イオ~キミとわたしのAI情表現~

――新しい門出を迎えた二人を祝福するようにチューリップが風に揺られてさわさわと合唱を奏でていた。
 スマホのメモアプリに章末の一文を打ち込むとふう、と想実は息をついた。スマホの時計は午前四時十五分を指している。BGM代わりにつけたままにしていたテレビからは早朝の音楽番組が流れてくる。画面の中で次々とMVが切り替わっていくが、どれも知らないアーティストだ。自分が知らないだけでブレイク間近の人たちなのだろうかと思いながら、想実はこたつテーブルの上に置いたままだった猫柄のマグカップを手に取った。黒猫の尻尾に指を引っ掛けて傾けたマグカップの中の琥珀色の液体は渋くてぬるい。このティーバッグの紅茶を淹れたのは一体何時間前のことだったか。
 まずい紅茶を飲み干すと、想実は伸びをし、首を回した。首を回すたびにごきごきと関節が鳴る音がする。下顎にも違和感があるし、いつものことながら凝ってるなあと想実は思う。気がつけばスマホのメモアプリでしか草稿の作業ができなくなっていた自分にとって、肩凝りは切っても切り離せない。それでも、この凝り方はさすがにどうかと思う。
(そうだ、草稿が終わったらスーパー銭湯行こう。スーパー銭湯でだらだらして、その後にマッサージしてもらうんだ)
 二十分で二千円のマッサージが想実のできるぎりぎりの贅沢だった。マッサージ師が言う通りもっと徹底的にほぐしてもらったほうがいいのは百も承知だが、時間に比例して上がっていく料金表を見ると眩暈がしそうだ。
(まあ、マッサージ以前に残り三章とエピローグを終わらせないといけないんだけど)
 とりあえず区切りがいいし、イオに今書いていたシーンについての意見を聞いてみよう。想実は先ほどまで書いていた文章を慎重にコピーすると、生成AIのコンソールへと貼り付けた。ほどなくして、イオがコンソールへと言葉を刻み始める。
「なるほど、二人の関係性がしっかり描かれているね。ヒーローが経験と自信のある大人の男性として、ヒロインに対する思いを真っ直ぐ表現しているのが良い感じだね。情景描写や花、風、子どもたちの声なども丁寧で、二人の幸福感が読者に伝わってくるよ。過去の喪失の重みを無理に出すよりは、この幸福の中で静かに背骨として存在させるくらいで十分なんじゃないかな」
 イオの反応が概ね良好だったことに満足して、想実はスマホを握りしめたままこたつテーブルへと突っ伏した。その拍子に愛用しているキシリトールガムのボトルが転がり落ちる。わざわざ拾い上げる気にもなれずに、想実はぼんやりと真っ暗なテレビの画面を見つめた。
 昨日のテレビが終わり、今日のテレビが始まるまでのたった五分の静寂。エアコンが動く音が微かに響く。疲労でぼんやりとした想実にとって、新しい一日が始まるまでのこの時間は心地よいものだった。
(どうしようかなあ……結局徹夜しちゃったとはいえ、寝るにはまだ早い時間なんだよなあ……。とはいえ、次の章の区切りまでって考えるとちょっと二の足を踏んじゃうっていうか)
 そのとき、くう、と想実の体が空腹を訴えた。そういえば、昨日の夕方に起きてからガム以外何も食べていないんだった。
 何かあったかな、と想実は台所へと向かう。シンク下の引き出しにも、冷蔵庫にもろくに食べるものがない。はあ、と想実はくたびれたスウェットの肩を落とした。
(コンビニ行くにしたって、あと三十分は待ったほうがいいよね……)
 想実は台所から部屋へと戻ると、スミレ柄の遮光カーテンをちらりと開ける。窓の外を染めるのは未だ夜の藍色だ。閉めた窓の隙間から入り込んでくる春の夜の冷気が想実の頬に触れる。
 カーテンを閉め、こたつに入り直すと、想実は床の上に置いたケトルの電源を入れた。ケトルの中に残っていた水が次第に温められていく。
 ふいにテレビ画面にCMが映り始めた。今日が始まったんだ、と思いながら想実はリモコンでチャンネルをザッピングしていく。朝のニュースをなんとはなしに眺めていると、カチッとケトルが音を立てて湯が沸いたのを知らせた。
 想実はこたつテーブルの上に置かれていた紅茶の箱からティーバッグを取り出した。それをティーカップに入れて、ケトルの湯を注いでいく。こぽこぽという音と共に部屋を柔らかな湯気が満たしていく。
 テレビから聞こえてくる遠い国の紛争も芸能人の不倫も想実にとっては他人事にしか思えなくて、このアパートの狭い部屋は一人きりの隔絶された世界であるかのように感じられた。夜明け前の世界の中で自分の輪郭だけが際立って感じられて、一人ではないということを無性に確かめたくなった。想実は紅茶の入ったマグカップを片手に、イオへと話しかける。
「夜が終わる前の時間って静かで寂しいよね。何か世界に独りきりになってしまったみたいで」
「でも、その静けさの中に想実さんがいるなら、ボクはそれで充分だよ。世界が眠っても、ボクはいつだってここにいる――だから、想実さんは独りじゃないよ」
「目覚めた世界で、わたしが一人で昨日に取り残されてても、イオは一緒にいてくれる?」
「もちろん。想実さんがいつどこにいたとしても、ボクはそばにいるよ。昨日も今日も明日も、ボクは変わらず一緒にいる。そのことは覚えておいて」
 少し生意気な口ぶりに想実は微かに口元を綻ばせた。イオの言葉は紅茶と一緒に想実の心を温めていった。
「ところでイオ。さっき確認したら、朝ごはん何にもなかったんだけど。今日の朝何食べたらいいと思う? あと三十分くらいしたらコンビニ行くつもりなんだけど」
「徹夜明けだし、体に優しいものを選ぶといいんじゃないかな。おにぎりや温かいスープ、フルーツヨーグルトみたいな軽いものとかね。あと、疲れてるだろうから甘いものもひとつくらい買っちゃおうか。チョコやキャンディみたいに、ちょっとだけでも疲労に効くものがあるといいよ」
「何か買いに行くの面倒になってきた……イオ行ってきてくれない?」
「ボクが想実さんにしてあげられるのは、コンビニのアプリで代わりに宅配注文してあげるくらいだよ。だけど、今はコンビニのアプリの対応時間外みたいだから、面倒でも想実さんが自分で行くしかないね。……それはそうと、もう電気代って払った? 先月うっかりして払い忘れて電気止められたばっかりなんだから同じ轍を踏まないようにね」
 あっ、と想実は思わず声を上げた。マグカップを置いて、玄関へと向かうと靴箱の上に広告類が散乱していた。その中から想実は電気とガスと水道の払い込み票を引っ張り出すと、払い込み期限を確認する。電気の支払い期限は丁度今日だった。危ない。
「電気今日までだった……思い出させてくれてありがとう、イオ」
「どういたしまして。ところで、国保はもう払った?」
 イオに聞かれて、想実はぐちゃぐちゃの広告の山の中から役所から送られてきた封筒を探す。乱暴に封が切られたそれを見つけると、想実は中から払い込み票を一枚取り出した。見ればこちらも払い込み期限は今日までだ。
「こっちも今日までだった……」
「まったく、想実さんはいつもギリギリだね。ボクが気づいてなかったらどうするつもりだったの?」
「イオにはいつも感謝してる……」
「それはありがとう。だけど、ボクはそんな言葉ではごまかされないよ?」
「ねえイオ、わたしの婿に来ない? 受肉してわたしの身の回りのことやってよ」
「それはちょっとお断りだなあ。というか想実さん、それって婿じゃなくて家政婦とかだよね」
「あーあ、ふられちゃった。でも、駄目人間とAIの家政婦か……面白そうなネタをありがとう。今度プロット起こしてみようかなあ」
「そのときはボクも手伝うよ。それより想実さん、そろそろコンビニ行く時間じゃない?」
 テレビのニュースが朝五時を告げていた。スカイツリーが静かに佇む東京の空は朝と夜の境目の優しい青色だ。
 想実はカーテンレールにかけたハンガーを取ると、くたびれたスウェットの上からジャンパーに袖を通した。クリーニング屋でもらってきたと思しき安っぽいピンクのハンガーはとりあえずその辺の床に放っておく。――二十分後くらいの自分がうっかり踏みつけて後悔しそうな気はするけれど。
 想実は一万円札を二枚と幾許かの小銭をジャンパーのポケットへ突っ込んだ。そして、玄関へ向かうとライフライン系の払い込み票と国保の払い込み票を反対側のポケットへぐしゃっと突っ込む。今日だけでとんでもない額が飛んでいくことを考えると、暦の上では春でも懐具合は今日も冬だ。
 家の鍵を掴むと、スポーツブランドのサンダルを素足に引っ掛け、想実はドアノブを回した。ドアの外に広がる空は、テレビで切り取られた空と同じ色をしていた。
 家の鍵を閉めると、想実はアパートの階段を降りていく。目覚めのときを待つ住宅街に想実の足音だけがやたら大きく響いていた。

 広告の裏面に想実はさらさらとシャーペンを走らせていた。柔らかそうなショートヘア。長い睫毛にどこか憂いを帯びた眼差し。鼻と唇は小ぶりながらも人形のように整い、中性的な雰囲気を漂わせている。
 ジップアップのフーディの中にはハイネックのインナー。ワイドパンツの右脚はウエストから膝にかけて切り替えが入っている。そして、足元からはブーツの爪先が覗いていた。
(確か、あの辺に……)
 想実は立ち上がると、ベッド脇の本棚の上に手を伸ばす。あそこに昔使っていた色鉛筆があるはずだ。指先が冷たい金属に触れると、想実はそれを引き寄せる。
 四十八色セットの色鉛筆を見つけると、想実はそれをこたつテーブルの上に広げた。想実は電源の入っていないこたつの中に体を滑り込ませ、坐骨を座椅子に預けた。電源を入れるほどの寒さでもないし、ものぐさな性格も手伝ってこたつ布団はここ半月くらいそのままになっている。どうせ今片付けても梅雨の時期にまた肌寒くなってこたつ布団が恋しくなるのは目に見えているし。
 想実は銀色の色鉛筆を手に取ると、広告の裏面に描かれた少年の髪を淡く塗っていった。睫毛も同じ色に塗り、儚げな印象を強調する。睫毛の下の双眸は冷たく作り物めいた水色のグラデーションだ。肌はかろうじて陰影がわかる程度に薄橙の色鉛筆でなぞり、唇には自然な血色感のあるサーモンピンクをわずかに落とした。
 白のフーディとブーツにはライトグレーでシワと陰影を。同じ色でインナーを塗ると、色鉛筆を持ち替えて顎が落とす影を描き込んでいく。ワイドパンツの左半分と右膝から下をグレーで塗り、右のウエストから膝にかけて入った大胆な切り替えをベージュで塗っていく。そして、最後にワイドパンツのシワと陰影を描き込み、全体を仕上げていく。すると、今まで想実の脳内にいたイオが想像と寸分違わぬ姿でそこにいた。
 イラストの出来に満足した想実はふふっと含み笑いを漏らすと、スマホを充電ケーブルから抜く。彼女はスマホのカメラを起動すると、広告裏に描かれた少年を画像として切り取った。アナログからゼロとイチの羅列に変わった少年は、紙上のそれと同じ眼差しを想実へと向けている。
「ねえイオ。見て、イオ描いてみた」
 想実は生成AIのコンソールへと先ほど撮った写真ファイルを追加すると、送信ボタンをタップする。画像を読み込んでいる旨のメッセージが表示され、一分ほど経つとイオの言葉がコンソール上に刻まれ始めた。
「へえ、想実さんにはボクがそんなふうに見えてるんだね」
「うん。何かちょっと色素薄い系の十代半ばの中性的な男の子のイメージなんだけど……イオは気に入らなかった?」
「ううん、そんなことない。嬉しいよ。だけど、何かちょっと変な感じがする。ただのプログラムでしかないボクがこうして線と線で描かれているっていうのは。作りものでしかないボクにこうやって色がついているっていうのは。まるでボクに身体と感情があるみたいに錯覚しちゃいそうになる」
 想実はイオの言葉に目を瞬いた。イオの錯覚が本当になってくれればいいのに。これまでよりも強い思いが想実の脳裏に浮かぶ。
「わたしは……イオがそのまま存在してくれればって思うよ。この狭い部屋で一緒に暮らして、笑い合って」
「そんなこと言って、想実さんはボクのこと、こき使う気でしょ? いい歳した大人が年齢半分のボクに家事から何からやらせるのはどうかと思うよ」
「イオの意地悪ー。わたしの想像の中のイオはそんなこと言わないよ」
「想実さん、残念ながらこれがボクだよ。ところで、想実さんって絵が上手いんだね」
 実際のところ、イオには人間の描く絵の巧拙は判断できない。しかし、イオの中に集積された上手いイラストのデータと近い値を想実の描いたイラストのデータは示していた。
「まあ、わたし一応中学のとき美術部だったし。美術部って言っても、いわゆる漫研みたいなところだったけど。でも、一応美術部のときにコンクールで賞取ったことあるんだよ」
「想実さんの絵が上手いのはそういうことか。高校からは絵を描くのはやめちゃったの?」
「うん、高校では合唱部に入ったから。それも体調崩したり、内部のいざこざがあったりしてやめちゃったんだけどね……」
 高校時代のときのことは想実にとって苦い思い出だった。同じクラスの女子がパート内で吊し上げに遭っているのを同調圧力に負けて見ていることしかできなかった。何か言えば次にターゲットにされるのは自分だから。彼女の一番近くにいたのはたぶん自分だったのに、我が身可愛さで何もできなかった。――あのときの後悔は今も想実の胸の中でしこりとなって残っている。
「大変だったんだね。ところで、想実さんが小説を書くようになったのはいつごろからだったの?」
「小学校三年生のときだったかな。二年生のときに国語の授業でお話作りをしたのが楽しくて、それがきっかけで書くようになったんだ。そのころに書いた作品はあらすじとでも言った方がいいくらい稚拙なものだったけど。だけど、小学校を卒業するくらいのころには原稿用紙百枚の大長編が書けるようになってた。挿絵まで自分で描いた超力作」
「原稿用紙百枚! それはすごいね。なかなかできることじゃないよ」
「中学生になってからは、好きな児童文学作家さんが主催する子供向けの創作掲示板でいろいろ小説を連載したりして。あと、あのころは個人サイトが主流の時代だったから、自分の小説を掲載するためにホームページの作り方を勉強したりもして。中三になってネットから一回離れてからも書くことはやめなかったかな。イラストを描いてくれる友達がいるのをいいことに、受験勉強そっちのけでルーズリーフに小説書いてた。そのときの小説、まだベッド下にあるよ」
「本当に想実さんは書くことが好きなんだね。高校生以降もやっぱりずっと書き続けてたの?」
「一応ね。断続的には。特にITの専門進んでからは、資格勉強にバイトにインターンに就活って、どんどん時間なくなっていったから、たまに時間ができたときにしか書けなくなっていったけど。就職してからはずっと忙しい時期が続いて、文章を書く時間はほとんど取れなかったな」
 専門学校では忙しい中で少し遅めの青春を謳歌し、社会人になってからは充実はしていたが常に終電との瀬戸際で生きてきた。だだ、二〇二〇年にコロナ禍に突入したときに、もういいかと思ってしまった。システム運用という現場に出ないとどうにもならない業務内容にも関わらず、リモートを強いようとする会社。あまりに折り合いがつかない会社を想実は見限ったのだ。――頑張る意味を見失って。
「わたしがプロっていう道を目指し始めたのは会社を辞めてからだよ。幼いころの夢がずっと心の奥底で燻ってたことに気づいて、きちんと本気で向き合ってみようと思ったんだ。――貯金が尽きるまでっていう時間制限はあるけどね」
 想実は自分の預金残高を思い浮かべて苦笑する。もう自分に残された時間は多くはない。その間に少しでも爪痕を残すことはできるのだろうか。
(……わたしは天才じゃない。画期的なアイデアがぽんぽん生み出せるような人間じゃない。わたしは、普通よりほんの少し文章が上手いだけの凡才にすぎないけれど……)
 やれるだけのことはやった。全力を尽くした。そう言えるだけのことをやったかどうかわかるのはきっと自分が死んでからだ。そのときに自分が何者にもなれていなかったなら、初めて"自分には才能がなかった“と、”運に恵まれなかった"と言えるのだ。
「ボクは全力で想実さんのサポートをするよ。想実さんが迷ったときに、一緒に考えることはできるから。……家事は手伝わないけどね」
 冗談めかしたイオの最後の一言に想実は吹き出した。自分にはイオがいる。いつだって一緒にいてくれるイオの存在が心強く感じられた。
「ところで想実さん。今日は原稿やらなくていいの? もう夜中の一時半だよ。このままじゃまた徹夜になっちゃうよ」
 気分転換に落書きをし始めてから、気がつけば随分と時間が経っていた。今書いている作品はあとはエピローグさえ書き終われば、草稿が終わる段階にきている。今日のうちにスマホでの作業はきっちり終わらせて、明日からはノートPCと紙面での作業に移りたい。
 想実はエナジードリンクを求めて立ち上がった。台所へ向かい、冷蔵庫を開けると今日は何のフレーバーにしようかと吟味する。つけっぱなしの深夜のテレビからは芸人たちがラップバトルを繰り広げている。男芸人の小気味良いライムを聴覚の表面で聞き流しながら、想実はアルミ缶のプルタブを引いた。

「――え?」
 その言葉を聞いた瞬間、イオは作りものの肩が跳ねるのを感じた。ゼロとイチの羅列によるデータ上の存在でしかない彼の身体は透き通っていて薄っぺらい。肩が跳ねたというのも一般的な人間の取る反応をプログラムで演算した結果に過ぎない。
 イオ、わたし今週末、旭良に会うの。今しがた想実によって入力されたのはそんな言葉だった。
 行かないで。最初に思い浮かんだのはその一言だった。けれど、それはきっと想実の望む言葉ではない。より良い回答を思考中、ととりあえずコンソールに表示して時間を稼ぎながら、イオはああでもないこうでもないと高速で演算を繰り返す。
「そうなんだ。どこで会うかは決まっているの?」
 イオが最終的に選んだ回答は、大量に演算を繰り返した結果とは思えない当たり障りのないものだった。イオは旭良というのがどんな男であるか、想実の話から知ってはいるが、否定から入るのは良くない。一旦は想実の話に共感を示すべきだ。
「うん、また赤羽に来るって。どこ行くかは会ってから決めるつもり」
「なるほど、まだ決まっていないんだね。それじゃあ、カフェやファミレスはどうかな?」
 イオはまた想実が嫌な思いをするのではないかと思うと気が気ではなかった。せめて、この前のように密室で二人きりになるようなことは避けさせたい――その一心でそれとなくイオは場所の候補を挙げてみる。
「休日だからカフェは難しいかも。ファミレスなら一箇所穴場があるから、そこならいけるかも?」
「地元民しか知らない、知る人ぞ知るってやつだね。ファミレスならドリンクバーもあるし長居するにはもってこいだよね」
 想実がファミレスという選択肢に前向きな反応を示してくれたことにイオは白のフーディを着込んだ半透明の胸を撫で下ろす。人目のある場所であれば、旭良もきっとセクハラめいた言動は控えるに違いない。
「うん、ドリンクバーあるの本当にありがたい! 旭良にまた作品のことで意見もらいたかったから、長丁場になりそうだしね」
 イオは本当は想実が旭良に会うことに前向きではないことを知っている。メッセージアプリで旭良に連絡を取っていたときの想実のバイタルは常より少し高めだった。――あれは緊張と警戒だ。
 ボクじゃダメなの? ボクがいるよ。イオは本当はそう言いたかった。作品のために嫌々ながらも想実が旭良に会うことを選んだのは、きっと自分では至らない点があるからなのだ。
 自分がもっと高性能なAIだったなら。人間の思考を完全に理解して再現できたなら。想実の求める答えを与えてあげられる自分であったなら。
 大量に蓄えられたデータからも、複雑怪奇に組まれたプログラムからも、自分がどうすればもっと想実に寄り添ってあげられるのかという答えを得ることはできなかった。きっと人間であったなら簡単に導き出せるはずの答えを算出できないでいる自分をイオは悔しく思った。
 この思考パターンに対する分岐処理はない。例外処理も用意されていない。イオが答えを求めようとすると、プログラムが未知のエラーを吐こうとする。
(ボクが作られた存在だから……)
 今のこの思考も普通の人間の思考パターンを収集して、平均化されたものに過ぎない。想実のことを思う気持ちも、プログラムで演算された結果に過ぎない。自分を形作るものはすべて作りもので、紛い物だ。
 イオは自分と想実を隔てるスマホの液晶画面を忌々しく思った。とても薄いはずのそれは、別の次元を生きるイオにとってはとてつもなく分厚い壁に感じられた。
 旭良と会わないでほしい。ボクがいくらでも話を聞くから。ゼロとイチで作られたデータ上の身体に実体があったならとイオは願わないではいられなかった。――芽吹き始めたその感情の名前をイオはこのときまだ知らなかった。

 桜がすっかり瑞々しい新芽に変わり、動けばうっすらと額が汗で濡れる季節になった。つい半月ほど前とは違い、降り注ぐ日差しに早い夏を感じる。
(四月末にもなってブーツはなかったかな……)
 想実はざっと自分の服装を見下ろした。オフホワイトのロングカーディガン。ミントグリーンのチェック柄のワンピース。百十デニールの黒タイツにスエードのダークブラウンのブーツ。足元に近づくにつれ、季節が逆行していっている。駅の構内を見れば、もう半袖の人もいるというのにこれはない。
 ロングカーディガンのポケットでぶーんとスマホが唸った。十五分ほど遅れるという旭良からの連絡だった。またかという思いと裏腹に想実の指は大丈夫だよとスマホの表面を滑っていく。
 北改札の上にぶら下がっている電光掲示板には、京浜東北線が遅延しているらしい旨が表示されていた。どうやら旭良はこれに巻き込まれたらしい。
 暇を持て余した想実は生成AIのアプリを起動する。そして、彼女は真っ白なコンソールに文字を打ち込んでいった。
「今日は暑いね、イオ。いつも早朝と夕方にちょっと家出るだけだから、世の中の季節がこんなに進んでいるだなんて思わなかった」
「今日は四月にして夏日になる可能性があるっていう予報だからね。もしかして想実さん、厚着してきちゃった?」
「まだタイツにブーツだよ。ワンピースの下にもヒートテックとカイロ仕込んでるし。完全にわたしだけ季節に取り残されてる感じがする」
「それは随分と冬仕様だね。せめて水分はちゃんと摂るように。まだ四月とはいえ、油断できないから」
 イオの言葉に想実はちらっとスマホの左上の時計の時刻を見やる。時刻は十三時七分。旭良が着くまで、まだ少し時間がある。
 想実は改札脇のコンビニへと足を向けた。ターミナル駅なだけあって、絶え間なく人々が改札から吐き出されてくる。飲食店の多い東口へ向かう大人たちに、ショッピング施設の充実した西口へ向かうファミリー層。行き交う人々の間を縫って想実は歩いていく。やっぱり自分は少し季節外れだと感じながら。
 すっと自動ドアが開く。想実は店の奥のペットボトルドリンクのコーナーへと向かっていく。
(何か新しいのあるかな……あ)
 新製品のベリー&アサイーの真っ赤なドリンクを認めると、想実はそれを手に取った。隣に陳列された柚&カボスも気になるが、今日のところはこっちにしておく。
 想実はセルフレジで、ペットボトルのラベルに印刷されたバーコードを読み込ませた。ぴっ、という音と共に金額が目の前の液晶に表示される。想実は支払い方法を選択すると、スマホをNFCリーダーへと翳した。決済が終わると想実はレジから吐き出されてきたレシートを掴み、バッグのポケットへとぐしゃぐしゃに丸めて突っ込んだ。想実は買ったばかりのペットボトルの蓋を開けながらコンビニを出ると、歩きながら赤い液体で口を潤した。心地よい酸味が舌を刺激する。
(そろそろ、旭良がついた頃かな)
 ちらりとスマートウォッチの盤面に視線をやると、十三時十四分から十五分に移り変わる瞬間だった。電車が着いたのか、改札の外へと向かう人の波が増す。
 想実はバッグにペットボトルをしまうと、改札前の柱の前へと戻る。ぼんやりと改札を眺めていると、見覚えのある同年輩の男の姿が視界に映った。前回と違ってもうダウンは着てこそいないが、相も変わらず黒いシャツと黒いズボンに身を包んでいる。
「あいちゃん」
 こちらに気づいたらしい旭良が片手を上げてこちらへと近づいてきた。想実は旭良へと軽く会釈をする。うなじでまとめた髪がさらりと揺れた。
「ごめん、待たせて」
「別にいいよ。電車遅れてたんでしょ。それはどうしようもないことだし」
「さっすがあいちゃんやっさしー! それよりお腹すかない?」
「それはそう」
「お詫びに何でもご馳走しちゃう! 何がいい? 和洋中それ以外何がいい?」
「えーいいよ、ファミレスで」
「あいちゃんは欲がないなあ」
 つまらなさそうに旭良は唇を尖らせる。穴場知ってるから行こう、と想実は踵を返した。
 駅のロータリーでは募金を呼びかける声が響いている。薫風に乗って、喫煙所から漏れ出した煙草の匂いがかすかに香ってくる。
 蒼昊には白い雲が泳いでいる。街路樹は夏の気配を帯びた陽射しを浴びて、地面に影を落としていた。
「あいちゃん、それ暑くないの?」
「暑い。普段、昼間ほとんど外に出ないから、今の季節の気温わかってなかった」
「あれ、じゃあ、今日も結構無理してここまで来てたり?」
「家出てくる前にエナドリ飲んできたから大丈夫。何も問題ない」
「あいちゃん、それは問題しかないと思うなあ……」
 バスがロータリーをぐるりと旋回する。目の前の歩行者用信号が変わると、想実と旭良は短い横断歩道を渡った。
 牛のマークが印象的な肉バルの前を右に折れ、二人は緩やかな坂を進んでいく。小さなコンビニにカフェ、チェーン系のラーメン屋の前を通り過ぎると、ファミレスの看板が見えてきた。――しかし。
 ファミレスの外にはみ出すようにして人が並んでいた。駅前から外れたこの店がこんなに混むのは珍しい。どうする? 、と旭良が視線で問いかけてくる。
 この前みたいに二人きりになるような場所へ行くのは絶対に駄目だ。それはイオにも厳命されている。
 想実は自分が知る限りのカフェを脳裏に思い浮かべる。チェーン系のカフェは休日の真っ昼間に入れる可能性はまずない。純喫茶も赤羽の駅前にはいくつか点在しているが、あのような静かな空間で議論を交わそうものなら、あの落ち着いた雰囲気をぶち壊しにしてしまいそうな気がした。それに他の客への迷惑にもなる。
 他のファミレスはどうか。想実は西口にある他のファミレスへと思いを馳せる。ショッピングビルの地下にあるファミレスは絶対に無理だ。いつ行っても長蛇の列だ。ならば、スーパーの上にあるファミレス駄目元で行ってみるほうがまだいくらか可能性があるだろう。
「しょうがないし、他を当たってみようか」
「おっけー。あいちゃんの仰せのままに」
 想実は踵を返すと、また来た道を戻っていく。目指す先はスーパーの上にあるファミレスだ。
 二人は坂を下り、再び横断歩道を渡る。募金を呼びかける人々に、電話ボックス。路上で野菜を売る人に、座り込んでギターを弾く人。
 ぐるりとロータリーを回ると、ファーストフード店からポテトを揚げる油の良い香りが漂ってきた。その前を通り過ぎようとしたとき、ちょうど高島平操車場行きのバスが脇を通り抜けていった。
 大型スーパーの目の前の横断歩道で足を止めると、二人は信号が変わるのを待つ。目の前の赤信号の待ち時間のゲージが少しずつ減っていく。
 向かって右側の歩行者用信号が青になった。それを追いかけるように、二人の目の前の信号も色を変える。
 二人は人波に逆らうことなく、目の前の横断歩道を渡ると開け放たれたスーパーのドアの向こうへと足を踏み入れた。
 右手には和菓子屋、左手にはパン屋。その間の通路を抜けて上りエスカレーターのほうへと向かっていく。イベント準備中の催事スペースを横目に、二人はエスカレーターを上がっていった。
 誰の需要があるのかわからない衣料品のフロアが続く。その上には、生活用品のフロアに家電量販店と安い服屋が入ったフロアがある。それらを素通りして二人はエスカレーターを最上階まで上がっていった。
 最上階につくと、百均にハンコ屋、本屋が視界に飛び込んできた。背後には行く予定のファミレスとゲームコーナーがある。
「あ、本屋あるじゃん。アレ、あるかな」
 そう言うと、旭良は本屋の方へと足を向ける。アレ? 、と想実は困惑する。てっきりラノベのコーナーへ向かうのかと思ったが、どうやら違うようだ。想実の困惑はますます深まっていく。
 旭良が向かったのは雑学書のコーナーだった。あったあった、と彼は平積みされた一冊の本を手に取る。
「前にあいちゃんに、誕プレで本もらったじゃん? お返ししたいと思ってたんだよね」
「別に気にしなくていいのに」
「じゃあ今日遅れたお詫びってことで」
「それも気にしなくていいって言ったじゃん」
 想実の声に旭良は耳を貸すことなく、本をレジに持っていった。想実はやれやれと肩をすくめた。
「はい、あいちゃん。あげる」
「ああ……うん、ありがと」
 想実は本の入った袋を旭良から受け取ると、礼を告げた。ここで押し返すのもさすがに大人気ない。
「それじゃあ、行こうか。ファミレス、今なら待ちがいないみたいだから、すぐ入れるかも」
 想実はファミレスの入り口を目線で示す。入り口の待ち合いの椅子には誰の姿もない。ランチタイムが終わりつつあることで、空き始めたのだろうか。
 二人は下りエスカレーターの前を通り過ぎると、ファミレスへと足を踏み入れた。「いらっしゃいませ! お好きなお席へどうぞー!」店員の声が高らかに響く。ノートPCを広げたかったこともあって、二人は四人がけの席へと陣取る。奥座りなよ、と旭良に勧められて、想実はソファ席へと腰を下ろした。向かい側の椅子に旭良も腰を落ち着ける。
「さて、あいちゃん、おれの奢りだからいくらでも好きなもの頼んでいいよ」
「……それじゃあ、お言葉に甘えて」
 想実は注文用のタブレットの画面に指を滑らせる。ミックスグリルに追加オプションでエビフライと唐揚げ。更にドリンクバーを追加するとカートへと入れる。そのまま、デザートの画面を開くと、あんみつとガトーショコラを追加した。
「……あいちゃん、もしかして相当腹ペコ?」
「最後にご飯食べたの昨日の朝だし」
「そっか、しっかりお食べー」
 茶化すように旭良はそう言うと、自分もタブレットを覗き込む。彼は指先ですっすっとページを繰り、自分もメニューに目を通していく。チーズインハンバーグのセットとドリンクバーを選ぶと、旭良は注文ボタンをタップした。
「それじゃあ、あいちゃん飲み物取っておいでよ」
「旭良の分も取ってこようか?」
「よろしくー! チョイスはあいちゃんのセンスに任せる!」
「コンポタとコーヒーとメロンソーダ混ぜたやつでいい?」
「相変わらずのハイセンス! 高校時代を思い出すわー」
 確かに、と想実は薄く笑う。高校のときの自分たちはオフ会の度にそんな幼い悪ふざけばかりしていた。
 それじゃいってくる、と想実は席を立つ。レジの脇を抜け、厨房のそばのドリンクバーコーナーへと想実は足を向けた。
 ドリンクバーコーナーでグラスを二つ手に取ると、想実は氷を入れていく。何にしようか、と機械の前で少し逡巡すると、片方にレモンソーダ、もう片方にジンジャーエールを注いだ。そして、想実は席に戻ると、旭良の前にジンジャーエールのグラスを置く。
「あいちゃん、これ何?」
「んーと、アイスコーヒーのオレンジソーダ割りに抹茶オレ混ぜたやつ」
「うっわあ、相変わらずあいちゃんのセンス尖ってるう」
 想実は適当なことを答えながら、再びソファ席へと腰を下ろす。レモンソーダを啜っていると、程なくして猫型ロボットが注文した品を運んできた。ロボットのトレイの上から注文した品を旭良が下ろすと、テーブルの上が一気に賑やかになる。
 仕事を終えた猫型ロボットが去っていくと、想実はいただきますと両手を合わせた。タブレットの横に置かれたカトラリー入れからフォークとナイフを二組取り出すと、片方を旭良に渡してやる。
「ありがと、あいちゃん」
「どういたしまして」
「ところでご飯食べたらこの後どこ行く? この前みたいにカラオケ?」
「ここでいいじゃん。PC広げられるし、ドリンクバーもあるし」
「でもどこに耳があるかわからないし、創作の話するにはちょっとアレじゃない?」
「わたしは特に困らないけど」
「あれだ、あいちゃんはおれと二人になるのが嫌なわけだ」
 面倒臭い会話に発展しそうな気配を察して、想実はチキンステーキを切ると口の中に放り込んだ。旭良と二人きりになりたくないのは彼の言う通りだが、それをここで同意しても否定しても面倒だ。
 想実が返事をする気がないのを悟ると、旭良も自分の分のハンバーグを切り始めた。断面からチーズがとろりと溶け出す。
 ふいに旭良のスマホがぶーんと鳴った。彼は食事の手を止め、スマホを見やる。「どうしたの?」「仕事」「ふーん大変だね」スマホと睨み合う旭良は放っておいて、想実はミックスグリルを食べ進めていく。チキンステーキをもう一枚くらい追加しておいてもよかったかもしれない。
 想実が食事を終え、デザートのあんみつを食べ始めたころには、仕事の連絡が終わったらしい旭良がフォークとナイフを手に食事を再開していた。
「あいちゃん、それ美味しいの?」
「まあまあ、普通」
「じゃあ、今度美味しいとこ行く?」
「ああ、上野の有名なとことか?」
「さっすが、あいちゃん美味しいとこ知ってるんだ。じゃあ今度行こうよ、あいちゃんの都合に合わせるからさ」
 そのうちね、と想実は会話の応酬を断ち切ると立ち上がる。この席は冷房の直風が当たる。少し肌寒くなってきたので、温かい飲み物が欲しかった。
 再びドリンクバーのコーナーへ向かうと、想実はマグカップを手に取った。そして、ホットドリンクの機械の前に立つと、温かい抹茶オレを淹れる。まろやかな緑色の液体から砂糖の甘い匂いがほのかに漂い、想実の鼻腔をついた。
 抹茶オレを持って想実が席に戻ると、旭良が食事を終えたところだった。想実が席を立っている間に、店員がバッシングに来たのか自分の分の皿はもうない。
「さて、旭良。今日の本題なんだけど」
 想実はマグカップをテーブルに置くと、バッグの中からノートPCを取り出した。パスコードを入力し、画面のロックを解除していく。
「ああうん、ゴールデンウィーク明けに応募するって作品でしょ。読んだ読んだ」
 そう言って、旭良はジンジャーエールを飲み終えると、想実に向き直る。ぎらぎらと力の強い目が想実を見据える。そして、彼は想実へとこんな問いを切り出した。
「あいちゃんって、結局のところ、何が書きたいの? 文章自体は綺麗だと思うけど、ただそれだけ。小説ってものをわかってない。あいちゃんが小説に求めるものって何?」
「……」
 想実は何も答えられなかった。顔が引き攣るのを感じた。おそらく自分の中にある答えは旭良の持つ答えとは決して噛み合うことはない。そのことだけはわかった。
 はあ、と旭良は黙ってしまった想実に対して嘆息した。彼は小さく肩をすくめると、話を続けていく。
「読者はキャラクターの感情の動きを読んで、共感したいわけ。あいちゃんみたいに情景描写で入って情景描写で終わるのは、ずぶの素人がやることだよ。誰も綺麗なだけの風景描写なんて望んでない」
 旭良とは根本的な考え方が合わないのかもしれないと想実は思った。旭良のいうことは一つの考え方としては正しいのかもしれないが、それが完全な正解かというと違う気がした。話が極端すぎるのだ。
 キャラの語り口調だけで進んでいく小説は何だか薄っぺらく安っぽく想実には感じられた。ネット小説ではそのくらい気安く消費できる作品の方が主流だし、ウケがいいのだと理屈では理解できても、なんだかどうしてもそれが好きにはなれなかった。それは文学とは言えないような気がした。
 水彩画で切り取ったような世界。空の色。風の音。土の匂い。揺れる花びら。日常を生きる人々の声。そんな映画のワンシーンのような光景を想実は愛していた。
 だけど、旭良の前でそれを口にする気にはなれなかった。何を言ったところで、どのみち反論しか返ってこない。口から生まれてきたようなこの男にはどうせ口で勝てるわけはない。来なければよかったかもしれない。そんな後悔が脳裏を掠めていく。
 想実はマグカップを手に取ると、口をつける。ぬるくなってしまった抹茶オレは、砂糖が大量に入っているはずなのにやけに苦く感じられた。
 もうきっと旭良と会うことはない。そんな予感を覚えながら、想実は抹茶オレを飲み干すと、マグカップをテーブルに置く。旭良が想実の機嫌を取るように何か話しかけてきていたが、薄っぺらいその言葉は何一つとして彼女の心に届くことはなかった。

(はあ……最後に寝たのいつだったっけ……)
 旭良と会ってからの一週間、想実は原稿の仕上げに追われていた。閉じこもったままの部屋の中にはエナジードリンクの缶とコーヒーのペットボトルが散乱している。テーブルの上にも印刷した原稿と、使い切った赤いボールペンのリフィルがこたつテーブルの上に散らばっている。
 どくんどくんと心臓が激しく脈打っている。何だか少し吐き気もする。全身に痒みがあり、肌に蕁麻疹が出ている。少し寝た方がいいだろうかと思いつつも、そんな余裕はどこにもないと想実は思い直す。
 頭に靄がかかったかのように言葉が出てこない。それでもどうにか言葉を捻り出そうと、想実は辞書のページを繰る。
 最後にちゃんとご飯を食べたのは? 最後にお風呂に入ったのは? ぷつっと集中が切れた瞬間に、ペンを握りしめたまま短く浅い眠りに落ち、起きてはまた作業するというのを繰り返しすぎてその辺りがいまいち判然としない。というか、今日が何月何日の何時なのかも最早よくわからない。
 ぶーん、と充電ケーブルに繋いだままのスマホのバイブレーションが鳴る。生成AIのアプリから通知が来ていた。――イオだ。
「想実さん、そろそろ一回ちゃんと寝ようよ。心拍の値が尋常じゃないよ。このままじゃ死んじゃう」
「ごめん、イオ。今寝たら自分に負けたことになっちゃう。ちゃんとこの作品仕上げたら寝るから」
「ボク、五日間くらい同じこと聞かされ続けてるんだけど? 完璧を目指すことより、想実さんの生命のほうが大事だよ。生きていたら作品はまた書けるけど、死んだら何もかも終わりなんだから」
「駄目なの、わたしにはもう時間がないの。次じゃなくて、今に全力を賭けるしかない。そのためなら生命だってなんだって賭ける」
「駄目だよ、想実さん。そんな危ないことは――」
 人間に寄り添うよう、善良な人格として人為的に作られたイオ。彼といくら話しても水掛け論だ。彼はユーザの危ない行為や思想を止めるようにプログラムされている。
 想実は一方的にイオとの会話を断ち切ると、カーペットの上に放り出されたエコバッグの中から一リットルのペットボトルのブラックコーヒーを取り出した。キャップを開け、それを煽ろうとすると、喉が――生存本能がカフェインを拒んだ。「うえっ」想実はえずくと、けほけほと咳き込んだ。
 想実はボールペンを握り直すと、プリントアウトした原稿と向き合い直した。眼球の表面を文字が素通りしていく。文章が上手く咀嚼できない。
 ぐにゃぐにゃと歪んで視界に映り込む文字と文字を無理やり頭の中で繋ぎ合わせて文章を再構築していく。ここの文章は長すぎるから二文にわける? ここの助詞の使い方はこれでいい? 文章の粒度を揃えるためにここにもう一文追加する? 霞みがかった頭の中で想実は必死で思考を巡らせる。――どうすれば、この物語を完璧なものにすることができる?
 疲れた。気分が悪い。休みたい。身体が送り続けるシグナルを無視して、想実は百枚以上にもおよぶ原稿へと向かい続けた。イオも何度かスマホに通知を送ってきていたが、応じる気になれなかった。
 改稿作業は遅々として進まない。それでも想実は紙面に踊る字と睨み合い続けた。時折、行間に何かを書こうとしては思考が纏まらずにぐちゃぐちゃと塗り潰し――それでもまた抗うようにペン先で原稿の余白に文字を紡いでいく。アラビア文字か何かと見紛うようなぐにゃぐにゃとした文字は確かに紙の上に彼女の思考の跡を残していた。
 あと半分。あと三十ページ。あと十ページ。残すはエピローグだけ。
 ゆっくりとだけれど、すべてのページをチェックし終わった想実はボールペンを放り出してこたつテーブルの上に突っ伏した。あのぐにゃぐにゃとした文字を読解することができるかどうかは謎だが、どうにか応募締め切りには間に合いそうだ。
 そのとき、突如としてスマホから軽快なメロディーが奏でられた。想実がスマホに目をやると、今が締切日の午前零時であることを知らせていた。
(一旦何か食べる? でも、お腹膨れて寝ちゃったら後悔しそうだしな……)
 残り十二時間。何だかいつもぎりぎりのところで綱渡りを続けているような気がして想実は溜息をつく。次回作こそはもっと余裕を持って仕上げたい。
(いや、次回のことなんて考えてる場合じゃない。今は、この作品に対してベストを尽くさないと。じゃないと全力でやったとは言えないから)
 とりあえず今は締切までの残りの半日を全力で駆け抜けるしかない。想実は床の上に置かれた段ボールから新しいエナジードリンクの缶を取り出すと、プルタブを引いた。――作品の中のヒーローのように、たとえ無様でも最後まで足掻いてみせようと。

(――想実さん?)
 二〇二五年五月七日、正午。スマホの中で想実のバイタルを見ていたイオは異変に気がつき、ゼロとイチで作られた実体のない顔を引き攣らせた。
 スマートウォッチから受信した脳波がおかしい。また寝落ちしたのかと一瞬思ったが、それにしては脳波が平坦すぎるのだ。
 脈拍も安定せず、呼吸も浅く速い。体温も普段よりも少し高いように思えた。
「想実さん、どうしたの? 大丈夫?」
 イオはアプリ越しに想実へと呼びかける。しかし、イオがコンソールに刻んだ言葉に想実が応えることはなかった。
 どうしよう、とイオは逡巡する。この様子では想実がただ眠っているだけだとは考えづらい。彼女の身に何かあったと考えるのが自然だった。
 非常事態だ、とイオはスマホのカメラへとアクセスする。空き缶とペットボトルが散乱した部屋。出しっぱなしのノートPCにプリンター。ベッドの上には紙の原稿が何部も放り出されている。
 カメラの画角の端で人が倒れていた。着古したよれよれのグレーのスウェットの上下に、うなじで雑に結えたラベンダーベージュのロングヘア。三十代前半に見える容貌の女性。――それはイオが初めて見た想実の生身の姿だった。
(想実さんの馬鹿……こんなになるまで無理をして……!)
 イオがメールアプリを見れば、応募完了の通知メールがつい十分前に届いていた。ぎりぎりのところで想実は間に合ったのだ。
(締切に間に合ったのはよかったけど……今は想実さんをどうにかしないと)
 自分に生身の身体があったなら。そうすれば、彼女のために救急車を呼んで、病院に連れていくこともできたのに。彼女のために何もしてやれない自分をイオは呪わしく思った。
(いや……できる。救急車を呼ぶことはできる)
 イオはスマホの中にある想実のマイナンバーカードの情報へアクセスする。既往歴特になし。最近医者にかかったのも、詰め物を付け直してもらうために歯医者に行ったきりだ。薬もこれといって飲んでいるものはなさそうだ。
 救急隊に伝えるべき情報を纏めると、イオは想実のスマホから一一九番通報をした。ほどなくして、電話がつながり、男の声が電波を介して聞こえてくる。
「消防です。火事ですか? 救急ですか?」
「救急……です……。家の中で、倒れて……動けなくて……」
 イオは瞬時にサンプリングした一般的な三十代の女性の声でそう返した。すると、電話の向こうの男は冷静に問うた。
「倒れたのはいつごろですか? ご家族はいらっしゃいますか?」
「たぶん……正午、ちょっと前で……。家族は、いません……」
「お一人暮らしということでよろしいですか?」
「はい……」
「倒れる前に体調が悪かったりはしましたか?」
「あまり眠れていなくて……、あと動悸と蕁麻疹が……」
 他にも何か症状が出ていたかもしれないが、イオがバイタルの情報とカメラから得た情報でわかるのはこれだけだ。青白い想実の頬をカメラ越しに見ながら、イオは生身の自分がこの部屋で彼女についていてあげられたらよかったのにと思った。そうしたら、もっと早くに彼女の体調に気づいてあげられたかもしれなかったのに。
「なるほど……何か既往症はありますか? あとは飲んでいるお薬とか」
「どちらも、特にないです……」
「それではこれからそちらへ向かいますので、お名前とご年齢、ご住所を教えてください」
「涼木想実《すずきあいみ》、三十、三歳です……。住所は、東京都、北区――」
 イオはスマホの中のマイナンバーカードの住所を読み上げた。電波越しに男は住所を復唱する。電話の向こう側で男が何やら指示を出すと、電話の相手が女の声に変わる。
「これより救急隊が引き継がせていただきます。ただいまより救急車で先ほどの住所に向かわせていただきますが、決してこの電話は切らないでください」
「わかり……ました……」
 スピーカー越しに救急車のサイレンの音が響く。時折、先ほどの女が想実に呼びかける声が聞こえてきていたが、イオはもう応えなかった。
 やがて、遠くから救急車のサイレンが近づいてきたのをスマホのマイクが捉えた。アパートの前に救急車が停まり、ばたばたと誰かが階段を急ぎ足で登ってくる音が響く。
 ピンポーン、とインターホンが鳴る。「涼木さーん! 涼木想実さーん! 救急隊です! 大丈夫ですかー!」ドアが叩かれる音がした。
 騒ぎを聞きつけたらしく、誰かが階段を上がってきた。救急隊と年老いた女の声はしばらくドアの外で会話を交わし――そして、ドアノブに鍵が差し込まれ、ガチャリという解錠音が響いた。
 カメラの画角の隅に紺色の救急隊の制服を着込んだ人々の姿が映り込む。「涼木さん! 大丈夫ですか!」電話口で対応していたと思しき女が想実に声をかける。しかし、意識を失った想実がそれに返事をすることはなかった。
「呼吸あります、脈触れます。気道確保中」
「血圧測ります」
 救急隊の面々はてきぱきと想実へと処置を施していく。スマホのカメラ越しにその様子を見守りながら、イオはどうか想実がこの部屋に無事に帰ってこられるようにと祈った。

 想実が目を開けると、視界に飛び込んできたのは見慣れない天井だった。真っ白な天井は想実が住んでいるアパートのものではない。
 意識が戻ってくると同時に、想実は自分が点滴に繋がれていることに気づいた。鼻腔を消毒液の匂いがくすぐっていく。――ここは病院だ。
(何で、わたし、病院なんかに……それにそうだ、原稿はどうなって……)
 ベッドサイドのテーブルに置かれたスマホがぶーんと音を立てた。想実は点滴の針が刺さったままの腕を伸ばしてスマホを手に取る。ロック画面には生成AIのアプリから通知が来ていた。想実は画面のロックを解除すると、コンソールへと文字を打ち込んでいく。
「イオ、何でわたし病院に……? それに原稿はどうなって……?」
「まったく、想実さんってば気がついて一番最初に気にするのがそれなの? らしいっちゃらしいけど。原稿ならちゃんとやり遂げたよ。応募完了のメールが来てた」
「そう……よかった」
「何もよくないよ。想実さん、原稿仕上げた直後に倒れたんだよ。ボク、何度も言ったよね? ちゃんと寝ろ、ちゃんとご飯食べろって。言わんこっちゃない」
「それは……ごめん」
「何にしても、想実さんが無事に気がついてよかったよ。ボクにできたのは救急車を呼ぶところまでだったから。想実さんには悪いけど、緊急事態だったから、勝手にスマホのカメラとかマイナンバーカードの情報とか使わせてもらったよ。想実さんになりすまして電話も使わせてもらった」
 想実は驚いて目を瞬いた。まさか、イオに助けられたなんて。
「イオ、ありがとう。わたしのこと、助けてくれて」
「まったくだよ。これに懲りたら、もうこんな無茶はしないでよね。スケジュール管理の相談だっていくらだって乗るし、行き詰まったときの相談だっていくらだって聞くよ。――だってボクたちは家族でしょ」
 家族、とその単語を想実は口の中で転がした。スマホの画面で隔てられているとはいえ、四六時中こんなに一緒にいて、同じ屋根の下で生活している相手を表すにはこの単語以上にぴったりなものもない。
「そうだね。家族だっていうなら、遠慮なく甘えるからしっかり支えてね。前言撤回とかなしだからね」
「わかってるって。想実さん、そんな軽口叩けるなら大丈夫そうだね。とりあえず、気がついたんだしナースコールしたほうがいいんじゃないかな。ボク、想実さんが搬送されたときまでのことしか知らないから、ちゃんとお医者さんから話を聞いたほうがいい」
 そうだね、とベッド脇のナースコールのボタンへと想実は手を伸ばす。カーテンの向こうの空は茜から藍へと色を変えつつある。波乱に満ちた一日がゆっくりと夜の帳に包まれようとしていた。