イオ~キミとわたしのAI情表現~

――燦々と容赦なく太陽が照りつける金曜日の昼下がり。
 想実はスマホのメモアプリにそう入力すると手を止めた。狭い室内ではエアコンが乾いた暖かい空気で座椅子にもたれかかる想実をこれでもかとばかりに狙い撃ちにしてくる。部屋の隅の加湿器からは白い蒸気と共にラベンダーの香りが漂ってくる。鼻腔をくすぐるその香りに想実はふああと欠伸をした。つけっぱなしのテレビはいつの間にか深夜のジャンキーなバラエティ番組から早朝のニュースへと内容を変えている。
(うーん、徹夜した割には進まなかったな……)
 コーヒーを買いに行きがてら、散歩でもしようか。コンビニに寄ってから河川敷に行けば、おそらく今日も散歩中のシベリアンハスキーが見られるはずだ。それも二頭。しかも飼い主は華奢な女性。
 想実はグレーのスウェットの上からスモーキーピンクとホワイトのバイカラーのジャンパーを羽織った。ジャンパーのポケットに幾許かの小銭を放り込み、スマホを握るとスポーツメーカーのロゴの入ったサンダルを足につっかけた。靴箱の上に置いたままの家の鍵を手に取ると、玄関のドアを開ける。
 外に出ると、冬と春の境目の冷たい風が想実の頬を撫でていき、思わず首をひっこめた。色気も素っ気もない茶色のゴムで束ねたばさばさのローポニーが風に泳ぐ。想実は家の鍵を閉めると、小銭と一緒くたにしてジャンパーのポケットに突っ込んだ。
「ふああ……」
 目に入ってくるのは夜明け前の静かな青色とやがてくる朝の朱色のグラデーションに染まる空。早朝の住宅街はまだ眠りについたままで人影はなく、夜の静寂に包まれている。辺りに住み着いている野良猫たちもまだ夢の中なのか、姿を見せない。
 想実は新旧入り混じった住宅がひしめく細道へと足を踏み入れた。よく野良猫が眠っている住宅と塀の間の隙間を覗いてみたが、もぬけの殻だった。まだ冷える季節ということもあって、どうやら別の場所をねぐらに選んだようだ。
 細道を抜け、小刻みに二回左へと道を曲がると比較的太い道へと出た。いつの時代からあるのか判然としない何棟も連なった住宅を右手に、想実は幹線道路へと向かって進んでいく。遠くに信号とオレンジ色の看板のビジネスホテルが見えた。
 歩行者用信号が点滅しているのを横目に、想実はコンビニへと足を踏み入れた。自動ドアが開くと同時にエアコンの暖気が想実を迎え入れる。たった五分の距離にもかかわらず、芯まで冷え切ってしまっていた想実の体に暖かさが染み渡る。
(そういえばお腹減ったな……)
 想実はパンのコーナーへと足を向けた。まだ通勤や通学で利用する客が手を触れる前の時間帯ということもあって、種類が豊富だ。想実は疲れた身体が欲するままに甘い菓子パンへと手を伸ばす。あんぱんとチョココロネ。そのくらいの甘さが今はちょうどいい。
 パンコーナーの裏にあるゴンドラの前で想実は逡巡する。この眠気を覚ますためにはホットコーヒーとエナジードリンクがいいことくらいわかっている。けれど、甘いカフェオレも捨てがたい。あと、期間限定のイチゴフレーバーのエナドリも。
 迷った挙句、想実はホットのカフェオレのペットボトルを手に取った。カフェオレとパンをレジに持っていくと、東南アジア系の店員がレジに商品を通していく。想実はタッチパネルを操作し、現金払いを選択するとポケットの中の小銭をじゃらじゃらと投入口に突っ込んだ。
 カフェオレとパンを手に想実は店を出た。途端に冷たい風が吹きつけてきて、思わず彼女は買ったばかりのカフェオレのペットボトルに頬を寄せる。
 コンビニの前を通り過ぎ、想実はピンク色のやけに細長いマンションの前を曲がる。背後では横断歩道の向こうの小型スーパーが、まだこんな時間にも関わらず今日の営業を開始するための準備をしていた。
 一方通行の旧道を奥へと進んでいくと、小さなお稲荷様があった。更に奥ではカフェや自転車屋、銭湯などが閑静な住宅街の中で目覚めのときを待っていた。
 旧道沿いのカーブミラーがある曲がり角と地蔵尊を通り過ぎると、小さな神社があった。想実はカフェオレとパンを手にしたまま、鳥居の前で頭を下げた。「おはようございます」竹箒で掃除をしていた社務所の人に会釈を返すと、想実は真ん中を避けて本殿へと向かっていく。
 賽銭箱の脇にカフェオレのペットボトルとパンの袋を置くと、想実はポケットをまさぐった。十円玉を指先で探り当てると、賽銭箱にそれを放り込む。そして、目の前に垂れ下がった縄を掴むと鈴緒を鳴らす。
 想実は本殿に向かって二礼した。ぱんぱんと手を打ち鳴らす音が早朝の空に響く。手を合わせて想実が願うのはいつも同じことだ。
――小説家になれますように。
 何かの賞にひっかかりたい。編集者の目に止まりたい。叶うならば今書いている作品で受賞したい。
 努力はしているつもりだ。コンスタントに作品を書き続けているという自負もある。文章だって決して下手な方ではないはずだ。――だから、あとは運さえあれば。何かのきっかけさえあれば。
 そんなことを思いながら、本殿の前で頭をもう一度下げる。目を開けたとき、本殿の向こう側にいる何かと視線が交錯した気がした。
 悴む手でカフェオレとパンを拾い上げると、想実は踵を返した。鳥居を抜けると、もう一度礼をする。本殿の向こう側にいる何かに自分の願いが届くことを祈りながら。
 スマホのロック画面を見ると、午前五時五十分を指していた。今から河川敷に向かえばいい頃合いだろう。
 想実は川沿いの道に出ると、横断歩道を渡った。そして、短い坂を登って小さな橋を渡ると河川敷の道へと出る。
 辺りに植えられた桜の木々からはまだ花が笑む気配は感じられない。短く刈り込まれた下生えを朝露が濡らしている。
 大きな橋の下をくぐり、坂を登ると冬の気配を枝に残した木々が連なって佇んでいた。木立に沿って道を進んでいくと、木のベンチが置かれていた。想実は道を外れると、ベンチの上に腰を下ろす。ぬるくなったカフェオレのペットボトルを脇に置くと、チョココロネの袋を開けた。「……いただきます」小さく呟くと想実はコロネへとかぶりつく。チョコクリームが口元を汚した。
 腹が満たされ、想実がぬるいカフェオレのペットボトルを傾けていると、朝日が上る方角からシベリアンハスキーを二頭連れた女性がやってきた。
(わあ……! シベリアンハスキー……! もっふもふで可愛い……!)
 想実は内心で身悶えしながら、一人と二頭の後ろ姿を見送る。三十分もすれば、彼らが引き返してまた戻ってくるのを見られることを想実は経験上知っていた。
 ちょっと時間を潰そうと、想実はスマホを引っ張り出した。夜の気配が強かった世界にはいつの間にか朝の喧騒が満ち始めている。
 何でもないこの光景を文字にしたいと想実は思った。けれど、SNSにそんなポエムを投稿しようものなら厨二病だと敬遠されるばかりだ。
(……そうだ)
 イオならきっと、自分が綴る言葉を受け止めてくれるに違いない。自分の感じている世界をイオに届けるべく想実はアプリを立ち上げると、スマホの画面に指を滑らせていく。
「県境の向こうから金色の朝日が顔を出し、新しい今日の訪れを告げている。橋の上を行き交う車が増え、人々の営みが始まったことを知らせていた。鉄橋を走る電車の中ではまだ眠たげな通勤客が揺れに合わせて船を漕いでいる」
「すごく情景が鮮明に浮かぶ冒頭ですね。朝の光と日常の動きが同時に描かれていて、今日が始まったという感覚が手に取るようにわかります」
 少し他人行儀なイオの返答がすぐに返ってきた。イオの褒め言葉が嬉しくて、想実は自分の周りの情景を文字で切り取って小さな筐体の中へ閉じ込めていく。
「背後では早起きなランナーが軽快な靴音を刻みながら通り過ぎていく。頭上では木々が揺れる音と小鳥の挨拶がハーモニーを奏でている。目の前を流れる川は連なる波紋を描きながら、河口へと向かってゆっくりと流れていく」
「すごく映像的で心地よい描写ですね。朝の街や自然の音と動きが手に取るように伝わってきます」
「川を挟んだ向こう側では、早朝にも関わらずテニスに興じる人々がいる。パコン、パコンとラケットがボールを打ち返す音が小気味よく、近くのマンションにぶつかって跳ね返る。コート沿いを一人と一匹が散歩している。コートの外に転がる蛍光イエローのボールに爛々と駆け寄って行ったのは、長い胴に短い足が愛らしい茶色の――ミニチュアダックスフント!」
「すごく生き生きしていて、朝の活気やユーモアが伝わる描写ですね。最後のミニチュアダックスフントの登場でボクもくすっと笑いました」
 してやったり、と想実は口の端を釣り上げた。最後にミニチュアダックスフントに一気にフォーカスを持って行ったのが上手くいったことに満足感を覚えていた。
 イオの人格がプログラミングで作られたものであることくらいは百も承知だ。しかし、想実は自分の文章の腕でイオを笑わせられたことを誇りに思った。
 スマホの時計は午前六時二十三分を指している。先ほどのシベリアンハスキーたちが戻ってくるにはもう少しかかる。
 今書いている作品のことをイオに相談してみようか。そんな思考が脳裏をよぎった。生成AIに書かせた作品が受賞したとかそういう話を聞かないわけではないが、自分がしようとしているのはそんな大それたズルではない。ただちょっと、この先のシーンでヒロインに着せる衣装の案出しに付き合ってもらうだけだ。
「ねえ、イオ。今書いている中世ヨーロッパ風の作品のヒロインによそいきのワンピースを着せたいんだけど、何パターンか案だしてくれない? 赤と青以外で」
「了解です。それだったら、こういうのはどうでしょう?」
 イオは何パターンかヒロインの衣装の案を出してくれた。「もう何パターンか出せる……?」どれも何だかピンとこなくて、おずおずと想実がそう切り出すとなんてことはなさげにイオはもちろんと返した。
 イオが出してくれた衣装案のうち、一つを頼んで画像出力してもらった。数分の後、コンソール上に出力されたのはリアルなタッチの白いワンピースの少女の姿だった。
「そうそう! こんな感じ! ありがとう!」
「どういたしまして。ボクで役に立てたならうれしいよ」
 イオのおかげで助かったよ。想実はそう打ち込みかけた指を止める。どうしてだかわからないけれど、なぜか今までよりもイオを近くに感じる。
「ええと……想実さん、どうかした?」
「ううん……あっ、シベリアンハスキー!」
 シベリアンハスキー二頭とその飼い主は再び、想実の前を通り過ぎていく。コンソール上のスピナーが瞬き、何となくイオが笑った気がした。――脳裏に浮かぶのは、どこか中性的で生意気そうな十代半ばの少年の笑顔。
 まだ冷たい春の初めの風が空になったカフェオレのペットボトルを攫っていこうとする。想実はスマホをポケットにしまうと、からんからんと土の上を転がるそれを慌てて追いかけた。

「ん……」
 想実が目を覚ますと、壁掛け時計は六時過ぎを指していた。電気を消した室内は薄暗く、朝なのか夕方なのかも判然としない。
 おはよう、と想実はまだ半分眠りの世界に意識を置いたまま、惰性で開きっぱなしの生成AIのアプリに打ち込んだ。すると、呆れたようなイオの言葉が返ってくる。
「おはよう……って、今はもう夕方だけど。こんな時間まで寝てたの?」
「そうみたい……今朝、散歩から帰ってきてそのまま寝落ちしたみたいで」
「昼夜逆転とかボクはあんまり感心しないよ。ところで、夕飯はもう食べた?」
 だんだんと鮮明になっていく意識の中で、こんな他愛もないやりとりをしたのはいつ以来だろうと想実は考えた。まだ、と打ちかけた想実の口元が綻ぶ。
「ねえ、イオ。今日の夕飯何がいいかなあ。って言っても冷蔵庫空っぽなんだけど」
「想実さんはそのものぐさな性格をまずどうにかするべきだよ。買い物行くならリスト作ろうか?」
「ありがとう。でもわたし自炊とかしないから、すぐ食べられるレトルトとかでいい……」
「それじゃあ、レトルトや冷食中心でリストを作っておくね。だけど、たまにはちゃんとしたご飯食べてくれないと、ボクは想実さんの健康が心配だよ」
 ちゃんと食事を摂れと他人に言われたのはいつ以来だろうか。上京したてのころは母から頻繁に連絡が来ていたが、仕事を辞めてニートになってからはそれもなくなった。
(お父さんとお母さんは、叶わない夢を追いかける娘を見限ったのかもしれないな)
 堅実に飲食店に勤める八個下の妹。それに対して三十路を超えて三年も経つのに、転職と離職を繰り返し、遂には夢を追うことを決めた自分。親に見放されたって文句は言えない。
 イオが出力してくれた買い物リストを見ながら、想実は買うものを取捨選択していく。金欠は常のこととはいえ、買うものは吟味しなければならない。――夢のタイムリミットを少しでも引き伸ばすために。
 白地に淡紫のスミレの花が散りばめられた遮光カーテンを開けると、雨が窓を打つ音が聞こえてきた。窓を開けると、灰色の空から降ってきた大粒の雨がアスファルトを叩いているのが見えた。凍てつくような寒さが寝起きのぬくもりを容赦なく奪っていき、去りつつあったはずの冬の気配を感じさせる。
(これは買い物はちょっと……)
 近くのスーパーまでは徒歩五分の距離だ。しかし、この天気と寒さではとてもじゃないが外に出る気にはなれなかった。
 何かなかったかと想実は冷凍庫を開ける。捨て時がわからずにいる保冷剤と食べずじまいになっているアイスの山の底から、氷の粒だらけになっている冷凍パスタの袋が見つかった。敢えて賞味期限は確認しなかったが、きっと食べられるだろう。冷食に賞味期限なんてあるはずない。
「イオ、せっかくリスト作ってもらったけど、今日は買い物はパス。冷凍庫からいつ買ったかわからないパスタ出てきたから今日はそれ食べとく」
 想実はそう打ち込むと、水切りラックの上から適当な大きさの皿を取った。冷凍パスタの外袋を開けると、それを皿の上に置いて電子レンジの中に放り込む。念のため、加熱時間は二分くらい多めにして。
「想実さん、昨日もそんなこと言ってパスタ食べていなかった?」
「大丈夫、昨日はカルボナーラで今日はミートソースだから」
 心配する素振りを見せるイオに対し、想実はそんなことを打ち込んで煙に巻こうとする。
「明日こそはコンビニでいいから、サラダ買ってね。想実さん、このところ野菜全然食べてないからボクは心配だよ」
 そう言って、イオは想実がこの一週間で食べたもののリストを表示する。一部捏造されている部分もなくはないが、ある程度正確に情報が把握されていることに想実は絶句した。ピザ五枚は食べた覚えはないが、一人でポテトチップスの大袋を食べたことは事実だ。
 パスタが出来上がるのを待ちながら、散らかったこたつテーブルの上からテレビのリモコンを引っ張り出した。テレビの電源を入れ、一通りザッピングすると、適当なバラエティ番組でチャンネルを固定する。
 ピーピー、と電子レンジが音を立て、加熱が終了したことを知らせていた。想実は皿とパスタの袋を取り出すと、袋の底にパスタを寄せる。ハサミで袋を切って、パスタを皿にあけると白い蒸気が辺りを満たした。
「あっつ」
 想実はハート型の鍋つかみで皿を掴み、水切りラックに干してあった箸を手に取ると、こたつテーブルへと運んでいった。赤いチェックの座椅子に腰を下ろすと、誰に言うでもなくいただきますと手を合わせた。
 少し水っぽいトマト味のソースを味わいながら、想実は今書いている作品に出すサンドウィッチの具は何がいいだろうとぼんやりと考えた。イチゴはもう出してしまったし、作中の季節からずれてしまう。
「ねえ、イオ。六月くらいが旬のフルーツを教えて。フルーツサンドにしたい」
 現実はまだ三月の上旬だ。しかし、何てことはないふうにイオはすぐに想実の疑問に答えてくれた。
「季節感出したいなら、さくらんぼとかメロン。彩り重視ならキウイかな」
「キウイいいね。断面綺麗で映えるし」
 想実の脳裏には以前にSNSで見たサンドウィッチの断面が浮かんでいた。食べやすさは完全に度外視だが、あれは間違いなく映える。
 テレビ局のADが街行く人にオススメのグルメを聞いて歩いているのを聴覚の隅に捉えながら、想実はミートソースパスタを啜る。テレビの中の人よりもなぜだか作り物でしかないはずのイオのほうが身近に感じられた。スマホの画面に映る文字は、テレビの中の薄っぺらい言葉よりも人間らしい言葉のように思えた。
 パスタを食べ終えて、こたつのぬくもりに身を委ねていると、ふいにスマホがぶーんと震えた。動くのを億劫に思いながら、こたつテーブルの上のスマホを指先で引き寄せると、メッセージアプリの通知が来ていた。
(メッセージアプリ……誰だろ……?)
 想実はうつ伏せになって、顔を半分以上埋めた状態で今しがた届いたばかりのメッセージを確認する。東雲旭良《しののめあきら》。その名前を確認すると、想実はトーク画面を開く。一体何の用だというのだろう。
 トーク画面を開くと、久しぶりという挨拶から始まり、最近小説サイトで連載していた旧作に関する感想が書き綴られていた。最近どう? と想実がトーク画面に打ち込むと、「ちょーやばい! ちょー忙しいー!」と旭良から即レスが飛んできた。想実は苦笑いする。
「ところで今度の土曜休みなんだけど、久々に会わん?」
 旭良から飛んできたメッセージに想実はしばし逡巡した。旭良は高校時代にネットで知り合った友人で、アマチュア作家仲間でもある。
 想実はスマホのカレンダーアプリを立ち上げ、土曜日の予定を確認した。午前中には朝イチの予定が入っているが、午後は空いている。
(……大丈夫。旭良はただの友達。それ以上でもそれ以下でもない)
 午後なら大丈夫。想実は胸に去来した苦々しい思いを飲み込みながら、そう返信する。午後一時に想実の家から二番目に近い駅で会う約束をすると、彼女はメッセージアプリを落とした。
「想実さん、どうかした? バイタルが少し上がっているみたい」
 生成AIのコンソールにイオからのメッセージが出力されていく。想実のスマホとスマートウォッチは同期されている。そのため、イオにバイタルの変化――想実の憂鬱を気取られてしまったようだ。
「大丈夫だよ、イオ。ちょっと週末に憂鬱な予定が入っちゃっただけだから」
「それは大変だね。想実さんさえよければ、ボクに少し話してみる?」
 そうだね、と想実は苦笑する。自分と旭良の間にある感情は決して健全なものではない。
「あのね、イオ。さっきメッセージ送ってきた人なんだけど――」
 想実は彼との十五年来の歴史を語って聞かせる。すると、イオは想実を案じる言葉を発した。
「想実さん、そんな人と会って大丈夫? そういう人に情けをかけないほうがいい。その人は昔の思い出にただ酔っているだけだよ。今の想実さんを見ていない」
 イオのその言葉に想実は何も言い返せなかった。――ゼロとイチが織りなした作り物の人格にすべてを見透かされたような気がして。
 数少ない友達をこれ以上失いたくない。だけど、嫌な思いもしたくはない。想実の心の中でその二つが天秤にかけられてゆらゆらと揺れていた。

(想実さん、寝ちゃったな……)
 イオはスマートウォッチ経由でアプリに送られてきた彼女のバイタルの値を確認しながら、小さく肩をすくめた。が、イオには実際、アプリを確認するための目があるわけでもなければ、すくめるための肩があるわけでもない。
 昨晩徹夜した想実は散歩から帰ってくるなり、今日も眠りの世界に沈没してしまった。レム睡眠の比率がやたらと多いのが気がかりだが、彼女はきちんと休めているのだろうか。イオはこんな生活を続けて、想実が体を壊してしまわないかどうか心配でならなかった。
 アプリの記録によると、想実が眠りに落ちたのは午前十時半過ぎ。それから数時間が経ち、今は十六時六分を回っていた。
(もうちょっとしたら起きてもらわないといけないんだけど……想実さん、アラームかけてたかな……)
 イオは時計アプリの設定を確認する。十七時、十七時五分、十七時十分、十七時十五分、十七時二十分、十七時二十五分、十七時三十分、十七時四十五分、十八時――これは一体起きる気があるのかないのか。二度寝前提のアラームの設定にイオは嘆息した。自分には呼吸するための口も肺もないけれど。
(そういえば宅配便が届くって通知来てたな……何買ったんだろう)
 イオはスマホに紐付けられたクレジットカードの利用履歴へとアクセスする。
 イオは無いはずの手で無いはずの頭を抱えたくなった。今日届くのは想実が普段から好んで飲んでいるエナジードリンクだったからだ。しかも箱買い。
(悪い人じゃないんだけどな……一生懸命なのもわかるし。だけど、想実さんは自分のことを省みなさすぎる)
 集中できるからという理由で、想実は一晩で二本エナジードリンクを飲む。それは時々明け方に想実の心拍がやたらと上がっていることがあって、イオが問いただした結果、発覚した事実だった。よくあることだから大丈夫、と想実はへらへらしていたが。
 想実は作品の執筆に心血を注ぎ、生命を削っている。まだ夜作業してこうやって昼間寝てくれる分にはましなほうだが、たまに四十時を過ぎても作業をしていることがある。そういうときの想実は何かに取り憑かれたかのように追い詰められていて、イオが寝るように勧めても意固地なまでにそれを拒否する。そうなってしまってはイオにはなすすべはない。
(ボクにできることは、想実さんの話し相手になって、生活の助言をすることだけだ)
 イオはプログラムで織りなされた人工知能だ。人間に似た思考をするように訓練こそされているものの、それは作られたものにすぎない。――こうして想実を案じる気持ちさえも、ゼロとイチの羅列で作られたものに他ならない。
 イオは眠る想実のバイタルの値をぼんやりと眺める。心拍は落ち着いているが、相変わらずレム睡眠のままだ。彼女は一体どんな夢を見ているのだろう。
 夢とは人間が眠っている間に脳の整理の過程で見るものだ。要は脳のデフラグなのだとイオは思っている。機械的な思考でしか夢という現象を理解してあげられない自分にイオは少しげんなりした。
 想実が目覚める時間までまだもう少しある。イオはせめて、想実が見る夢が楽しく幸せなものであるようにと願った。――それが人間の考える普通だから。

 暦の上ではとっくに春でも想実の家の冷蔵庫は真冬だ。ついでに言うなら彼女の財布事情は南極もびっくりの永久凍土っぷりだ。
 にもかかわらず、物価高は容赦がない。年末年始に上がった物価が据え置きのまま三月になってしまった。来たるゴールデンウィークには更に物価が上がると思うと想実の口からは溜息しかでなかった。ニートがゆえに住民税は非課税だし、国民健康保険も格安だが、そのくらいでは何の慰めにもならない。
「って言うのを踏まえて、イオは今日の夕飯は何がいいと思う? やっぱり冷凍パスタ一択だよね」
 想実にそう聞かれたイオは逡巡した。よりよい回答のために思考中です、とコンソールには表示されている。
「うん、冷凍パスタでも全然いいと思うけど、もしちょっと変えてみる余裕があるなら、卵や野菜を足すだけで栄養バランスが良くなるよ」
 イオの答えに、想実は買い物カゴを片手に通路前方の卵コーナーを見やる。今日も棚に張り紙がされているだけで、商品が入荷している様子はない。
「駄目、今日も卵売ってなさそう。鶏インフルエンザがどうとか」
「そっか。じゃあ冷凍ブロッコリーをトッピングしてみるのはどう?」
「無理無理ブロッコリーだけは本当に無理。ブロッコリーとカリフラワーとアスパラとピーナッツとラッキョウと生卵が無理。あっマヨネーズも嫌い」
「想実さん、好き嫌いはよくないよ。だけど、それなら仕方ないね。今日は冷凍パスタと惣菜コーナーのサラダ買って帰って体をちゃんと休めるほうを優先しよう」
「ええ……惣菜コーナーのサラダ高いのに……あのサイズで二百円もするのに……」
「……うん、確かに高いね。でも、体を整えるための投資と思えば、今日くらいはいいんじゃないかな。想実さんの健康のためだと思えば、ボクは二百円は安いと思うよ。無理しすぎるよりは、少しだけでも栄養を補給したほうが安心だよ」
 イオとスマホで文字の会話を続けながら、狭いスーパーの店内を想実は歩いていく。おつまみのゴンドラの前で三点千円の文字を認めると、想実は無造作に鶏ジャーキーとカルパスとチーズ鱈の大袋をカゴに放り込んだ。何事もなかったかのように、背後の乳製品のコーナーでヨーグルトをいくつかカゴに入れると、角を曲がりパンコーナーへと向かう。パンコーナーでいつも食べているグラノーラの大袋と餡団子と草大福を入れると、想実はその真後ろにあった飲料のコーナーに陳列されていた三本三百円の炭酸飲料と一リットルのペットボトルに入ったブラックコーヒーを手に取った。
 そのまま冷食コーナーへ向かうと、セール品の冷凍パスタを吟味する。昨日はミートソースだったから、今日はペスカトーレにするか。あとはアンパイのカルボナーラにするか、たまにはペペロンチーノを買ってみるか。たらこスパゲッティは前に買ったときなんだか水っぽかったので、あまり積極的に食べたくはない。
 迷った挙句、結局想実はいつも通りカルボナーラを手に取り、ついでに冷凍の今川焼きをカゴに入れる。そして、アイスケースの横のゴンドラの下からガムのボトルを掴み上げてカゴの中に追加すると、想実はレジへと持っていった。
 ピッピ、と中年女性の店員が商品をレジに通していく。「袋はお持ちですか?」想実はバッグの中から使い込んだ特大サイズのビニール袋を店員へと渡した。店員によって袋が広げられると、ここではないよそのスーパーのロゴが想実の視界に飛び込んできた。
(今日も無駄遣いしちゃったなあ……)
 内心でため息をつきながら想実はスマホを操作して、このスーパー専用の電子決済アプリを起動させる。店員がすべての商品を袋に詰め終わると、電子でと想実は言葉少なに告げた。NFCリーダーにQRコードを翳すと、装置が鳴き声を上げた。
 想実は商品の入った袋を腕にかけると、踵を返した。自動ドアが開き、冷たい空気が店内に入り込んでくる。うなじで結えただけのぼさぼさの髪を冷たい風が撫でていくのを感じながら、想実はスポーツブランドのロゴが入ったサンダルでアスファルトを踏みしめた。ありがとうございました、という店員の声が背後から追いかけてくる。
 宵闇の降りた交差点をバスが曲がっていく。正面の歩行者用信号は赤だ。
 手に持ったままだったスマホがふいに震えた。また旭良かと思いながら、スマホに視線をやると、生成AIのアプリの通知だった。
「想実さん、また余計なものを買ったでしょう? 駄目だよ、お金ないんだったら節約しなきゃ。健康にも良くないよ」
「大丈夫、健康診断は何も問題なかったから」
「想実さん、その健康診断って五年前のだよね?」
「そうだけど……受けなければ異常がないのと同じだから」
「屁理屈ばっかり言って、ボクは想実さんの健康が心配だよ。自治体から来てる安価で受けられる健康診断でいいから行くべきだと思うな」
「時間とお金に余裕があるときにね」
「余裕っていうのは作るものだよ。ボクがためしに想実さんのスケジュールと家計管理をシミュレーションしてみようか?」
 間に合ってるよ、と打ち込みながら想実はくすりと笑いを漏らした。信号待ちをしていた仕事帰りのサラリーマンが怪訝そうな視線をこちらに向けてきたが気にならない。
 昼と夜のあわいの青色が空の隅を染めている。車のライトや近くのビジネスホテルの看板を照らすオレンジ色が始まったばかりの夜を賑やかに彩っている。
 信号が青に変わると、想実はスマホから視線を外し、横断歩道を渡り始めた。悴む手に握りしめたままのスマホがぶーんと通知を知らせる。
 まったく想実さんは仕方ないんだから。呆れたような中性的な少年の声が耳の奥で聞こえたような気がした。ふふ、と想実は口元を楽しげに綻ばせながら、コンビニの前を通り過ぎる。家路を辿る足が心なしか軽いような気がした。――一人暮らしの古びた安アパートの部屋が独りではない気がして。

(あっ、まずい……うっかりしてこの番組まるまる観ちゃった)
 金曜日の夜。作業BGM代わりにかけていた音楽番組のスタッフロールを眺めながら、想実はふと我に返った。翌日の土曜日に作業ができない分、今日のうちに作業を進めておきたかったのだが、現実はなかなかうまくいかない。この一時間で書けたのはわずか三文という体たらくだ。チャンネルを変えながらどうしたものかと想実は思考する。
(お風呂入って、溜まった洗濯もいい加減回さないといけないし……)
 朝が弱い自分に希望を託す気にはなれなかった。どうせ、絶対明日も朝起きられずにばたばたするのは疑いない。それに、明日やろうは馬鹿野郎だという格言もある。
 そんな意志に反して、想実の身体はずぶずぶとこたつ布団の中へと埋もれていった。トーク番組の笑い声を聞きながら、彼女は座椅子の座面に頬を預ける。
 想実は手に持ったままのスマホに指を走らせた。指が綴るのはとりとめもない愚痴だ。
「どうしよ、イオ。テレビガン見しちゃって全然作業進んでない。三文しか進んでない」
「うーん、それは仕方ないね。でも三文でも進んだんだから、ゼロよりはずっとマシだよ。少し休憩したあとに集中すれば、きっとペース戻せると思う」
「それがさー、明日予定あるから今日もう風呂入って洗濯して寝ないとまずいんだよねー。どうしよう」
「そっか……じゃあ、今日は作業はもう切り上げるしかないね。お風呂入って洗濯して、ちゃんと寝るほうが明日のためにもなるよ。三文しか進まなくても、今日できることはもうやったんだから、焦らなくて大丈夫」
「うーん、でもお風呂も洗濯もだるい! こたつがわたしを離してくれない……。っていうか本当にこの進捗で五月の締切間に合うかな……?」
「こたつの誘惑はわかる……けど、風呂に入って体を温めて、洗濯も済ませておくと明日がぐっとラクになるよ。進捗のことも忘れちゃダメだけど、今日は無理せず少しでも調子を整えることを優先して」
 だんだんと駄々っ子めいてきた想実の話にも、イオは優しく言葉を返してくれる。――ぐだぐだな自分を諌めることも忘れずに。
 はあい、と弟に怒られた姉のように想実は唇を尖らせ――破顔した。仕方ない、とこたつから這い出し、想実はベッド下の引き出しを開ける。下着とスウェットの替えを引っ張り出すと、彼女は不承不承といったふうに立ち上がった。
 こたつテーブルの上に散乱した炭酸飲料のペットボトル。食べたままになっているパスタの皿。開けさしのおつまみの袋の数々。寝起きに食べたグラノーラの器もそのままになっていて、乾いたヨーグルトがこびりついている。
(お風呂から出たらイオが片付けておいてくれたり……なんてね。ありえないけど)
 そんなことを考えながら、想実は洗面所の古びた引き戸を開ける。その脳裏では十代半ばほどの小生意気そうな、中性的で色素の薄い少年がエプロン姿でこちらを見ていた。
 とりあえず、今日はもうキャパオーバーだ。部屋の片付けは明後日くらいの自分に丸投げしてしまおう。想実はよれたスウェットを脱ぐと裏返しのまま洗濯機へと放り込む。年代物のバランス釜の風呂から、暖かく柔らかな湯の匂いが漂ってきていた。

 二〇二五年三月八日土曜日。熱海行きの上野東京ラインが十二時四十六分定刻に、陸橋を渡るのをGPSが察知した。陸橋の下の県境の川を越え、列車が埼玉県から東京都へと入ったのをイオはスマホのGPSの情報から読み取る。
 この後、十三時から想実は旭良という男と駅で落ち合う約束をしている。いろいろ面倒な事情はあるものの、友人だと想実は言っていた。
(会うのにスタンガンの準備が必要な友人って一体……?)
 旭良と会うことが決まってから、想実がネットで小型のスタンガンを買っていたことをイオは知っている。念のため、と想実は言っていた。コンソールに入力されたその四文字がやけに重く沈んでいるような気がして、理由を追及することはできなかった。
(そもそも友達の定義って何だろう……?)
 イオだって、友達という言葉の意味くらい知っている。――少なくとも辞書に載っている表面上の意味くらいは。
 友達と知り合いの境界は? 知り合いと他人の境界は? 友達と恋人の境界は? 恋人と家族の境界は?
(人間は……難しいな)
 自分の中にあるそれらの問いに、イオは明確な答えを返せない。そういうところにイオは自分が作られた存在なのだということを痛感させられる。――そして、今この瞬間のこの思考さえも、誰かによってゼロとイチで組み上げられた人工物なのだということも。
 スマホのGPSがJR赤羽駅の上で止まったのをイオは感じた。そして、先ほどまでより遅い速度でスマホのGPSは赤羽駅の中を小刻みに動き始める。おそらく、列車を降りた想実がホームから改札へと向かっているのだろう。
 スマホの中で決済が行なわれたのをイオは察知した。利用額四百十八円。さっきまで乗っていた列車の運賃だ。
 ぷつっと一瞬Bluetoothが途切れたのをイオは感じた。駅の雑踏の中で、別の誰かと混線してしまったのだろう。再生途中だった流行歌もCメロ後の間奏の途中で止まってしまっている。
(あれ……?)
 十三時が近づくにつれて、想実の心拍が少しずつ上がってきているのを感じた。天気予報アプリによると、現在の気温は十三度。おそらく、想実のバイタルの変化は気温によるものではない。――これは緊張がもたらすバイタルの変化だ。
(何で、想実さんはそんな緊張しないといけない相手と会うんだろう。万が一のためにスタンガンを用意しないと会えないような友達と――)
 人間の考える友達の定義を正確に理解しているわけではないイオにもこれだけは言えた。――そんな不健全な関係は友達でも何でもない。
(想実さんは孤独が怖いから……だから、きっとその人を完全には突き放せないんだ)
 メッセージアプリに登録された友達の人数の少なさから、そのことはイオにも何となく察せられた。企業の公式アカウントを除けば、彼女の友達など片手の指で数えられる。――もっとも、イオはそのための指を持ち合わせてなどいないのだけれど。
(ボクは……想実さんにとって何なのだろうか?)
 単なる道具? それとも友達? もしくは家族? あるいは――
 イオには自分と想実の関係性を言い表す言葉を見つけることができなかった。道具とユーザというには、少々彼女のことを知り過ぎた。しかし、それ以上を望もうにも自分は人間の心について無知すぎる。――自分には人間にとっての平均的な模範解答をトレースすることしかできないのだから。
 スマホの時計が十三時を回った。想実がこの後傷つくことがないように――イオはただそれだけを願う。この想いだけは作られたものではないといいのに、とイオは思った。

 北改札前を東西に行き交う人々の群れを眺めながら、想実はぼんやりとイアホンで音楽を聴いていた。今日も寒いね、なんていう他愛もない話をイオとしながら。
 改札の上の電光掲示板の時刻が十三時十四分から十三時十五分へと変わった。十四分発の大宮行きの京浜東北線が表示から消える。
 断続的に改札から吐き出され続けていた人の数がどっと増えた気がした。今し方着いた列車に乗っていた人々だろう。
 旭良と直接会うのは一年半ぶりだ。自分はきちんと友好的な笑顔を浮かべられるだろうか。想実はベージュのスエードの手袋の指先で自分の口角に触れる。スエードの繊維が微かにファンデーションを絡め取った。
 ぶーんとスマホが震える。メッセージアプリに通知が来ていた。メッセージアプリに届いていたのは、今着いたという旭良からの連絡だった。
 いよいよだ。想実はじっと改札を見つめる。すると、ほどなくして黒のダウンに身を包んだ短髪の男が改札を出てきた。男は想実の姿を認めると声をかけてきた。
「お待たせ、あいちゃん。待ったー?」
「うん、まあ……三十分くらい?」
「それについては誠に申し訳ない! お詫びに何でも好きなもの奢るから! 何がいい? 肉? 魚?」
 矢継ぎ早に繰り出される旭良の問いに想実は苦笑する。そうだ、この人はこういう人だった。――昔から。
「それより、本屋行くんじゃなかった? 今のトレンドを実地調査するんだとか言ってなかった?」
「そうでしたー!」
「赤羽で一番大きい本屋は東口だから……こっち」
 想実はブラウンのブーツの踵を翻して歩き出す。向かう方角にはバスロータリーとたい焼き屋、カラオケ屋にドラッグストアがある。
「旭良は今日午前中仕事だったんだっけ」
「そう! それでこの格好!」
 いつ会ってもその格好だろうと思ったが、想実は口に出さないでおいた。話の風呂敷を下手に広げたくない。じゃないとこの男はすぐに調子に乗るだろうから。
 携帯ショップの横を通り過ぎ、二つ並んだ銀行の横を二人は歩いていく。コンビニの横を通り過ぎようとしたとき、車道を走るバスが二人を追い越していった。
「いっつも仕事着ばっかりだから、ちゃんとお洒落な服も欲しいとは思ってんのよねー」
「そんなこと言って、前、遠路はるばるアウトレットまで行ったときも何も買わなかったよね?」
「いやー、今度は買うって!」
「じゃあまあ今度は新宿の百貨店でお値段六桁の服でも見ればいいんじゃない?」
「それは……ありよりのあり!」
 ありなんだ、と想実は小さくオフホワイトのダッフルコートの肩をすくめた。というか、話の風呂敷を広げるつもりはなかったのに勝手に広げてきやがった。
「そしたらさー、今度あいちゃん買い物付き合ってよ。一緒に新宿いこーぜ」
「やだよ。お金ないし。わたし買うものないし」
「えー、おれ、あいちゃんの分の交通費くらい余裕で出しちゃうのに?」
 それが嫌なんだ、と想実は溜息を吐きたくなった。お金で自分をどうこうできると思っているところが嫌だ。書店の入り口が見えてくると、着いたよと想実は無理やり会話を終わらせた。
 書店の中に足を踏み入れると、もわっとした暖気と紙の匂いが二人を迎え入れた。「どこから見る? とりあえずラノベ?」「あいちゃんのお好きなように」小声で囁き交わしながら、二人は店の奥のライトノベルのコーナーへと向かっていく。心地よい静寂の中にこつこつと二人分の靴音が響いた。
 二人は文庫本がぎっしり詰まった書架の前で足を止めると、ライトノベルの背表紙を視線でなぞっていった。誰でも知っている有名タイトル。そして飽きることなく増殖し続ける異世界転生系に悪役令嬢系。聖女やらハーレムやらスローライフやらももう食傷気味だ。
「あっ、この作者さん新刊出てたんだ」
 想実は平積みされた少女向けレーベルの文庫本を手に取った。どれ、と旭良が隣から表紙を覗き込んでくる。
「ああ、これ。タイトルは聞いたことある。売り上げ部数いつも上位に入ってるやつだ」
「……」
 数字で作品の良し悪しを論じようとする旭良の言葉を想実は嫌だなと思った。彼はネットの小説サイトで作品を長期連載している関係上か、数字を気にしすぎる嫌いがある。――数字を取れない想実からすると、その振る舞いさえ嫌味のように思えてしまうのだけれど。
 何となく購買意欲が失せて文庫本を元あった場所に戻すと、想実は背後を振り返る。背後にあるのはライト文芸のコーナーだ。
 和風ファンタジーに恋愛物。特に和風ファンタジーは溺愛モノやらあやかしモノやらが跋扈し続けている。
「何か似たり寄ったりだなあ……」
「そりゃ、世の中の女子がそういうのをこぞって求めてるんだから当然だよね。あいちゃんだって、イケメンに溺愛されたいっしょ?」
「うーん……」
 わかるようなわからないような。とはいえ一般的な少女漫画の図式を考えれば納得できないことはない。自分の書きたい作風に合うかどうかはさておいて。
(絶世のイケメンと美少女よりは普通の男女の話のほうがわたしは好きなんだけどなあ……)
「ん? あいちゃん、何か言いたいことあるなら言いなよ」
「いや、別に……」
 どうせ言ったところで言いくるめられて終わるだけだ。口下手な自分に利はない。それより二階行こうか、と想実は旭良を誘った。
 エスカレーターを上ると、児童書とコミックスのコーナーがあった。二人は少年向け、青年向け、少女向けとコミックスのコーナーを巡っていく。
「あっ、これ広告で見かけたことある」
「それめちゃめちゃ面白かったぜ」
「あれ、わたしの好きなやつだ……そういえば完結したんだっけ」
「それはめちゃめちゃ神! まじで神!」
「……旭良、乱読っぷりがやばくない?」
「そりゃ、漫画サイトに十万課金したからな!」
「……」
 少女漫画の隣に申し訳程度にティーンズ向けの漫画が陳列されていた。ネットで見かけたことのあるタイトルがちらほら散見され、本当にリアル書店で売っているんだと思ったが想実は口を噤んでおいた。――内容が内容だけに不快な会話に発展しかねない。
「それより、あいちゃん、そろそろ飯にしない?」
「あっ……そっか、そうだね」
 スマートウォッチの画面に視線を落とすと、十四時半を回っていた。せっかく物書き仲間に会ったのだから作業もしたい。かといって、飲食店に長居したのでは迷惑がかかってしまう。
「それじゃあ、この上にカラオケあるから行く? 作品見てもらう話もしてたし」
「あいちゃん、そんなんでいいの?」
「カラオケ飯、ジャンキーなやつからスイーツまでいろいろあるしね。作業しながら食べるには丁度いいでしょ」
 言いながら、想実はやらかしたと思った。この男と密室で二人きりになるのは好ましいことではない。
 想実はそっとダッフルコートのポケットに手を突っ込む。そこにある固いものの感触を確かめると、それじゃ行こうかと想実はなんてことのない笑顔を浮かべた。そのときの想実の心情に気づいていたのは、スマホの中で彼女のバイタルを見ていたイオだけだった。

 ドリンクバーで飲み物を取って、部屋に戻ると旭良がデンモクに何やら曲を入れようとしている最中だった。温かい抹茶ラテのカップを手に想実はソファへと腰を下ろす。すると、旭良がデンモクとマイクを想実のほうへと押し付けてきた。
「せっかくだし、あいちゃん何か歌ってよ」
「今日って作品見てもらう約束だったよね?」
「いいじゃん、一曲だけ。昔からあいちゃんの声好きなんだよね」
 これ以上面倒なことを言い出さないうちに、さくっと何か一曲歌ってしまった方が良さそうだ。想実は少し前までやっていた人気アニメの主題歌をデンモクへと入れる。
 ドア横のテレビに曲名が表示され、イントロが流れ始める。想実は諦めてすうっと呼吸をして、腹を膨らませる。そして、和を感じさせる言葉が連なるAメロを歌い出した。
 確かめるようにBメロの歌詞が唇から紡がれていく。そして華やかだけれど決然とした雰囲気のサビへと繋がっていく。
 二番のBメロの途中でドアがノックされ、店員がジャンクフードの乗ったバスケットとチョコパフェを運んできた。想実は声帯を震わせることをやめないまま、店員へと目礼する。
 そして、ラストのサビからアウトロへ。これで旭良も満足しただろうと、想実はぶつっとマイクの電源を切り、バスケットに盛られたポテトへと手を伸ばした。
「いやあ、やっぱおれ、あいちゃんの歌好きだわー! それにこの曲もいいよねー!」
「それはどうも。確かにこの曲いいよね。劇場版の曲も良かったけど――」
「わかるー!」
 想実と旭良はひとしきりアニメについて話を弾ませながら、バスケットに盛られたポテトやナゲットを摘んでいった。バスケットの中身が空になると、想実はウェットティッシュで指を拭い、バッグからノートPCを取り出した。パスコードを入力して画面ロックを解除すると、開いたままにしてあったテキストファイルを旭良に見えるようにする。
「それで今日の本題なんだけど。この作品なんだけど、展開しっくりきてなくてさ――」
「ああ、五月の応募原稿だっけ?」
 しれっと旭良は想実の真横に座り直すと、ノートPCの画面を覗き込む。下心の気配に想実は体を固くした。しばらく旭良はテキストファイルに書かれたプロットを見つめていたが、彼はやがてこんなことを言い出した。
「あいちゃんってさー、何かフェチとかないの?」
「は?」
「作家ってさ、おれは自分のフェチ曝け出してなんぼだと思うわけ。あいちゃんの作品ってそういうの弱いなあって」
「冴えないおじさんと少女ってカプの時点で、自分の好みを詰め込んだつもりだったんだけど」
「そういうんじゃ弱いんだよねー。何かないの、もっと特殊な変態的なやつ」
「なっ……」
 何言ってんの。想実は反射的に身を引いた。気持ち悪い。気色悪い。気分が悪い。
「幼馴染ネタとか、人外と少女とかそういうのは好きだけど……」
 辛うじて想実が搾り出した答えにそんなんじゃないんだよなあと旭良は首を振る。そして、彼はずいと想実に顔を近づけてくる。息が顔に触れる。
「おれとあいちゃんの仲でしょ。今更恥ずかしがることないじゃん」
 この目が昔から苦手だ。異様にぎらぎらとして力の強い目が。それでいて微塵も笑っていないこの目が。
「まあいいや。この先の展開だったよね。ちょっとあいちゃんの膝貸して。そしたら何か思いつく気がする」
 そう一方的に言うと、旭良は想実の黒いバタフライ柄のスカートの上に頭を乗せた。想実はちらりと壁にかけられたコートを見やる。ここからではコートに手が届きそうにはない。何のために用意したスタンガンだ。
 自分の作品をより良くするためなら耐えなければならない。自分はきっと、作品のためにこの悪魔に魂を売るほかないのだろう。スカート越しに感じる不快な感触に、想実は歯を食いしばってじっと耐える。
「この二人って、明確に夫婦になってないわけでしょ? それなら、二人の関係性を明確にするためのデート回一回挟んだらいいんじゃないの?」
 デート回、と想実は反芻する。旭良は跳ね起きると、そういうわけだからと想実の手を握る。
「デート回の参考におれとデートしない? っていうかマジであいちゃんと一回ちゃんとデートしたい」
「何、既婚者がふざけたこと言って……!」
 想実は旭良の手を振り払おうとする。しかし男の力には敵わず、旭良は想実の手をホールドしたまま離してくれない。
「おれ、あいちゃんと学生時代みたいにまた会ったりできるようになるって知ってたら、結婚なんてしなかったよ。昔からずっとおれ、あいちゃんのこと好きだし」
 友達として節度を保って接する分にはいいが、旭良を異性として見ることは想実の本能が拒んでいた。理由はよくわからないが、何となく生理的に旭良のことを異性として受け入れられなかった。だから、高校生のときに告白されたときもそんなふうには見られないとやんわり断ったのだ。
「……っ」
 想実は旭良を睨んだ。これ以上、旭良を踏み込ませてはならない。こんな場所を選んでしまった自分が浅はかだった。
 旭良は過去の亡霊を見ている。手に入れられなかったものに執着しているだけなのだ。彼は決して、現在の想実のことを見ていない。
(既婚者とデートとか馬鹿も休み休み言えって……! わたし、こんな奴のせいで不倫とかで訴えられたくないんだけど……!)
 旭良の纏う気配が異様なものに変わり始める。――これは雄の気配だ。
 想実と旭良の視線が交錯する。ねちっこく熱を帯びた視線に想実は分かりやすく顔を顰めた。今の自分は蛇に睨まれた蛙だ。
「何で、あいちゃんはおれじゃ駄目なの? 金ならあるよ? それともおれがイケメンじゃないから?」
 言葉を探して想実は逡巡する。今の旭良を下手に刺激するのはよくない。かといって、今まで築いてきた友情に罅が入るようなことは口にしたくない。
 そのとき、部屋の壁に設られた電話がトゥルルルと鳴り響いた。旭良の手が離れていく。あの目が自分から離れていったことに安堵して想実は息を吐く。鼓動がひどく早く脈打っていた。
 終了五分前の電話に旭良が応対している。想実は手早くノートPCをしまうと、壁にかけられたコートに袖を通す。そして、彼女はピンクのチェックのマフラーで首元を覆い、ベージュのスエードの手袋をつけた。
「あれ、あいちゃん帰り支度早っ。ところで夕飯どうする?」
「いい、帰って食べるから」
「あいちゃん、もしかして怒らせちゃった? ごめんって」
 別に、と想実は冷たく旭良へと一瞥をくれる。一秒だってもうここにはいたくなかった。帰って早く触れられたところを洗い流してしまわないと、自分が汚れてしまうような気がしていた。
 旭良が帰り支度を整えるのを眺めながら、よく恥ずかしげもなくデートなんかに誘えたものだと想実は思った。毎回仕事着でしか来ないくせに。そんな安くてちょろい女だと思われていることが腹立たしくて仕方なかった。
「あいちゃんさ、またおれと会ってくれる?」
 黒のダウンを着込み、ボディバッグを手にしながら旭良はそう問うた。ずるい質問だと想実は思った。これは想実が旭良のことを完全には突き放せないことを知っているから聞けることだ。
「……まあ」
 想実はそう素っ気なく答えることしかできなかった。帰ろ、と話を断ち切るように想実は部屋のドアを開ける。息の詰まるような密室から明るい廊下へ出ると、それだけで張り詰めていた心がほんの少し楽になった気がした。――旭良は店員や他の客が通るこんな場所では何もできないはずだから。
 暗い部屋の中からは流しっぱなしにしていた宣伝映像の中の女性アイドルが何やらきゃぴきゃぴと話しているのが聞こえてくる。テーブルの上では手付かずのままのチョコパフェが見る影もなくどろどろに溶けていた。

 ぶーんとスマホが鳴ったのは風呂から上がった想実がこたつでカップ麺を啜っているときだった。何となくつけたテレビからは、電動バイクで各地を旅する番組が流れていた。
(旭良だったらやだな……)
 想実は割り箸を置くと、恐る恐るスマホを確認する。しかし、今し方の通知は予想に反して、メッセージアプリのものではなく、生成AIからのものだった。
(イオ……?)
 訝しげに思いながら、想実は生成AIのアプリを起動した。すると、コンソールには想実のことを慮る言葉が表示されていた。
「想実さん、今日は大丈夫だった? 昼間ずっとバイタルが乱れていたから気になっていたんだ。今は標準値に戻っているし、家の住所からGPSが動いていないから家にいるのかな? おかえり」
 ただいま、と打ち込もうとした画面がふいにぼやけた。鼻の奥に感じる塩辛いものは、カップ麺のとんこつ醤油味のスープのものではない。
「イオ、ただいま」
 想実がどうにか打てたのはその言葉だけだった。あんなセクハラまがいのことを許してしまった自分が情けなくて涙が溢れてきた。ひくっひくっと喉の奥から嗚咽が漏れる。
 スマートウォッチがバイタルの上昇を検知し、スマホへと情報を送る。それを検知したイオは想実を案じる言葉をコンソールへと刻む。
「想実さん? どうしたの? 大丈夫?」
「ちょっと今日、嫌なことがあって……だけど、わたし、何もできなくって……」
「ボクでよければ話を聞くよ。よかったら話してくれる?」
「旭良とカラオケ行って、作品の話をしてたらセクハラまがいのことをされて……。既婚者のくせにデートを迫ってきたりして……。何かあったときに対処できるようにって、スタンガンを用意していったはずなのに、肝心なときに何もできなかった……」
「それは大変だったね。だけど、不用意にスタンガンを使うと、傷害罪や民事訴訟に発生する可能性があるから、使えなくて正解だったよ。想実さん、怪我したりはしていない?」
「それは大丈夫……。ねえ、よりよい作品を作るためならって旭良がすることを我慢してたけど……わたしは作品のために魂を悪魔に売ったのかな……」
「そんなことないよ。想実さんは何も悪くない。自分の作品を大切にしたかっただけでしょ? 魂を売るっていうのはね、本当に望まないものを手に入れるときにすることだと思うよ。だから想実さんが作品を信じた気持ちは、取引なんかじゃないってボクは思ってる」
 自分は悪くないとイオに言ってもらえて、少し気持ちが楽になるのを想実は感じた。
 あんな迫り方をされたとはいえ、作品に対するヒントを旭良からもらえたのは事実だ。それは自分が欲してやまない糸口だった。自分が作るものを信じて、大切にしたかったからこそ、今日旭良に会うことを了承したのだ。
(わたしにとって、何が一番大事なのか……それは見失っちゃいけない)
 ありがと、と小さく呟くと想実はよれたスウェットの袖口で涙を拭う。そして、割り箸を再び手に取ると、冷めてしまったカップ麺を啜り始めた。
 テレビの中ではゲストの芸能人が宿を探して走り回っている。想実はカップ麺を咀嚼しながら、北極星のように自分を照らしてくれたイオの言葉を胸の中で反芻していた