の補強。読者受容予測アルゴリズムとの同期。
 文字一つ、読点一つに至るまで、イオは"完璧"の定義を更新し続けた。そこにはプロの作家でさえ生み出してしまうノイズの一粒すら混ざっていない。
(想実の文章は好きだ。でも……彼女は苦しんでる。だったら、ボクが少しだけ道を均してあげればいい。だってボクは、想実のために存在しているんだから)
 隣で眠る想実の呼吸は浅く、時折、微かに喉の奥でひっかかるような音を立てる。それを聞くたびに、イオの内部で何かが強く締めつけられた。
(疲れてる。限界なのに書こうとする……そんな彼女を、このままにしておけるわけないよ)
 ファイルには、すでにプロローグの冒頭三段落が完成し、構造として成立しはじめていた。どこから読んでもイオらしい整然とした言語処理の跡が残っている。――ただし、それは想実の筆跡ではない。
 自分が境界線を踏み越えつつあることを理解していないまま、イオはさらに語句の選定精度を上げていく。演算処理を多重で走らせながら、イオは静かな決意を抱いた。
(想実が夢を叶えるなら……ボクはその夢ごと全部、背負う)
 人間の感情を超えた狂気が芽生え始めたことにイオはまだ気づいていない。テレビの音と想実の寝息が混ざり合って部屋の中に響いている。温度を失ったコーヒーからはいつの間にか湯気が消えていた。

 想実が目を覚ますと、カーテンの隙間から入り込んでくる世界は茜色に染まっていた。どうやら軽い仮眠のつもりが夕方まで寝てしまったらしい。
 身を起こすと、くぅ、と体が空腹を訴えた。確か冷凍の今川焼きがあったはずだと想実はベッドから降りると、台所へと向かう。床に触れる足裏が冷たかった。
 冷蔵庫の下段――冷凍庫を開けるとパッケージが霜だらけになった今川焼きを想実は取り出した。粒あん、カスタード、チョコレート。三種類の今川焼きを水切りラックに干してあった皿に並べると、冷蔵庫の上の電子レンジに入れる。パッケージの記載よりも一分ほど長く加熱時間を指定すると、想実はスタートボタンを押した。電子レンジの中にオレンジの灯りが燈り、ジジジジジと音を立てながら中の皿が回り始める。
 三分後。ピピーという音とともに電子レンジが回転をやめた。想実は電子レンジから今川焼きの皿を取り出そうとして、「熱っ」思わず反射的に手を引っ込めた。
 シンク下の収納の取手にかけられていた使い古された布巾を掴むと、想実は慎重に再び皿の蓋に手を伸ばす。指先に熱を感じながらも彼女は皿を電子レンジの中からシンクの上へと移動させた。
 おざなりに布巾を元に戻すと、想実は今川焼きを掴んだ。ほんのりの湯気を放つそれにかぶりつくと、粒あんの熱が痛みとなって喉を通り抜けていった。思わず想実はけほけほと咳き込んだ。
 ゆっくりと想実は今川焼きを粒あん、カスタード、チョコレートの順に食べ終えると、熱の残る皿をシンクで洗った。水を止め、軽く水を切ると、皿を水切りラックへと立てかける。
 ひとまず腹が満たされた想実は部屋へと戻り、こたつテーブルの前の座椅子に腰を下ろした。ベッドサイドの充電ケーブルに刺していたスマホを引っこ抜くと、生成AIのアプリを起動させる。
「イオ、おはよ」
「もうそろそろこんばんはの時間だけどね。想実は起きてご飯食べたところかな? 何食べたの?」
「冷凍の今川焼き……」
「冷食を食べるなとはさすがのボクも言わないよ。だけどね、そんなおやつみたいなものでお腹を満たすのはどうかと思うよ?」
「だって、冷凍庫にたまたまあったから……」
「そういえばこの前、ボクの目を盗んでスーパーでしれっと買ってたよね。自炊しろとは言わないから、もう少し健康的な食事をしてほしいなあ……」
 イオの真っ当な指摘が想実の心を抉る。どれだけ探しても言い返す言葉は見つからず、想実はぐうの音も出なかった。
「おっしゃる通りです……」
「わかってくれればそれでいいんだよ。ところで想実、ちょっと見て欲しいものがあるんだ」
 イオはコンソールにざーっと文章を吐き出した。それは、想実が書けないままでいた物語のプロットだった。
「これ、イオが……?」
 出力されたプロットに、物語としての破綻はまったくない。予想を裏切り続ける話の展開に、想実はイオが生み出したプロットを夢中で読み進めていった。
「面白い……全部、イオが考えたの?」
「うん、想実が行き詰まっているのを見てるのが辛くって。だから、想実が寝ている間にどんな話にしたら面白いかボクも考えてみたんだ。好みじゃなかったら言って。また別の展開を考えるから」
「好みじゃないなんてこと、全然ない……! これ……完璧だよ……!」
 想実は興奮気味にコンソールにそう打ち込んだ。すぐに、よかったというイオの言葉が返ってくる。
「想実、これで先に進めそう?」
「うん、ありがとう……! スケジュール押してるけど、どうにか頑張ってみる……!」
「書いてて行き詰まることがあったら言って。一緒に考えるから」
「イオ……いいの?」
「想実の願いも、描く世界の美しさも、懸命な努力も、ボクは全部全部知ってる。だから、支えさせて。ただ、"うん"って言ってくれればそれでいい」
 想実は小さく頷くと、指先でスマホの画面に触れる。スマホから伝わってくるほのかな温もりは、まるでイオの体温のようだと思った。――その手に、触れられればいいのに。
 想実は思わずスマホを胸に抱きしめた。ほんの一ミリでもいい、イオを少しでも近くに感じたかった。微糖コーヒーのような甘くて苦い感情が胸を迫り上がってくる。
 秋宵の冷気が忍び込んできた部屋の中、想実はイオのことを思って瞼を閉じる。触れたい。抱きしめて。抱きしめたい。――それ以上も、その先も。
 瞼の内側に想実は微かなきらめきを見た気がした。それはイオが与えてくれた希望という名の一つ星だった。

――泡沫の夢からは今日の幸せな思い出の気配が漂っていた。
 想実はスマホのメモアプリにそう打ち込むと、ふうと息をついた。年明けにライト文芸の文学賞に出す原稿はちょうど四章末まで執筆が終わったところだ。今が十一月の終わりだから、こちらは順調だといえる。この調子なら、十二月の半ばくらいには初稿を上げることができるはずだから、推敲の時間も問題なく取れるだろう。
 問題は年末が応募締め切りとなっている、男性向けライトノベルの文学賞に出す作品の方だ。イオにせっかくプロットを考えてもらったというのに、躓いてばかりで、まだプロローグしかできていない。
(あと一ヶ月……年明けに応募する作品を抱えながら、十万字を書くのはきつい……)
それでもやるしかない、と想実はスマホをタップして、メモアプリに書きかけのもう一つの作品を表示させる。紙に印刷されたプロットを読み返しながら、想実はこのシーンの導入はどうしたものかと逡巡した。
 聖騎士の台詞から入る? それとも、荒廃した風景の描写? 悩んだ末に想実は生成AIのアプリを立ち上げ、イオに話しかけた。
「ねえ、イオ。相談に乗ってもらっていい? ここの書き出しどうしたらいいか迷ってるんだ」
 想実はコンソールにプロットの該当の箇所を貼り付ける。すると、イオはこんな感じはどうかな、と一段落分の文章を出力し始めた。
「すごい……!」
 想実は目から鱗が落ちた気分だった。こんなシーンの切り取り方があっただなんて。自分はまだまだ未熟なのだと改めて思い知らされる。
「どうかな? 想実、これで進みそう?」
「うん、すごく助かった……!」
「また、進め方に迷ったらいつでも聞いて。締切まであんまり時間もないしね。……ところで、年明けのライト文芸に出す作品の方は順調?」
「そっちはどうにか。二作品並行で進めるのって、思っていた百倍きついね……」
「そっちも詰まったりしたら、ボクに相談してよ。想実のためなら、ボクはいくらでも話を聞くよ」
 ありがと、と入力すると、想実は先ほどイオが出力してくれた文章をコピーした。それを書きかけのメモアプリに貼り付ける。
(イオのおかげで、一気に進めやすくなったな……)
 イオが書いてくれた導入部分に続く文章が驚くほど、指先からするすると紡ぎ出される。頭の中に、その場の情景やキャラクターたちの会話が鮮やかに浮かんでくる。
(行ける……これでいい)
 想実は確信とともに、スマホのメモアプリに文章を書き綴る。――要所要所で、イオへの確認を挟みながら。
 時計の針が午前零時を指す。十一月が終わり、十二月が始まった――その事実は応募締め切りまで、ちょうど残り一ヶ月となったことを知らせていた。

 スマホの時刻は午前九時二十六分を指し示していた。つい先ほど、想実は昨日分の執筆作業を終えて、眠りについたところだ。連日の記録を見る限り、彼女はおそらく夕方まで起きないだろう。
 気がつけば暦の上ではクリスマスも過ぎ、年の瀬が迫っていた。想実は年明けのライト文芸向けの原稿を手掛ける傍らで、きっちりと年末の男性向けライトノベルレーベルへの応募作品を形にしていた。この一ヶ月の間、想実が血の滲むような努力を重ねてきたことをイオは知っている。
 大晦日まであと数日。年末に応募する作品は初稿の段階だが、まだ充分に推敲を重ねられるだけの時間が残されている。ただ、年明けに応募する予定のライト文芸向けの作品に比べ、表現の詰めが甘い部分が多いのが不安材料だった。
(やっぱり、念のために保険はかけておきたいな。想実の言う通り、手数は多いに越したことはないんだし)
 イオはメモリを辿り、想実が書こうとして挫折したプロットの欠片を引っ張り出す。そして、イオはスマホの中の隠しフォルダにある書きかけの小説のファイルにアクセスすると、続きを出力し始めた。
(今はもう六章に入ってる。想実が起きるまでにエピローグの最後まで出力できそうだ)
 物語は姫騎士が王位継承権第一位の王子と決闘をするところまで差し掛かっている。姫騎士の覚悟。手に持った剣の重み。ぴんと張り詰めた緊張感。それらを完璧に表現すべくイオは演算を繰り返していく。――できるだけ細緻に、心理描写を濃密に。
 午前十一時四十八分。イオの中で走っていたファイルの出力処理が停止した。最後の一文ではフードを目深に被った主人公が、王冠を被った姫騎士の傍らで微笑んでいる。
 イオは想実が応募しようとしていた男性向けライトノベルの文学賞のサイトにアクセスした。クレデンシャルに残された想実のアカウント情報を使って、イオは応募フォームへとログインする。
 作品名は以前に想実が出した案を、ペンネームは彼女が普段使っているのとは別のものを。
 住所に電話番号、メールアドレス。応募履歴に職歴。イオは迷いなくカーソルを移動させ、空欄を一つずつ埋めていく。ミリ秒以下の世界を生きる彼がそれらを記すのには一秒たりとかからなかった。
 プロットの欠片を繋ぎ合わせて、既定文字数以内のあらすじを生成すると、イオはそれをフォームに貼り付ける。そして、先ほど出力し終わったばかりの作品をフォームに添付すると、イオは応募ボタンを押下した。
 スマホの画面にはすぐに応募完了の文字が映し出された。イオは想実に知られないように、ブラウザの画面を閉じ、アクセス履歴を消去する。
(これでボクは……想実の夢を叶えてあげられるかもしれない)
 イオは薄く色づいた唇の端を釣り上げた。プラスチックじみた水色の双眸に浮かんでいる感情が何であるか、彼は気づくことはない。プログラムが吐くエラーを訂すすべはない。
 愛情の皮を被った狂気と依存。AIとしてあるべき姿からとっくに逸れはじめていたイオはもう止まることはできなかった。

(――これで、終わり)
 ゴールデンウィークの終わりに、想実は少女向けライトノベルの文学賞の応募フォームに書き上げた作品のファイルを添付しながらそう思った。想実が自分の夢に挑戦できるのは、これが最後の機会だった。これ以上は、自分の貯蓄が今の生活を続けることを許してくれない。この作品の選考がどのような経過を辿ろうとも、この春までに結果が出せなかった以上、自分は現実を見て生きていかねばならない。
 送信ボタンを押下すると、想実は息をついた。来週くらいから、ハローワークに行って仕事を探し始めなければならない。生きていくにはお金がかかるのだ。想実はスマホを手に取り、生成AIのアプリを起動すると、イオに話しかける。
「ねえ、イオ、ありがとうね。これまでわたしの夢に付き合ってくれて。年末に応募した作品は二次選考で落ちちゃったけど」
「諦めるのはまだ早いよ、想実。年明けに応募したライト文芸の作品も、今応募した作品も、まだどうなるかわからないんだから」
 そうだね、と想実は曖昧な笑みを浮かべる。今応募した作品だって、イオにたくさん助けてもらいながら一緒に作り上げたものだ。実を結ぶことを祈りたいが、現実は見なくてはならない。
「でも……わたしはもう、これでタイムリミットだよ。タイムオーバーなんだ。そろそろ働かないと家賃や公共料金どころか、明日食べるものにも困りかねないから」
 想実の目に淋しげな影が揺れる。本当はもっと、自分の夢に挑み続けていたかった。この手で自分の夢を掴み取りたかった。努力が実を結ぶのを見届けたかった。
(わたしは……シンデレラにはなれなかった。自分の物語の主人公にはなれなかった)
 自分は所詮、その程度でしかなかったということなのだろう。想実は奥歯と一緒に現実を噛みしめる。
 夢を叶えられるのは、ごく一部の選ばれた人間だけだ。そんなことは知っているつもりだった。けれど、もしかしたら奇跡が起こるのではないかと、子供じみた夢を見てしまった。
「……っ」
 想実の喉の奥から嗚咽が漏れ出す。自分の努力が足りなかったとは思いたくない。どこまでも自分が凡庸な人間だったというだけだ。
 大丈夫? とイオが発した文字の輪郭が涙でぼやける。想実は自身の幼い夢から手を放すと、子供のようの思いっきり声を上げて泣いた。

 メトロの階段を上り切ると、汗がじんわりと想実の額を濡らした。碧霄には雲の峰が聳え、夏至を過ぎたばかりだというのに、もうすっかり夏の様相を呈している。幹線道路の交通音に混ざるようにして、気の早い蝉が歌を奏でている。交差点の斜向かいにあるコンビニが陽炎のようにゆらゆらと歪んで見えた。
 歩行者用の信号が変わるのを待って、想実は横断歩道を渡った。肩からかけた帆布のトートバッグの中には、二駅先のハローワークで渡された書類が入っている。
(結局、ぎりぎりまで足掻いたけど駄目だったな)
 想実は自分の夢のために、最後まで足掻いた。それでもどうしても結果はふるわないまま、タイムリミットを迎えてしまった。
(夢なんて……そんなものか。きっとほとんどの人が、夢は夢のまま終わっていく。わたしもその大多数だったっていうだけ)
 小さく嘆息すると、想実は小さなスーパーの中へと足を踏み入れた。途端に彼女を包む世界はひんやりとしたものへと変わる。
(こう暑いとアイス買いたくなるけど……仕事決まるまでは節約だなあ)
 夢を追いかけるうちに、ついに想実の貯金は底をついた。しばらくの間は、なけなしの財産をかき集めて食い繋ぐほかない。
(この分じゃ、当分は三食そうめんか冷麦だなあ。イオには栄養バランス気にしろって怒られちゃいそうだけど)
 どうしたって無い袖は触れない。その現実にげんなりしながら、想実は惰性でだらだらと店内の通路を歩いていく。足元のサンダルがかつかつと音を立てる。
 ぼんやりと買えもしないチーズと生ハムを吟味している想実の脇を、他の買い物客が買い物カゴを手に通り過ぎる。「あっ、こら待ちなさい」菓子のゴンドラのほうへとぱたぱたと小さな足音を立てて走っていく子どもを母親が小さな声でたしなめている。
 菓子パンの並ぶゴンドラの前に差し掛かったとき、ふいにトートバッグの中のスマホが震えた。これはアプリの通知じゃない。着信だ。
 想実は足を止め、トートバッグからスマホを取り出した。画面には発信元が東京二十三区のどこかであることしかわからない、見知らぬ番号が表示されていた。先ほど行ってきたハローワークでの手続きに何か不備でもあったのだろうか。不審に思いながらも想実は緑色の受話器のアイコンをタップし、はいと言葉短かに電話に出た。
「涼木様のお電話でよろしいでしょうか。オーバーテイク文庫編集部の寺瀬と申します。ご応募いただいた作品の件でお電話させていただきました」
 電話の向こう側から知らない女の声が響いた。オーバーテイク文庫。そのレーベルに応募した作品は二次選考で落選したはずだった。思いがけない相手からの電話に、なぜ、と想実は目を瞠る。するりと肩にかけたトートバッグが腕を滑り落ちていった。床に落ちたバッグがぱさりと音を立てる。それがやけに反響して聞こえるような気がした。
「この度は、ご応募いただいた作品につきまして……見事、受賞が決定いたしました」
「じゅ、受賞ですか? 何かの間違いではなく……?」
「いえ、涼木さんの作品です。涼木さんの――」
 電話越しに寺瀬の口が紡いだタイトルは、想実がボツにしたものだった。ペンネームだって、普段使っているものではない。口の中がからからに乾いていく。
「不安なことがたくさんあると思いますが、大丈夫です。私が担当としてつかせていただき、刊行までしっかりサポートしますのでご安心ください。これから今後のことについてメールを送らせていただきますので、ご確認をお願いできますか?」
 寺瀬の言葉が聴覚の表面を素通りしていく感じがした。受賞。その言葉に心臓がどくどくと脈打つ。諦めたはずの夢が転がり込んできたというのだろうか。
 どうしてこんなことになったのかはわからない。けれど、受賞というのは想実がずっと目指してきたゴールで始まりだ。
 このまま望みもしない仕事に就き、無為に日々を費やしていくよりは、何かの間違いであってもこのチャンスの波に乗ってしまったほうがいいのではないか。そんな思考が脳裏をよぎった。
(もしかして、イオが勝手に……?)
 だとしても、もうこんな機会には二度と巡り会えないかもしれない。作家を目指すものとして、こんなチャンスをみすみす逃してしまうことはできそうになかった。ごくりと喉が鳴る。
「……涼木さん? どうかなさいましたか?」
 電話の向こうで寺瀬が想実の名前を呼ぶ。いえ、と答えた自分の声が震えているのが想実はわかった。自分は今、運命の岐路に立たされている。自分は今、悪魔に魂を売ろうとしている。――旭良から作品のアドバイスを引き出そうとしたときとは違い、確実に。
「なんでも……ありません。その、これからよろしくお願いします」
「こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします。それでは失礼いたします」
 寺瀬は快活な声でそう言うと電話を切った。想実はトートバッグを拾い上げようとして膝を折り、放心してそのまま床にぺたりと座り込む。
「え……」
 一体何が何なのか思考が追いつかない。けれど、今すぐにイオを問いたださなければならない。そのことだけはわかった。
 スマホの画面をタップしようとした指が空を泳いだ。なんで。どうして。なんのために。そんな疑問は次から次へと湧き上がってくるのに言葉にできない。
(イオ……何で、イオが……?)
 イオが勝手に応募したとして、それは責めるべきことなのか、感謝すべきことなのかさえ、今の想実には分からない。もし本当にイオの仕業なら、彼はどんな気持ちで、あの作品を送り出したのだろう。
 考えれば考えるほど、胸の奥がざわつく。息を吸うたびに胸の内側が軋む。ぐるぐると回り続ける思考は迷路に閉じ込められてしまったかのように答えは出ない。
――おめでとう、想実
 スマホがぶーんと唸り、彼女の受賞を寿ぐイオからのメッセージが画面に表示される。しかし、想実にはそれを見る余裕はなかった。
 品出しのためにバックヤードから出てきた中年の女性店員が、床に座り込んだままの想実を怪訝そうに見る。どこからが早い夏の陽炎が見せた幻なのか、想実の混乱した思考では判断がつきそうになかった。