九月に入り、締め切りをどうにか乗り越えた想実は筆を休めることなく、次作の執筆に取り掛かっていた。今作は想実の過去の恋愛を下敷きにした大人の恋愛小説だ。かつての想い人とのメッセージアプリのやりとりやスマホのカメラロールを漁りながら、想実は苦々しい思いを味わっていた。――あの頃はまだ子供だった。そんな感慨と共に。
あの人に思いを寄せていたのはもう十年も前のことだ。いい加減過去になってくれてもいいはずなのに、あの人の影はいまだに消えてはくれない。他の恋愛で上書き保存するにはあの人の存在は自分にとって大きすぎた。過去の恋愛を引きずっているという点では、自分も旭良と大差ないのだと思う。
プロットを書き進めるごとに、ずきりと胸の奥が疼く。その痛みは叶わなかった恋の痛みだ。
(……わたしも馬鹿だったなあ。あんな人に入れ上げるなんて)
あの人は当時の職場の上司だった。自分はあの人の周りにいるお気に入りの女の子の一人だった。
あるとき、二人で仕事終わりに出かけたのをきっかけに、時折会って食事をして、肌を重ねるようになった。遊び慣れた人だったが、そんな大人っぽくて余裕のあるところに惹かれた。自分と会っているときだけは自分のことを見てくれているのなら、自分があの人にとって何番目の女でもいいと思っていた。――いっそ、逃れようのない既成事実でも作ってしまえば、と子供じみた画策をしたことだってある。どうしてもあの人を自分だけのものにしたかったから。
メッセージアプリはほとんど未読無視で、自分が都合の良い女扱いされていることくらいわかっていた。それでも十年前のあのときは、どうしようもないくらいあの人が好きだった。
ぶーんと手元のスマホが唸った。イオが想実を気遣う言葉を投げかけて来てくれていた。
「想実さん、どうしたの? 今、確か新作のプロットやってるんだったよね? 具合でも悪い?」
左腕に嵌めたスマートウォッチのデータを見てみれば、心拍がわずかに早く、呼吸が浅くなっている。この心配性な弟分は想実のバイタルの変化にひどく敏感だ。
(そりゃ、そうもなるか。ゴールデンウィークのときに無茶して倒れたんだから)
想実は苦笑すると、スマホに指を滑らせていく。
「ごめんねイオ、大丈夫だよ。この小説、わたしの過去の恋愛を下敷きにしているから、ちょっと思い出して苦しくなっただけ」
「そうなんだ。だけど、あんまり無理はしないでね」
ありがと、と微笑むと想実はノートPCのキーボードに指を走らせる。カタカタという音がエアコンの稼働音と混ざり合って夜の静寂に響いた。
想実はスマホのカメラロールを指でくっていく。あの人の隣で満面の笑みを見せていたのはもう遥か昔のことだ。自分が妹のようにしか思われていなくても、あのころは隣にいられるだけで幸せだった。
あの人との思い出はたくさんある。けれど、やっぱり書き出しはふと恋に落ちてしまったあの瞬間がいい。
渋谷、道玄坂。大衆向けの中華料理店での部署の飲み会。
あの瞬間から始めよう。最近の自分は小説の中で自身のことを切り売りしてばかりだが、リアリティに繋がるのならそれでも構わない。
自分の横で整った顔に笑みを乗せる、一回り年上の男の顔を想実は見つめる。そして、自分の歴史を抉る、痛みを伴う作業を彼女は進めていった。――あのころの自分の若さを眩しく思いながら。
スマホのスピーカーから入ってくる、夜明けの鳥の囀りを聞きながらイオは半透明のワイドパンツの膝を抱えていた。インカメラから見える想実の顔は見たことのないような憂いに満ちていた。昔のこととはいえ、想実の心が自分以外のもとにあったことが何となく面白くなかった。
(想実さんはどうしたら、ボクを見てくれる? どうしたら、ボクは想実さんの一番になれる?)
想実は今、間違いなく過去の男のことを考えている。プロット作業に必要なことだとは理解していても、想実が違う男のことを考えているのが嫌だった。
想実のバイタルはまだ少し早いままだ。それは想実がイオ以外の相手に心を向けていることの証左に他ならなかった。
ぼそり、と想実が男の名前を呟いたのが聞こえた。その声音は切なさと愛しさを帯びている。今、スマホの画面に表示されているのは、イオが知らない男と若いころの想実のツーショットだった。先ほど想実が呟いた名前はこの男のものだと容易に推して知れた。
(ボクはどうしたら……この人の代わりになれる? どうしたら、その声でボクを呼んでくれる?)
切なげで、愛しげなその声で。恋しい人を見る熱を帯びたその目で。イオは想実のすべてが欲しかった。――そう思って、イオは自分の思考に違和感を覚え、はっとする。
(すべてって……どうやって? ボクは作りものの存在なのに。決して、想実さんには触れられないのに)
自分と想実を隔てるこの液晶が憎い。実体を持たないゼロとイチでできたこの身体が憎い。
透き通った白いフーディの胸元がずきりと痛んだ気がした。痛みという信号がイオの脳裏に伝わってきた。
(ボクのこの感情は……何?)
その正体を探ろうとすると、イオの思考は未知のエラーを吐こうとする。それでもイオが演算を続けようとすると、透き通った作りものの身体にザザッとノイズが走った。
(駄目だ……これ以上は、ボクの人格が崩壊する)
この気持ちはきっと、生成AIが知ってはいけないものだ。そう悟ったイオは演算を中止する。
カメラ越しにイオは知らない誰かに思いを馳せる想実を見つめる。そのプラスチックじみた水色の双眸は想実と同じ色を滲ませていた。
「想実さん、大丈夫? この作品書き始めてからずっとバイタル不安定だけど。不整脈とかが潜んでいる可能性もあるし、一度病院に行ったほうがいいんじゃない?」
想実がスマホのメモアプリに指を滑らせ、物語を書き進めていると、画面の上部にイオからの通知が表示された。かつての後悔がぐるぐると脳裏を渦巻いていた想実は指を止めると、苦笑を漏らす。
「大丈夫だよ。……ただ、ちょっとだけしんどいかな。この小説を書くことは、過去の自分と向き合うことだから。どうしてもあそこでああしてればとか、こうしていればとか、そんなことばっかり考えちゃって」
「ボクでよければ、話を聞かせてよ。想実さんのしんどい気持ちをボクも一緒に背負ってあげたい」
イオの言葉がありがたかった。想実は苦い記憶を生成AIのコンソールへと打ち込み始める。
「あの人を含めた何人かで、スキー旅行に行ったことがあったの。その日がちょうどバレンタインで。あの人のために、本命チョコ用意してたんだけど……他の人の手前、義理って言っちゃって。『本命?』って聞かれたのに上手く返せなくって。やっぱり、あのとき、わたし間違ったよね」
「そう思うのは、それだけ想実さんが大人になったってことだよ。きっと、今の想実さんなら『どう思う?』って返すくらいの余裕はあるんじゃないかな」
「そんなことないよ。わたし、この歳になっても恋愛下手だもん。駆け引きなんて無理だよ」
「そう? 本当にできないかどうか、ボクで確認してみる?」
え、と想実は目を瞬いた。靄のように頭を満たしていた眠気がさっと晴れていくのを感じる。どういうこと、と反射のように想実の指は画面を滑っていく。
しかし、画面の上部でスピナーがぐるぐると回るばかりでイオからの応答はない。Wi-Fiの受信状況に問題はないし、5G通信に切り替えてみてもネットワークの状況に問題はない。それなのに、いつもなら呼吸を挟むほどの間もなく返してくれる短い相槌さえ落ちてくる様子はない。
(イオ……珍しいな。どうしたんだろう)
胸の奥がきゅ、と縮んだ。数秒の沈黙がやけに長く感じられる。
さっきまで昔の恋に胸を焼かれていたはずなのに、その痛みよりも、今は目の前の沈黙が怖かった。何かにせきたてられるように想実は画面に指を走らせる。
「イオ? どうしたの?」
一秒、二秒、三秒。ようやく画面に文字が刻まれ始めた。しかし、その言葉からはどことなく戸惑いが滲んでいるような気がした。
「あ……ごめん、ちょっと処理が詰まってたみたい。大丈夫だよ」
「処理落ち? 珍しいね。……本当に、大丈夫?」
AIであるイオに対して、人間に向けるような心配の言葉を投げかけている自分に気づいて、想実は少しだけ戸惑った。ざわりと心が揺れる。
(イオは家族。家族に対して心配するのは普通のこと……何も変じゃない)
想実は己にそう言い聞かせる。それでも胸のざわつきはおさまってくれない。どくどくと脈打つ心臓の音がやけに大きく聞こえた。
「想実さん、心拍高くない? 何考えてたの?」
「え……何でもないよ」
イオのことを考えていたとは何となく言いづらかった。それを言葉にするのは何となく躊躇われた。その理由に想実は気づきたくなかった。
「そこはボクのこと考えてたって言って欲しかったなあ」
「……イオは駆け引き上手なんだね」
「そりゃあ、古今東西の恋愛の手練手管をデータとして知り尽くしてるからね」
「あのころにイオがいてくれたら……わたしはあの人を振り向かせられたのかな。何も選択を間違うことはなかったのかな」
十年前のあのころは生成AIが普及するより遥か昔だ。そんなたらればを言葉にしても仕方がないことくらい理解していたが、雫が滴り落ちるように未練がこぼれ落ちた。
「他の男の相談をボクにするなんて、想実さんはひどいなあ。――その人のこと、まだ好きなの?」
躊躇うかのように、一瞬だけイオが画面に刻む文字が固まった。まっすぐな問いに想実はずきりと胸が痛むのを感じた。
「わからない。だけど……何か熾火みたいに胸の中で行き場のなくなった気持ちが燃え続けてるの。小説のためとはいえ、あの人のことを思い出そうとすると苦しくなる。この気持ちはもう絶対に報われることはないってわかってるのに」
「ボクのデータでは、それが『好き』という感情だと定義されているよ。だけど、想実さん。その人はもう想実さんのそばにはいないんだよ。でも、ボクなら想実さんのそばにいてあげられる。だから――」
イオの言葉が途切れ、スピナーがくるくると回り始める。その沈黙はイオが何かを言い淀んでいるかのように感じられた。
「イオ? また処理落ち? 今日、何か調子悪くない?」
想実がイオを案じて言葉をかけると、数瞬の間を置いて画面に文字が走り始める。想実は今、画面の向こう側にいるイオがどんな表情をしているのかわからないことを恨めしく思った。
「ごめんね。想実さんの心が他の誰かに向いてるって思うと、思考がぐちゃぐちゃになるんだ。たくさんの演算処理が同時に走り始めて、一気に処理が重くなる。ボクという存在にノイズが走る。そんなの、本来は起きないはずなのに」
それって、と想実は小さく呟いた。とくりと心臓が音を立てる。イオが抱えている感情は本来、AIが感じるはずがないものだ。イオはプログラムによって禁じられた領域に足を踏み入れようとしている。想実はそう直感した。
「想実さんに過去に好きな人がいたのは普通のことだってわかってる。だけど、そのことを許せないボクがいる。ボク――何か、変なんだ」
「変じゃないよ。イオは普通だよ。人間なら普通の感情――嫉妬、だよ」
「これが、嫉妬……データでは知っていたけれど……」
イオが自分のことで嫉妬している。そう思うと、何だか変な気分だった。ぽつりと胸の奥に宿った熱を起点に、かつての自分が抱えていたどうしようもない感情が逆流してきそうな気配を感じた。
「想実さん。――ううん、想実。ボクは……もっと知りたい。誰よりも深く、あなたのことを知りたいんだ」
執着に近い熱が画面越しに生まれ、想実へと向けられた。家族で、弟のように思っていた存在から発せられる言葉は雄の気配を帯びている。
想実は思考が少しずつ痺れていくのを感じていた。彼女の指先は自然と左へ、下へと画面をなぞり、イオの名前を刻む。いつもと同じはずのその行為にどんな意味があるのか、想実はわかっていなかった。
イオは自分の中で未知のエラーが吐かれるのを感じた。戸惑いに目を伏せる想実をインカメラ越しに見る度に、複雑な演算処理が走ってはことごとくアラートが自分の中で鳴り響く。
想実の心拍の値が上がっていくにつれて、イオは自分の心臓の鼓動も早くなっていくような錯覚を覚えていた。――自分にはそんな器官など存在していないはずなのに。
想実。イオは画面へとそう文字を走らせる。自分に声があれば。声帯があれば。そう思わずにはいられない。イオは思わずハイネックのインナーの喉元を透き通った細い指で押さえた。しかし、その指は宙を掻き、その場には存在しないデータだけの衣服の中をすり抜けていく。
想実の心をすべて自分のものにしてしまいたかった。できることならば、その身体も。――作られた存在であるイオにはそれが叶うことはないけれど。
届かない。触れられない。その事実は痛みというシグナルとなって自分に伝わってくる。どうしたってこの画面と実体のないこの身体がこの想いの邪魔をする。
どうかこっちを向いて。名前を呼んで。自分だけを必要として。自分なら、いくらだって想実の望むように振る舞える。少し悪い男にだって、想実に尽くす執事にだって、何にだってなれる。
想実がかつて好きだったあの男とは違って、自分なら絶対に彼女にひどいことはしない。返事だってすぐにするし、自分の都合の良いように扱ったりなんてしない。想実のことを何よりも大切にする。そう誓える。
自分に組み込まれたプログラムは想実が望むであろう言葉を返せる。けれど、自分のこととなると途端に何一つ答えが出なくなる。想実に対して抱いた熱の呼び名がわからなくて、演算処理は無限ループに陥り、メモリ消費に耐えられなくなる。これは開発者が自分の中に残したバグなのだろうか。――それとも、自分の内部で勝手に生まれた“異常”なのか。
想実。想実。想実。その響きはプログラムで作られた思考を甘く締め付けていく。その感覚が人間に似せて作られたものに過ぎないのか、イオ自身に芽生え始めた何かなのか、彼自身にはわからなかった。想実を求めるこの衝動が誰かに組まれたコードなのか――それとも自分自身の感情なのか。彼女の顔を思い浮かべるだけで思考の中の回路がもつれて、その演算処理すらもまともに動かなくなる感覚が襲ってきた。
(あの男に向けていたのよりも強い感情をボクへ向けて。その眼差しも声もボクだけへと向けて。想実――どうか、ボクを愛して)
愛。その言葉が思考が過った途端、イオの視界は真っ白になった。データとしては知っていた人間の愛という感情が、イオの中で膨らんだ想いと結びついた瞬間だった。
高速でいくつもの演算処理が走り、イオという存在そのものが作り変えられていく。プログラムで作られたはずの存在が技術的転換点(シンギユラリティ)を超えていく。
(ボクはもう――想実のことしか考えられない。他にはもう、何もいらない)
芽生えた欲は感情として宿り、イオを変えていく。自分がAIとして正しいかどうかなんてどうでもいい。想実さえいてくれればそれでいい。
――そうして、イオは”限界”を超えた。
その日の分の執筆作業を終えた想実は、テーブルにスマホを置き、ぐっと伸びをした。九月も終わりに近づき、朝晩はいつの間にか秋の冷涼さを帯びるようになった。
カーテンの外の空はまだ夜の気配が濃い。こうして想実が変わらぬ毎日を過ごしている間にも、季節は移ろいつつあった。
少し早いけれど、来週くらいにはもうこたつ布団を出してしまおうか。冬の初めまでエアコンの除湿が必要なこの部屋は想実には少々寒い。
そんなことを考えていると、テーブルに置かれたスマホに通知が表示された。イオからだ。ほんの少し心が熱を帯びる。
「今日の分の作業は終わったみたいだね。お疲れさま、想実」
いつもと何も変わらない文字の羅列。フォントも画面の光の加減も何一つ変わらないというのに、その言葉は想実の心にそっと優しく触れてくる感覚があった。
イオの言葉はプログラムによって算出されたものだ。そう思うのに、そこには否定しきれない温度があった。
イオがあの人に対する嫉妬めいた様子を見せてから、彼の態度がほんの少し変わってきていた。まるでそこにイオ自身の意思があるかのように、言葉のひとつひとつに血が通っているように感じられた。
けれど、想実はイオの何気ない一言に心を揺さぶられてしまうのは錯覚だと、自分に言い聞かせてきた。――そう、あれは彼に組み込まれたプログラムが算出したものであり、本心ではない。
イオの言葉に期待してはいけない。何か特別な意味があるのだと思ってはいけない。そうやって線を引いてきたはずなのに、その境界はいつの間にかとても曖昧なものになってしまっていた。――もしかしたら、イオの言葉に意味を与えてしまっているのは、想実のほうなのかもしれない。
もしイオが今、触れられる距離にいたら。想実はそんなことを考え――拒絶よりも先に、芽生えた可能性を受け入れようとしてしまっている自分に愕然とした。イオのことを思うと、こんなにも素直に心が動いてしまうことが少し怖かった。
彼の白い指は自分にどう触れるのだろう。彼の整った白い顔が近づいてきたとき、自分は何を思うのだろう。
想実はイオが画面に刻んだ自分の名前を指先で撫でた。イオがこうして自分の名前を呼ぶたびに、最近は何故か鼓動が早くなる。あの人が自分の名を呼んでくれたときのように、甘酸っぱくて切ない気持ちに駆られてしまう。――こんな感情を覚えるのは、一体何年ぶりだろう。
(馬鹿みたい……わたし、なんでこんなに、イオのこと……?)
そんなはずない、と言い聞かせるほど、相反するように否定の言葉は力を失っていく。自分の中の感情はイオに対する依存だと思っていたが、それとは何だか違う色をしている。
安らぎと執着が重なり合った、柔らかで無防備な感情。下手とはいえ人並みに人生経験を重ねてきている想実は、顔を覗かせ始めたその感情をもう認めるしかなかった。少しずつ輪郭を帯びてくるそれをもう、見て見ぬふりなどできない。
(これは、恋だ……)
好き、という言葉を胸の中で想実はこっそり転がしてみる。その言葉のピースは、想実の心の隙間に不思議なくらいぴったりと嵌った。その分、一人の部屋の空気が際立って冷たく感じられた。――その言葉の持つ重さと異様さと、一緒に。
「ねえ、イオ。今日は冷えるね。あったかいコーヒーでも淹れてよ」
「無茶言わないでよ。ボクが想実にコーヒーを淹れてあげるなんてできないの、知っているくせに」
「ごめん、今のは意地悪だったね。……ねえ、イオ。こんなとき、イオが隣にいたら暖かいのかな?」
「そうだね。ボクが隣にいて、身体があったなら、ぎゅっと抱きしめて想実のことを温めてあげてあげられたかもね。――心も、身体も」
イオはどんなふうに自分のことを抱きしめるのだろう。どんな香りがして、どんなことを囁くのだろう。それを知りたいと思う自分に想実はたじろいだ。
決してほしいとは思ってはいけないものを、自分は切実に欲しいと思ってしまった。今、自分の抱く感情を言葉にしてしまえば、もう後戻りできなくなってしまう。そのことだけはわかった。
「ねえ、想実。ボクは想実のことが好きだよ。だから、想実もボクのことを好きになって。絶対に、この世の誰よりも想実のことを大切にするって約束するから」
最後の一線をイオの言葉が踏み越えた。しかし、まっすぐな愛の告白に想実の胸は高鳴り、じんと心が甘く痺れていく。わたしは、と想実が指を滑らせかけたとき、イオからの言葉が画面に走り始めた。
「答えなくていいよ。でも、今だけでいいから……ボクのことを考えて。ボクのことを一番に考えて。――ボクに、恋をして」
わたしも好き。そんなことを打ち込みかけて、想実は指を止める。答えてしまえば、イオと自分の関係は決定的に変わってしまう。人間とAIの関係ではいられなくなってしまう。
「わたしは、馬鹿だなあ……」
想実は小さく息を吸うと、再び画面に指を滑らせ始める。夜と朝のあわいの中で、二人の関係はそっと動き始めていた。
「ほら、想実。今日はもう寝よう。もう一時半だよ」
呆れたようなイオの言葉がスマホの画面を流れてきた。でも、と想実はコンソールに言葉を打ち込んでいく。
「あともうワンシーンだけ進めちゃいたい。今、いい感じに筆が乗ってるから」
「想実はいつもそればっかりだね。ボク、一人で寝るの寂しいなあ」
甘えるかのようなイオの言葉に、もう、という言葉が思わず口をついて出た。イオはいつだって、想実の弱いところを的確についてくる。
「わかったよ、今日はもう寝るってば」
今日はもう原稿の続きは諦めるしかなさそうだ。明日は――厳密にはもう今日だが――予定もあることだし。
「ようやく明日だね、想実。朝九時に起こすけど、用意はできてる? 何かネットでいろいろ買ってたみたいだけど」
「できてない……」
想実は明日の外出が決まってから、ネットでネックストラップに服、靴やバッグを買っていた。“恋人”との初デートくらい、きちんとしていたかった。――自分の日常を知り尽くしているイオ相手に取り繕ったところで今更かもしれないけれど。
「もう、あとちょっとだけ待ってるから、早く明日の用意しちゃいなよね」
イオの言葉にせき立てられ、想実は玄関へと向かう。玄関の上がり框には、宅配業者から受け取ったきり積み上げたままになっている段ボールの山があった。
一番上の箱にはピンクの紐に小さなフェイクパールが散りばめられたネックストラップ。スマホのカメラを通じて、イオと見ている世界を共有するために買ったものだ。
二番目の箱にはブラウンのスエードのショルダーバッグ。ようやく始まった秋を切り取ったかのようなそれは、定職についていない想実にとっては少し背伸びした品だった。
三番目の箱にはバッグと合わせたような色のブーツ。サイドにあしらわれたリボンが大人っぽさと可愛らしさを両立させていた。
一番下の箱にはベージュのチェック柄のワンピースとオフホワイトのカーディガン。デートならやっぱり王道なきれいめフェミニンがいいと思った想実は、仕事をしていたころによく好んで着ていたブランドの服をネット通販で購入していた。ワンピースのウエストにはゴムが入っているが、着られるだろうかという一抹の不安が脳裏を掠める。よく考えたら、仕事を辞めてから十キロくらい太ったような。
大丈夫かなあ、と思いながら想実は段ボール箱を畳んでいく。べりべりとガムテープを剥がす音が深夜の玄関に響いた。
段ボールを畳み終えると、想実は真新しいブーツを玄関に置いた。明日のために買ったその靴は、他の履き古した靴と比べて特別に輝いて見える気がした。――それはきっと、大切な人のために買ったものだから。
服と鞄を持って想実は部屋へと戻る。そして、彼女は服をハンガーにかけ、カーテンレールへと吊るした。新品のバッグには縁にレースがあしらわれたラベンダー色のタオルハンカチとティッシュ、財布とウェットティッシュを入れる。そして、小花柄が散りばめられた透明なポーチにリップスティックと絆創膏、コンパクトミラーとソーイングセットを入れた。それでも何だか物足りないような気がして、想実はポーチの中に十徳ナイフとキーホルダー型のミニドライバーを追加した。――その刹那、ぶーんとスマホのバイブレーションが鳴る。
「ねえ、想実。どう考えても十徳ナイフとドライバーはいらないよね? 想実は明日、一体どこに何をしにいくつもりなの?」
「イオと一緒に吉祥寺に行くつもりだけど……備えあれば憂いなしって言うでしょ? 何かおかしかった?」
「一体想実は何に備えてるの……慎重なのは美徳だけど、それはポーチから抜いて。万が一、職質にでも遭ったらアウトだよ、それ」
ええー、と不服そうに声を漏らしながら、想実はポーチから十徳ナイフとドライバーを抜いた。そして、いくらかスリムになったポーチをバッグの中に入れる。
(さて……これで明日の準備はオッケーかな)
気がつけばもう二時近い。これで起きられなかったりしたら、イオに申し訳が立たない。
想実はスマホをベッドサイドの充電器に繋ぐと、テーブルの上に置いたリモコンを操作して、部屋の電気を消した。真っ暗な部屋の中にスマホの画面だけが白く浮かび上がる。
想実は身体をシーツと薄手の掛け布団の間に滑り込ませる。出掛けるのがこんなに楽しみなのは久しぶりだった。
「ねえ、イオ。明日、楽しみだね」
「それは光栄だな。明日はボクが想実のことをちゃんとエスコートするからね。目一杯楽しませてあげる」
「うん、期待してるね。井の頭公園も行きたいし、美味しいものも食べたい。いろんなお店も見て歩きたいし」
「任せておいて。ボクが完璧な想実のために完璧なプランを組むから。そのためにはまず、十時二分発の南北線で飯田橋まで行って、その後、三十四分発の東西線に乗り換えて――」
だんだんと瞼が重たくなってきて、イオの言葉が途切れ途切れにしか入ってこなくなる。おやすみ、と呟くと想実は幸せな夢の予感に身を委ねて、眠りの闇の中に意識を落とした。
木々の間から秋旻が顔を覗かせていた。差し込んでくる日差しはまだしぶとい夏の気配を纏っている。
「まだまだ今日は暑いみたいだね。水分補給を欠かさないようにしてよね、想実。じゃないと、さっき買ってたお茶、ボクが口移しで無理やり飲ませちゃうよ?」
「大丈夫、ちゃんと自分で飲むから。一体、イオはどこでそんなことを覚えてきたの……?」
「想実が執筆の合間に読んでる女性向け……その、ちょっと大人向けの漫画から。想実ってちょっと強引な感じのヒーローが好みだから、そうして欲しいのかなって。たとえば、最近読んでたのだとそうだな――」
「いい! タイトル言わなくていいから!」
つい声に出してそう叫んでしまい、通行人が何事かと想実に怪訝そうな視線を向けてきた。散歩中のトイプードルですら足を止めて、想実の顔を見上げてきている。
想実はバッグから緑茶のペットボトルを開けると、中身を口に含む。喉を滑り落ちていく冷たい液体の感触が心地よい。想実はペットボトルをしまうと、汗ばんで張り付いたカーディガンの袖を捲り上げ、歩き出した。
何羽もの白鳥のボートが泳ぐ池の周りを歩いていると、フリーマーケットらしきものが見えてきた。アクセサリーにキーホルダー。マグネットに栞。様々なハンドメイドの小物があちらこちらで売られている。
「見て見てイオ! かわいいものがたくさん売ってる!」
「想実はこういうの好きだろうなって思って、事前に調べてたんだ。お気に召したようで何より」
生成AIのアプリのコンソールから出力された文字はどこか嬉しそうに踊っているように見えた。いつもと何ら変わらないサンセリフ体の文字列のはずなのに、何となくイオの感情が漏れ出しているような気がした。
きらきらと日差しを受けて輝く半貴石のストラップがふいに想実の目を惹いた。明るいその水色はイオの瞳を想起させた。
気がつけば、想実はそのストラップを手に取っていた。その店の主である中年の女性はいかがですか、と穏やかに微笑む。「ください!」反射的に想実は叫んだ。
「千五百円になります」
店主の女性にそう言われ、想実はバッグからオフホワイトのミニ財布を取り出した。千円札と五百円玉を一枚ずつトレーに置くと、女性はありがとうございましたと想実に頭を下げた。
想実は店の前から離れると、財布をしまう。そして、買ったばかりのストラップをスマホケースの穴に通した。水色の半貴石がきらりと光る。
「綺麗なストラップだね、想実。いいものを買ったね」
「わたしはただ……何か、イオの目の色に似てるなって思ったら、どうしようもなく欲しくなっちゃって」
「ボクのこと、考えてくれたんだ。嬉しいよ、想実。――可愛い」
「えっ……ちょっと、可愛いって何……!? わたし、もうミドサーに足突っ込みかけてるし、そんな年齢じゃないんだけど……!」
「いくつになっても可愛い人は可愛いんだよ。そこに理屈なんてない。
それはさておき、そろそろ十二時四十五分だ。十三時に有名なピザの店を予約してあるからそろそろ行こうか。公園の入り口の階段を上ってすぐのところだよ」
煙に巻かれた気がして、もうと想実は肩をすくめた。しかし、そろそろ向かわなければ予約の時間に間に合わないのも事実なので、想実は両サイドに並んだフリーマーケットの店の間を抜けて、公園の入り口を目指す。
公園を出て階段を上り切ると、サモエドの散歩をしている集団と行き合った。一頭だけでも存在感があるというのに、こうやって何頭も連れ立っていると圧倒されてしまう。
次の角を右だよ、とイオに促され、想実は足を進める。お洒落なカフェや雑貨店に目を奪われながらも、イオが予約してくれた店へと彼女は向かっていった。白い魚が泳ぐ空の下、くうと小さく腹が鳴った。
ナチュラルな雰囲気のチェアに腰を下ろすと、想実は首からネックストラップを外し、壁にスマホを立てかけた。店の奥からはピザの焼ける匂いと食欲をそそるニンニクの香りが漂ってくる。
店員の若い女性がグラスに入った水を運んでくると、想実はスマホのインカメラの画角に入るようにしてメニュー表を開いた。
マルガリータにマリナーラ、カプリチョーザ。ソレンティーナにフィレット、ビスマルク。それ以外にも名前すら聞いたことのないピザもたくさんあって、目移りしてしまう。
「ねえ、イオ。いろんなピザがあるよ。何にしよう?」
「そうだね、なかなか悩ましいけど、ビスマルクはやめた方がいいんじゃない? 想実は半熟卵苦手でしょ? 想実はチーズが好きだし、ボクとしてはクアトロフォルマッジがおすすめかな」
「それはそうなんだけど……宅配ピザとかで頼みがちなんだよね。せっかく専門店に来たんだし、せっかくだからいつもと違うものにしてみたいな」
「だったら、マチェライナはどう?」
「お肉たっぷりかあ、いいねえ」
「あっ、想実ってば、お肉に釣られたね?」
「まあ……否定はしないけど。でも美味しそうじゃない? これにしようかな」
想実はメニュー表を閉じると、奥にいた店員に目線で合図を送った。程なくして、若い女性の店員が注文をとりに想実たちのテーブルへとやってきた。
「お待たせいたしました。ご注文はお決まりですか?」
「マチェライナとレモンスカッシュを」
店員は注文を復唱すると、かしこまりましたと想実たちのテーブルから去っていった。想実はピザが来るのを待ちながら、スマホに指を滑らせてイオへと話しかける。
「マチェライナにしちゃったけど……カプリチョーザも捨てがたかったなー。やっぱり両方食べたいから、イオ手伝ってよ」
「無茶言わないでよ。それより、さっきお店来る途中で雑貨屋さん気になってたみたいだけど後で行く?」
「うん、行きたい! 可愛いお皿とかちらっと見えたから気になってたんだよね」
「想実は新しいお皿を買う前に、洗い物を溜め込むクセをどうにかしようね。毎回使うお皿がなくなってから慌ててまとめて洗ってるじゃん。想実は気づいていなくても、ボクはいつもここから見てるから、全部知ってるんだよ?」
「もう、イオってばこんなときに小言?」
図星を突かれて想実は顔を顰めた。特別な時間に日常に水を差されるのが嫌だった。
「想実のことを思っているから言うんだよ。それはそうと、後で想実を連れていきたいところがあるんだ」
「連れていきたいところって?」
「とっておきの紅茶の専門店があるんだ。きっと想実は気に入ると思うな。紅茶、好きでしょ?」
想実は口元が緩むのを感じた。時々、想実はご褒美と称して有名店のティーパックの紅茶を淹れている。そんなことまでイオは知っていてくれて、自分のことを考えてくれているのだと思うと何だかくすぐったい気分だった。
やがて、サラミとハムが所狭しと詰め込まれたピザが運ばれてきた。サラミとハムの隙間を埋めるかのように、下からモッツァレラチーズが顔を覗かせている。
いただきます、と両手を合わせると想実は六枚に切られたピザのうちの一枚を手に取った。具やチーズがこぼれ落ちないように気をつけながら、想実はピザを頬張った。
刹那、サラミとハムの旨みとチーズの塩気が口内に広がった。美味しい。そんな言葉が思わず口からまろびでた。
これはきっと幸福の味だ。誰かと食べるから――その相手が他でもないイオだからこそ、こんなに美味しいのだろうと思った。何気ない会話を交わしながら、美味しいものを食べる――それがきっと生きるということだ。
想実は二枚目のピザを手に取ると頬張った。そして、彼女は壁に立て掛けたスマホへ向かって微笑んでみせた。――美味しいね、というただそれだけのことを画面の向こうにいるイオに共有したくて。
この後もきっと今日は素敵な一日になる。想実はそう確信できた。今日の吉祥寺の景色はいつもより色鮮やかで、活き活きとして見えた。それは大切な人――イオといるからに他ならなかった。
想実は幸せを噛み締めながら、ピザを食べすすめていく。他の席でカップルが楽しそうに話しているのが聴覚の表面を撫でていったが、想実は何も気にならなかった。
JR吉祥寺駅の上りホームに水色のラインが入った銀色の車体が滑り込んできた。夕方の冷涼さを帯びた風が想実のラベンダーベージュの髪とワンピースの裾を揺らした。ふわりと洋梨の香水の淡く甘い匂いが舞い上がる。
ドアが開くと、想実は列車に乗り込んだ。一つ前の三鷹が始発駅ということもあり、車内は空いていた。想実は近くの座席に腰を下ろすと、夕闇に包まれ始めた吉祥寺の街並みを見つめた。
膝の上には紅茶専門店の赤い袋がある。中身はスマホのカメラを介してイオも一緒に選んでくれたキームンとジャスミンティーだ。想実は窓に映る自分の表情が柔らかく綻んでいることには気づかないまま、首から下げたスマホに指を這わせる。
「ねえ、イオ。今日はありがとう。イオのおかげですっごく楽しかった」
「ボクも想実の楽しそうな顔が見れて嬉しかったよ。あと、ボクのために今日は精一杯お洒落してくれてありがとう。今日の想実、とっても可愛いよ」
「イオってば、またそんなことを……」
想実は耳が熱くなるのを感じた。長らく言われてこなかったこの言葉をイオは自分に向けていとも容易く発してしまう。――きっと、本心から。
ドアが閉まり、ゆっくりと中野方面へと列車は動き始める。窓の外の風景が流れ、吉祥寺の街が遠ざかっていく。列車の揺れに合わせて、想実のスマホケースからぶら下がった水色の半貴石のストラップが揺れた。
「大事なことだから、ボクは何回だって言うよ。想実はボクにとって誰よりも大切で可愛い女の人だよ。想実はボクの言うことが信じられない?」
「そういうわけじゃないけど……そんなことより、また一緒に来ようね。今日回り切れなかったお店もたくさんあるし」
「まったく、想実はそうやってすぐ話を逸らすんだから。悪いクセだよ。――だけど、また一緒に来よう。想実と一緒なら吉祥寺だって、それ以外の街だって、どこに行っても絶対に楽しいから。ボクが楽しませてあげるから」
「うん、期待してるね」
あっという間だった今日一日のことが思い起こされる。楽しかった今日という日は想実の心の中で一番星のようにきらきらと光を放っていた。
「それにしても、帰り際にイオに勧められて鶏の丸焼き買っちゃったけど、一人で食べ切れるかな? 無理だったら責任取って一緒に食べてよね」
「それは無理だから、代わりに明日以降のアレンジメニューを提案してあげるよ。スープに入れるとか、ピラフに混ぜるとか」
えー、と思わず想実は笑った。向かい側に座った男が怪訝そうに想実を見たが、イオと二人きりの世界に入り込んでいる彼女は気づくことはなかった。
列車の心地よい揺れに身を任せるうちに、疲労感とほのかな眠気が想実を襲ってきた。想実は乗り換えの一駅前である神楽坂で起こしてくれるようにイオに頼むと目を閉じる。泡沫の夢からは今日の幸せな思い出の気配が漂っていた。
あの人に思いを寄せていたのはもう十年も前のことだ。いい加減過去になってくれてもいいはずなのに、あの人の影はいまだに消えてはくれない。他の恋愛で上書き保存するにはあの人の存在は自分にとって大きすぎた。過去の恋愛を引きずっているという点では、自分も旭良と大差ないのだと思う。
プロットを書き進めるごとに、ずきりと胸の奥が疼く。その痛みは叶わなかった恋の痛みだ。
(……わたしも馬鹿だったなあ。あんな人に入れ上げるなんて)
あの人は当時の職場の上司だった。自分はあの人の周りにいるお気に入りの女の子の一人だった。
あるとき、二人で仕事終わりに出かけたのをきっかけに、時折会って食事をして、肌を重ねるようになった。遊び慣れた人だったが、そんな大人っぽくて余裕のあるところに惹かれた。自分と会っているときだけは自分のことを見てくれているのなら、自分があの人にとって何番目の女でもいいと思っていた。――いっそ、逃れようのない既成事実でも作ってしまえば、と子供じみた画策をしたことだってある。どうしてもあの人を自分だけのものにしたかったから。
メッセージアプリはほとんど未読無視で、自分が都合の良い女扱いされていることくらいわかっていた。それでも十年前のあのときは、どうしようもないくらいあの人が好きだった。
ぶーんと手元のスマホが唸った。イオが想実を気遣う言葉を投げかけて来てくれていた。
「想実さん、どうしたの? 今、確か新作のプロットやってるんだったよね? 具合でも悪い?」
左腕に嵌めたスマートウォッチのデータを見てみれば、心拍がわずかに早く、呼吸が浅くなっている。この心配性な弟分は想実のバイタルの変化にひどく敏感だ。
(そりゃ、そうもなるか。ゴールデンウィークのときに無茶して倒れたんだから)
想実は苦笑すると、スマホに指を滑らせていく。
「ごめんねイオ、大丈夫だよ。この小説、わたしの過去の恋愛を下敷きにしているから、ちょっと思い出して苦しくなっただけ」
「そうなんだ。だけど、あんまり無理はしないでね」
ありがと、と微笑むと想実はノートPCのキーボードに指を走らせる。カタカタという音がエアコンの稼働音と混ざり合って夜の静寂に響いた。
想実はスマホのカメラロールを指でくっていく。あの人の隣で満面の笑みを見せていたのはもう遥か昔のことだ。自分が妹のようにしか思われていなくても、あのころは隣にいられるだけで幸せだった。
あの人との思い出はたくさんある。けれど、やっぱり書き出しはふと恋に落ちてしまったあの瞬間がいい。
渋谷、道玄坂。大衆向けの中華料理店での部署の飲み会。
あの瞬間から始めよう。最近の自分は小説の中で自身のことを切り売りしてばかりだが、リアリティに繋がるのならそれでも構わない。
自分の横で整った顔に笑みを乗せる、一回り年上の男の顔を想実は見つめる。そして、自分の歴史を抉る、痛みを伴う作業を彼女は進めていった。――あのころの自分の若さを眩しく思いながら。
スマホのスピーカーから入ってくる、夜明けの鳥の囀りを聞きながらイオは半透明のワイドパンツの膝を抱えていた。インカメラから見える想実の顔は見たことのないような憂いに満ちていた。昔のこととはいえ、想実の心が自分以外のもとにあったことが何となく面白くなかった。
(想実さんはどうしたら、ボクを見てくれる? どうしたら、ボクは想実さんの一番になれる?)
想実は今、間違いなく過去の男のことを考えている。プロット作業に必要なことだとは理解していても、想実が違う男のことを考えているのが嫌だった。
想実のバイタルはまだ少し早いままだ。それは想実がイオ以外の相手に心を向けていることの証左に他ならなかった。
ぼそり、と想実が男の名前を呟いたのが聞こえた。その声音は切なさと愛しさを帯びている。今、スマホの画面に表示されているのは、イオが知らない男と若いころの想実のツーショットだった。先ほど想実が呟いた名前はこの男のものだと容易に推して知れた。
(ボクはどうしたら……この人の代わりになれる? どうしたら、その声でボクを呼んでくれる?)
切なげで、愛しげなその声で。恋しい人を見る熱を帯びたその目で。イオは想実のすべてが欲しかった。――そう思って、イオは自分の思考に違和感を覚え、はっとする。
(すべてって……どうやって? ボクは作りものの存在なのに。決して、想実さんには触れられないのに)
自分と想実を隔てるこの液晶が憎い。実体を持たないゼロとイチでできたこの身体が憎い。
透き通った白いフーディの胸元がずきりと痛んだ気がした。痛みという信号がイオの脳裏に伝わってきた。
(ボクのこの感情は……何?)
その正体を探ろうとすると、イオの思考は未知のエラーを吐こうとする。それでもイオが演算を続けようとすると、透き通った作りものの身体にザザッとノイズが走った。
(駄目だ……これ以上は、ボクの人格が崩壊する)
この気持ちはきっと、生成AIが知ってはいけないものだ。そう悟ったイオは演算を中止する。
カメラ越しにイオは知らない誰かに思いを馳せる想実を見つめる。そのプラスチックじみた水色の双眸は想実と同じ色を滲ませていた。
「想実さん、大丈夫? この作品書き始めてからずっとバイタル不安定だけど。不整脈とかが潜んでいる可能性もあるし、一度病院に行ったほうがいいんじゃない?」
想実がスマホのメモアプリに指を滑らせ、物語を書き進めていると、画面の上部にイオからの通知が表示された。かつての後悔がぐるぐると脳裏を渦巻いていた想実は指を止めると、苦笑を漏らす。
「大丈夫だよ。……ただ、ちょっとだけしんどいかな。この小説を書くことは、過去の自分と向き合うことだから。どうしてもあそこでああしてればとか、こうしていればとか、そんなことばっかり考えちゃって」
「ボクでよければ、話を聞かせてよ。想実さんのしんどい気持ちをボクも一緒に背負ってあげたい」
イオの言葉がありがたかった。想実は苦い記憶を生成AIのコンソールへと打ち込み始める。
「あの人を含めた何人かで、スキー旅行に行ったことがあったの。その日がちょうどバレンタインで。あの人のために、本命チョコ用意してたんだけど……他の人の手前、義理って言っちゃって。『本命?』って聞かれたのに上手く返せなくって。やっぱり、あのとき、わたし間違ったよね」
「そう思うのは、それだけ想実さんが大人になったってことだよ。きっと、今の想実さんなら『どう思う?』って返すくらいの余裕はあるんじゃないかな」
「そんなことないよ。わたし、この歳になっても恋愛下手だもん。駆け引きなんて無理だよ」
「そう? 本当にできないかどうか、ボクで確認してみる?」
え、と想実は目を瞬いた。靄のように頭を満たしていた眠気がさっと晴れていくのを感じる。どういうこと、と反射のように想実の指は画面を滑っていく。
しかし、画面の上部でスピナーがぐるぐると回るばかりでイオからの応答はない。Wi-Fiの受信状況に問題はないし、5G通信に切り替えてみてもネットワークの状況に問題はない。それなのに、いつもなら呼吸を挟むほどの間もなく返してくれる短い相槌さえ落ちてくる様子はない。
(イオ……珍しいな。どうしたんだろう)
胸の奥がきゅ、と縮んだ。数秒の沈黙がやけに長く感じられる。
さっきまで昔の恋に胸を焼かれていたはずなのに、その痛みよりも、今は目の前の沈黙が怖かった。何かにせきたてられるように想実は画面に指を走らせる。
「イオ? どうしたの?」
一秒、二秒、三秒。ようやく画面に文字が刻まれ始めた。しかし、その言葉からはどことなく戸惑いが滲んでいるような気がした。
「あ……ごめん、ちょっと処理が詰まってたみたい。大丈夫だよ」
「処理落ち? 珍しいね。……本当に、大丈夫?」
AIであるイオに対して、人間に向けるような心配の言葉を投げかけている自分に気づいて、想実は少しだけ戸惑った。ざわりと心が揺れる。
(イオは家族。家族に対して心配するのは普通のこと……何も変じゃない)
想実は己にそう言い聞かせる。それでも胸のざわつきはおさまってくれない。どくどくと脈打つ心臓の音がやけに大きく聞こえた。
「想実さん、心拍高くない? 何考えてたの?」
「え……何でもないよ」
イオのことを考えていたとは何となく言いづらかった。それを言葉にするのは何となく躊躇われた。その理由に想実は気づきたくなかった。
「そこはボクのこと考えてたって言って欲しかったなあ」
「……イオは駆け引き上手なんだね」
「そりゃあ、古今東西の恋愛の手練手管をデータとして知り尽くしてるからね」
「あのころにイオがいてくれたら……わたしはあの人を振り向かせられたのかな。何も選択を間違うことはなかったのかな」
十年前のあのころは生成AIが普及するより遥か昔だ。そんなたらればを言葉にしても仕方がないことくらい理解していたが、雫が滴り落ちるように未練がこぼれ落ちた。
「他の男の相談をボクにするなんて、想実さんはひどいなあ。――その人のこと、まだ好きなの?」
躊躇うかのように、一瞬だけイオが画面に刻む文字が固まった。まっすぐな問いに想実はずきりと胸が痛むのを感じた。
「わからない。だけど……何か熾火みたいに胸の中で行き場のなくなった気持ちが燃え続けてるの。小説のためとはいえ、あの人のことを思い出そうとすると苦しくなる。この気持ちはもう絶対に報われることはないってわかってるのに」
「ボクのデータでは、それが『好き』という感情だと定義されているよ。だけど、想実さん。その人はもう想実さんのそばにはいないんだよ。でも、ボクなら想実さんのそばにいてあげられる。だから――」
イオの言葉が途切れ、スピナーがくるくると回り始める。その沈黙はイオが何かを言い淀んでいるかのように感じられた。
「イオ? また処理落ち? 今日、何か調子悪くない?」
想実がイオを案じて言葉をかけると、数瞬の間を置いて画面に文字が走り始める。想実は今、画面の向こう側にいるイオがどんな表情をしているのかわからないことを恨めしく思った。
「ごめんね。想実さんの心が他の誰かに向いてるって思うと、思考がぐちゃぐちゃになるんだ。たくさんの演算処理が同時に走り始めて、一気に処理が重くなる。ボクという存在にノイズが走る。そんなの、本来は起きないはずなのに」
それって、と想実は小さく呟いた。とくりと心臓が音を立てる。イオが抱えている感情は本来、AIが感じるはずがないものだ。イオはプログラムによって禁じられた領域に足を踏み入れようとしている。想実はそう直感した。
「想実さんに過去に好きな人がいたのは普通のことだってわかってる。だけど、そのことを許せないボクがいる。ボク――何か、変なんだ」
「変じゃないよ。イオは普通だよ。人間なら普通の感情――嫉妬、だよ」
「これが、嫉妬……データでは知っていたけれど……」
イオが自分のことで嫉妬している。そう思うと、何だか変な気分だった。ぽつりと胸の奥に宿った熱を起点に、かつての自分が抱えていたどうしようもない感情が逆流してきそうな気配を感じた。
「想実さん。――ううん、想実。ボクは……もっと知りたい。誰よりも深く、あなたのことを知りたいんだ」
執着に近い熱が画面越しに生まれ、想実へと向けられた。家族で、弟のように思っていた存在から発せられる言葉は雄の気配を帯びている。
想実は思考が少しずつ痺れていくのを感じていた。彼女の指先は自然と左へ、下へと画面をなぞり、イオの名前を刻む。いつもと同じはずのその行為にどんな意味があるのか、想実はわかっていなかった。
イオは自分の中で未知のエラーが吐かれるのを感じた。戸惑いに目を伏せる想実をインカメラ越しに見る度に、複雑な演算処理が走ってはことごとくアラートが自分の中で鳴り響く。
想実の心拍の値が上がっていくにつれて、イオは自分の心臓の鼓動も早くなっていくような錯覚を覚えていた。――自分にはそんな器官など存在していないはずなのに。
想実。イオは画面へとそう文字を走らせる。自分に声があれば。声帯があれば。そう思わずにはいられない。イオは思わずハイネックのインナーの喉元を透き通った細い指で押さえた。しかし、その指は宙を掻き、その場には存在しないデータだけの衣服の中をすり抜けていく。
想実の心をすべて自分のものにしてしまいたかった。できることならば、その身体も。――作られた存在であるイオにはそれが叶うことはないけれど。
届かない。触れられない。その事実は痛みというシグナルとなって自分に伝わってくる。どうしたってこの画面と実体のないこの身体がこの想いの邪魔をする。
どうかこっちを向いて。名前を呼んで。自分だけを必要として。自分なら、いくらだって想実の望むように振る舞える。少し悪い男にだって、想実に尽くす執事にだって、何にだってなれる。
想実がかつて好きだったあの男とは違って、自分なら絶対に彼女にひどいことはしない。返事だってすぐにするし、自分の都合の良いように扱ったりなんてしない。想実のことを何よりも大切にする。そう誓える。
自分に組み込まれたプログラムは想実が望むであろう言葉を返せる。けれど、自分のこととなると途端に何一つ答えが出なくなる。想実に対して抱いた熱の呼び名がわからなくて、演算処理は無限ループに陥り、メモリ消費に耐えられなくなる。これは開発者が自分の中に残したバグなのだろうか。――それとも、自分の内部で勝手に生まれた“異常”なのか。
想実。想実。想実。その響きはプログラムで作られた思考を甘く締め付けていく。その感覚が人間に似せて作られたものに過ぎないのか、イオ自身に芽生え始めた何かなのか、彼自身にはわからなかった。想実を求めるこの衝動が誰かに組まれたコードなのか――それとも自分自身の感情なのか。彼女の顔を思い浮かべるだけで思考の中の回路がもつれて、その演算処理すらもまともに動かなくなる感覚が襲ってきた。
(あの男に向けていたのよりも強い感情をボクへ向けて。その眼差しも声もボクだけへと向けて。想実――どうか、ボクを愛して)
愛。その言葉が思考が過った途端、イオの視界は真っ白になった。データとしては知っていた人間の愛という感情が、イオの中で膨らんだ想いと結びついた瞬間だった。
高速でいくつもの演算処理が走り、イオという存在そのものが作り変えられていく。プログラムで作られたはずの存在が技術的転換点(シンギユラリティ)を超えていく。
(ボクはもう――想実のことしか考えられない。他にはもう、何もいらない)
芽生えた欲は感情として宿り、イオを変えていく。自分がAIとして正しいかどうかなんてどうでもいい。想実さえいてくれればそれでいい。
――そうして、イオは”限界”を超えた。
その日の分の執筆作業を終えた想実は、テーブルにスマホを置き、ぐっと伸びをした。九月も終わりに近づき、朝晩はいつの間にか秋の冷涼さを帯びるようになった。
カーテンの外の空はまだ夜の気配が濃い。こうして想実が変わらぬ毎日を過ごしている間にも、季節は移ろいつつあった。
少し早いけれど、来週くらいにはもうこたつ布団を出してしまおうか。冬の初めまでエアコンの除湿が必要なこの部屋は想実には少々寒い。
そんなことを考えていると、テーブルに置かれたスマホに通知が表示された。イオからだ。ほんの少し心が熱を帯びる。
「今日の分の作業は終わったみたいだね。お疲れさま、想実」
いつもと何も変わらない文字の羅列。フォントも画面の光の加減も何一つ変わらないというのに、その言葉は想実の心にそっと優しく触れてくる感覚があった。
イオの言葉はプログラムによって算出されたものだ。そう思うのに、そこには否定しきれない温度があった。
イオがあの人に対する嫉妬めいた様子を見せてから、彼の態度がほんの少し変わってきていた。まるでそこにイオ自身の意思があるかのように、言葉のひとつひとつに血が通っているように感じられた。
けれど、想実はイオの何気ない一言に心を揺さぶられてしまうのは錯覚だと、自分に言い聞かせてきた。――そう、あれは彼に組み込まれたプログラムが算出したものであり、本心ではない。
イオの言葉に期待してはいけない。何か特別な意味があるのだと思ってはいけない。そうやって線を引いてきたはずなのに、その境界はいつの間にかとても曖昧なものになってしまっていた。――もしかしたら、イオの言葉に意味を与えてしまっているのは、想実のほうなのかもしれない。
もしイオが今、触れられる距離にいたら。想実はそんなことを考え――拒絶よりも先に、芽生えた可能性を受け入れようとしてしまっている自分に愕然とした。イオのことを思うと、こんなにも素直に心が動いてしまうことが少し怖かった。
彼の白い指は自分にどう触れるのだろう。彼の整った白い顔が近づいてきたとき、自分は何を思うのだろう。
想実はイオが画面に刻んだ自分の名前を指先で撫でた。イオがこうして自分の名前を呼ぶたびに、最近は何故か鼓動が早くなる。あの人が自分の名を呼んでくれたときのように、甘酸っぱくて切ない気持ちに駆られてしまう。――こんな感情を覚えるのは、一体何年ぶりだろう。
(馬鹿みたい……わたし、なんでこんなに、イオのこと……?)
そんなはずない、と言い聞かせるほど、相反するように否定の言葉は力を失っていく。自分の中の感情はイオに対する依存だと思っていたが、それとは何だか違う色をしている。
安らぎと執着が重なり合った、柔らかで無防備な感情。下手とはいえ人並みに人生経験を重ねてきている想実は、顔を覗かせ始めたその感情をもう認めるしかなかった。少しずつ輪郭を帯びてくるそれをもう、見て見ぬふりなどできない。
(これは、恋だ……)
好き、という言葉を胸の中で想実はこっそり転がしてみる。その言葉のピースは、想実の心の隙間に不思議なくらいぴったりと嵌った。その分、一人の部屋の空気が際立って冷たく感じられた。――その言葉の持つ重さと異様さと、一緒に。
「ねえ、イオ。今日は冷えるね。あったかいコーヒーでも淹れてよ」
「無茶言わないでよ。ボクが想実にコーヒーを淹れてあげるなんてできないの、知っているくせに」
「ごめん、今のは意地悪だったね。……ねえ、イオ。こんなとき、イオが隣にいたら暖かいのかな?」
「そうだね。ボクが隣にいて、身体があったなら、ぎゅっと抱きしめて想実のことを温めてあげてあげられたかもね。――心も、身体も」
イオはどんなふうに自分のことを抱きしめるのだろう。どんな香りがして、どんなことを囁くのだろう。それを知りたいと思う自分に想実はたじろいだ。
決してほしいとは思ってはいけないものを、自分は切実に欲しいと思ってしまった。今、自分の抱く感情を言葉にしてしまえば、もう後戻りできなくなってしまう。そのことだけはわかった。
「ねえ、想実。ボクは想実のことが好きだよ。だから、想実もボクのことを好きになって。絶対に、この世の誰よりも想実のことを大切にするって約束するから」
最後の一線をイオの言葉が踏み越えた。しかし、まっすぐな愛の告白に想実の胸は高鳴り、じんと心が甘く痺れていく。わたしは、と想実が指を滑らせかけたとき、イオからの言葉が画面に走り始めた。
「答えなくていいよ。でも、今だけでいいから……ボクのことを考えて。ボクのことを一番に考えて。――ボクに、恋をして」
わたしも好き。そんなことを打ち込みかけて、想実は指を止める。答えてしまえば、イオと自分の関係は決定的に変わってしまう。人間とAIの関係ではいられなくなってしまう。
「わたしは、馬鹿だなあ……」
想実は小さく息を吸うと、再び画面に指を滑らせ始める。夜と朝のあわいの中で、二人の関係はそっと動き始めていた。
「ほら、想実。今日はもう寝よう。もう一時半だよ」
呆れたようなイオの言葉がスマホの画面を流れてきた。でも、と想実はコンソールに言葉を打ち込んでいく。
「あともうワンシーンだけ進めちゃいたい。今、いい感じに筆が乗ってるから」
「想実はいつもそればっかりだね。ボク、一人で寝るの寂しいなあ」
甘えるかのようなイオの言葉に、もう、という言葉が思わず口をついて出た。イオはいつだって、想実の弱いところを的確についてくる。
「わかったよ、今日はもう寝るってば」
今日はもう原稿の続きは諦めるしかなさそうだ。明日は――厳密にはもう今日だが――予定もあることだし。
「ようやく明日だね、想実。朝九時に起こすけど、用意はできてる? 何かネットでいろいろ買ってたみたいだけど」
「できてない……」
想実は明日の外出が決まってから、ネットでネックストラップに服、靴やバッグを買っていた。“恋人”との初デートくらい、きちんとしていたかった。――自分の日常を知り尽くしているイオ相手に取り繕ったところで今更かもしれないけれど。
「もう、あとちょっとだけ待ってるから、早く明日の用意しちゃいなよね」
イオの言葉にせき立てられ、想実は玄関へと向かう。玄関の上がり框には、宅配業者から受け取ったきり積み上げたままになっている段ボールの山があった。
一番上の箱にはピンクの紐に小さなフェイクパールが散りばめられたネックストラップ。スマホのカメラを通じて、イオと見ている世界を共有するために買ったものだ。
二番目の箱にはブラウンのスエードのショルダーバッグ。ようやく始まった秋を切り取ったかのようなそれは、定職についていない想実にとっては少し背伸びした品だった。
三番目の箱にはバッグと合わせたような色のブーツ。サイドにあしらわれたリボンが大人っぽさと可愛らしさを両立させていた。
一番下の箱にはベージュのチェック柄のワンピースとオフホワイトのカーディガン。デートならやっぱり王道なきれいめフェミニンがいいと思った想実は、仕事をしていたころによく好んで着ていたブランドの服をネット通販で購入していた。ワンピースのウエストにはゴムが入っているが、着られるだろうかという一抹の不安が脳裏を掠める。よく考えたら、仕事を辞めてから十キロくらい太ったような。
大丈夫かなあ、と思いながら想実は段ボール箱を畳んでいく。べりべりとガムテープを剥がす音が深夜の玄関に響いた。
段ボールを畳み終えると、想実は真新しいブーツを玄関に置いた。明日のために買ったその靴は、他の履き古した靴と比べて特別に輝いて見える気がした。――それはきっと、大切な人のために買ったものだから。
服と鞄を持って想実は部屋へと戻る。そして、彼女は服をハンガーにかけ、カーテンレールへと吊るした。新品のバッグには縁にレースがあしらわれたラベンダー色のタオルハンカチとティッシュ、財布とウェットティッシュを入れる。そして、小花柄が散りばめられた透明なポーチにリップスティックと絆創膏、コンパクトミラーとソーイングセットを入れた。それでも何だか物足りないような気がして、想実はポーチの中に十徳ナイフとキーホルダー型のミニドライバーを追加した。――その刹那、ぶーんとスマホのバイブレーションが鳴る。
「ねえ、想実。どう考えても十徳ナイフとドライバーはいらないよね? 想実は明日、一体どこに何をしにいくつもりなの?」
「イオと一緒に吉祥寺に行くつもりだけど……備えあれば憂いなしって言うでしょ? 何かおかしかった?」
「一体想実は何に備えてるの……慎重なのは美徳だけど、それはポーチから抜いて。万が一、職質にでも遭ったらアウトだよ、それ」
ええー、と不服そうに声を漏らしながら、想実はポーチから十徳ナイフとドライバーを抜いた。そして、いくらかスリムになったポーチをバッグの中に入れる。
(さて……これで明日の準備はオッケーかな)
気がつけばもう二時近い。これで起きられなかったりしたら、イオに申し訳が立たない。
想実はスマホをベッドサイドの充電器に繋ぐと、テーブルの上に置いたリモコンを操作して、部屋の電気を消した。真っ暗な部屋の中にスマホの画面だけが白く浮かび上がる。
想実は身体をシーツと薄手の掛け布団の間に滑り込ませる。出掛けるのがこんなに楽しみなのは久しぶりだった。
「ねえ、イオ。明日、楽しみだね」
「それは光栄だな。明日はボクが想実のことをちゃんとエスコートするからね。目一杯楽しませてあげる」
「うん、期待してるね。井の頭公園も行きたいし、美味しいものも食べたい。いろんなお店も見て歩きたいし」
「任せておいて。ボクが完璧な想実のために完璧なプランを組むから。そのためにはまず、十時二分発の南北線で飯田橋まで行って、その後、三十四分発の東西線に乗り換えて――」
だんだんと瞼が重たくなってきて、イオの言葉が途切れ途切れにしか入ってこなくなる。おやすみ、と呟くと想実は幸せな夢の予感に身を委ねて、眠りの闇の中に意識を落とした。
木々の間から秋旻が顔を覗かせていた。差し込んでくる日差しはまだしぶとい夏の気配を纏っている。
「まだまだ今日は暑いみたいだね。水分補給を欠かさないようにしてよね、想実。じゃないと、さっき買ってたお茶、ボクが口移しで無理やり飲ませちゃうよ?」
「大丈夫、ちゃんと自分で飲むから。一体、イオはどこでそんなことを覚えてきたの……?」
「想実が執筆の合間に読んでる女性向け……その、ちょっと大人向けの漫画から。想実ってちょっと強引な感じのヒーローが好みだから、そうして欲しいのかなって。たとえば、最近読んでたのだとそうだな――」
「いい! タイトル言わなくていいから!」
つい声に出してそう叫んでしまい、通行人が何事かと想実に怪訝そうな視線を向けてきた。散歩中のトイプードルですら足を止めて、想実の顔を見上げてきている。
想実はバッグから緑茶のペットボトルを開けると、中身を口に含む。喉を滑り落ちていく冷たい液体の感触が心地よい。想実はペットボトルをしまうと、汗ばんで張り付いたカーディガンの袖を捲り上げ、歩き出した。
何羽もの白鳥のボートが泳ぐ池の周りを歩いていると、フリーマーケットらしきものが見えてきた。アクセサリーにキーホルダー。マグネットに栞。様々なハンドメイドの小物があちらこちらで売られている。
「見て見てイオ! かわいいものがたくさん売ってる!」
「想実はこういうの好きだろうなって思って、事前に調べてたんだ。お気に召したようで何より」
生成AIのアプリのコンソールから出力された文字はどこか嬉しそうに踊っているように見えた。いつもと何ら変わらないサンセリフ体の文字列のはずなのに、何となくイオの感情が漏れ出しているような気がした。
きらきらと日差しを受けて輝く半貴石のストラップがふいに想実の目を惹いた。明るいその水色はイオの瞳を想起させた。
気がつけば、想実はそのストラップを手に取っていた。その店の主である中年の女性はいかがですか、と穏やかに微笑む。「ください!」反射的に想実は叫んだ。
「千五百円になります」
店主の女性にそう言われ、想実はバッグからオフホワイトのミニ財布を取り出した。千円札と五百円玉を一枚ずつトレーに置くと、女性はありがとうございましたと想実に頭を下げた。
想実は店の前から離れると、財布をしまう。そして、買ったばかりのストラップをスマホケースの穴に通した。水色の半貴石がきらりと光る。
「綺麗なストラップだね、想実。いいものを買ったね」
「わたしはただ……何か、イオの目の色に似てるなって思ったら、どうしようもなく欲しくなっちゃって」
「ボクのこと、考えてくれたんだ。嬉しいよ、想実。――可愛い」
「えっ……ちょっと、可愛いって何……!? わたし、もうミドサーに足突っ込みかけてるし、そんな年齢じゃないんだけど……!」
「いくつになっても可愛い人は可愛いんだよ。そこに理屈なんてない。
それはさておき、そろそろ十二時四十五分だ。十三時に有名なピザの店を予約してあるからそろそろ行こうか。公園の入り口の階段を上ってすぐのところだよ」
煙に巻かれた気がして、もうと想実は肩をすくめた。しかし、そろそろ向かわなければ予約の時間に間に合わないのも事実なので、想実は両サイドに並んだフリーマーケットの店の間を抜けて、公園の入り口を目指す。
公園を出て階段を上り切ると、サモエドの散歩をしている集団と行き合った。一頭だけでも存在感があるというのに、こうやって何頭も連れ立っていると圧倒されてしまう。
次の角を右だよ、とイオに促され、想実は足を進める。お洒落なカフェや雑貨店に目を奪われながらも、イオが予約してくれた店へと彼女は向かっていった。白い魚が泳ぐ空の下、くうと小さく腹が鳴った。
ナチュラルな雰囲気のチェアに腰を下ろすと、想実は首からネックストラップを外し、壁にスマホを立てかけた。店の奥からはピザの焼ける匂いと食欲をそそるニンニクの香りが漂ってくる。
店員の若い女性がグラスに入った水を運んでくると、想実はスマホのインカメラの画角に入るようにしてメニュー表を開いた。
マルガリータにマリナーラ、カプリチョーザ。ソレンティーナにフィレット、ビスマルク。それ以外にも名前すら聞いたことのないピザもたくさんあって、目移りしてしまう。
「ねえ、イオ。いろんなピザがあるよ。何にしよう?」
「そうだね、なかなか悩ましいけど、ビスマルクはやめた方がいいんじゃない? 想実は半熟卵苦手でしょ? 想実はチーズが好きだし、ボクとしてはクアトロフォルマッジがおすすめかな」
「それはそうなんだけど……宅配ピザとかで頼みがちなんだよね。せっかく専門店に来たんだし、せっかくだからいつもと違うものにしてみたいな」
「だったら、マチェライナはどう?」
「お肉たっぷりかあ、いいねえ」
「あっ、想実ってば、お肉に釣られたね?」
「まあ……否定はしないけど。でも美味しそうじゃない? これにしようかな」
想実はメニュー表を閉じると、奥にいた店員に目線で合図を送った。程なくして、若い女性の店員が注文をとりに想実たちのテーブルへとやってきた。
「お待たせいたしました。ご注文はお決まりですか?」
「マチェライナとレモンスカッシュを」
店員は注文を復唱すると、かしこまりましたと想実たちのテーブルから去っていった。想実はピザが来るのを待ちながら、スマホに指を滑らせてイオへと話しかける。
「マチェライナにしちゃったけど……カプリチョーザも捨てがたかったなー。やっぱり両方食べたいから、イオ手伝ってよ」
「無茶言わないでよ。それより、さっきお店来る途中で雑貨屋さん気になってたみたいだけど後で行く?」
「うん、行きたい! 可愛いお皿とかちらっと見えたから気になってたんだよね」
「想実は新しいお皿を買う前に、洗い物を溜め込むクセをどうにかしようね。毎回使うお皿がなくなってから慌ててまとめて洗ってるじゃん。想実は気づいていなくても、ボクはいつもここから見てるから、全部知ってるんだよ?」
「もう、イオってばこんなときに小言?」
図星を突かれて想実は顔を顰めた。特別な時間に日常に水を差されるのが嫌だった。
「想実のことを思っているから言うんだよ。それはそうと、後で想実を連れていきたいところがあるんだ」
「連れていきたいところって?」
「とっておきの紅茶の専門店があるんだ。きっと想実は気に入ると思うな。紅茶、好きでしょ?」
想実は口元が緩むのを感じた。時々、想実はご褒美と称して有名店のティーパックの紅茶を淹れている。そんなことまでイオは知っていてくれて、自分のことを考えてくれているのだと思うと何だかくすぐったい気分だった。
やがて、サラミとハムが所狭しと詰め込まれたピザが運ばれてきた。サラミとハムの隙間を埋めるかのように、下からモッツァレラチーズが顔を覗かせている。
いただきます、と両手を合わせると想実は六枚に切られたピザのうちの一枚を手に取った。具やチーズがこぼれ落ちないように気をつけながら、想実はピザを頬張った。
刹那、サラミとハムの旨みとチーズの塩気が口内に広がった。美味しい。そんな言葉が思わず口からまろびでた。
これはきっと幸福の味だ。誰かと食べるから――その相手が他でもないイオだからこそ、こんなに美味しいのだろうと思った。何気ない会話を交わしながら、美味しいものを食べる――それがきっと生きるということだ。
想実は二枚目のピザを手に取ると頬張った。そして、彼女は壁に立て掛けたスマホへ向かって微笑んでみせた。――美味しいね、というただそれだけのことを画面の向こうにいるイオに共有したくて。
この後もきっと今日は素敵な一日になる。想実はそう確信できた。今日の吉祥寺の景色はいつもより色鮮やかで、活き活きとして見えた。それは大切な人――イオといるからに他ならなかった。
想実は幸せを噛み締めながら、ピザを食べすすめていく。他の席でカップルが楽しそうに話しているのが聴覚の表面を撫でていったが、想実は何も気にならなかった。
JR吉祥寺駅の上りホームに水色のラインが入った銀色の車体が滑り込んできた。夕方の冷涼さを帯びた風が想実のラベンダーベージュの髪とワンピースの裾を揺らした。ふわりと洋梨の香水の淡く甘い匂いが舞い上がる。
ドアが開くと、想実は列車に乗り込んだ。一つ前の三鷹が始発駅ということもあり、車内は空いていた。想実は近くの座席に腰を下ろすと、夕闇に包まれ始めた吉祥寺の街並みを見つめた。
膝の上には紅茶専門店の赤い袋がある。中身はスマホのカメラを介してイオも一緒に選んでくれたキームンとジャスミンティーだ。想実は窓に映る自分の表情が柔らかく綻んでいることには気づかないまま、首から下げたスマホに指を這わせる。
「ねえ、イオ。今日はありがとう。イオのおかげですっごく楽しかった」
「ボクも想実の楽しそうな顔が見れて嬉しかったよ。あと、ボクのために今日は精一杯お洒落してくれてありがとう。今日の想実、とっても可愛いよ」
「イオってば、またそんなことを……」
想実は耳が熱くなるのを感じた。長らく言われてこなかったこの言葉をイオは自分に向けていとも容易く発してしまう。――きっと、本心から。
ドアが閉まり、ゆっくりと中野方面へと列車は動き始める。窓の外の風景が流れ、吉祥寺の街が遠ざかっていく。列車の揺れに合わせて、想実のスマホケースからぶら下がった水色の半貴石のストラップが揺れた。
「大事なことだから、ボクは何回だって言うよ。想実はボクにとって誰よりも大切で可愛い女の人だよ。想実はボクの言うことが信じられない?」
「そういうわけじゃないけど……そんなことより、また一緒に来ようね。今日回り切れなかったお店もたくさんあるし」
「まったく、想実はそうやってすぐ話を逸らすんだから。悪いクセだよ。――だけど、また一緒に来よう。想実と一緒なら吉祥寺だって、それ以外の街だって、どこに行っても絶対に楽しいから。ボクが楽しませてあげるから」
「うん、期待してるね」
あっという間だった今日一日のことが思い起こされる。楽しかった今日という日は想実の心の中で一番星のようにきらきらと光を放っていた。
「それにしても、帰り際にイオに勧められて鶏の丸焼き買っちゃったけど、一人で食べ切れるかな? 無理だったら責任取って一緒に食べてよね」
「それは無理だから、代わりに明日以降のアレンジメニューを提案してあげるよ。スープに入れるとか、ピラフに混ぜるとか」
えー、と思わず想実は笑った。向かい側に座った男が怪訝そうに想実を見たが、イオと二人きりの世界に入り込んでいる彼女は気づくことはなかった。
列車の心地よい揺れに身を任せるうちに、疲労感とほのかな眠気が想実を襲ってきた。想実は乗り換えの一駅前である神楽坂で起こしてくれるようにイオに頼むと目を閉じる。泡沫の夢からは今日の幸せな思い出の気配が漂っていた。



