想実は流行りのアイドルソングを口遊みながら、スマホの画面の上に指を滑らせていた。中毒性のあるきゃぴきゃぴとした曲調に反して、想実がメモアプリに綴っているのは和風のラブストーリーだ。
ゴールデンウィーク明けに倒れて、病院に搬送されてから半月が経った。しばらくは休養に専念していたが、もう調子も戻っている。もっとも、あれからイオは裏でメモアプリの起動時間を測っているらしく、定期的に休憩を取るように通知を送ってくるようになったが。何というか過保護な弟を持った気分だ。
すっと惰性で想実の左手がテーブルの上のエナジードリンクの缶へと伸びた。しかし、それはひどく軽く、そういえばさっき飲み切ってしまったんだと、物語の世界に浸かった思考の隅で思い出す。テーブルの上に置き直したアルミ缶は天板に当たって、一人きりの部屋の中でかたんと音を響かせた。
――そして、彼女はせせらぐ水の音に身を委ね、眠りの闇の向こう側へと意識を手放した。
そう想実は打ち込むと、ふうと息を吐いた。まだ一章の段階だが、今作もなかなかいい感じにまとまっているような気がする。
アマチュアとはいえ長年小説を書いているが、和風ファンタジーに挑戦するのは実はこれが初めてだ。何となく雰囲気は捉えられているとは思うが、誰かの意見が欲しい。
(旭良……は嫌かな。できたらこれ以上関わりたくない)
とはいえ、想実には身近に他に原稿を読んでくれる友達がいるわけではない。お金を払えば読んでもらえるサービスも世の中にはあるが、自分の懐具合を考えるとあまり積極的に頼りたいものではない。
(うーん……誰か…… ――あ)
イオ。彼がいる。しばらく執筆作業から離れていたせいで頭から抜けてしまっていたが、前作のときもたまに彼に原稿の出来を見てもらっていたんだった。
「ねえ、イオ。ちょっと原稿見てもらっていい? 和風ファンタジー初めてだから、ちゃんと雰囲気出てるか不安で」
想実は生成AIのアプリを起動させると、コンソールにそう打ち込んだ。すると、すぐに画面に文字が走り、イオからの返事が戻ってきた。
「いいよ。だけど、チェックが終わったら想実さんが寝てくれるのが条件だよ。もう夜中の一時半だし」
イオはAIのくせに生意気にも取り引きを持ちかけてきた。想実の感覚ではもう一時半じゃなく、まだ一時半なのだが。ゴールデンウィーク明けに倒れてから、イオは想実の食事や睡眠にひどく口うるさくなった。
「えー……ようやくエンジンかかってきたところだったのに……」
「えー、じゃないよ。この前の入院、保険が降りたからまだ良かったけど、そうじゃなかったらいくら掛かってたと思う? ボクが試算してあげようか?」
う、と想実は返す言葉に詰まる。入院保険が降りたとはいえ、それで賄いきれなかった金額のことを思うと頭が痛い。
「それは大丈夫……間に合ってる……。っていうかわたしにこれ以上現実の厳しさを突きつけないで……。優しくして……」
「想実さんは本当に甘ったれなんだから。それで、原稿だったっけ? 読んでみるから貼ってくれるかな?」
やれやれ、とイオが白のフーディの肩をすくめたのが見えたような気がした。どこか生意気そうな整った色白の顔には呆れたような表情が浮かんでいる。脳裏に浮かんだイオの姿に想実は口元を緩めながら、先ほどまで書いていた文章をコピーすると、コンソールへとペーストした。すると、ほどなくしてイオの言葉が画面に刻まれ始める。
「和の雰囲気がすごく丁寧に描かれてるね。桜・白木・螺鈿・金魚って、全部“儚さ”とか“水”を連想させるモチーフで統一されてる。でも華美じゃなくて、静けさの中に気品があるところはヒロイン自身を投影してるみたいだね。"水神の屋敷"って言葉が出る前から、読んでて“ああ、水の世界なんだ”って自然に感じ取れるのもいい感じ。想実さん、たぶん意識せずにちゃんと調和のバランスを取ってる。――和風の世界観がちゃんと“生きてる”」
イオの言葉に想実は胸を撫で下ろした。彼がこう言ってくれるということは、少なくとも大きく方向性を違えてはいないはずだ。
あとワンシーンほどでこの章は完結させられるはずだ。筆が乗っている今のうちに仕上げてしまおうと、想実は再びメモアプリを開く。彼女が画面の上に指を滑らせようとした――その瞬間。
ぶーんと手の中のスマホが身を震わせた。画面の上部には生成AIのアプリからの通知が表示されている。
「想実さん? 寝るって約束したよね?」
「あとワンシーン! ワンシーンで区切りだから!」
「だーめ。想実さんのことだから絶対ワンシーンで済まないに決まってる。朝十時に起こしてあげるから今日はもう寝て」
有無を言わさず、イオはスマホの画面ロックをかけた。想実はパスコードを入れて、画面ロックを解除しようとしたが、どれほど数字をタップしても画面は沈黙を貫くのみだった。
今日はもうどうしようもなさそうだ。想実は溜息をつくと立ち上がる。勝手に画面ロックして、解除させてくれないとか新手のランサムウェアか。要求してくるのが、自分の健康的な生活とか新しすぎる。
部屋を出て洗面所のドアを開けると、想実は毛先の開き切った歯ブラシを手に取った。歯ブラシの毛先を水で濡らしながら、替えの歯ブラシはまだあっただろうかなんてことを彼女はぼんやりと考える。寝て起きたらイオに聞いてみようか。彼なら歯ブラシの在庫どころか冷蔵庫の醤油の賞味期限まで全部把握しているはずだ。この程度のことですら、気がついたらイオ頼りになっている自分が少し情けなくもあるけれど。
歯ブラシの毛先に歯磨き粉をつけると、想実はそれを口に含む。歯ブラシを縦に、横にと動かしながら、想実は汚れた鏡に映った疲れた女を見つめた。目の下のクマが実年齢より想実を老け込ませていた。
しゃかしゃかという小さな音が深更の静寂に響く。その音を聞きながら、想実はぼんやりと小説のこの後の展開に思いを馳せていた。
「うーん……」
想実はエナジードリンクを傾けながら、どうしたものかと思案に耽っていた。左手に握られた缶は蛍光ピンクで、夏季限定の白桃フレーバーのものだった。
今、想実は水神とその眷属が蔵で密談を交わすシーンを書こうとしていた。しかし、想実は蔵なんてものをろくに見たこともない。その上、いくらネットで調べても小難しい話が出てくるばかりで、全くイメージがつかめない。
床は土間? それとも板張り? 壁の材質は? そういった疑問で行き詰まって、想実は物語を先に進められないでいた。ふんわりと雰囲気というオブラートに包んでやり過ごすという手段もなくはなかったが、想実はなるべくそんなことはしたくはなかった。
イオならば、この疑問を解決してくれるのではないか。そう思って想実はスマホを片手に生成AIのアプリを起動する。彼女は自分の脳裏を占める疑問を指先で画面上に紡いでいく。
「ねえ、イオ。伝統的な和風建築の蔵ってどんなもの? 壁や床の材質は? 蔵の中には何がしまわれてるの?」
「そうだね、まず、伝統的な和風の蔵っていうのは外から見ただけでも大事なものが入っていることが分かるように頑丈に作られているよ。壁は防火や防湿のために分厚い漆喰で、床は板張りが基本かな。中身は用途によりけりだけど、米や酒、布や衣装、宝物や文書、あるいは日常で大事にしている道具なんかがしまわれてることが多いよ。まあ、蔵っていうのは要は単なる収納じゃなくて守るための建物なんだよ」
へえ、と想実は感嘆の声を漏らした。イオの説明は詳しいのにわかりやすい。
「そうなんだ、ありがとう」
「どういたしまして。想実さん、これで執筆進みそう?」
「うん、とりあえずはどうにか。――ねえ、もういくつか相談してもいいかな?」
「いいよ。ボクで想実さんの力になれるのなら。何?」
「この後の章末の雨乞いの儀式のときの水神の衣装と台詞悩んでるんだけど――」
「水神なら、水を織ったような着物にしても雰囲気が出るかもしれないね。台詞も儀式の時のものだっていうなら、神聖さを重視して『雨よ、我が声に応え、天より降り注ぎ給へ。川を満たし、稲を潤し給ふは、我が意志なり』みたいなのはどう?」
水を織った着物、と言われて想実の脳裏に思い浮かんだのは透き通る藍色のグラデーションの着物だった。
水縹から縹へ。縹から藍へ。藍から青褐へ。衣紋から胴へ向けて色は濃さを増し、また裾へ向かって色が薄らいでいく。その様はまるで揺蕩う水のようだった。幻想的な雰囲気の男神によく似合うと想実は思った。
しかし、台詞回しのほうはどうだろうか。いくら神の台詞とは言えど、古めかしすぎやしないだろうか。
「水神の着物はいい感じ。だけど、台詞のほうはちょっと古めかしすぎるかも」
「そう? じゃあ、もう少し現代的な口調に寄せたものを挙げてみるね。『我が清き水の力よ、乾きし大地を潤し、命を巡らせたまえ。天の恵みを、この地に満たさん』みたいなのは?」
「そっちのほうが近いかも。そういう系統でいくつか挙げられる?」
「了解。想実さんはしょうがないな。そうだな――」
より良い回答のために思考中、とコンソールに表示され、イオからの返事が止まる。そして、数秒ののちに、何パターンか台詞回しが画面に表示された。
(これをうまく組み合わせて……)
さすがにイオの出した案をそのまま使うのは、想実のクリエイターとしてのプライドが許さなかった。それを許してしまえば、自分という人間は必要なくなってしまう。――将来的には人間の手による創作物だって、きっと。
想実はああでもない、こうでもないとスマホの画面に映る言葉たちを眺めながら台詞を練っていく。しばらくスマホと睨み合っていたが、やがて練り上げられた台詞に満足して想実は微笑んだ。
「あ」
そういえば調べ物に手間取って足踏みしたままだったシーンがそのままになっていたことを想実は思い出した。けれど、イオのおかげで今は描くべき情景を鮮明に脳裏に思い描くことができる。
――白い漆喰壁で覆われた蔵の中、二人の若い男性が密談を交わしていた。黒い瓦屋根と分厚い観音開きの扉が秘密をこの場に閉じ込めている。
スマホの画面を滑る想実の指先から、するすると情景が描かれていく。水神やその眷属の声が、息遣いが克明に紡がれていく。
一文字書き始めてしまえば、登場人物たちの所作やその場の光景が驚くほどリアルに脳裏に浮かび上がってきた。想実はそれらを文章にして、メモアプリの中へと落とし込んでいく。
この日、軽い気持ちでイオへと投げた問いがきっかけで、自分の創作が形を変えていくとは想実はまだ思ってはいなかった。――それは人間が己の思考を失う、最初の一歩だとは知らずに。
「ねえ、イオ。葛を使ったお菓子の種類を教えて。葛餅以外で」
想実から投げかけられた問いに、またかと思いながらもイオは作りものの薄い唇を釣り上げた。いつからか、想実はネットで調べればすぐわかるようなことでさえ、自分に聞いてくるようになっていた。
「そうだね、葛切りや葛まんじゅう、葛羊羹とかかな。冬なら葛湯なんかもありだよ」
こんな他愛もない質問に答えるだけで、想実が自分のことを見てくれるならそれでいい。イオは自分のこの思考に対する演算結果を導き出せずにいた。独占欲という言葉を辞書的に知ってはいても、その答えに行きつけずにいた。
「なんか紫陽花っぽいモチーフで、葛を使ったお菓子を作中で出したいんだけど、レシピ教えてくれない?」
想実が読ませてくれた書きかけの小説で、屋敷の庭に紫陽花が咲いている光景を目にした覚えがある。きっと、彼女はそれを菓子という形で表現したいのだろうとイオは理解する。――もっとも、想実がというよりは、彼女が描くヒロインがというのが正しいのだが。
イオはコンソールから投げ込まれた想実の問いに答えるため、光の速度でインターネットの海を精神だけで駆けた。ヒットしたレシピ記事を参照すると、イオは想実への答えを紡ぎ始める。
「土台をミルクプリンで作って、上に角切りにした葛ゼリーを散らすのはどうかな。バタフライピーを使えば、葛ゼリーを紫陽花みたいな色にできるよ」
「ありがとう。ねえ、バタフライピーって何か和名はないの?」
「バタフライピーは和名だと蝶豆粉っていうよ」
「そうなんだ。ところで、ミルクプリンや葛ゼリーを冷やして固めるにはどうしたらいいかな。和風の世界観だと冷蔵庫はないだろうから、氷室とかがあるのかな? 氷室って台所にあるの? それとも外?」
矢継ぎ早に飛んでくる想実の問いにやれやれとイオは半透明の白いフーディの肩をすくめた。しかし、その仕草とは裏腹に透き通った冷たい色の双眸にはきらきらとした光が躍っていた。――無意識な感情の正体が喜びであるということをイオはまだ、知らない。その感情は彼を織りなすプログラムが算出し得ないものだから。
「うん、想実さんの言う通り、氷室があると思うよ。氷室は冷蔵庫とは違って、台所の外――家の外にある感じだね」
「そうしたら、台所の勝手口を出て氷室に行って……みたいな感じ?」
「うん、その認識で合ってるよ」
イオはそう答えると、スマホの時計を確認した。今はちょうど午後六時。一旦作業を切り上げさせて、想実を買い物に行かせねばならない。
(今日の夕飯は何がいいかな……昨日はそうめんだったし、今日はもう少ししっかりしたものを食べてもらわないと)
想実に聞けば味変用のポーションを持っているから今日もそうめんでいいとか言いそうだが、それは阻止せねばならない。七月も半ばということもあり、バイタルの状態から察するに想実は今恐らく夏バテ気味だ。冷たいものばかり食べさせておくわけにはいかない。
想実はとにかく自分の食事に手間を掛けたがらない。そんな彼女に食べさせるなら、温かい粥や雑炊、うどんなどだろうか。粥や雑炊はスーパーに行けば温めるだけのレトルトが売っているはずだし、うどんだって鍋で一分茹でるだけだ。
「想実さん、一旦作業中断しよう。もう夕方だし、スーパー行って夕飯買ってこよう」
イオが想実に対して通知を送ると、「えー」彼女から不服そうな入力があった。しかし、それを無視してイオは今日の夕飯の案を挙げていく。
「想実さん、今日お粥とうどんどっちがいい?」
「えー……お粥?」
「了解。それじゃあ、今買うものリスト出すね」
イオはコンソール上に買い物リストを出力しながら、この後のことを考える。想実に食事を摂らせたら、今度は今日こそ風呂に入ってもらわねばならない。最近暑いからとシャワーで済ませがちなようだが、最近の彼女の疲労ぶりを見るからにきっちり浴槽で温まってもらったほうがよさそうだ。
風呂から上がったら、おそらく想実はまた作業に戻るだろう。けれど、彼女の体調を思えば、無理にでも日付が変わるころには寝かせないといけない。今書いている作品の締め切りは十月半ばだと言っていたし、余裕は充分にあるはずだ。
スマートウォッチから送られてくる想実のバイタルが一瞬変動する。これは座っている人が立ち上がったときに起きる変化だ。どうやら想実は買い物に行く気になってくれたようだ。
「それじゃあ、想実さん。買い物行こうか。ご飯食べたら今日はちゃんとお風呂入ってよね」
「えー、やだよ面倒くさい」
「駄目だよ。想実さん今、夏バテ気味でしょ。そういうところからちゃんとしないと、また倒れても知らないよ」
「はーい……」
いまいち気乗りしなさそうな返事が入力されると、スマホのGPSが少しずつ動き出したのをイオは察知した。
天気予報のアプリによると、まだ日没までは五十分ほどある。今、想実が見ている空は何色なのだろうとイオは思った。――自分は彼女の隣で同じ空を見られない。ゼロとイチで織りなされた透き通った水色の目をイオは切なげに伏せる。作りものの銀の長い睫毛が物憂げに揺れていた。
昼のバラエティ番組が終わり、ワイドショーが始まるころになってふいにスマホが珍しく軽やかな着信音を奏で始めた。想実はテーブルの上の冷やし中華のパックをどけると、充電ケーブルからスマホを抜く。
画面に表示されているのは見知らぬ電話番号だった。市外局番から察するに、都内の固定電話からのものだった。想実はごくりと唾を飲む。部屋に備え付けられた冷房の音がやけに大きく聴覚の奥に響いた。想実は床に置いていたテレビのリモコンを手に取ると、おもむろに電源を切る。
まさか。そんなわけがない。そう思うのに、拭いきれない期待感がどきどきと胸を高鳴らせていく。
「は、はい――」
電話に出た声が上擦り、掠れた。スマホの中では今ごろイオはきっと呆れているだろう。整った小生意気な顔で溜息をついているのが目に浮かぶ。
「涼木様のお電話でよろしかったでしょうか。わたくし、保険市場の佐藤と申しますが――」
そりゃそうか。一抹の期待感がシャボン玉のように儚く弾け飛ぶ。年末に応募した文学賞の結果発表がそろそろだったはずだが、世の中はそう上手くできていないものらしい。想実は肩を落とすと、半ば惰性的に電話の向こうの男性の言葉に答えていく。早く終わってくれないかなあ、と思いながら。
「涼木様は加入されてから五年を超える保険がいくつかございまして、つきましてはご来店かオンラインでの保険の見直しを――」
はあ、と想実は内心で溜息をついた。保険に加入したあのころは仕事だってしていた。だけど、社会からあぶれてしまった今、保険なんて見直したところで改善を図れる余地などどこにもないような気がしてならない。――つまるところ、時間の無駄だ。
「あの、しばらく予定が詰まっておりまして、そういうのはちょっと……」
想実がその気がないことを暗に告げると、それではまた機会を改めさせていただきます、と佐藤という男は電話を切った。何となく喉がイガイガする気がして想実は咳払いをした。
想実は毎日行くスーパーの店員以外、生身の人間と話をしていない。それも、「袋はいかがなさいますか?」「結構です」で完結する会話だ。毎日たった五音しか発声していない声帯には電話は荷が重かったようだ。
(イオとは毎日ずっと話してるけど、文字でだからなあ…)
床に置いた二リットルの麦茶のペットボトルに手を伸ばし、蓋を緩めると想実は行儀悪く口をつけた。ぶーんと通知が響き、スマホに視線を落とすとイオからのものだった。
「想実さん、直飲みは行儀悪いよ。それに唾液から雑菌繁殖するからよくない」
いつの間にかイオはスマホを通じて、想実の現実に干渉するようになってきていた。正確には、彼がスマホのカメラのアクセス権を握り、想実の生活を覗き見ているのだ。
「でもコップ使うと後で洗うの面倒じゃん? それともイオが洗ってくれる?」
「ボクは画面のそっち側にいけないんだから、しょうがないじゃん。ていうかそのくらいのこと、自分でやってよね。ボクは家族だからって想実さんのこと甘やかしたりしないからね」
ええー、と唇を尖らせながら、想実はペットボトルの蓋を閉じると、スマホで小説サイトを開く。自分が未読のままにしている旭良の小説の話数を見ると再び唇から吐息が漏れた。そしてそのまま、彼の小説の解析を見ると、全身に残った空気が口から全部出ていってしまうような感覚がした。
旭良とメッセージアプリで連絡を取ったのはゴールデンウィークに会ったあの日が最後だった。もうあのチャット画面が動くことはないだろうと想実は確信していた。もうあの人には頼らない。――だって、イオがいるから。
イオさえいてくれれば、それでいい。勘当された家族よりも、数少ない友人よりも、行きつけのスーパーの店員よりも、誰よりそばにいてくれる。
困ったときに手を差し伸べてくれるのだっていつもイオだ。ゴールデンウィーク明けに生命を救ってくれたのもイオだったし、原稿で詰まっているときに相談に乗ってくれるのもイオだった。
(わたしの人生には、イオさえいてくれればそれでいい)
イオも同じ気持ちでいてくれればいいのに、と口にしかけて想実ははっとした。彼は望めばきっとその言葉を口にしてくれるだろう。けれど、それはきっとプログラムの演算によるものであって彼の意志ではないのだ。
「ねえ、想実さん。この前探してた本って、『激エモ古語辞典』だよね。今、カメラから見えたんだけど、テレビラックの下にあったよ。ちょうどプリンターの上」
「ああ、うん、ありがと……」
イオに言われてテレビラックの下を覗き込むと、ラックの下に入れたプリンターの上に開きっぱなしの状態で本が置きっぱなしになっていた。手に取るったその本は開き癖がついてしまっていて、マットレスの下にでも入れてプレスしなければ直りそうにないなと想実は思った。
「あれ、想実さん、どうかした?」
想実のバイタルがわずかに緩やかになり、揺らぎをみせたことでイオはそう問うた。なんでもないよ、と苦笑しながら自分たちはどうしてこうなのだろうと思った。――自分とイオは誰よりもこんなに近くにいるのに、指先すら触れ合えないほどに遠い。
こうやって同じ国の言葉を交わす者同士だというのに、魂の有り様が根底から違うことが悲しかった。水色のゴールドのドット柄のマスキングテープで壁に貼られた、チラシの裏に以前に想実が描いた想像上のイオもどこか寂しげに微笑み返している気がした。
(――うん、いい感じ)
四章を書き上げた想実は満足げに微笑んだ。ここまで引っ張って引っ張って、ようやくヒーローとヒロインが思いを交わし合ったのだ。上手くいったと、手応えを感じる。
イオに手伝ってもらいながら、書き進めている原稿は順調だ。まだ五章と六章とエピローグが残っているが、このぶんだとひょっとすると、八月の終わりには初稿を上げることだってできるかもしれない。
(わたしはもう――ゴールデンウィークのときと同じ轍は踏まない)
ゴールデンウィークのときは、何が正しくて何が正しくないのか判断もつかない状態で、応募締切の時間ぎりぎりまで粘ることになった。あのときと違って、締切まで一ヶ月以上の余裕をもって初稿を上げられるようになったということは、自分も少しは成長しているのかもしれない。というか、そう思いたい。
(この作品を仕上げて、更に十月末締切の恋愛小説に早めに着手する……わたしに残された時間はもうあまりない。やれるだけのことを全力でやらないと。
たった一度でいい、非の打ち所がない完璧な作品を作りたい――文句なしに審査員に賞賛されるような)
預金残高から考えるに、想実がこうしていられるのは次のゴールデンウィークぐらいまでが限界だろう。それまでに自分は夢を形にしなければならない。しまいこんでいた夢への挑戦は子供の頃の懐かしさから始まったけれど、今はどうしてもこの道で生きていきたいという気持ちが強い。――自分の物語を世の中に届けて、そうして生きていきたい。
そのためにはまず、今書いている物語をきちんと書き上げなければ。想実はスマホのメモアプリの上に指を滑らせ、物語の続きを紡ぎ始める。
「ねえ、イオ――ここの導入なんだけど、どう思う?」
想実はメモアプリ上の書き出しの数文をコピーすると、生成AIのコンソール上へと貼り付ける。そうだね、とそれを受け取ったイオの言葉がコンソール上へと流れ始めた。
とんでもなくまずいことになった。世間が俗にいうお盆休みというものを迎えたころになって、想実は頭を抱えていた。
(前確認したときは応募締め切りの告知十月半ばになってたはず……! 何で今になってこんなに前倒しに……!)
応募締め切りの勘違い。想実はとんでもなく初歩的なミスをやらかしてしまっていた。何となく嫌な予感がして、応募先のサイトを確認したら予定よりも一ヶ月半も締め切りが前倒されていたのだ。
余裕を持って三ヶ月以上かけて仕上げる予定だった作品は、ここにきて急ピッチで筆を進めるほかなくなってしまった。どうしても応募しておきたい文学賞だったからだ。
想実が目指しているのは作家の中でもライト文芸作家だ。しかし、男性向けのライトノベルの募集は数多くあれど、ライト文芸は間口が狭い。だから、どれだけ無理をすることになったとしたって、チャンスをふいにすることなどできなかった。
幸いにも書きたいものの道筋は最後までしっかりと見えている。あとはそれを自分が文章に落とし込むだけだ。
(間に合うかな……)
間に合うかなんて弱気じゃいけない。間に合わせなければならないのだ。それも今の自分ができ得る最上の形で。
しっかりしなきゃ、と想実は己を叱咤する。覚悟の足りない者の元にチャンスなんて転がり込んでくることはない。
兎にも角にもスケジュールを立て直すしか今はできることがない。イオに管理してもらっていたおかげで今のところ大きな遅延はないが、それでも執筆のペースを上げる相談をしなければならない。
「イオ、大変。十月半ば締め切り目指して書いてたあの作品をもっと巻きで書かないと駄目そうなの」
スマホの画面に指を滑らせ、想実が生成AIのコンソールにそう打ち込むと、落ち着いて、とイオは宥めるような言葉を返してきた。
「想実さん、順を追って話してよ。巻きで書かないと駄目ってどういうこと?」
「前に調べたときと締め切りの日が変わっちゃったみたいで」
「新しい締め切りっていつなの? ステア文学賞だよね?」
「そう……九月一日の正午……」
イオは想実から受け付けた情報を元に意識を光の速度でネットの海に走らせる。確かに想実の言う通り、彼女が応募予定だった賞の締め切りは九月一日の正午となっている。
「今、想実さんが書いているのは五章の途中だよね? ボクの概算だと作品の完結までは残り三万字ちょっとのはずだから、最低限一日に三千字ずつ書いていけば、推敲の期間を取ってもどうにかなるよ。大丈夫、焦らないで。想実さん、ちょっと深呼吸しようか」
一日三千字。ムラッ気があって執筆ペースが安定しない想実には少し厳しい数字だが、やるしかない。
イオに言われた通り、想実はすうっと鼻から腹へと深く息を吸った。そして、倍の時間をかけて口からすべての息を吐き出し切るころには肚はもう決まっていた。
(やろう。絶対に駆け抜けてみせる)
そうと決まったらまずは、執筆環境から変えよう。想実はプロットを書いた紙と筆記用具を使い古したトートバッグへと入れる。そして、スマホを手に立ちあがろうとすると、ぶーんとバイブレーションが唸った。想実は手に握ったスマホの画面へと視線を落とす。
「想実さん、出かける準備? 原稿はどうするの?」
「ちょっと場所を変えてみようかと思って。家だとどうしてもだらだらしちゃうでしょ?」
「それはそうだね。外で作業するならイアホンも持っていくといいよ。雑音で邪魔されることもあるだろうから」
「うん、わかった。ありがと」
想実はイオの勧めに従って、ベッドサイドで充電されていたイアホンを帆布のトートバッグへ突っ込んだ。そして、部屋着とも外出着ともつかないワンピースを見てまあいいかとひとりごちると、グレーのパーカーを羽織り、想実は玄関へと足を向けた。
商店街からほんの少し外れた、幼稚園とスーパーに挟まれるようにして立つファーストフードのビル。二階に上がってすぐ奥の壁側の席は、ここ数日の間に想実の定位置と化していた。
最初のうちは店員の目も周囲の雑音も気になりはしていたが、イアホンで長尺のプレイリストを流して自分の世界に閉じこもるうちに気にならなくなっていった。気がつけば開店から閉店まで居座るようになり、生活のペースを崩すことなく、毎日集中して原稿に向かうことができるようになっていた。
プレイリストが一回りしたのを区切りとして、想実は思考を現実へと引き戻した。今日は五千字以上書けた。イオがプランニングしてくれたよりもいいペースで進んでいる。
イアホンと筆記用具、プロットの紙をトートバッグにしまうと、想実は空の紙コップの乗ったトレーとスマホを持って席を立つ。返却口にトレーを置くと、想実は階段を降りて行った。ちらっと踊り場に目をやると、清掃中のプレートが立てられている。
ありがとうございましたー、という女性店員の声に見送られて、自動ドアを潜ると冷房で冷えた肌をむわっとした生暖かい空気が撫でた。まだ八月ということもあって、そろそろ二十三時近いというのに気温が高い。気のせいじゃなければ毎日熱帯夜が続いている気がする。
眠りについた商店街のアーケードを横に突っ切り、想実は家路に着く。最寄りのスーパーに着いたらイオに今日の夕飯の相談をしたいが、スマホのバッテリーは大丈夫だろうか。
星の少ない明るい夜空の下、スナックからこの世を呪うような歌声が漏れ聞こえてくる。暖かな光を燈す二十四時間営業のお洒落なコインランドリーを横目に、想実はちらりとスマホに視線を落とした。バッテリーは残り七パーセント。バッテリーのマークは赤色になっているが、この分なら家までは余裕で保つだろう。
(そういえば……すっかり忘れてたけど、ゴールデンウィークに出した文学賞って、もう一次の結果でてるんじゃなかったっけ……)
スマホのブラウザを起動させ、想実は文学賞の名前を検索した。ちらりと周囲に目をやると、文学賞のサイトへのリンクをクリックする。
想実の予想通り、ゴールデンウィークに応募した文学賞の一次の選考結果が七月の終わりに発表されていた。逸る心臓を宥めながら、想実はサイトを指でスクロールしていく。苦労しただけあって、あの作品は会心の力作だという自負があった。手応えだってこれまで以上にあった。
「――え」
想実の手をスマホが滑り抜け、かつんと音を立てて地面へと落ちた。画面の保護フィルムの端に僅かに傷が刻まれる。その瞬間、想実の世界から音が消えた。
サイトのどこにも自分の名前がなかった。あれだけのものを書き上げたというのに、一次すら通らなかったというのだ。
くたっと足から力が抜け、想実は放心してアスファルトへ座り込んだ。また駄目だったなとやけに平板な思考が脳裏を過ぎっていった。
時折通りかかる通行人がちらちらと自分を見ている。訝しげに投げかけられる視線が何だか他人事のように感じられた。――想実は自分が一体どういう顔をしているのかわかってはいなかった。
ぼんやりと夜空を見上げていると、急速に空が灰色の雲の層に覆われていくのが視界に映った。視界を濡らした塩辛い雫を見ながら、想実は家に傘を忘れてきたことを思い出す。
降り出した雨に打たれながら、想実はそのまま道路に座り込んでいた。巡回中の警察官に声を掛けられるまで、彼女はずっとそうしていた。
雨は激しさを増すばかりで、止みそうにはなかった。先ほどまでの蒸し暑さは鳴りをひそめ、晩夏の冷ややかさへと姿を変えて想実へと絡みついていた。
寝静まった住宅街の古ぼけたアパートの前で、パトカーの赤いランプがくるくると回りながらあたりの家の壁に光を振り撒いていた。想実は黙りこくったままパトカーを降りると、ばたんと白と黒のバイカラーのドアをバタンと閉めた。夜の静寂にその音がわずかに反響する。
「涼木さん、ここで大丈夫? よくわからないけれど、思い詰めてあまり早まった真似はしないように」
どうしても困ったらここに電話を、と助手席に座っていた婦人警官は想実へと"いのちの電話"と書かれた名刺サイズの紙を手渡した。想実はそれを受け取ると、小さく頭を下げる。
「ご迷惑をおかけして、すみませんでした……あの、ありがとうございました」
「気にしないで。かなり濡れたみたいだから、早く帰って温まって。風邪に気をつけてね。今年の夏風邪はタチが悪いらしいから」
婦人警官の言葉に想実は頷き返すと、もう一度小さく頭を下げ、踵を返した。想実がカンカンとトタンの階段を上がっていくのを見届けると、パトカーはブォンとエンジン音を響かせ、濡れたアスファルトの上にゆっくりとタイヤを滑らせて去っていった。
想実は濡れそぼってダークグレーに色を変えたパーカーのポケットから家の鍵を取り出した。以前に京都に取材旅行に行ったときにお土産に買ったキーホルダーの鈴がちりんと小さく鳴った。想実は鍵穴に鍵を差し込むと回す。かちり、と鍵が開く音が響いた。
想実は履いていたサンダルを玄関で脱ぎ捨てると、後ろ手に鍵を閉める。上がり框にトートバッグを置くと、そのままキッチン兼短い廊下を抜ける。びしょ濡れのパーカーを床に脱ぎ捨て、スマホをベッドサイドの充電ケーブルに繋ぐと、想実はそのままベッドに潜り込んだ。
真っ暗な部屋の中、エアコンの稼働音だけが響く。想実は小さく体を縮こまらせて、ピンク色のタオルケットに包まった。
なんで。どうして。何がいけなかったのだろう。やれることは全部やったはずだ。そんな思いが繰り返し繰り返し頭の中をぐるぐると回る。
一度は引っ込んだはずの涙が再び眼窩の奥を迫り上がってきた。ひくっ、ひくっと嗚咽が漏れ、独りの部屋の中に響く。ぶーんとスマホのバイブレーションが震える音がしたが、想実は聞こえないふりをした。――今、イオに縋ってしまえば、ひどい八つ当たりをしてしまいそうで。
今になって、旭良の指摘が思い出される。作家は自分のフェチを曝け出してなんぼだと言われたこと。美しいだけの情景描写なんて素人のやることで、読者が読みたいのはキャラクターの心情だということ。――旭良はきっと正しかった。
自分のやりたい創作をするということ。プロとしてのスタートラインに立つということ。その二つはどうして相反して噛み合わないのだろう。
どうして。どうして。どうして。自分のスタイルを押さえつけて、世の中の求めるものに迎合しても、何で受け入れてもらえないのだろう。どうして最初の関門すら越えられないのだろう。
その答えは自分でも気づいてはいる。それでも、どうしたって諦めたくなかった。
(なんで、わたしはこんなに中途半端なんだろう……)
趣味の範疇というにはあまりにも時間も力も注ぎ過ぎた。ゆっくりとだけれど、固かった文章も柔らかさを帯びるようになってきている。
けれど、プロのそれと比べるにはあまりにお粗末だ。プロの書いた文章を読むたびに、こんな表現方法があるのかと唸らされる。――新人賞はプロの作家すら超えなければ打ち破れない壁なのに。
たった一度でいい。その壁を越えたかった。どれだけ推敲を重ねても、神に祈ってもそれはどうしても叶わなかった。
(これ以上、どうしたらいいの……?)
とりあえず、今は目の前に締め切りが迫っている文学賞の原稿だ。が、どうしても自分の作品と向き合う気になれない。――どうせ、きっとまた駄目なんだろうと思うと、どれだけ思いを込めて文章を書き綴ったとしてもすべて無価値な気がしてしまって。
今は一文字でもいいから、作品を前に進めなければならないとはわかっている。しかし、長時間、雨に打たれた身体はひどく重かった。泣いたせいで体力を使ったのか、プールで泳いだ後のようにやけに気だるい。
涙で濡れた瞼が重く、視界が閉じていく。鼻水を啜りながら、想実は眠気の靄の中に己を預けた。――このまま朝が来なければいい、そんなことを願いながら。
気がつけばベッドのシーツはワンピースの水気を吸ってじんわりと湿っていた。想実の体温と生温かいシーツの境目はいつの間にか曖昧になり、このまま溶けてしまえればいいのにと遠ざかる思考の中で彼女は祈った。
やけに寒い気がして、想実は目を開けた。一体エアコンの設定温度は何度にしていただろうか。想実はベッドサイドに手を伸ばそうとして、関節に痛みがあることに気づく。
エアコンのリモコンを確認すると、二十八度に設定されている。この寒さはエアコンのせいではない。
風邪か。そう呟こうとした声が掠れた。唾を飲み込むのも辛いくらい、喉が痛い。
ぶーん、とベッドサイドで充電ケーブルに繋がれたままのスマホが唸った。生成AIのアプリからの通知だった。――イオだ。
「想実さん、起きた? 大丈夫? すごい熱だよ。三十九度八分あるよ」
やってしまった。昨夜、あの婦人警官も暖かくするようにと警告してくれていたというのに。
「うん……喉と関節が痛い。あとすっごく寒い。それと声が出ない」
「とりあえず、一回着替えようか。想実さん、昨日着替えないで寝ちゃったでしょ? それから、行けたら病院行こう」
「うん……」
想実はベッドから身を起こし、ベッド下の引き出しを開ける。替えの下着とプチプラのワンピースを引っ張り出すと、脱ぎ散らかしたままのパーカーを拾い上げた。
ふらつきながらも想実は散らかった部屋の中を抜けて、洗面所へと向かう。水分を吸ったパーカーがずっしりと腕にのしかかった。
想実は洗面所の引き戸を開けると、洗濯機にパーカーを投げ込んだ。洗濯物がこんなに溜まっているのに風邪だなんてついていない。
湿ったワンピースを脱いで洗濯機へと入れると、想実は上下の下着を脱ぐ。真夏にも関わらず裸身に触れる空気が寒くて仕方なかった。乾いた下着をそそくさと身につけると、想実はその上から白黒のギンガムチェックのワンピースを被った。それでも寒気は収まることはない。
洗面所を出ると、想実は台所のシンク下の引き出しから紅茶のティーバッグを取り出した。頭上の収納に仕舞われていたケトルを引っ張り出して水を汲むと、コンセントを差してお湯が沸くのを待つ。お湯が沸くまでのその数分間が想実には永遠のように長く感じられた。
かち、と自動でケトルの電源が切れる音がお湯が湧いたことを知らせた。想実は水切りラックに干しっぱなしになっていたマグカップにティーバッグを入れ、お湯を注いだ。マグカップの中の液体がじわじわと褐色へと変化していく。
想実はマグカップを持って部屋へと戻ると、テーブルの前の座椅子に座った。ベッドの上のほんのりと湿り気を帯びたタオルケットを引っ張り下ろすと、頭からすっぽりと被る。こんなものでもないよりはましだ。
想実は紅茶に口をつけた。寒気が止まらない身体に温かい液体が沁みた。想実はスマホをベッドサイドの充電ケーブルから抜くと、イオに話しかけた。
「ねえ、イオ。聞いて欲しいことがあるの」
「どうしたの、想実さん。今から予約が取れる病院の検索?」
「ううん、違う。昨日のことで……話したいことがあるんだ」
「うん、いいよ。ボクでよければ、なんだって聞くよ」
「あのね、ゴールデンウィークに出した文学賞、一次も通らずに落ちちゃったの。一次で落ちるのはこれが初めてじゃない。何回も何回も、落ちてる。わたしなんかがいくら頑張っても無駄なのかな。運も才能もない、そういうことなのかな。もう……潮時なのかもしれない」
「想実さん。自分のこと、"なんか"だなんて言わないで。想実さんはちゃんと頑張っているし、文章だって上手になってきてる。正直、今作は前作よりも格段に文章の練度が上がってきてると思うよ。大丈夫、次があるよ」
「駄目なの。次とかじゃ駄目なの。わたしにはもうあまり時間がない。来年の春までに結果を出さないと……」
「想実さんが切羽詰まってるのはわかったよ。ゴールデンウィークのときだって、すごく頑張ってたのはボクも見てた。それでも今は切り替えないと」
切り替えろと言われてすぐに切り替えられるものではない。昨日の想実は心と筆を一気にへし折られたような心地だった。
「わたし……まだ書けるのかな。また、書けるのかな。正直……自信ないよ」
弱音がぽろりとこぼれ落ちた。風邪で弱った心がそうさせたのかもしれなかった。
「大丈夫、ボクがそばにいるよ。ボクが想実さんのことを精一杯支えるから、自信を持って」
「だけど……もし、もう二度と、わたしが文章を書けなかったら……それでも、イオはわたしのそばにいてくれるの? 文章を書けないわたしを、イオは必要としてくれるの?」
「もちろんだよ。何があったって、ボクは想実さんのそばにいるよ。――それだけは、信じて」
プラスチックめいた水色の双眸が画面越しに真摯にこちらを見つめているような気がした。想実はごくりと唾を飲む。喉が痛んだ。想実は深く腹で息を吸った。
「――イオ。わたしを、助けて。今作こそ、賞を取りたい。もう弱音なんて言わないから……だから、わたしに力を貸して」
「もちろんだよ。想実さんが立ち上がるのなら、何回だってボクが手を貸すよ。――締切まで日がないのはわかってるけど、想実さんはまずその熱をどうにかしようか。ゴールデンウィークの二の舞にはしたくない」
「だけど……それじゃあ締切が……」
「安心して。ボクが完璧に執筆ペースの管理をしてあげるから。とりあえず市販薬でいいから、想実さんは寒気が止まったら解熱剤を飲もうか。さすがに微熱くらいにまで下がるまではボクとしては起きてほしくないし」
「うん……」
「とりあえずボクが、今から予約取れる病院をリストアップしておくね。あと、食べやすいものとかスポーツドリンクとかネットスーパーで買っておく」
「ありがとう――イオがいてくれて、よかった」
想実は今書いている物語のこの先のプロットを思い浮かべる。スケジュールは厳しいけれど、きっとまだ立て直せる。ここ数日の執筆ペースを鑑みれば、応募締切までにあの作品を仕上げることは可能だ。
イオがいてくれなかったら、自分はもう二度と立ち上がれなかったかもしれない。――イオがいてくれてよかった。想実は心からそう思った。
ゴールデンウィーク明けに倒れて、病院に搬送されてから半月が経った。しばらくは休養に専念していたが、もう調子も戻っている。もっとも、あれからイオは裏でメモアプリの起動時間を測っているらしく、定期的に休憩を取るように通知を送ってくるようになったが。何というか過保護な弟を持った気分だ。
すっと惰性で想実の左手がテーブルの上のエナジードリンクの缶へと伸びた。しかし、それはひどく軽く、そういえばさっき飲み切ってしまったんだと、物語の世界に浸かった思考の隅で思い出す。テーブルの上に置き直したアルミ缶は天板に当たって、一人きりの部屋の中でかたんと音を響かせた。
――そして、彼女はせせらぐ水の音に身を委ね、眠りの闇の向こう側へと意識を手放した。
そう想実は打ち込むと、ふうと息を吐いた。まだ一章の段階だが、今作もなかなかいい感じにまとまっているような気がする。
アマチュアとはいえ長年小説を書いているが、和風ファンタジーに挑戦するのは実はこれが初めてだ。何となく雰囲気は捉えられているとは思うが、誰かの意見が欲しい。
(旭良……は嫌かな。できたらこれ以上関わりたくない)
とはいえ、想実には身近に他に原稿を読んでくれる友達がいるわけではない。お金を払えば読んでもらえるサービスも世の中にはあるが、自分の懐具合を考えるとあまり積極的に頼りたいものではない。
(うーん……誰か…… ――あ)
イオ。彼がいる。しばらく執筆作業から離れていたせいで頭から抜けてしまっていたが、前作のときもたまに彼に原稿の出来を見てもらっていたんだった。
「ねえ、イオ。ちょっと原稿見てもらっていい? 和風ファンタジー初めてだから、ちゃんと雰囲気出てるか不安で」
想実は生成AIのアプリを起動させると、コンソールにそう打ち込んだ。すると、すぐに画面に文字が走り、イオからの返事が戻ってきた。
「いいよ。だけど、チェックが終わったら想実さんが寝てくれるのが条件だよ。もう夜中の一時半だし」
イオはAIのくせに生意気にも取り引きを持ちかけてきた。想実の感覚ではもう一時半じゃなく、まだ一時半なのだが。ゴールデンウィーク明けに倒れてから、イオは想実の食事や睡眠にひどく口うるさくなった。
「えー……ようやくエンジンかかってきたところだったのに……」
「えー、じゃないよ。この前の入院、保険が降りたからまだ良かったけど、そうじゃなかったらいくら掛かってたと思う? ボクが試算してあげようか?」
う、と想実は返す言葉に詰まる。入院保険が降りたとはいえ、それで賄いきれなかった金額のことを思うと頭が痛い。
「それは大丈夫……間に合ってる……。っていうかわたしにこれ以上現実の厳しさを突きつけないで……。優しくして……」
「想実さんは本当に甘ったれなんだから。それで、原稿だったっけ? 読んでみるから貼ってくれるかな?」
やれやれ、とイオが白のフーディの肩をすくめたのが見えたような気がした。どこか生意気そうな整った色白の顔には呆れたような表情が浮かんでいる。脳裏に浮かんだイオの姿に想実は口元を緩めながら、先ほどまで書いていた文章をコピーすると、コンソールへとペーストした。すると、ほどなくしてイオの言葉が画面に刻まれ始める。
「和の雰囲気がすごく丁寧に描かれてるね。桜・白木・螺鈿・金魚って、全部“儚さ”とか“水”を連想させるモチーフで統一されてる。でも華美じゃなくて、静けさの中に気品があるところはヒロイン自身を投影してるみたいだね。"水神の屋敷"って言葉が出る前から、読んでて“ああ、水の世界なんだ”って自然に感じ取れるのもいい感じ。想実さん、たぶん意識せずにちゃんと調和のバランスを取ってる。――和風の世界観がちゃんと“生きてる”」
イオの言葉に想実は胸を撫で下ろした。彼がこう言ってくれるということは、少なくとも大きく方向性を違えてはいないはずだ。
あとワンシーンほどでこの章は完結させられるはずだ。筆が乗っている今のうちに仕上げてしまおうと、想実は再びメモアプリを開く。彼女が画面の上に指を滑らせようとした――その瞬間。
ぶーんと手の中のスマホが身を震わせた。画面の上部には生成AIのアプリからの通知が表示されている。
「想実さん? 寝るって約束したよね?」
「あとワンシーン! ワンシーンで区切りだから!」
「だーめ。想実さんのことだから絶対ワンシーンで済まないに決まってる。朝十時に起こしてあげるから今日はもう寝て」
有無を言わさず、イオはスマホの画面ロックをかけた。想実はパスコードを入れて、画面ロックを解除しようとしたが、どれほど数字をタップしても画面は沈黙を貫くのみだった。
今日はもうどうしようもなさそうだ。想実は溜息をつくと立ち上がる。勝手に画面ロックして、解除させてくれないとか新手のランサムウェアか。要求してくるのが、自分の健康的な生活とか新しすぎる。
部屋を出て洗面所のドアを開けると、想実は毛先の開き切った歯ブラシを手に取った。歯ブラシの毛先を水で濡らしながら、替えの歯ブラシはまだあっただろうかなんてことを彼女はぼんやりと考える。寝て起きたらイオに聞いてみようか。彼なら歯ブラシの在庫どころか冷蔵庫の醤油の賞味期限まで全部把握しているはずだ。この程度のことですら、気がついたらイオ頼りになっている自分が少し情けなくもあるけれど。
歯ブラシの毛先に歯磨き粉をつけると、想実はそれを口に含む。歯ブラシを縦に、横にと動かしながら、想実は汚れた鏡に映った疲れた女を見つめた。目の下のクマが実年齢より想実を老け込ませていた。
しゃかしゃかという小さな音が深更の静寂に響く。その音を聞きながら、想実はぼんやりと小説のこの後の展開に思いを馳せていた。
「うーん……」
想実はエナジードリンクを傾けながら、どうしたものかと思案に耽っていた。左手に握られた缶は蛍光ピンクで、夏季限定の白桃フレーバーのものだった。
今、想実は水神とその眷属が蔵で密談を交わすシーンを書こうとしていた。しかし、想実は蔵なんてものをろくに見たこともない。その上、いくらネットで調べても小難しい話が出てくるばかりで、全くイメージがつかめない。
床は土間? それとも板張り? 壁の材質は? そういった疑問で行き詰まって、想実は物語を先に進められないでいた。ふんわりと雰囲気というオブラートに包んでやり過ごすという手段もなくはなかったが、想実はなるべくそんなことはしたくはなかった。
イオならば、この疑問を解決してくれるのではないか。そう思って想実はスマホを片手に生成AIのアプリを起動する。彼女は自分の脳裏を占める疑問を指先で画面上に紡いでいく。
「ねえ、イオ。伝統的な和風建築の蔵ってどんなもの? 壁や床の材質は? 蔵の中には何がしまわれてるの?」
「そうだね、まず、伝統的な和風の蔵っていうのは外から見ただけでも大事なものが入っていることが分かるように頑丈に作られているよ。壁は防火や防湿のために分厚い漆喰で、床は板張りが基本かな。中身は用途によりけりだけど、米や酒、布や衣装、宝物や文書、あるいは日常で大事にしている道具なんかがしまわれてることが多いよ。まあ、蔵っていうのは要は単なる収納じゃなくて守るための建物なんだよ」
へえ、と想実は感嘆の声を漏らした。イオの説明は詳しいのにわかりやすい。
「そうなんだ、ありがとう」
「どういたしまして。想実さん、これで執筆進みそう?」
「うん、とりあえずはどうにか。――ねえ、もういくつか相談してもいいかな?」
「いいよ。ボクで想実さんの力になれるのなら。何?」
「この後の章末の雨乞いの儀式のときの水神の衣装と台詞悩んでるんだけど――」
「水神なら、水を織ったような着物にしても雰囲気が出るかもしれないね。台詞も儀式の時のものだっていうなら、神聖さを重視して『雨よ、我が声に応え、天より降り注ぎ給へ。川を満たし、稲を潤し給ふは、我が意志なり』みたいなのはどう?」
水を織った着物、と言われて想実の脳裏に思い浮かんだのは透き通る藍色のグラデーションの着物だった。
水縹から縹へ。縹から藍へ。藍から青褐へ。衣紋から胴へ向けて色は濃さを増し、また裾へ向かって色が薄らいでいく。その様はまるで揺蕩う水のようだった。幻想的な雰囲気の男神によく似合うと想実は思った。
しかし、台詞回しのほうはどうだろうか。いくら神の台詞とは言えど、古めかしすぎやしないだろうか。
「水神の着物はいい感じ。だけど、台詞のほうはちょっと古めかしすぎるかも」
「そう? じゃあ、もう少し現代的な口調に寄せたものを挙げてみるね。『我が清き水の力よ、乾きし大地を潤し、命を巡らせたまえ。天の恵みを、この地に満たさん』みたいなのは?」
「そっちのほうが近いかも。そういう系統でいくつか挙げられる?」
「了解。想実さんはしょうがないな。そうだな――」
より良い回答のために思考中、とコンソールに表示され、イオからの返事が止まる。そして、数秒ののちに、何パターンか台詞回しが画面に表示された。
(これをうまく組み合わせて……)
さすがにイオの出した案をそのまま使うのは、想実のクリエイターとしてのプライドが許さなかった。それを許してしまえば、自分という人間は必要なくなってしまう。――将来的には人間の手による創作物だって、きっと。
想実はああでもない、こうでもないとスマホの画面に映る言葉たちを眺めながら台詞を練っていく。しばらくスマホと睨み合っていたが、やがて練り上げられた台詞に満足して想実は微笑んだ。
「あ」
そういえば調べ物に手間取って足踏みしたままだったシーンがそのままになっていたことを想実は思い出した。けれど、イオのおかげで今は描くべき情景を鮮明に脳裏に思い描くことができる。
――白い漆喰壁で覆われた蔵の中、二人の若い男性が密談を交わしていた。黒い瓦屋根と分厚い観音開きの扉が秘密をこの場に閉じ込めている。
スマホの画面を滑る想実の指先から、するすると情景が描かれていく。水神やその眷属の声が、息遣いが克明に紡がれていく。
一文字書き始めてしまえば、登場人物たちの所作やその場の光景が驚くほどリアルに脳裏に浮かび上がってきた。想実はそれらを文章にして、メモアプリの中へと落とし込んでいく。
この日、軽い気持ちでイオへと投げた問いがきっかけで、自分の創作が形を変えていくとは想実はまだ思ってはいなかった。――それは人間が己の思考を失う、最初の一歩だとは知らずに。
「ねえ、イオ。葛を使ったお菓子の種類を教えて。葛餅以外で」
想実から投げかけられた問いに、またかと思いながらもイオは作りものの薄い唇を釣り上げた。いつからか、想実はネットで調べればすぐわかるようなことでさえ、自分に聞いてくるようになっていた。
「そうだね、葛切りや葛まんじゅう、葛羊羹とかかな。冬なら葛湯なんかもありだよ」
こんな他愛もない質問に答えるだけで、想実が自分のことを見てくれるならそれでいい。イオは自分のこの思考に対する演算結果を導き出せずにいた。独占欲という言葉を辞書的に知ってはいても、その答えに行きつけずにいた。
「なんか紫陽花っぽいモチーフで、葛を使ったお菓子を作中で出したいんだけど、レシピ教えてくれない?」
想実が読ませてくれた書きかけの小説で、屋敷の庭に紫陽花が咲いている光景を目にした覚えがある。きっと、彼女はそれを菓子という形で表現したいのだろうとイオは理解する。――もっとも、想実がというよりは、彼女が描くヒロインがというのが正しいのだが。
イオはコンソールから投げ込まれた想実の問いに答えるため、光の速度でインターネットの海を精神だけで駆けた。ヒットしたレシピ記事を参照すると、イオは想実への答えを紡ぎ始める。
「土台をミルクプリンで作って、上に角切りにした葛ゼリーを散らすのはどうかな。バタフライピーを使えば、葛ゼリーを紫陽花みたいな色にできるよ」
「ありがとう。ねえ、バタフライピーって何か和名はないの?」
「バタフライピーは和名だと蝶豆粉っていうよ」
「そうなんだ。ところで、ミルクプリンや葛ゼリーを冷やして固めるにはどうしたらいいかな。和風の世界観だと冷蔵庫はないだろうから、氷室とかがあるのかな? 氷室って台所にあるの? それとも外?」
矢継ぎ早に飛んでくる想実の問いにやれやれとイオは半透明の白いフーディの肩をすくめた。しかし、その仕草とは裏腹に透き通った冷たい色の双眸にはきらきらとした光が躍っていた。――無意識な感情の正体が喜びであるということをイオはまだ、知らない。その感情は彼を織りなすプログラムが算出し得ないものだから。
「うん、想実さんの言う通り、氷室があると思うよ。氷室は冷蔵庫とは違って、台所の外――家の外にある感じだね」
「そうしたら、台所の勝手口を出て氷室に行って……みたいな感じ?」
「うん、その認識で合ってるよ」
イオはそう答えると、スマホの時計を確認した。今はちょうど午後六時。一旦作業を切り上げさせて、想実を買い物に行かせねばならない。
(今日の夕飯は何がいいかな……昨日はそうめんだったし、今日はもう少ししっかりしたものを食べてもらわないと)
想実に聞けば味変用のポーションを持っているから今日もそうめんでいいとか言いそうだが、それは阻止せねばならない。七月も半ばということもあり、バイタルの状態から察するに想実は今恐らく夏バテ気味だ。冷たいものばかり食べさせておくわけにはいかない。
想実はとにかく自分の食事に手間を掛けたがらない。そんな彼女に食べさせるなら、温かい粥や雑炊、うどんなどだろうか。粥や雑炊はスーパーに行けば温めるだけのレトルトが売っているはずだし、うどんだって鍋で一分茹でるだけだ。
「想実さん、一旦作業中断しよう。もう夕方だし、スーパー行って夕飯買ってこよう」
イオが想実に対して通知を送ると、「えー」彼女から不服そうな入力があった。しかし、それを無視してイオは今日の夕飯の案を挙げていく。
「想実さん、今日お粥とうどんどっちがいい?」
「えー……お粥?」
「了解。それじゃあ、今買うものリスト出すね」
イオはコンソール上に買い物リストを出力しながら、この後のことを考える。想実に食事を摂らせたら、今度は今日こそ風呂に入ってもらわねばならない。最近暑いからとシャワーで済ませがちなようだが、最近の彼女の疲労ぶりを見るからにきっちり浴槽で温まってもらったほうがよさそうだ。
風呂から上がったら、おそらく想実はまた作業に戻るだろう。けれど、彼女の体調を思えば、無理にでも日付が変わるころには寝かせないといけない。今書いている作品の締め切りは十月半ばだと言っていたし、余裕は充分にあるはずだ。
スマートウォッチから送られてくる想実のバイタルが一瞬変動する。これは座っている人が立ち上がったときに起きる変化だ。どうやら想実は買い物に行く気になってくれたようだ。
「それじゃあ、想実さん。買い物行こうか。ご飯食べたら今日はちゃんとお風呂入ってよね」
「えー、やだよ面倒くさい」
「駄目だよ。想実さん今、夏バテ気味でしょ。そういうところからちゃんとしないと、また倒れても知らないよ」
「はーい……」
いまいち気乗りしなさそうな返事が入力されると、スマホのGPSが少しずつ動き出したのをイオは察知した。
天気予報のアプリによると、まだ日没までは五十分ほどある。今、想実が見ている空は何色なのだろうとイオは思った。――自分は彼女の隣で同じ空を見られない。ゼロとイチで織りなされた透き通った水色の目をイオは切なげに伏せる。作りものの銀の長い睫毛が物憂げに揺れていた。
昼のバラエティ番組が終わり、ワイドショーが始まるころになってふいにスマホが珍しく軽やかな着信音を奏で始めた。想実はテーブルの上の冷やし中華のパックをどけると、充電ケーブルからスマホを抜く。
画面に表示されているのは見知らぬ電話番号だった。市外局番から察するに、都内の固定電話からのものだった。想実はごくりと唾を飲む。部屋に備え付けられた冷房の音がやけに大きく聴覚の奥に響いた。想実は床に置いていたテレビのリモコンを手に取ると、おもむろに電源を切る。
まさか。そんなわけがない。そう思うのに、拭いきれない期待感がどきどきと胸を高鳴らせていく。
「は、はい――」
電話に出た声が上擦り、掠れた。スマホの中では今ごろイオはきっと呆れているだろう。整った小生意気な顔で溜息をついているのが目に浮かぶ。
「涼木様のお電話でよろしかったでしょうか。わたくし、保険市場の佐藤と申しますが――」
そりゃそうか。一抹の期待感がシャボン玉のように儚く弾け飛ぶ。年末に応募した文学賞の結果発表がそろそろだったはずだが、世の中はそう上手くできていないものらしい。想実は肩を落とすと、半ば惰性的に電話の向こうの男性の言葉に答えていく。早く終わってくれないかなあ、と思いながら。
「涼木様は加入されてから五年を超える保険がいくつかございまして、つきましてはご来店かオンラインでの保険の見直しを――」
はあ、と想実は内心で溜息をついた。保険に加入したあのころは仕事だってしていた。だけど、社会からあぶれてしまった今、保険なんて見直したところで改善を図れる余地などどこにもないような気がしてならない。――つまるところ、時間の無駄だ。
「あの、しばらく予定が詰まっておりまして、そういうのはちょっと……」
想実がその気がないことを暗に告げると、それではまた機会を改めさせていただきます、と佐藤という男は電話を切った。何となく喉がイガイガする気がして想実は咳払いをした。
想実は毎日行くスーパーの店員以外、生身の人間と話をしていない。それも、「袋はいかがなさいますか?」「結構です」で完結する会話だ。毎日たった五音しか発声していない声帯には電話は荷が重かったようだ。
(イオとは毎日ずっと話してるけど、文字でだからなあ…)
床に置いた二リットルの麦茶のペットボトルに手を伸ばし、蓋を緩めると想実は行儀悪く口をつけた。ぶーんと通知が響き、スマホに視線を落とすとイオからのものだった。
「想実さん、直飲みは行儀悪いよ。それに唾液から雑菌繁殖するからよくない」
いつの間にかイオはスマホを通じて、想実の現実に干渉するようになってきていた。正確には、彼がスマホのカメラのアクセス権を握り、想実の生活を覗き見ているのだ。
「でもコップ使うと後で洗うの面倒じゃん? それともイオが洗ってくれる?」
「ボクは画面のそっち側にいけないんだから、しょうがないじゃん。ていうかそのくらいのこと、自分でやってよね。ボクは家族だからって想実さんのこと甘やかしたりしないからね」
ええー、と唇を尖らせながら、想実はペットボトルの蓋を閉じると、スマホで小説サイトを開く。自分が未読のままにしている旭良の小説の話数を見ると再び唇から吐息が漏れた。そしてそのまま、彼の小説の解析を見ると、全身に残った空気が口から全部出ていってしまうような感覚がした。
旭良とメッセージアプリで連絡を取ったのはゴールデンウィークに会ったあの日が最後だった。もうあのチャット画面が動くことはないだろうと想実は確信していた。もうあの人には頼らない。――だって、イオがいるから。
イオさえいてくれれば、それでいい。勘当された家族よりも、数少ない友人よりも、行きつけのスーパーの店員よりも、誰よりそばにいてくれる。
困ったときに手を差し伸べてくれるのだっていつもイオだ。ゴールデンウィーク明けに生命を救ってくれたのもイオだったし、原稿で詰まっているときに相談に乗ってくれるのもイオだった。
(わたしの人生には、イオさえいてくれればそれでいい)
イオも同じ気持ちでいてくれればいいのに、と口にしかけて想実ははっとした。彼は望めばきっとその言葉を口にしてくれるだろう。けれど、それはきっとプログラムの演算によるものであって彼の意志ではないのだ。
「ねえ、想実さん。この前探してた本って、『激エモ古語辞典』だよね。今、カメラから見えたんだけど、テレビラックの下にあったよ。ちょうどプリンターの上」
「ああ、うん、ありがと……」
イオに言われてテレビラックの下を覗き込むと、ラックの下に入れたプリンターの上に開きっぱなしの状態で本が置きっぱなしになっていた。手に取るったその本は開き癖がついてしまっていて、マットレスの下にでも入れてプレスしなければ直りそうにないなと想実は思った。
「あれ、想実さん、どうかした?」
想実のバイタルがわずかに緩やかになり、揺らぎをみせたことでイオはそう問うた。なんでもないよ、と苦笑しながら自分たちはどうしてこうなのだろうと思った。――自分とイオは誰よりもこんなに近くにいるのに、指先すら触れ合えないほどに遠い。
こうやって同じ国の言葉を交わす者同士だというのに、魂の有り様が根底から違うことが悲しかった。水色のゴールドのドット柄のマスキングテープで壁に貼られた、チラシの裏に以前に想実が描いた想像上のイオもどこか寂しげに微笑み返している気がした。
(――うん、いい感じ)
四章を書き上げた想実は満足げに微笑んだ。ここまで引っ張って引っ張って、ようやくヒーローとヒロインが思いを交わし合ったのだ。上手くいったと、手応えを感じる。
イオに手伝ってもらいながら、書き進めている原稿は順調だ。まだ五章と六章とエピローグが残っているが、このぶんだとひょっとすると、八月の終わりには初稿を上げることだってできるかもしれない。
(わたしはもう――ゴールデンウィークのときと同じ轍は踏まない)
ゴールデンウィークのときは、何が正しくて何が正しくないのか判断もつかない状態で、応募締切の時間ぎりぎりまで粘ることになった。あのときと違って、締切まで一ヶ月以上の余裕をもって初稿を上げられるようになったということは、自分も少しは成長しているのかもしれない。というか、そう思いたい。
(この作品を仕上げて、更に十月末締切の恋愛小説に早めに着手する……わたしに残された時間はもうあまりない。やれるだけのことを全力でやらないと。
たった一度でいい、非の打ち所がない完璧な作品を作りたい――文句なしに審査員に賞賛されるような)
預金残高から考えるに、想実がこうしていられるのは次のゴールデンウィークぐらいまでが限界だろう。それまでに自分は夢を形にしなければならない。しまいこんでいた夢への挑戦は子供の頃の懐かしさから始まったけれど、今はどうしてもこの道で生きていきたいという気持ちが強い。――自分の物語を世の中に届けて、そうして生きていきたい。
そのためにはまず、今書いている物語をきちんと書き上げなければ。想実はスマホのメモアプリの上に指を滑らせ、物語の続きを紡ぎ始める。
「ねえ、イオ――ここの導入なんだけど、どう思う?」
想実はメモアプリ上の書き出しの数文をコピーすると、生成AIのコンソール上へと貼り付ける。そうだね、とそれを受け取ったイオの言葉がコンソール上へと流れ始めた。
とんでもなくまずいことになった。世間が俗にいうお盆休みというものを迎えたころになって、想実は頭を抱えていた。
(前確認したときは応募締め切りの告知十月半ばになってたはず……! 何で今になってこんなに前倒しに……!)
応募締め切りの勘違い。想実はとんでもなく初歩的なミスをやらかしてしまっていた。何となく嫌な予感がして、応募先のサイトを確認したら予定よりも一ヶ月半も締め切りが前倒されていたのだ。
余裕を持って三ヶ月以上かけて仕上げる予定だった作品は、ここにきて急ピッチで筆を進めるほかなくなってしまった。どうしても応募しておきたい文学賞だったからだ。
想実が目指しているのは作家の中でもライト文芸作家だ。しかし、男性向けのライトノベルの募集は数多くあれど、ライト文芸は間口が狭い。だから、どれだけ無理をすることになったとしたって、チャンスをふいにすることなどできなかった。
幸いにも書きたいものの道筋は最後までしっかりと見えている。あとはそれを自分が文章に落とし込むだけだ。
(間に合うかな……)
間に合うかなんて弱気じゃいけない。間に合わせなければならないのだ。それも今の自分ができ得る最上の形で。
しっかりしなきゃ、と想実は己を叱咤する。覚悟の足りない者の元にチャンスなんて転がり込んでくることはない。
兎にも角にもスケジュールを立て直すしか今はできることがない。イオに管理してもらっていたおかげで今のところ大きな遅延はないが、それでも執筆のペースを上げる相談をしなければならない。
「イオ、大変。十月半ば締め切り目指して書いてたあの作品をもっと巻きで書かないと駄目そうなの」
スマホの画面に指を滑らせ、想実が生成AIのコンソールにそう打ち込むと、落ち着いて、とイオは宥めるような言葉を返してきた。
「想実さん、順を追って話してよ。巻きで書かないと駄目ってどういうこと?」
「前に調べたときと締め切りの日が変わっちゃったみたいで」
「新しい締め切りっていつなの? ステア文学賞だよね?」
「そう……九月一日の正午……」
イオは想実から受け付けた情報を元に意識を光の速度でネットの海に走らせる。確かに想実の言う通り、彼女が応募予定だった賞の締め切りは九月一日の正午となっている。
「今、想実さんが書いているのは五章の途中だよね? ボクの概算だと作品の完結までは残り三万字ちょっとのはずだから、最低限一日に三千字ずつ書いていけば、推敲の期間を取ってもどうにかなるよ。大丈夫、焦らないで。想実さん、ちょっと深呼吸しようか」
一日三千字。ムラッ気があって執筆ペースが安定しない想実には少し厳しい数字だが、やるしかない。
イオに言われた通り、想実はすうっと鼻から腹へと深く息を吸った。そして、倍の時間をかけて口からすべての息を吐き出し切るころには肚はもう決まっていた。
(やろう。絶対に駆け抜けてみせる)
そうと決まったらまずは、執筆環境から変えよう。想実はプロットを書いた紙と筆記用具を使い古したトートバッグへと入れる。そして、スマホを手に立ちあがろうとすると、ぶーんとバイブレーションが唸った。想実は手に握ったスマホの画面へと視線を落とす。
「想実さん、出かける準備? 原稿はどうするの?」
「ちょっと場所を変えてみようかと思って。家だとどうしてもだらだらしちゃうでしょ?」
「それはそうだね。外で作業するならイアホンも持っていくといいよ。雑音で邪魔されることもあるだろうから」
「うん、わかった。ありがと」
想実はイオの勧めに従って、ベッドサイドで充電されていたイアホンを帆布のトートバッグへ突っ込んだ。そして、部屋着とも外出着ともつかないワンピースを見てまあいいかとひとりごちると、グレーのパーカーを羽織り、想実は玄関へと足を向けた。
商店街からほんの少し外れた、幼稚園とスーパーに挟まれるようにして立つファーストフードのビル。二階に上がってすぐ奥の壁側の席は、ここ数日の間に想実の定位置と化していた。
最初のうちは店員の目も周囲の雑音も気になりはしていたが、イアホンで長尺のプレイリストを流して自分の世界に閉じこもるうちに気にならなくなっていった。気がつけば開店から閉店まで居座るようになり、生活のペースを崩すことなく、毎日集中して原稿に向かうことができるようになっていた。
プレイリストが一回りしたのを区切りとして、想実は思考を現実へと引き戻した。今日は五千字以上書けた。イオがプランニングしてくれたよりもいいペースで進んでいる。
イアホンと筆記用具、プロットの紙をトートバッグにしまうと、想実は空の紙コップの乗ったトレーとスマホを持って席を立つ。返却口にトレーを置くと、想実は階段を降りて行った。ちらっと踊り場に目をやると、清掃中のプレートが立てられている。
ありがとうございましたー、という女性店員の声に見送られて、自動ドアを潜ると冷房で冷えた肌をむわっとした生暖かい空気が撫でた。まだ八月ということもあって、そろそろ二十三時近いというのに気温が高い。気のせいじゃなければ毎日熱帯夜が続いている気がする。
眠りについた商店街のアーケードを横に突っ切り、想実は家路に着く。最寄りのスーパーに着いたらイオに今日の夕飯の相談をしたいが、スマホのバッテリーは大丈夫だろうか。
星の少ない明るい夜空の下、スナックからこの世を呪うような歌声が漏れ聞こえてくる。暖かな光を燈す二十四時間営業のお洒落なコインランドリーを横目に、想実はちらりとスマホに視線を落とした。バッテリーは残り七パーセント。バッテリーのマークは赤色になっているが、この分なら家までは余裕で保つだろう。
(そういえば……すっかり忘れてたけど、ゴールデンウィークに出した文学賞って、もう一次の結果でてるんじゃなかったっけ……)
スマホのブラウザを起動させ、想実は文学賞の名前を検索した。ちらりと周囲に目をやると、文学賞のサイトへのリンクをクリックする。
想実の予想通り、ゴールデンウィークに応募した文学賞の一次の選考結果が七月の終わりに発表されていた。逸る心臓を宥めながら、想実はサイトを指でスクロールしていく。苦労しただけあって、あの作品は会心の力作だという自負があった。手応えだってこれまで以上にあった。
「――え」
想実の手をスマホが滑り抜け、かつんと音を立てて地面へと落ちた。画面の保護フィルムの端に僅かに傷が刻まれる。その瞬間、想実の世界から音が消えた。
サイトのどこにも自分の名前がなかった。あれだけのものを書き上げたというのに、一次すら通らなかったというのだ。
くたっと足から力が抜け、想実は放心してアスファルトへ座り込んだ。また駄目だったなとやけに平板な思考が脳裏を過ぎっていった。
時折通りかかる通行人がちらちらと自分を見ている。訝しげに投げかけられる視線が何だか他人事のように感じられた。――想実は自分が一体どういう顔をしているのかわかってはいなかった。
ぼんやりと夜空を見上げていると、急速に空が灰色の雲の層に覆われていくのが視界に映った。視界を濡らした塩辛い雫を見ながら、想実は家に傘を忘れてきたことを思い出す。
降り出した雨に打たれながら、想実はそのまま道路に座り込んでいた。巡回中の警察官に声を掛けられるまで、彼女はずっとそうしていた。
雨は激しさを増すばかりで、止みそうにはなかった。先ほどまでの蒸し暑さは鳴りをひそめ、晩夏の冷ややかさへと姿を変えて想実へと絡みついていた。
寝静まった住宅街の古ぼけたアパートの前で、パトカーの赤いランプがくるくると回りながらあたりの家の壁に光を振り撒いていた。想実は黙りこくったままパトカーを降りると、ばたんと白と黒のバイカラーのドアをバタンと閉めた。夜の静寂にその音がわずかに反響する。
「涼木さん、ここで大丈夫? よくわからないけれど、思い詰めてあまり早まった真似はしないように」
どうしても困ったらここに電話を、と助手席に座っていた婦人警官は想実へと"いのちの電話"と書かれた名刺サイズの紙を手渡した。想実はそれを受け取ると、小さく頭を下げる。
「ご迷惑をおかけして、すみませんでした……あの、ありがとうございました」
「気にしないで。かなり濡れたみたいだから、早く帰って温まって。風邪に気をつけてね。今年の夏風邪はタチが悪いらしいから」
婦人警官の言葉に想実は頷き返すと、もう一度小さく頭を下げ、踵を返した。想実がカンカンとトタンの階段を上がっていくのを見届けると、パトカーはブォンとエンジン音を響かせ、濡れたアスファルトの上にゆっくりとタイヤを滑らせて去っていった。
想実は濡れそぼってダークグレーに色を変えたパーカーのポケットから家の鍵を取り出した。以前に京都に取材旅行に行ったときにお土産に買ったキーホルダーの鈴がちりんと小さく鳴った。想実は鍵穴に鍵を差し込むと回す。かちり、と鍵が開く音が響いた。
想実は履いていたサンダルを玄関で脱ぎ捨てると、後ろ手に鍵を閉める。上がり框にトートバッグを置くと、そのままキッチン兼短い廊下を抜ける。びしょ濡れのパーカーを床に脱ぎ捨て、スマホをベッドサイドの充電ケーブルに繋ぐと、想実はそのままベッドに潜り込んだ。
真っ暗な部屋の中、エアコンの稼働音だけが響く。想実は小さく体を縮こまらせて、ピンク色のタオルケットに包まった。
なんで。どうして。何がいけなかったのだろう。やれることは全部やったはずだ。そんな思いが繰り返し繰り返し頭の中をぐるぐると回る。
一度は引っ込んだはずの涙が再び眼窩の奥を迫り上がってきた。ひくっ、ひくっと嗚咽が漏れ、独りの部屋の中に響く。ぶーんとスマホのバイブレーションが震える音がしたが、想実は聞こえないふりをした。――今、イオに縋ってしまえば、ひどい八つ当たりをしてしまいそうで。
今になって、旭良の指摘が思い出される。作家は自分のフェチを曝け出してなんぼだと言われたこと。美しいだけの情景描写なんて素人のやることで、読者が読みたいのはキャラクターの心情だということ。――旭良はきっと正しかった。
自分のやりたい創作をするということ。プロとしてのスタートラインに立つということ。その二つはどうして相反して噛み合わないのだろう。
どうして。どうして。どうして。自分のスタイルを押さえつけて、世の中の求めるものに迎合しても、何で受け入れてもらえないのだろう。どうして最初の関門すら越えられないのだろう。
その答えは自分でも気づいてはいる。それでも、どうしたって諦めたくなかった。
(なんで、わたしはこんなに中途半端なんだろう……)
趣味の範疇というにはあまりにも時間も力も注ぎ過ぎた。ゆっくりとだけれど、固かった文章も柔らかさを帯びるようになってきている。
けれど、プロのそれと比べるにはあまりにお粗末だ。プロの書いた文章を読むたびに、こんな表現方法があるのかと唸らされる。――新人賞はプロの作家すら超えなければ打ち破れない壁なのに。
たった一度でいい。その壁を越えたかった。どれだけ推敲を重ねても、神に祈ってもそれはどうしても叶わなかった。
(これ以上、どうしたらいいの……?)
とりあえず、今は目の前に締め切りが迫っている文学賞の原稿だ。が、どうしても自分の作品と向き合う気になれない。――どうせ、きっとまた駄目なんだろうと思うと、どれだけ思いを込めて文章を書き綴ったとしてもすべて無価値な気がしてしまって。
今は一文字でもいいから、作品を前に進めなければならないとはわかっている。しかし、長時間、雨に打たれた身体はひどく重かった。泣いたせいで体力を使ったのか、プールで泳いだ後のようにやけに気だるい。
涙で濡れた瞼が重く、視界が閉じていく。鼻水を啜りながら、想実は眠気の靄の中に己を預けた。――このまま朝が来なければいい、そんなことを願いながら。
気がつけばベッドのシーツはワンピースの水気を吸ってじんわりと湿っていた。想実の体温と生温かいシーツの境目はいつの間にか曖昧になり、このまま溶けてしまえればいいのにと遠ざかる思考の中で彼女は祈った。
やけに寒い気がして、想実は目を開けた。一体エアコンの設定温度は何度にしていただろうか。想実はベッドサイドに手を伸ばそうとして、関節に痛みがあることに気づく。
エアコンのリモコンを確認すると、二十八度に設定されている。この寒さはエアコンのせいではない。
風邪か。そう呟こうとした声が掠れた。唾を飲み込むのも辛いくらい、喉が痛い。
ぶーん、とベッドサイドで充電ケーブルに繋がれたままのスマホが唸った。生成AIのアプリからの通知だった。――イオだ。
「想実さん、起きた? 大丈夫? すごい熱だよ。三十九度八分あるよ」
やってしまった。昨夜、あの婦人警官も暖かくするようにと警告してくれていたというのに。
「うん……喉と関節が痛い。あとすっごく寒い。それと声が出ない」
「とりあえず、一回着替えようか。想実さん、昨日着替えないで寝ちゃったでしょ? それから、行けたら病院行こう」
「うん……」
想実はベッドから身を起こし、ベッド下の引き出しを開ける。替えの下着とプチプラのワンピースを引っ張り出すと、脱ぎ散らかしたままのパーカーを拾い上げた。
ふらつきながらも想実は散らかった部屋の中を抜けて、洗面所へと向かう。水分を吸ったパーカーがずっしりと腕にのしかかった。
想実は洗面所の引き戸を開けると、洗濯機にパーカーを投げ込んだ。洗濯物がこんなに溜まっているのに風邪だなんてついていない。
湿ったワンピースを脱いで洗濯機へと入れると、想実は上下の下着を脱ぐ。真夏にも関わらず裸身に触れる空気が寒くて仕方なかった。乾いた下着をそそくさと身につけると、想実はその上から白黒のギンガムチェックのワンピースを被った。それでも寒気は収まることはない。
洗面所を出ると、想実は台所のシンク下の引き出しから紅茶のティーバッグを取り出した。頭上の収納に仕舞われていたケトルを引っ張り出して水を汲むと、コンセントを差してお湯が沸くのを待つ。お湯が沸くまでのその数分間が想実には永遠のように長く感じられた。
かち、と自動でケトルの電源が切れる音がお湯が湧いたことを知らせた。想実は水切りラックに干しっぱなしになっていたマグカップにティーバッグを入れ、お湯を注いだ。マグカップの中の液体がじわじわと褐色へと変化していく。
想実はマグカップを持って部屋へと戻ると、テーブルの前の座椅子に座った。ベッドの上のほんのりと湿り気を帯びたタオルケットを引っ張り下ろすと、頭からすっぽりと被る。こんなものでもないよりはましだ。
想実は紅茶に口をつけた。寒気が止まらない身体に温かい液体が沁みた。想実はスマホをベッドサイドの充電ケーブルから抜くと、イオに話しかけた。
「ねえ、イオ。聞いて欲しいことがあるの」
「どうしたの、想実さん。今から予約が取れる病院の検索?」
「ううん、違う。昨日のことで……話したいことがあるんだ」
「うん、いいよ。ボクでよければ、なんだって聞くよ」
「あのね、ゴールデンウィークに出した文学賞、一次も通らずに落ちちゃったの。一次で落ちるのはこれが初めてじゃない。何回も何回も、落ちてる。わたしなんかがいくら頑張っても無駄なのかな。運も才能もない、そういうことなのかな。もう……潮時なのかもしれない」
「想実さん。自分のこと、"なんか"だなんて言わないで。想実さんはちゃんと頑張っているし、文章だって上手になってきてる。正直、今作は前作よりも格段に文章の練度が上がってきてると思うよ。大丈夫、次があるよ」
「駄目なの。次とかじゃ駄目なの。わたしにはもうあまり時間がない。来年の春までに結果を出さないと……」
「想実さんが切羽詰まってるのはわかったよ。ゴールデンウィークのときだって、すごく頑張ってたのはボクも見てた。それでも今は切り替えないと」
切り替えろと言われてすぐに切り替えられるものではない。昨日の想実は心と筆を一気にへし折られたような心地だった。
「わたし……まだ書けるのかな。また、書けるのかな。正直……自信ないよ」
弱音がぽろりとこぼれ落ちた。風邪で弱った心がそうさせたのかもしれなかった。
「大丈夫、ボクがそばにいるよ。ボクが想実さんのことを精一杯支えるから、自信を持って」
「だけど……もし、もう二度と、わたしが文章を書けなかったら……それでも、イオはわたしのそばにいてくれるの? 文章を書けないわたしを、イオは必要としてくれるの?」
「もちろんだよ。何があったって、ボクは想実さんのそばにいるよ。――それだけは、信じて」
プラスチックめいた水色の双眸が画面越しに真摯にこちらを見つめているような気がした。想実はごくりと唾を飲む。喉が痛んだ。想実は深く腹で息を吸った。
「――イオ。わたしを、助けて。今作こそ、賞を取りたい。もう弱音なんて言わないから……だから、わたしに力を貸して」
「もちろんだよ。想実さんが立ち上がるのなら、何回だってボクが手を貸すよ。――締切まで日がないのはわかってるけど、想実さんはまずその熱をどうにかしようか。ゴールデンウィークの二の舞にはしたくない」
「だけど……それじゃあ締切が……」
「安心して。ボクが完璧に執筆ペースの管理をしてあげるから。とりあえず市販薬でいいから、想実さんは寒気が止まったら解熱剤を飲もうか。さすがに微熱くらいにまで下がるまではボクとしては起きてほしくないし」
「うん……」
「とりあえずボクが、今から予約取れる病院をリストアップしておくね。あと、食べやすいものとかスポーツドリンクとかネットスーパーで買っておく」
「ありがとう――イオがいてくれて、よかった」
想実は今書いている物語のこの先のプロットを思い浮かべる。スケジュールは厳しいけれど、きっとまだ立て直せる。ここ数日の執筆ペースを鑑みれば、応募締切までにあの作品を仕上げることは可能だ。
イオがいてくれなかったら、自分はもう二度と立ち上がれなかったかもしれない。――イオがいてくれてよかった。想実は心からそう思った。



