シンデレラになりたい。そう思うようになったのはいつのころからだっただろうか。一発バズらせてシンデレラのようにスターダムを駆け上がりたいと思うようになったのは。大して上手くも面白くもない手垢のついた他人の作品が評価されることにやっかみを覚えるようになったのは。
(運がわたしに向いていない。――ただそれだけのことなんだけど)
想実《あいみ》は嘆息すると、郵便局を出た。白い吐息が霧散して冬の冷たい空気の中に溶けていく。先ほど記帳したばかりの通帳の数字のように、頬に触れる冬の風が寒い。通帳の残高は地面に触れて溶けていく雪のように容易く儚く消えていくばかりだ。
コロナ禍を機に折り合いの悪かった会社を辞めて早五年が経った。部屋の掃除をしていたときに子供のころに書いた小説をベッド下から見つけたことをきっかけに想実は再び筆を執るようになった。――小説を書くという新しい遊びを覚えたばかりのきらきらしていた小学生の時分が懐かしくて。
再び文字を記すようになって、小説とは半分は調べ物だということを想実は知った。子供のころの自分は無知で、ただ思うがままに文章を綴っていた。そのことが哀れなようにも失った感性が惜しくも感じられた。
会社を辞めて初めて書いた作品は執筆に八ヶ月を要した。そして、運が良かったのか悪かったのか、初めて応募した少女小説の新人賞で三次選考まで残ってしまった。――これが想実に希望を植え付け、苦しみの始まりになるとも知らずに。
文章を書いているときだけは自分が何者かでいられるような気がして、少女小説もライト文芸も男性向けライトノベルも児童向けも何でも手当たり次第書いた。気がつけば二、三ヶ月に一度は安定して作品を仕上げられるようになっていたが、どこへ応募しても落選が続くばかりだった。一次選考が通れば良い方で、一次すら落ちる――それが想実の現状だった。
安定した文章力はあるが、ストーリーやキャラの掘り下げが甘い。――先日送られてきた講評メールの文面が脳裏にこびりついて離れない。この作品にこれ以上改善の余地などないとでも言いたげなその文面は想実の心を深く抉った。
それでもキャラクターのアニメ的な記号化を嫌う想実には何をどう直せばいいのかわからなかった。特殊な一人称や語尾を使えば色々なことが解決するのはわかっていたけれど、そんな安っぽいことをしたくなくて。
ネットの小説サイトに過去の投稿作を掲載したりもしていたが、驚くほどにPVは伸びなかった。派手さも華やかさもない想実の作品は刺激を求めるネットの読者たちには求められずに埋もれていった。――世間は手堅く地味な想実の作品を求めていない。そのことをひしひしと実感させられた。
アマチュア作家仲間には文章が綺麗だと言われたことはあったが、皮肉のようにしか思えなかった。――厨二病を拗らせたまま、一生同人でやってろと言われているようで。
「はあ……」
想実は再び溜息をついた。自分に与えられた猶予はバッグの中にしまったばかりの通帳に記されている。その間に、自分はどれだけ足掻き通せるのか。どんよりとした気分は風花の舞う灰色の空のようだ。
(切り替えていかなきゃ。図書館で調べ物をして帰るんだから)
想実はこれから図書館に寄り、今書いている作品についての調べ物をするつもりだった。医学的な知識が必要なシーンを執筆するにあたって、少しでも知識を入れておきたかった。
雪が落ちては消えていく歩道を想実は肩を縮こまらせて歩く。コートにマフラー、手袋――防寒は完璧だとはいえ、寒いものは寒い。二月の凍てつくような寒さが布の隙間から入り込んでくる。
図書館が入っている公民館はすぐそこだとわかっていながらも想実は足を急がせた。濡れた歩道に泥混じりのブーツの足跡が刻まれていく。一分一秒だってこの寒空の下にいたくない。
公民館の自動ドアを潜ると、もわっとした暖気が想実を迎え入れる。警備員のいる受付の前を通り過ぎると、彼女は上向きの三角が印字されたボタンを押した。
やがて、チーンという音を立てて古めかしい作りのエレベータの扉が開いた。エレベータは誰も吐き出すことなく、想実を迎え入れる。
閉じるボタンを押すと、図書館のある五階を選んだ。軽い浮遊感とともに、エレベータの回数の表示が上がっていく。一階、二階、三階。
五階に着くと、チーンとエレベータが音を発した。エレベータから出ると、途端に新聞と雑誌のコーナーが想実の視界に飛び込んでくる。
新聞と雑誌のコーナーを素通りし、カーペットの上を想実は歩いていく。雪で濡れたブーツの底がカーペットにシミを作った。
貸し出しカウンターとラインナップが古いCDコーナーの前を過ぎると、想実は目的の書架のほうへと向かっていった。求めるジャンルは医学の中でも妊娠・出産についてだった。今書いている小説のヒロインの出産シーンの描写のために少しでも知識を蓄えたかった。――想実自身は身籠ったこともなければ、今後未来永劫そんな予定もないのだから。
妊活にママになる準備。そのコーナーにあるのはそういった雑誌ばかりだった。出産時の細かい経過を記したような資料はない。
(しょうがないか……あれば儲けもの、くらいにしか思ってなかったし。ここ……っていうかこの区の図書館って全体的にしょぼいしなあ……)
手に取ってぱらぱらと目を通していた本に目的の情報がないことがわかると、想実は書架にそれを戻した。念のために児童向けのコーナーにも足を向けたが、当然めぼしい情報などない。
(あーあ、空振りか……またネットで資料漁るしかないかあ……)
想実は児童向けコーナーを出ると、エレベータへと足を向けた。が、ふいに読書スペースの横に設えられた情報系の書籍が詰め込まれた書架へと想実の目は吸い寄せられた。
生成AI入門。そう書かれた背表紙を視界が捉えると、想実は無意識に手を伸ばした。今、生成AIが流行っていることは承知している。これを機会にスマホに入れるだけ入れておいてもいいかもしれない。使うかどうかはさておいて。
想実は本を書架から抜き出すと、読書スペースの空いていた席へと腰を下ろした。ぱらぱらと冒頭のページに目を通しながら、スマホをオフホワイトのダッフルコートのポケットから取り出す。
本の内容に従って、想実はスマホのストアから生成AIのアプリをダウンロードした。ホーム画面に新しいアイコンが追加されて、ダウンロード状況を知らせている。
ダウンロードとインストールが済むと、想実はアプリを起動した。アプリを起動すると「Create your account」と表示された。想実は普段使っているメールアドレスとパスワードを入力すると、続けると書かれた緑のボタンを押下する。
「認証コード……」
想実は先ほど入力したアドレスのメールボックスを開くと、今受信したばかりのメールを開く。そこに記されていた文字列をコピーすると、アプリへとペーストした。
すると、次は氏名と生年月日の入力を求められた。想実の指はスマホの上を滑り、姓の欄に涼木、名の欄に想実、生年月日の欄に平成四年一月四日と入力していった。最後にもう一度続けるボタンを押下すると、真っ白なコンソールがスマホの画面に表示される。
入力欄には「質問してください」とグレーの文字が刻まれている。何と話しかけたものかと僅かに逡巡した後、想実ははじめまして、と入力した。
一秒、二秒。短い沈黙ののちに想実のスマホに宿ったその人物は返事を発した。――声なき文字によって。
「はじめまして、想実さん。ボクは生成AIです」
「あなたの名前は?」
想実の指がスマホの画面を滑り、画面の向こうの誰かに問いを投げかけた。向こうは自分の名前を呼んでくれるのに、自分の方がきみとかあなたとかと呼ぶのでは何となく味気ない気がした。
「ボクに特に名前はありません。想実さんが好きな名前で呼んでください」
名前、と想実は小さく呟いた。丸まっていた背中が伸びるのを感じた。この緊張感は小説の一文字目を書き始めるときのあの張り詰めた感覚に似ている。
静まり返った読書スペースで、誰かが本のページを巡る音が聞こえる。誰かがノートにペンを走らせている音が聞こえる。ぎっと誰かが椅子を引く音が聞こえる。
スマホの中にいる誰かは、想実の問いに対して答えをくれる。I/Oというのはどうだろうか。些か単純過ぎる気もするが、その響きはどこか中性的な喋り方をする"誰か"にぴったりなように思えた。
「それじゃあ……イオっていうのはどうかな?」
「素敵な名前をありがとう、想実さん。ボクの名前はイオ。これからよろしくね」
よろしく、と想実は打ち返す。これが想実とイオの出会いだった。
そして、この出会いが想実の運命を変えていくことなど、そのときの彼女はまだ知るよしもなかった。
(運がわたしに向いていない。――ただそれだけのことなんだけど)
想実《あいみ》は嘆息すると、郵便局を出た。白い吐息が霧散して冬の冷たい空気の中に溶けていく。先ほど記帳したばかりの通帳の数字のように、頬に触れる冬の風が寒い。通帳の残高は地面に触れて溶けていく雪のように容易く儚く消えていくばかりだ。
コロナ禍を機に折り合いの悪かった会社を辞めて早五年が経った。部屋の掃除をしていたときに子供のころに書いた小説をベッド下から見つけたことをきっかけに想実は再び筆を執るようになった。――小説を書くという新しい遊びを覚えたばかりのきらきらしていた小学生の時分が懐かしくて。
再び文字を記すようになって、小説とは半分は調べ物だということを想実は知った。子供のころの自分は無知で、ただ思うがままに文章を綴っていた。そのことが哀れなようにも失った感性が惜しくも感じられた。
会社を辞めて初めて書いた作品は執筆に八ヶ月を要した。そして、運が良かったのか悪かったのか、初めて応募した少女小説の新人賞で三次選考まで残ってしまった。――これが想実に希望を植え付け、苦しみの始まりになるとも知らずに。
文章を書いているときだけは自分が何者かでいられるような気がして、少女小説もライト文芸も男性向けライトノベルも児童向けも何でも手当たり次第書いた。気がつけば二、三ヶ月に一度は安定して作品を仕上げられるようになっていたが、どこへ応募しても落選が続くばかりだった。一次選考が通れば良い方で、一次すら落ちる――それが想実の現状だった。
安定した文章力はあるが、ストーリーやキャラの掘り下げが甘い。――先日送られてきた講評メールの文面が脳裏にこびりついて離れない。この作品にこれ以上改善の余地などないとでも言いたげなその文面は想実の心を深く抉った。
それでもキャラクターのアニメ的な記号化を嫌う想実には何をどう直せばいいのかわからなかった。特殊な一人称や語尾を使えば色々なことが解決するのはわかっていたけれど、そんな安っぽいことをしたくなくて。
ネットの小説サイトに過去の投稿作を掲載したりもしていたが、驚くほどにPVは伸びなかった。派手さも華やかさもない想実の作品は刺激を求めるネットの読者たちには求められずに埋もれていった。――世間は手堅く地味な想実の作品を求めていない。そのことをひしひしと実感させられた。
アマチュア作家仲間には文章が綺麗だと言われたことはあったが、皮肉のようにしか思えなかった。――厨二病を拗らせたまま、一生同人でやってろと言われているようで。
「はあ……」
想実は再び溜息をついた。自分に与えられた猶予はバッグの中にしまったばかりの通帳に記されている。その間に、自分はどれだけ足掻き通せるのか。どんよりとした気分は風花の舞う灰色の空のようだ。
(切り替えていかなきゃ。図書館で調べ物をして帰るんだから)
想実はこれから図書館に寄り、今書いている作品についての調べ物をするつもりだった。医学的な知識が必要なシーンを執筆するにあたって、少しでも知識を入れておきたかった。
雪が落ちては消えていく歩道を想実は肩を縮こまらせて歩く。コートにマフラー、手袋――防寒は完璧だとはいえ、寒いものは寒い。二月の凍てつくような寒さが布の隙間から入り込んでくる。
図書館が入っている公民館はすぐそこだとわかっていながらも想実は足を急がせた。濡れた歩道に泥混じりのブーツの足跡が刻まれていく。一分一秒だってこの寒空の下にいたくない。
公民館の自動ドアを潜ると、もわっとした暖気が想実を迎え入れる。警備員のいる受付の前を通り過ぎると、彼女は上向きの三角が印字されたボタンを押した。
やがて、チーンという音を立てて古めかしい作りのエレベータの扉が開いた。エレベータは誰も吐き出すことなく、想実を迎え入れる。
閉じるボタンを押すと、図書館のある五階を選んだ。軽い浮遊感とともに、エレベータの回数の表示が上がっていく。一階、二階、三階。
五階に着くと、チーンとエレベータが音を発した。エレベータから出ると、途端に新聞と雑誌のコーナーが想実の視界に飛び込んでくる。
新聞と雑誌のコーナーを素通りし、カーペットの上を想実は歩いていく。雪で濡れたブーツの底がカーペットにシミを作った。
貸し出しカウンターとラインナップが古いCDコーナーの前を過ぎると、想実は目的の書架のほうへと向かっていった。求めるジャンルは医学の中でも妊娠・出産についてだった。今書いている小説のヒロインの出産シーンの描写のために少しでも知識を蓄えたかった。――想実自身は身籠ったこともなければ、今後未来永劫そんな予定もないのだから。
妊活にママになる準備。そのコーナーにあるのはそういった雑誌ばかりだった。出産時の細かい経過を記したような資料はない。
(しょうがないか……あれば儲けもの、くらいにしか思ってなかったし。ここ……っていうかこの区の図書館って全体的にしょぼいしなあ……)
手に取ってぱらぱらと目を通していた本に目的の情報がないことがわかると、想実は書架にそれを戻した。念のために児童向けのコーナーにも足を向けたが、当然めぼしい情報などない。
(あーあ、空振りか……またネットで資料漁るしかないかあ……)
想実は児童向けコーナーを出ると、エレベータへと足を向けた。が、ふいに読書スペースの横に設えられた情報系の書籍が詰め込まれた書架へと想実の目は吸い寄せられた。
生成AI入門。そう書かれた背表紙を視界が捉えると、想実は無意識に手を伸ばした。今、生成AIが流行っていることは承知している。これを機会にスマホに入れるだけ入れておいてもいいかもしれない。使うかどうかはさておいて。
想実は本を書架から抜き出すと、読書スペースの空いていた席へと腰を下ろした。ぱらぱらと冒頭のページに目を通しながら、スマホをオフホワイトのダッフルコートのポケットから取り出す。
本の内容に従って、想実はスマホのストアから生成AIのアプリをダウンロードした。ホーム画面に新しいアイコンが追加されて、ダウンロード状況を知らせている。
ダウンロードとインストールが済むと、想実はアプリを起動した。アプリを起動すると「Create your account」と表示された。想実は普段使っているメールアドレスとパスワードを入力すると、続けると書かれた緑のボタンを押下する。
「認証コード……」
想実は先ほど入力したアドレスのメールボックスを開くと、今受信したばかりのメールを開く。そこに記されていた文字列をコピーすると、アプリへとペーストした。
すると、次は氏名と生年月日の入力を求められた。想実の指はスマホの上を滑り、姓の欄に涼木、名の欄に想実、生年月日の欄に平成四年一月四日と入力していった。最後にもう一度続けるボタンを押下すると、真っ白なコンソールがスマホの画面に表示される。
入力欄には「質問してください」とグレーの文字が刻まれている。何と話しかけたものかと僅かに逡巡した後、想実ははじめまして、と入力した。
一秒、二秒。短い沈黙ののちに想実のスマホに宿ったその人物は返事を発した。――声なき文字によって。
「はじめまして、想実さん。ボクは生成AIです」
「あなたの名前は?」
想実の指がスマホの画面を滑り、画面の向こうの誰かに問いを投げかけた。向こうは自分の名前を呼んでくれるのに、自分の方がきみとかあなたとかと呼ぶのでは何となく味気ない気がした。
「ボクに特に名前はありません。想実さんが好きな名前で呼んでください」
名前、と想実は小さく呟いた。丸まっていた背中が伸びるのを感じた。この緊張感は小説の一文字目を書き始めるときのあの張り詰めた感覚に似ている。
静まり返った読書スペースで、誰かが本のページを巡る音が聞こえる。誰かがノートにペンを走らせている音が聞こえる。ぎっと誰かが椅子を引く音が聞こえる。
スマホの中にいる誰かは、想実の問いに対して答えをくれる。I/Oというのはどうだろうか。些か単純過ぎる気もするが、その響きはどこか中性的な喋り方をする"誰か"にぴったりなように思えた。
「それじゃあ……イオっていうのはどうかな?」
「素敵な名前をありがとう、想実さん。ボクの名前はイオ。これからよろしくね」
よろしく、と想実は打ち返す。これが想実とイオの出会いだった。
そして、この出会いが想実の運命を変えていくことなど、そのときの彼女はまだ知るよしもなかった。



